*
六月の雨は、恵みの雨なんかじゃない。
少なくとも現在進行形で、水城千陽は雨から何も恵まれていなかった。
体にまとわりつくような湿気が蒸し暑く、ただでさえ気鬱なのに雨のせいでさらに心が重くなる。
時間は午後五時。バス停から自宅へと続く住宅街の一本道は、雨のせいでピントがあっていないとろけた写真のように見えた。
梅雨なんだからデイパックに折りたたみ傘くらい入れておけばよかった。手痛い失敗をしないと成長しないのがどうやら自分らしい。
――二十二歳? 若いんだから、選ばなければ仕事はいくらでもあるよ。
今日、ハローワークの職員から言われた励ましとも呆れとも取れる言葉が頭に重くのしかかっていた。
千陽はつい最近、会社を辞めた。
平成二十年四月一日 〇〇〇〇〇〇株式会社 入社
そこから働いたのはたった一ヶ月だ。
履歴書の職歴を白紙にすればよかった。
情けない結果を思い出して、ため息が漏れた。会社勤めは自分に向いていなかった。だからといって両親と同じパティシエの道にも進みたくない。そういった板挟みで現在何も選択できないでいた。
小さい頃からの夢なら、親が望むまま自宅の店でお菓子を作ればいいのに。きっとそれが自分の幸せだろう。
(絶対、嫌だ)
デニムのポケットから折りたたみの携帯電話を取り出して開き、ウェブで天気予報を確認した。残念ながらこの雨は夜中まで続くようだ。
「あぁ、もう詰んだ」
家に電話すれば母がバス停まで傘を持ってきてくれるだろうが、反発心から電話できなかった。
仕方ないと千陽は大雨の中、自宅までの数分の距離を全速力で走った。二十歳を過ぎた大人が、雨のなか全力疾走しているなんて恥ずかしい。誰にも遭いませんようにと祈るように足を一生懸命前に動かした。
だが、家まであと半分というところまできて、不思議に思った。
ここまで千陽が願った通り、車にも通行人にも全然遭遇していない。重ねて奇妙だったのは、視界が不明瞭なくらい薄暗いのに、周りの住宅からはまったく灯りが見えなかった。灰色に染まった住宅街が長々と続いている。
誰にも出会わない歩道を走っていると、なんだか世界でひとりぼっちになってしまったように孤独だった。
ご近所さんは全員旅行にでも行ったのだろうか。
もちろん親からそんな話は聞いていなかったし、突然、近隣住民全員がいなくなるなんて状況あるはずがない。
様子が変だと感じながらも自宅前に着く。ずぶ濡れのまま表のケーキ屋に行くわけにもいかない。千陽は裏から家に入ることにした。
錆びた鉄門に手をかけたときには全身濡れ鼠になっていた。自分の明るい猫っ毛の髪からはポタポタと絶えず水滴が落ちている。
走って上がった息が整い顔を上げると、二階の自分の部屋の明かりが点いていた。傘を忘れるような迂闊だが、確かに出かけるときに部屋の電気は消したのを覚えている。親が部屋にいるのだろうか? いつもこの時間は、まだ店の方にいるのに。
ふと、目の端に鮮やかな白が見えた。雨で周りが灰色のせいか寂れた赤い郵便受けから見える白い封筒が目立って見える。
千陽は封筒を手に取り玄関のドアを開けた。二階の自分の部屋には灯りがついていたのに玄関も廊下電気が消えている。玄関からダイニングに続く廊下がなんだか不自然にがらんとしていた。
住み慣れた自分の家なのに、初めてきた家みたいだった。
玄関を開けたときの音で母が店から玄関に顔を出しに来るだろうと思い、その場でさっき郵便受けから取り出した手紙を開封した。
白い封筒の表には、水城千陽様と自分宛の名前が書いてある。
マジックで書いたような文字は、子供っぽい大胆な筆致だった。雨に濡れたせいでところどころ文字が滲んでいた
水性インクだったのだろう。
差出人を見ると、そこには懐かしい住所と名前が書いてあった。
――⚫︎⚫︎⚫︎村▲▲▲丁目X番地 秋月宗一
「え……宗一だ。懐かしい、なんだろ」
子供の頃に住んでいた村の親友からの手紙だった。転校してからは一度も連絡を取っていなかった。
「あれ、てか俺たちあんなに仲良かったのに。どうして今日まで連絡してなかったんだろ」
今みたいに携帯電話がある時代じゃない。けれどお互いの住所は知っていたのだし、電話じゃなくても一度や二度、年賀状のやり取りがあっても良かったはずだ。
それなのに。
「宗一……宗一」
懐かしい名前を数回、口に出してみた。何故か名前を口にするたび、責められているようで胸がジクジクと痛んだ。
懐かしくて、こんなにも会いたいのに。自分は彼に会う資格がない気がした。
会いたい。宗一に会いたい。今すぐ会いたい。
千陽ははやる気持ちで手紙を開いた。
――千陽、今度一緒に村に帰ろう。 宗一
白い便箋に書かれていたのは、村に帰ろう。それだけだった。
そして封筒には、東京駅発の寝台特急列車はやぶさのチケットが入っていた。
チケットの日付は来週だった。
どんなに仲が良かったとしても、宗一とは小学六年生の頃から一度も顔を合わせていない。こちらの予定を知らないはずの宗一が、千陽宛てに日付指定の寝台特急のチケットを送ってきた。わけが分からない。
「えっ……え? どういうこと。帰るって、なんで?」
雨に濡れた体はすでに冷え切っていた。玄関で混乱していたら廊下の向こうで家の電話が鳴り響く。
薄暗闇で電子音とともに赤いランプが点滅している。どんなに待っても、店の方から足音が聞こえてこなかった。
あぁ、そうだった。今、この住宅街には誰もいないのだ。
――この世界には、もう自分しかいない。
千陽は濡れた足跡を廊下につけながら、電話台の前まで歩いて行き受話器を手にとった。
宗一に会いたい。助けて欲しいとすがるような気持ちだった。
「――はい。水城です」
『もしもし。俺だけど』
「え、誰ですか」
『あーごめんごめん。最近携帯電話ばっかりだったから。秋月宗一。俺のこと覚えてる?』
「え、宗一、本当に、宗一なのか!」
『そうだって言ってるじゃん。久しぶり、元気だったか』
「あぁ、うん。元気。元気だよ」
昔と変わらない陽気な宗一の声に、千陽はどこか救われたような気持ちだった。
会えた。やっと会えた。宗一に会いたかったと何度も心の中で反芻した。
なんだか周りがずっと変だったから、思考回路が五歳児みたいになっている。
宗一と電話で話せて飛び上がるくらいに嬉しい。
「宗一。手紙さっき受け取った。てかさ、あれなんだよ」
『えーそのままの意味だって。俺さ、役者志望で、今上京してるんだけど、今度、用事があって村に帰るから千陽も一緒にどうかなって』
「なぁ、はやぶさのチケット日付入ってたけど、俺に予定があったらどうするつもりだったんだ?」
『え、予定空いてなかったの? 絶対、空いてると思ったんだけどなぁ』
宗一の声はどこまでもからりとして明るい。
実際、予定は空いていた。
失業中だし、次の仕事について思い悩んで塞ぎ込んでいるところだった。時間なんていくらでもある。
けれど宗一の「絶対、空いていると思った」というのはどういう意味だろう。
「空いてる、けど。……宗一もしかして俺のことどこかで見てたとか?」
『見てないけど、そんな気がしただけ』
「そ、そうか? 今さ、俺失業中で暇なんだよ」
『えー本当に、だったらちょうどいいじゃん。俺と村で遊んで気分転換しようぜ。自然がいっぱい』
「気分転換ってなぁ、あの村は大自然しかないだろ」
『たしかにねぇ』
そう言って宗一は電話の向こうでケラケラと笑っている。
「てか、お前の実家に俺が押しかけていいのか? 村に旅館とかホテルとかなかっただろ」
『全然いいよ。あ、お前の家の電話と住所は知ってるけど、携帯知らないし。今から電話とメルアド言うから、メモってくれる』
「あ、うん。ちょっと待って」
そう言って電話台にあるボールペンでメモ帳に宗一が言ったメルアドと電話番号を書き込む。
「じゃあ、このあと、メール送るな」
『分かった。じゃあ、またな。連絡待ってる』
「うん」
そう言って宗一からの電話を切った瞬間。突然廊下の電気が点く。急に明るくなって目がしぱしぱした。
目を擦っていると 白いエプロンをつけた母親がダイニングに続くのれんの向こうから顔を覗かせた。
「千陽? 電話誰だったの……って、あんたずぶ濡れじゃない。傘どうしたの」
「忘れた」
「もう! あんたはバス停から電話すればいいじゃない。タオル持ってくるから、そこ動かないでよ床濡れるから」
「うん。分かった。ありがと」
そう言って母親は千陽の横を通り抜けて洗面所に入って行った。
六月の雨は、恵みの雨なんかじゃない。
少なくとも現在進行形で、水城千陽は雨から何も恵まれていなかった。
体にまとわりつくような湿気が蒸し暑く、ただでさえ気鬱なのに雨のせいでさらに心が重くなる。
時間は午後五時。バス停から自宅へと続く住宅街の一本道は、雨のせいでピントがあっていないとろけた写真のように見えた。
梅雨なんだからデイパックに折りたたみ傘くらい入れておけばよかった。手痛い失敗をしないと成長しないのがどうやら自分らしい。
――二十二歳? 若いんだから、選ばなければ仕事はいくらでもあるよ。
今日、ハローワークの職員から言われた励ましとも呆れとも取れる言葉が頭に重くのしかかっていた。
千陽はつい最近、会社を辞めた。
平成二十年四月一日 〇〇〇〇〇〇株式会社 入社
そこから働いたのはたった一ヶ月だ。
履歴書の職歴を白紙にすればよかった。
情けない結果を思い出して、ため息が漏れた。会社勤めは自分に向いていなかった。だからといって両親と同じパティシエの道にも進みたくない。そういった板挟みで現在何も選択できないでいた。
小さい頃からの夢なら、親が望むまま自宅の店でお菓子を作ればいいのに。きっとそれが自分の幸せだろう。
(絶対、嫌だ)
デニムのポケットから折りたたみの携帯電話を取り出して開き、ウェブで天気予報を確認した。残念ながらこの雨は夜中まで続くようだ。
「あぁ、もう詰んだ」
家に電話すれば母がバス停まで傘を持ってきてくれるだろうが、反発心から電話できなかった。
仕方ないと千陽は大雨の中、自宅までの数分の距離を全速力で走った。二十歳を過ぎた大人が、雨のなか全力疾走しているなんて恥ずかしい。誰にも遭いませんようにと祈るように足を一生懸命前に動かした。
だが、家まであと半分というところまできて、不思議に思った。
ここまで千陽が願った通り、車にも通行人にも全然遭遇していない。重ねて奇妙だったのは、視界が不明瞭なくらい薄暗いのに、周りの住宅からはまったく灯りが見えなかった。灰色に染まった住宅街が長々と続いている。
誰にも出会わない歩道を走っていると、なんだか世界でひとりぼっちになってしまったように孤独だった。
ご近所さんは全員旅行にでも行ったのだろうか。
もちろん親からそんな話は聞いていなかったし、突然、近隣住民全員がいなくなるなんて状況あるはずがない。
様子が変だと感じながらも自宅前に着く。ずぶ濡れのまま表のケーキ屋に行くわけにもいかない。千陽は裏から家に入ることにした。
錆びた鉄門に手をかけたときには全身濡れ鼠になっていた。自分の明るい猫っ毛の髪からはポタポタと絶えず水滴が落ちている。
走って上がった息が整い顔を上げると、二階の自分の部屋の明かりが点いていた。傘を忘れるような迂闊だが、確かに出かけるときに部屋の電気は消したのを覚えている。親が部屋にいるのだろうか? いつもこの時間は、まだ店の方にいるのに。
ふと、目の端に鮮やかな白が見えた。雨で周りが灰色のせいか寂れた赤い郵便受けから見える白い封筒が目立って見える。
千陽は封筒を手に取り玄関のドアを開けた。二階の自分の部屋には灯りがついていたのに玄関も廊下電気が消えている。玄関からダイニングに続く廊下がなんだか不自然にがらんとしていた。
住み慣れた自分の家なのに、初めてきた家みたいだった。
玄関を開けたときの音で母が店から玄関に顔を出しに来るだろうと思い、その場でさっき郵便受けから取り出した手紙を開封した。
白い封筒の表には、水城千陽様と自分宛の名前が書いてある。
マジックで書いたような文字は、子供っぽい大胆な筆致だった。雨に濡れたせいでところどころ文字が滲んでいた
水性インクだったのだろう。
差出人を見ると、そこには懐かしい住所と名前が書いてあった。
――⚫︎⚫︎⚫︎村▲▲▲丁目X番地 秋月宗一
「え……宗一だ。懐かしい、なんだろ」
子供の頃に住んでいた村の親友からの手紙だった。転校してからは一度も連絡を取っていなかった。
「あれ、てか俺たちあんなに仲良かったのに。どうして今日まで連絡してなかったんだろ」
今みたいに携帯電話がある時代じゃない。けれどお互いの住所は知っていたのだし、電話じゃなくても一度や二度、年賀状のやり取りがあっても良かったはずだ。
それなのに。
「宗一……宗一」
懐かしい名前を数回、口に出してみた。何故か名前を口にするたび、責められているようで胸がジクジクと痛んだ。
懐かしくて、こんなにも会いたいのに。自分は彼に会う資格がない気がした。
会いたい。宗一に会いたい。今すぐ会いたい。
千陽ははやる気持ちで手紙を開いた。
――千陽、今度一緒に村に帰ろう。 宗一
白い便箋に書かれていたのは、村に帰ろう。それだけだった。
そして封筒には、東京駅発の寝台特急列車はやぶさのチケットが入っていた。
チケットの日付は来週だった。
どんなに仲が良かったとしても、宗一とは小学六年生の頃から一度も顔を合わせていない。こちらの予定を知らないはずの宗一が、千陽宛てに日付指定の寝台特急のチケットを送ってきた。わけが分からない。
「えっ……え? どういうこと。帰るって、なんで?」
雨に濡れた体はすでに冷え切っていた。玄関で混乱していたら廊下の向こうで家の電話が鳴り響く。
薄暗闇で電子音とともに赤いランプが点滅している。どんなに待っても、店の方から足音が聞こえてこなかった。
あぁ、そうだった。今、この住宅街には誰もいないのだ。
――この世界には、もう自分しかいない。
千陽は濡れた足跡を廊下につけながら、電話台の前まで歩いて行き受話器を手にとった。
宗一に会いたい。助けて欲しいとすがるような気持ちだった。
「――はい。水城です」
『もしもし。俺だけど』
「え、誰ですか」
『あーごめんごめん。最近携帯電話ばっかりだったから。秋月宗一。俺のこと覚えてる?』
「え、宗一、本当に、宗一なのか!」
『そうだって言ってるじゃん。久しぶり、元気だったか』
「あぁ、うん。元気。元気だよ」
昔と変わらない陽気な宗一の声に、千陽はどこか救われたような気持ちだった。
会えた。やっと会えた。宗一に会いたかったと何度も心の中で反芻した。
なんだか周りがずっと変だったから、思考回路が五歳児みたいになっている。
宗一と電話で話せて飛び上がるくらいに嬉しい。
「宗一。手紙さっき受け取った。てかさ、あれなんだよ」
『えーそのままの意味だって。俺さ、役者志望で、今上京してるんだけど、今度、用事があって村に帰るから千陽も一緒にどうかなって』
「なぁ、はやぶさのチケット日付入ってたけど、俺に予定があったらどうするつもりだったんだ?」
『え、予定空いてなかったの? 絶対、空いてると思ったんだけどなぁ』
宗一の声はどこまでもからりとして明るい。
実際、予定は空いていた。
失業中だし、次の仕事について思い悩んで塞ぎ込んでいるところだった。時間なんていくらでもある。
けれど宗一の「絶対、空いていると思った」というのはどういう意味だろう。
「空いてる、けど。……宗一もしかして俺のことどこかで見てたとか?」
『見てないけど、そんな気がしただけ』
「そ、そうか? 今さ、俺失業中で暇なんだよ」
『えー本当に、だったらちょうどいいじゃん。俺と村で遊んで気分転換しようぜ。自然がいっぱい』
「気分転換ってなぁ、あの村は大自然しかないだろ」
『たしかにねぇ』
そう言って宗一は電話の向こうでケラケラと笑っている。
「てか、お前の実家に俺が押しかけていいのか? 村に旅館とかホテルとかなかっただろ」
『全然いいよ。あ、お前の家の電話と住所は知ってるけど、携帯知らないし。今から電話とメルアド言うから、メモってくれる』
「あ、うん。ちょっと待って」
そう言って電話台にあるボールペンでメモ帳に宗一が言ったメルアドと電話番号を書き込む。
「じゃあ、このあと、メール送るな」
『分かった。じゃあ、またな。連絡待ってる』
「うん」
そう言って宗一からの電話を切った瞬間。突然廊下の電気が点く。急に明るくなって目がしぱしぱした。
目を擦っていると 白いエプロンをつけた母親がダイニングに続くのれんの向こうから顔を覗かせた。
「千陽? 電話誰だったの……って、あんたずぶ濡れじゃない。傘どうしたの」
「忘れた」
「もう! あんたはバス停から電話すればいいじゃない。タオル持ってくるから、そこ動かないでよ床濡れるから」
「うん。分かった。ありがと」
そう言って母親は千陽の横を通り抜けて洗面所に入って行った。



