*
六月の雨は、恵みの雨なんかじゃない。
少なくとも現在進行形で、水城千陽は雨から何も恵まれていなかった。
体にまとわりつくような湿気が蒸し暑く、ただでさえ気鬱なのに雨のせいでさらに心が重くなる。
時間は午後五時だ。バス停から自宅へと続く住宅街の一本道は、雨のせいでピントがあっていないとろけた写真に見える。
梅雨なんだからデイパックに折りたたみ傘くらい入れておけばよかった。手痛い失敗をしないと成長しないのがどうやら自分らしい。
――二十二歳? 若いんだから、選ばなければ仕事はいくらでもあるよ。
今日、ハローワークの職員から言われた励ましとも叱咤とも取れる言葉が頭に重くのしかかっていた。
千陽はつい最近会社を辞めた。
会社勤めは自分に向いていなかった。だからといって身勝手な親と同じパティシエの道にも進みたくない。そういった板挟みで現在何も選択できないでいた。
夢だったなら親が望むまま、自宅の店で両親とお菓子を作ればいいのに。きっと幸せだろう。
(絶対、嫌だ)
デニムのポケットから折りたたみの携帯電話を取り出して開き、ウェブで天気予報を確認すると、残念ながらこの雨は夜中まで続くようだった。
「あぁ、もう詰んだ」
家に電話すれば母が、バス停まで傘を持ってきてくれるだろうが反発心から電話できなかった。
仕方ないと千陽は大雨の中、自宅までの数分の距離を全速力で走った。二十歳を過ぎた大人が、雨のなか全力疾走している姿なんて誰かに見られたら恥ずかしい。そう思って誰にも遭いませんようにと祈るように走った。
だが半ばまで来て、変だと思い始めた。
千陽が願った通り車にも通行人にも全然遭遇しない。重ねて奇妙だったのは、視界が不明瞭なくらい薄暗いのに、周りの住宅からは灯りが見えなかった。
誰にも出会わない住宅街の歩道を走っていると、なんだか世界でひとりぼっちになってしまったように孤独だった。
ご近所さんは全員旅行にでも行ったのだろうか。
もちろん親からそんな話は聞いていなかったし、全員がいなくなるなんて状況、あるはずがない。
近所の様子が変だと感じながらも、ずぶ濡れのまま表のケーキ屋に廻るわけにもいかず、先に裏の自宅の方に向かった。
濡れ鼠で家に着くと息が上がっていた。自分の明るい猫っ毛の髪からはポタポタと絶えず水滴が地面に落ちている。
息が整ったとき顔を上げると、二階の自分の部屋の灯りが何故か点いていた。傘を忘れるような自分だが、確かに出かける時に部屋の電気を消したはずだった。親が部屋にいるのだろうか。いつもこの時間は、まだ店の方にいるのに。
ふと、目の端に鮮やかな白が見えた。雨で周りが灰色のせいか寂れた赤い郵便受けから見える白い封筒が目立って見える。
千陽は封筒を手に取り玄関のドアを開けた。二階の自分の部屋には灯りがついていたのに、玄関も廊下も暗い。玄関からダイニングに続く廊下がなんだかがらんとしていた。
住み慣れた自分の家なのに、初めてきた家みたいだった。
玄関が開けたときの音で母が店から玄関に顔を出しに来るだろうと思い、その場でさっき郵便受けから取り出した手紙を見た。
白い封筒の表には、水城千陽様と自分宛の名前が書いてある。
マジックで書いたような文字は、子供っぽい大胆な筆致だった。雨に濡れたせいでところどころ滲んでいる。
水性インクだったのだろう。
差出人を見ると、そこには懐かしい住所と名前が書いてあった。
――⚫︎⚫︎⚫︎村▲▲▲丁目X番地 秋月宗一
「宗一だ……え、懐かしい、なんだろ」
子供の頃に住んでいた村の親友からの手紙だった。転校してからは一度も連絡を取っていなかった。
「あれ、俺たちあんなに……仲良かったのに。どうして今日まで連絡してなかったんだろ」
今みたいに携帯電話があった時代じゃない。けれどお互いの住所は知っていたのだし、電話じゃなくても年賀状のやり取りくらい今日まであっても良かったはずだ。
それなのに。
「宗一……宗一」
懐かしい名前を数回、口に出してみた。何故か名前を口にするたび、責められているようで胸がジクジクと痛んだ。
懐かしくて、こんなにも会いたいのに。会う資格がない気がした。
会いたい。宗一に会いたい。今すぐ会いたい。
もう自分たちは立派な大人だし、宗一からの手紙は結婚式の招待状とかだろうか。
千陽ははやる気持ちで手紙を開いた。
――千陽、今度一緒に村に帰ろう。 宗一
白い便箋に書かれていたのは、村に帰ろう。それだけだった。
そして封筒には、東京駅発の寝台特急列車はやぶさのチケットが入っていた。
チケットの日付は来週だった。
わけが分からない。
どんなに仲が良かったとしても、小学六年生の頃から一度も顔を合わせていないのだ。
こちらの予定も知らないはずの宗一が日付指定の寝台特急のチケットを送ってきた。
「えっ……え? どういうこと。帰るって」
雨に濡れた体はすでに冷え切っていた。玄関で混乱していたら廊下の向こうで家の電話が鳴り響く。
暗闇で電子音とともに赤いランプが点滅している。どんなに待っても、店の方から足音が聞こえてこない。
そうだった。今、この住宅街には誰もいないのだ。
この世界には、もう自分しかいない。
千陽は濡れた足跡を廊下につけながら、電話台の前まで歩いて行き受話器をとった。
宗一に会いたいと、すがるような気持ちだった。
「――はい。水城です」
『もしもし。俺だけど』
「え、誰ですか」
『あーごめんごめん。最近携帯電話ばっかりだったから。秋月宗一。俺のこと覚えてる?』
「え、宗一、本当に、宗一なのか!」
『そうだって言ってるじゃん。久しぶり、元気だったか』
「あぁ、元気。元気だよ」
昔と変わらない陽気な宗一の声に、千陽はどこか救われたような気持ちだった。
会えた。やっと会えた。宗一に会いたかったと何度も心の中で反芻した。
今、周りがずっと変だったから、思考回路が五歳児みたいになっている。
宗一と電話で話せて飛び上がるくらいに嬉しい。
「宗一。手紙さっき受け取った。てかさ、あれなんだよ」
『えーそのままの意味だって。俺さ、役者志望で、今上京してるんだけど、今度、用事があって村に帰るから千陽も一緒にどうかなって』
「はやぶさのチケット日付入ってたけど、俺に予定があったらどうすんだよ」
『え、予定空いてなかったの。絶対、空いてると思ったんだけどなぁ』
宗一の声はどこまでもカラカラと明るい。
予定は空いていた。
失業中だし、次の仕事について思い悩んで塞ぎ込んでいるところだった。いくらでも時間がある。
けれど宗一の、絶対、空いていると思ったというのはどういう意味だろう。
「空いてる……けど。なぁ、宗一もしかして俺のことどこかで見てたとか?」
『見てないけど、そんな気がしただけ』
「そ、そうか? 今さ俺失業中で暇なんだよ」
『えー本当に、だったらちょうどいいじゃん。俺と村で遊んで気分転換しようぜ。自然がいっぱい』
「気分転換ってなぁ、あの村は大自然しかないだろ」
『たしかにねぇ』
そう言って宗一は電話の向こうでケラケラと笑っている。
「てか、お前の実家に俺が押しかけていいのか? 村に旅館とかホテルとかなかっただろ」
『全然いいよ。あ、お前の家の電話と住所は知ってるけど、携帯知らないし。今から電話とメルアド言うから、メモってくれる』
「あ、うん。ちょっと待って」
そう言って電話台にあるボールペンでメモ帳に宗一が言ったメルアドと電話番号を書き込む。
「じゃあ、このあと、メール送る」
『分かった。じゃあ、またな。連絡待ってる』
「うん」
そう言って宗一からの電話を切った瞬間。突然廊下の電気が点く。急に明るくなって目がしぱしぱした。
目を擦っているとダイニングから母が顔を覗かせる。
「千陽、電話誰だったの……って、あんたずぶ濡れじゃない。傘どうしたの」
「忘れた」
「もう。あんたはバス停から電話すればいいじゃない。タオル持ってくるから、そこ動かないでよ床濡れるから」
「うん。分かった」
そう言って母親は横を通り抜けて洗面所に入って行った。
六月の雨は、恵みの雨なんかじゃない。
少なくとも現在進行形で、水城千陽は雨から何も恵まれていなかった。
体にまとわりつくような湿気が蒸し暑く、ただでさえ気鬱なのに雨のせいでさらに心が重くなる。
時間は午後五時だ。バス停から自宅へと続く住宅街の一本道は、雨のせいでピントがあっていないとろけた写真に見える。
梅雨なんだからデイパックに折りたたみ傘くらい入れておけばよかった。手痛い失敗をしないと成長しないのがどうやら自分らしい。
――二十二歳? 若いんだから、選ばなければ仕事はいくらでもあるよ。
今日、ハローワークの職員から言われた励ましとも叱咤とも取れる言葉が頭に重くのしかかっていた。
千陽はつい最近会社を辞めた。
会社勤めは自分に向いていなかった。だからといって身勝手な親と同じパティシエの道にも進みたくない。そういった板挟みで現在何も選択できないでいた。
夢だったなら親が望むまま、自宅の店で両親とお菓子を作ればいいのに。きっと幸せだろう。
(絶対、嫌だ)
デニムのポケットから折りたたみの携帯電話を取り出して開き、ウェブで天気予報を確認すると、残念ながらこの雨は夜中まで続くようだった。
「あぁ、もう詰んだ」
家に電話すれば母が、バス停まで傘を持ってきてくれるだろうが反発心から電話できなかった。
仕方ないと千陽は大雨の中、自宅までの数分の距離を全速力で走った。二十歳を過ぎた大人が、雨のなか全力疾走している姿なんて誰かに見られたら恥ずかしい。そう思って誰にも遭いませんようにと祈るように走った。
だが半ばまで来て、変だと思い始めた。
千陽が願った通り車にも通行人にも全然遭遇しない。重ねて奇妙だったのは、視界が不明瞭なくらい薄暗いのに、周りの住宅からは灯りが見えなかった。
誰にも出会わない住宅街の歩道を走っていると、なんだか世界でひとりぼっちになってしまったように孤独だった。
ご近所さんは全員旅行にでも行ったのだろうか。
もちろん親からそんな話は聞いていなかったし、全員がいなくなるなんて状況、あるはずがない。
近所の様子が変だと感じながらも、ずぶ濡れのまま表のケーキ屋に廻るわけにもいかず、先に裏の自宅の方に向かった。
濡れ鼠で家に着くと息が上がっていた。自分の明るい猫っ毛の髪からはポタポタと絶えず水滴が地面に落ちている。
息が整ったとき顔を上げると、二階の自分の部屋の灯りが何故か点いていた。傘を忘れるような自分だが、確かに出かける時に部屋の電気を消したはずだった。親が部屋にいるのだろうか。いつもこの時間は、まだ店の方にいるのに。
ふと、目の端に鮮やかな白が見えた。雨で周りが灰色のせいか寂れた赤い郵便受けから見える白い封筒が目立って見える。
千陽は封筒を手に取り玄関のドアを開けた。二階の自分の部屋には灯りがついていたのに、玄関も廊下も暗い。玄関からダイニングに続く廊下がなんだかがらんとしていた。
住み慣れた自分の家なのに、初めてきた家みたいだった。
玄関が開けたときの音で母が店から玄関に顔を出しに来るだろうと思い、その場でさっき郵便受けから取り出した手紙を見た。
白い封筒の表には、水城千陽様と自分宛の名前が書いてある。
マジックで書いたような文字は、子供っぽい大胆な筆致だった。雨に濡れたせいでところどころ滲んでいる。
水性インクだったのだろう。
差出人を見ると、そこには懐かしい住所と名前が書いてあった。
――⚫︎⚫︎⚫︎村▲▲▲丁目X番地 秋月宗一
「宗一だ……え、懐かしい、なんだろ」
子供の頃に住んでいた村の親友からの手紙だった。転校してからは一度も連絡を取っていなかった。
「あれ、俺たちあんなに……仲良かったのに。どうして今日まで連絡してなかったんだろ」
今みたいに携帯電話があった時代じゃない。けれどお互いの住所は知っていたのだし、電話じゃなくても年賀状のやり取りくらい今日まであっても良かったはずだ。
それなのに。
「宗一……宗一」
懐かしい名前を数回、口に出してみた。何故か名前を口にするたび、責められているようで胸がジクジクと痛んだ。
懐かしくて、こんなにも会いたいのに。会う資格がない気がした。
会いたい。宗一に会いたい。今すぐ会いたい。
もう自分たちは立派な大人だし、宗一からの手紙は結婚式の招待状とかだろうか。
千陽ははやる気持ちで手紙を開いた。
――千陽、今度一緒に村に帰ろう。 宗一
白い便箋に書かれていたのは、村に帰ろう。それだけだった。
そして封筒には、東京駅発の寝台特急列車はやぶさのチケットが入っていた。
チケットの日付は来週だった。
わけが分からない。
どんなに仲が良かったとしても、小学六年生の頃から一度も顔を合わせていないのだ。
こちらの予定も知らないはずの宗一が日付指定の寝台特急のチケットを送ってきた。
「えっ……え? どういうこと。帰るって」
雨に濡れた体はすでに冷え切っていた。玄関で混乱していたら廊下の向こうで家の電話が鳴り響く。
暗闇で電子音とともに赤いランプが点滅している。どんなに待っても、店の方から足音が聞こえてこない。
そうだった。今、この住宅街には誰もいないのだ。
この世界には、もう自分しかいない。
千陽は濡れた足跡を廊下につけながら、電話台の前まで歩いて行き受話器をとった。
宗一に会いたいと、すがるような気持ちだった。
「――はい。水城です」
『もしもし。俺だけど』
「え、誰ですか」
『あーごめんごめん。最近携帯電話ばっかりだったから。秋月宗一。俺のこと覚えてる?』
「え、宗一、本当に、宗一なのか!」
『そうだって言ってるじゃん。久しぶり、元気だったか』
「あぁ、元気。元気だよ」
昔と変わらない陽気な宗一の声に、千陽はどこか救われたような気持ちだった。
会えた。やっと会えた。宗一に会いたかったと何度も心の中で反芻した。
今、周りがずっと変だったから、思考回路が五歳児みたいになっている。
宗一と電話で話せて飛び上がるくらいに嬉しい。
「宗一。手紙さっき受け取った。てかさ、あれなんだよ」
『えーそのままの意味だって。俺さ、役者志望で、今上京してるんだけど、今度、用事があって村に帰るから千陽も一緒にどうかなって』
「はやぶさのチケット日付入ってたけど、俺に予定があったらどうすんだよ」
『え、予定空いてなかったの。絶対、空いてると思ったんだけどなぁ』
宗一の声はどこまでもカラカラと明るい。
予定は空いていた。
失業中だし、次の仕事について思い悩んで塞ぎ込んでいるところだった。いくらでも時間がある。
けれど宗一の、絶対、空いていると思ったというのはどういう意味だろう。
「空いてる……けど。なぁ、宗一もしかして俺のことどこかで見てたとか?」
『見てないけど、そんな気がしただけ』
「そ、そうか? 今さ俺失業中で暇なんだよ」
『えー本当に、だったらちょうどいいじゃん。俺と村で遊んで気分転換しようぜ。自然がいっぱい』
「気分転換ってなぁ、あの村は大自然しかないだろ」
『たしかにねぇ』
そう言って宗一は電話の向こうでケラケラと笑っている。
「てか、お前の実家に俺が押しかけていいのか? 村に旅館とかホテルとかなかっただろ」
『全然いいよ。あ、お前の家の電話と住所は知ってるけど、携帯知らないし。今から電話とメルアド言うから、メモってくれる』
「あ、うん。ちょっと待って」
そう言って電話台にあるボールペンでメモ帳に宗一が言ったメルアドと電話番号を書き込む。
「じゃあ、このあと、メール送る」
『分かった。じゃあ、またな。連絡待ってる』
「うん」
そう言って宗一からの電話を切った瞬間。突然廊下の電気が点く。急に明るくなって目がしぱしぱした。
目を擦っているとダイニングから母が顔を覗かせる。
「千陽、電話誰だったの……って、あんたずぶ濡れじゃない。傘どうしたの」
「忘れた」
「もう。あんたはバス停から電話すればいいじゃない。タオル持ってくるから、そこ動かないでよ床濡れるから」
「うん。分かった」
そう言って母親は横を通り抜けて洗面所に入って行った。



