◆
こんなつもりじゃなかった。
千陽はステンレスの浴槽の縁を手で撫でた。子供の頃、この銀色の中に居ると鍋で煮られているような気分になっていたのを思い出した。宗一の家は古いのにきちんと掃除されているし、鏡の上の電球も切れていなかった。
家に入ったときから、ずっと不思議だった。長い間部屋を閉め切っていた匂いはしたけれど、どの部屋も埃っぽさやカビ臭さがない。
どこもかしこも、懐かしい香りがしている。
「ッ、つめたっ」
湯気が天井で冷やされたのか、水滴がポタポタと天井から落ちてきた。
さっきまでの自分は、自分じゃなかった気がする。
子供の頃の寂しかった感情に心を奪われ、気づいたときには宗一の背中に腕を回していた。心から宗一を慰めたいと思った。そこには少しの打算も下心もなかったはずだ。家族を亡くして混乱している友人を思う気持ちだけだった。同病相憐むだろうか。昔、同じように村にいた自分なら宗一の心を理解できると思った。――けれど。
「もう……あぁ」
千陽は溜息をこぼしたあと、勢いよく湯に顔をつけた。
身体を重ねる必要なんてなかった。本当は千陽も宗一と同じように寂しいと伝えたかっただけだったのに。なんで、あんな自分らしくないことしてしまったのだろう。
湯から顔を上げると、脱衣所から床板の軋む音がした。
「千陽、風呂の温度大丈夫か?」
すりガラスの向こうから宗一の声が聞こえた。入ってくるのかと思って焦り、風呂の底から少し腰を上げていた。いやいや、そういうつもりじゃなかったと何度も心の中で叫んでいた。
「あ、ああ! うん。大丈夫だ」
「よかった。風呂釜古いからさ、時々冷たかったりするんだよ」
「そっか、ちゃんと、あったかいよ」
「よかった」
「……うん」
勝手に一人で焦っていたが、ガラスの向こうの宗一はドアを開ける気配がなかった。
「あと、ドライヤーとか洗面所の引き出しに入ってるから好きに使えよ」
「おう、ありがとう」
とにかく気まずかった。どういうつもりだったと聞かれてもすぐに返事できそうにない。宗一とこの先どうなりたいか、とかも全然考えてなかった。
「――千陽」
「な、なに」
再び呼ばれて千陽は身構えていた。宗一が次に何を言ってくるのか分からなくて怖かった。
「それから、さっきは……ごめんな」
「え」
間の抜けた声をあげてしまった。
千陽は、これは付き合う前から振られる流れだと気付いて、勝手に拍子抜けしていた。宗一とどうなりたいかを考えてないのに関係を持ち、そのくせ相手の言葉に怯えるなんて、同性愛者以前に人間として自分が嫌いになりそうだった。
自分がこんな軽薄な人間だったなんて知りたくなかった。昔の自分は、もっと誠実だった気がする。
「千陽」
「あ、あぁ」
再び名前を呼ばれて風呂の中で姿勢を正していた。
「いい歳した大人が変に感傷的になってさ、せっかくの旅行なのに気分悪かっただろ。ごめんな」
「い……いや、全然。俺の方こそなんか、無神経なこと言っただろ」
「そんなことないよ。むしろ励まされて元気になったし。千陽が昔のこと覚えていて嬉しかったな」
「そっか……なら……良かった」
「あぁ、でもさ。もう情けねぇよ。自分ではしっかりしているつもりだったんだぜ」
すりガラスの向こうの宗一は背中を向けた。
「宗一はさ……すごく立派だと思ってるよ。俺だったら、多分、何にもできなくなってるだろうし」
「そうかな」
「うん。だから、宗一は全然、ダメとかじゃない」
「うん。ありがと、千陽。ほんと、お前ともう一度会えて、元気出た」
二階のベッドでは、終始暗く澱んだ空気を纏っていた宗一だったが、今は明るい声に戻っていてホッとしていた。
すりガラスに宗一の影と手のひらが映っている。ガラス越しにこちらを向いているのが分かった。
「飯、作ってるよ」
「うん。ありがと。あとで俺にも手伝えることあったらなんでも言えよ」
「じゃあ明日なんか頼むよ。今日はお客さんでいいよ」
「うん。了解」
宗一が脱衣所から離れていき、ほっと息を吐いた。
千陽は、こういう付き合いでいいのだと肯定された気がした。本当に自分が情けない。相手の方へ踏み込む勇気がない。
再び肩までお湯に浸かった。湯面が揺れて浴室に水音が響く。
閉鎖的な村だ。家族を亡くして、家に一人きりなれば誰だって不安定になるだろう。そんな状態の宗一につけこむようなことをした。
――家族にする気なんて、ないくせに。
昔、千陽がそう感じたのは、村で宗一と対等な関係を築けず、鬱屈していた気持ちの発露だった。好きだという気持ちに、そこに恋情の類はなかった。
(無かった、はずなんだけど)
正直、もう分からなくなっていた。
千陽は小学生の頃の村での思い出をほとんど失っていた。山から落ちて頭を打ったあと、何ヶ月も病院で眠っていた。何の後遺症もなく普通に生活できる状態に戻ったのは奇跡だと病院の先生は言っていた。
千陽のなかには、村での楽しかった思い出ばかりが残っていた。小学三年生の春は村に行くのが嫌だった。でも宗一と出会って一番の親友ができて幸せだった。退院後村を出ることになり、せっかく仲良くなった宗一と離れることになって親を恨んでいた。身勝手な親の夢に巻き込まれる自分の人生を呪った。
けれど、宗一から手紙が届いて、少しづつ昔の記憶が戻り、この村は楽しいばかりじゃなかったと気づいた。パズルのピースが埋まるごとに、宗一に対してどういう感情を向ければいいのか分からなくなっていく。
千陽は確かに宗一に執着していたし、言葉にできないような鬱屈した感情を抱えていた。それは恋に似ていた。
けれど、恋じゃなかった。なら、それでいいだろう。
「あぁ、自分が……嫌になる」
男相手の誠実さのある付き合いなんて千陽は知らないし、宗一がどういうつもりで千陽を抱いたのか分からない。今のところ訊く勇気もない。
そもそも自分の仕事もしゃんとして決められない男に、男との付き合いを決められるわけがないのだ。
結局、どんなに考えたところで答えなんかないし、風呂の中にいる間は思考が堂々巡りを繰り返していた。
*
「宗一、風呂ありがと……あれ?」
居間に戻ってくると部屋に宗一がいなかった。台所にはすでに準備された夕飯が置いてある。
コンロには味噌汁があって、湯気が立ち昇っていた。さっきまで、ここに宗一がいたのは確かだろう。
料理が並べられたテーブルの前で千陽は一人佇んでいた。煮物や焼き魚、炊飯器には電源が入っていて保温状態になっていた。これを全て宗一が作ったのだろうか。千陽が風呂場にいたのは、せいぜい三十分程度だった。
変、だった。
この家にいるのは千陽と宗一だけで、一年ほど誰も住んでいなかった。宗一は村の知り合いに鍵を渡していると言っていた。けれど、住んでもいない家の電気やガス水道などをわざわざお金を払って維持したりするのだろうか。
「もしかして、他の誰かに貸している、とか」
それなら住んでいない家のインフラが奇妙に整っている理由が説明できる。
――家ってさ、誰も住んでいないと静かに死んでいくから。
昼間、宗一が誰も住んでいないと言っていたのは嘘なんだろうか。もし、それが嘘ならどうしてそんな嘘を千陽に吐いたのだろう。
再びテーブルの上に視線を落とすと、茶碗の横に置き手紙があった。千陽はその白いメモ用紙を手に取る。
紙には黒のマジックで走り書きがされている。千陽はその筆跡には覚えがあった。宗一から届いた手紙と同じ字だった。当たり前だ。これは宗一の書いた文字なんだから同じで、見覚えがあって当然だ。
――ごめん、村の寄り合いに呼ばれたから、先にご飯食べてて! あとで連絡する。
読み終わって置き手紙を机に戻したときだった。廊下から電話の音が聞こえてきた。ここは宗一の家だ。千陽が電話を取る必要なんてない。けれど、千陽は音に引き寄せられるようにして電気の消えた廊下に立った。背後の台所からの明かりで電話の位置は分かった。
電話台に乗っていたのは黒電話だった。まだ使えるのは知っていたが、わざわざ使っている家があったことに驚いた。この家に入ったときには気づかなかった。千陽は受話器を手に取って耳に当てる。やけにタイミングのいい電話に既視感があった。
千陽の東京の家でも、同じように電話が鳴っていた。
「もしもし」
『あ、俺だけど』
「宗一?」
『あー電話出てくれてよかった。いつものくせで携帯持って出るの忘れててさ』
「テーブルの上の置き手紙読んだよ」
『うん、今日、村の寄り合いだったの忘れててさ。帰るの遅くなるだろうし、夕飯食べて、先に寝ててくれていいよ。布団は一階の奥の座敷に出してる』
「うん。分かった」
『せっかくなのに、一人にしてごめんな』
「いいよ。宗一にも村の付き合いがあるんだろうし」
『じゃあ明日、色々村回ろうぜ、ご存じの通り自然以外なんもないけどな』
そう言って電話の向こうの宗一はケラケラ笑っていた。それは、千陽のよく知っている宗一の声だった。明るくて、時々無神経なことを言って。千陽は声を出さずに息を吐くように笑っていた。
「――うん。じゃあ、夕飯食べて先に寝てるな」
千陽は力なくそう返事していた。本当はそんなことちっとも思っていない。
(宗一、俺との旅行だろ友達放置すんな、早く帰ってこいよ。寂しいだろ! 俺は寂しいんだ。寂しい……寂しいよ、宗一)
千陽は左手で顔を覆った。手のひらで触れた自分の顔は笑っていた。
『おう、じゃあ、おやすみ』
通話の切れた音が虚しく耳元で響いていた。
「宗一……宗一」
千陽は受話器を元に戻したあと、その場に力なく座り込んだ。
電話の向こうにいるのは、本当の宗一だった。
村の中に溶け込んでいて、千陽を外の人間だと一線引いて付き合っている。もどかしくて、憎らしくて。千陽がどんなに手を伸ばしても、心を開いても本当の意味では一緒になれなかった。宗一。
あぁ、なんで、こんなにも苦しい気持ちになるのだろう。
家族を失って、村で一人になってしまって寂しいと宗一は言っていた。あれは嘘だったのだろうか。
「宗一……宗一……」
千陽は洗いざらしの頭を無意識に両手でかき混ぜていた。
宗一が千陽と同じ村の外の人になって、やっと対等な立場で付き合えるのだと、これが千陽が望んだ幸せの形だと思っていた。
――あぁ、やっと、宗一が手に入ったと思ったのに。
違った。宗一は、宗一のままだった。
「なんだよ……寂しいって。お前、まだ、村の内の人じゃん」
二人分並べられていた食器に自分の分だけご飯をよそって食べた。
砂を噛むような味がした。自分のために作られた温かい食事なのに、苦々しい思いが募っていた。
夜の十一時を過ぎても、宗一は帰ってこなかった。
こんなつもりじゃなかった。
千陽はステンレスの浴槽の縁を手で撫でた。子供の頃、この銀色の中に居ると鍋で煮られているような気分になっていたのを思い出した。宗一の家は古いのにきちんと掃除されているし、鏡の上の電球も切れていなかった。
家に入ったときから、ずっと不思議だった。長い間部屋を閉め切っていた匂いはしたけれど、どの部屋も埃っぽさやカビ臭さがない。
どこもかしこも、懐かしい香りがしている。
「ッ、つめたっ」
湯気が天井で冷やされたのか、水滴がポタポタと天井から落ちてきた。
さっきまでの自分は、自分じゃなかった気がする。
子供の頃の寂しかった感情に心を奪われ、気づいたときには宗一の背中に腕を回していた。心から宗一を慰めたいと思った。そこには少しの打算も下心もなかったはずだ。家族を亡くして混乱している友人を思う気持ちだけだった。同病相憐むだろうか。昔、同じように村にいた自分なら宗一の心を理解できると思った。――けれど。
「もう……あぁ」
千陽は溜息をこぼしたあと、勢いよく湯に顔をつけた。
身体を重ねる必要なんてなかった。本当は千陽も宗一と同じように寂しいと伝えたかっただけだったのに。なんで、あんな自分らしくないことしてしまったのだろう。
湯から顔を上げると、脱衣所から床板の軋む音がした。
「千陽、風呂の温度大丈夫か?」
すりガラスの向こうから宗一の声が聞こえた。入ってくるのかと思って焦り、風呂の底から少し腰を上げていた。いやいや、そういうつもりじゃなかったと何度も心の中で叫んでいた。
「あ、ああ! うん。大丈夫だ」
「よかった。風呂釜古いからさ、時々冷たかったりするんだよ」
「そっか、ちゃんと、あったかいよ」
「よかった」
「……うん」
勝手に一人で焦っていたが、ガラスの向こうの宗一はドアを開ける気配がなかった。
「あと、ドライヤーとか洗面所の引き出しに入ってるから好きに使えよ」
「おう、ありがとう」
とにかく気まずかった。どういうつもりだったと聞かれてもすぐに返事できそうにない。宗一とこの先どうなりたいか、とかも全然考えてなかった。
「――千陽」
「な、なに」
再び呼ばれて千陽は身構えていた。宗一が次に何を言ってくるのか分からなくて怖かった。
「それから、さっきは……ごめんな」
「え」
間の抜けた声をあげてしまった。
千陽は、これは付き合う前から振られる流れだと気付いて、勝手に拍子抜けしていた。宗一とどうなりたいかを考えてないのに関係を持ち、そのくせ相手の言葉に怯えるなんて、同性愛者以前に人間として自分が嫌いになりそうだった。
自分がこんな軽薄な人間だったなんて知りたくなかった。昔の自分は、もっと誠実だった気がする。
「千陽」
「あ、あぁ」
再び名前を呼ばれて風呂の中で姿勢を正していた。
「いい歳した大人が変に感傷的になってさ、せっかくの旅行なのに気分悪かっただろ。ごめんな」
「い……いや、全然。俺の方こそなんか、無神経なこと言っただろ」
「そんなことないよ。むしろ励まされて元気になったし。千陽が昔のこと覚えていて嬉しかったな」
「そっか……なら……良かった」
「あぁ、でもさ。もう情けねぇよ。自分ではしっかりしているつもりだったんだぜ」
すりガラスの向こうの宗一は背中を向けた。
「宗一はさ……すごく立派だと思ってるよ。俺だったら、多分、何にもできなくなってるだろうし」
「そうかな」
「うん。だから、宗一は全然、ダメとかじゃない」
「うん。ありがと、千陽。ほんと、お前ともう一度会えて、元気出た」
二階のベッドでは、終始暗く澱んだ空気を纏っていた宗一だったが、今は明るい声に戻っていてホッとしていた。
すりガラスに宗一の影と手のひらが映っている。ガラス越しにこちらを向いているのが分かった。
「飯、作ってるよ」
「うん。ありがと。あとで俺にも手伝えることあったらなんでも言えよ」
「じゃあ明日なんか頼むよ。今日はお客さんでいいよ」
「うん。了解」
宗一が脱衣所から離れていき、ほっと息を吐いた。
千陽は、こういう付き合いでいいのだと肯定された気がした。本当に自分が情けない。相手の方へ踏み込む勇気がない。
再び肩までお湯に浸かった。湯面が揺れて浴室に水音が響く。
閉鎖的な村だ。家族を亡くして、家に一人きりなれば誰だって不安定になるだろう。そんな状態の宗一につけこむようなことをした。
――家族にする気なんて、ないくせに。
昔、千陽がそう感じたのは、村で宗一と対等な関係を築けず、鬱屈していた気持ちの発露だった。好きだという気持ちに、そこに恋情の類はなかった。
(無かった、はずなんだけど)
正直、もう分からなくなっていた。
千陽は小学生の頃の村での思い出をほとんど失っていた。山から落ちて頭を打ったあと、何ヶ月も病院で眠っていた。何の後遺症もなく普通に生活できる状態に戻ったのは奇跡だと病院の先生は言っていた。
千陽のなかには、村での楽しかった思い出ばかりが残っていた。小学三年生の春は村に行くのが嫌だった。でも宗一と出会って一番の親友ができて幸せだった。退院後村を出ることになり、せっかく仲良くなった宗一と離れることになって親を恨んでいた。身勝手な親の夢に巻き込まれる自分の人生を呪った。
けれど、宗一から手紙が届いて、少しづつ昔の記憶が戻り、この村は楽しいばかりじゃなかったと気づいた。パズルのピースが埋まるごとに、宗一に対してどういう感情を向ければいいのか分からなくなっていく。
千陽は確かに宗一に執着していたし、言葉にできないような鬱屈した感情を抱えていた。それは恋に似ていた。
けれど、恋じゃなかった。なら、それでいいだろう。
「あぁ、自分が……嫌になる」
男相手の誠実さのある付き合いなんて千陽は知らないし、宗一がどういうつもりで千陽を抱いたのか分からない。今のところ訊く勇気もない。
そもそも自分の仕事もしゃんとして決められない男に、男との付き合いを決められるわけがないのだ。
結局、どんなに考えたところで答えなんかないし、風呂の中にいる間は思考が堂々巡りを繰り返していた。
*
「宗一、風呂ありがと……あれ?」
居間に戻ってくると部屋に宗一がいなかった。台所にはすでに準備された夕飯が置いてある。
コンロには味噌汁があって、湯気が立ち昇っていた。さっきまで、ここに宗一がいたのは確かだろう。
料理が並べられたテーブルの前で千陽は一人佇んでいた。煮物や焼き魚、炊飯器には電源が入っていて保温状態になっていた。これを全て宗一が作ったのだろうか。千陽が風呂場にいたのは、せいぜい三十分程度だった。
変、だった。
この家にいるのは千陽と宗一だけで、一年ほど誰も住んでいなかった。宗一は村の知り合いに鍵を渡していると言っていた。けれど、住んでもいない家の電気やガス水道などをわざわざお金を払って維持したりするのだろうか。
「もしかして、他の誰かに貸している、とか」
それなら住んでいない家のインフラが奇妙に整っている理由が説明できる。
――家ってさ、誰も住んでいないと静かに死んでいくから。
昼間、宗一が誰も住んでいないと言っていたのは嘘なんだろうか。もし、それが嘘ならどうしてそんな嘘を千陽に吐いたのだろう。
再びテーブルの上に視線を落とすと、茶碗の横に置き手紙があった。千陽はその白いメモ用紙を手に取る。
紙には黒のマジックで走り書きがされている。千陽はその筆跡には覚えがあった。宗一から届いた手紙と同じ字だった。当たり前だ。これは宗一の書いた文字なんだから同じで、見覚えがあって当然だ。
――ごめん、村の寄り合いに呼ばれたから、先にご飯食べてて! あとで連絡する。
読み終わって置き手紙を机に戻したときだった。廊下から電話の音が聞こえてきた。ここは宗一の家だ。千陽が電話を取る必要なんてない。けれど、千陽は音に引き寄せられるようにして電気の消えた廊下に立った。背後の台所からの明かりで電話の位置は分かった。
電話台に乗っていたのは黒電話だった。まだ使えるのは知っていたが、わざわざ使っている家があったことに驚いた。この家に入ったときには気づかなかった。千陽は受話器を手に取って耳に当てる。やけにタイミングのいい電話に既視感があった。
千陽の東京の家でも、同じように電話が鳴っていた。
「もしもし」
『あ、俺だけど』
「宗一?」
『あー電話出てくれてよかった。いつものくせで携帯持って出るの忘れててさ』
「テーブルの上の置き手紙読んだよ」
『うん、今日、村の寄り合いだったの忘れててさ。帰るの遅くなるだろうし、夕飯食べて、先に寝ててくれていいよ。布団は一階の奥の座敷に出してる』
「うん。分かった」
『せっかくなのに、一人にしてごめんな』
「いいよ。宗一にも村の付き合いがあるんだろうし」
『じゃあ明日、色々村回ろうぜ、ご存じの通り自然以外なんもないけどな』
そう言って電話の向こうの宗一はケラケラ笑っていた。それは、千陽のよく知っている宗一の声だった。明るくて、時々無神経なことを言って。千陽は声を出さずに息を吐くように笑っていた。
「――うん。じゃあ、夕飯食べて先に寝てるな」
千陽は力なくそう返事していた。本当はそんなことちっとも思っていない。
(宗一、俺との旅行だろ友達放置すんな、早く帰ってこいよ。寂しいだろ! 俺は寂しいんだ。寂しい……寂しいよ、宗一)
千陽は左手で顔を覆った。手のひらで触れた自分の顔は笑っていた。
『おう、じゃあ、おやすみ』
通話の切れた音が虚しく耳元で響いていた。
「宗一……宗一」
千陽は受話器を元に戻したあと、その場に力なく座り込んだ。
電話の向こうにいるのは、本当の宗一だった。
村の中に溶け込んでいて、千陽を外の人間だと一線引いて付き合っている。もどかしくて、憎らしくて。千陽がどんなに手を伸ばしても、心を開いても本当の意味では一緒になれなかった。宗一。
あぁ、なんで、こんなにも苦しい気持ちになるのだろう。
家族を失って、村で一人になってしまって寂しいと宗一は言っていた。あれは嘘だったのだろうか。
「宗一……宗一……」
千陽は洗いざらしの頭を無意識に両手でかき混ぜていた。
宗一が千陽と同じ村の外の人になって、やっと対等な立場で付き合えるのだと、これが千陽が望んだ幸せの形だと思っていた。
――あぁ、やっと、宗一が手に入ったと思ったのに。
違った。宗一は、宗一のままだった。
「なんだよ……寂しいって。お前、まだ、村の内の人じゃん」
二人分並べられていた食器に自分の分だけご飯をよそって食べた。
砂を噛むような味がした。自分のために作られた温かい食事なのに、苦々しい思いが募っていた。
夜の十一時を過ぎても、宗一は帰ってこなかった。



