✻
臥せっていた静月には、鬼灯の封印が壊れたのがすぐわかった。感じたのだ。
呪文の間をこじ開け蝕む、新たな言葉。そしてその裏にひそむ明確な意思。鬼灯と共にありたいという強い願いが静月の術を破った。
行かなければならない。鬼灯の元へ。
静月はダン、と立ち上がる。不思議と身が軽かった。結界と鬼灯へ送り込んでいた妖力が返ってきたのだろう。力と同時に怒りもみなぎった。
「小娘、余計なことを――!」
誰が封を破ったのか、静月にはわかっていた。文をやり取りした贄嫁の琴乃だ。名前だけの妻のくせに鬼灯をたぶらかすとは痴れ者め。
静月は忙しなく表へ出た。控えていた従者たちがざわめくが、片手を上げて黙らせる。すぐ平良宮へ飛ばなければ。
空を行くのは静月の異能のひとつ。ふわりと宙に浮いた静月は、鬼灯の宮を目指した。
✻
不穏な気配に気づいた鬼灯が空を仰いだ。それは都の方角。
「――静月」
つぶやいたその声は、警戒と緊張と――懐かしさに満ちていた。聞きつけた琴乃が問う。
「静月さまが、どうなさったのですか」
「来る」
「え」
琴乃は不安げに眉をひそめてしまった。微笑んだ鬼灯が妻をそっと地におろす。
「下がっていろ。皆も離れているように」
「お館さま、北の方さま……」
人々は鬼灯と琴乃を主人夫婦と認めたようだ。指示に従いオロオロしながら建物の陰へと下がっていった。だが琴乃はためらう。
「鬼灯さま、私は」
「おまえも皆の方へ――さすがに静月をぶっ飛ばしたいのでな」
鬼灯は手首を回し、拳を握ってみせた。
封じられて何年経つだろう。百年か二百年か数えてもいないが、怒ってもいいと思う。
「琴乃を巻き込むと死なせてしまいそうだ。よけていてくれ」
「どんな兄弟喧嘩ですか!?」
とんでもないことを予告されて琴乃は口をあんぐりしたが、慌てて閉じた。鬼灯に変な顔を見られたくない。
「……わ、わかりました。でもなるべく穏やかにお願いします」
「それは静月次第だ――来たぞ」
スウと冷徹な光をおびた鬼灯の視線の先を見て、琴乃は息を飲んだ。
空。鳥のごとく舞い降りる、白の綾錦。
やさしげな直衣姿は若い公達のようだ。だが思わず平伏して控えたくなる圧がある。
これが静月――髪の長さと角の色は違うが、面差しは鬼灯と似ていた。
「鬼灯――」
兄弟の名を呼ぶ静月の瞳は狂おしい。久しぶりに対面した鬼灯をからめ取るように見つめた。
「私の封を破るとは。どこへ行こうというんだ」
「その前に――何故俺を封じた」
鬼灯の問いは正当な疑問だ。だが、そんなことすら訊かぬまま立てこもっていた鬼灯も相当な意地っ張りではないのか。静月は染み通るような声で答えた。
「鬼灯は私のものだからだ」
「――はん?」
所有を宣言されて、鬼灯の鼻にしわが寄った。
「何を言う。俺は俺だ。静月のものじゃないぞ」
「そういう態度だから封じるしかなくなった。おまえがいけないんだ、私から逃げようなどと」
「ちょ、ちょっと待て! 静月から逃げるだと?」
鬼灯は困惑を深める。だってあの時は身を引こうとしただけだ。荒っぽく、土地とあやかしとを従えていく鬼灯など理知的な静月の治世にはそぐわない。
玲瓏優美で麗しい静月。
精悍雄偉な益荒男ぶりの鬼灯。
乱世がおさまった後にふさわしいのが誰なのかは自明のこと。
「俺など……静月には必要ないだろう。おまえは人々に慕われていて、政も切り回せて」
「生まれてからずっと隣にいたのにか? 満ち欠けは一体のもの、私たちは離れられない」
詰め寄られて、鬼灯の胸が熱くなる。そんなことを先日も言われたっけ。
「〈満〉も〈欠〉も命の道しるべ――琴乃もそう言ってくれた」
強く結ばれた双子の鬼。その絆を琴乃はたちまち言い当ててみせた。あの言葉は、悪行を懸念されたゆえに封じられたのだと拗ねていた鬼灯を救った。
だが鬼灯の頬に浮かんだやわらかい笑みが、静月の心を凍らせる。
「……そんなに、その女がいいのか」
口走った静月は、怒りの矛先を視界の端に見つけた。
橘の木の陰に立ちすくむ、若菖蒲の襲をまとった女――琴乃。鬼灯の心に忍び込んだ者。
そもそも琴乃が鬼灯の妻になったのは静月のせいだったが、そこは無視する。
「小娘がッ――!」
静月は琴乃に向け両手を突き出した。ドンという波動。鬼灯が飛び出す。
「グァッ――!」
腹を折って吹っ飛んだ鬼灯は、身を挺して守った琴乃の前までもんどりうった。
「鬼灯さま!」
「カハッ――!」
立ち上がる鬼灯の口の端から血が垂れる。静月の放った衝撃波を至近で受けたのだ。
だが鬼灯の目はらんらんと光り、戦意に満ちていた。琴乃への殺意を許してはおけない。たとえ静月が相手でも。
「鬼火――」
ポゥ、と幾つもの火が鬼灯の周りにあらわれた。
ひとつひとつが勢いを増す。猛る鬼灯の心そのままに炎が伸び上がり、踊った。
「私に刃向かうかっ、鬼灯!」
「先に仕掛けたのは静月だろうが!」
静月を目がけて渦を巻く火。打ち払うように繰り出される衝撃波が、あらぬ方へ飛んで本殿の屋根に当たった。建物が半分崩れ落ちる。
これは確かに巻き込まれたら死ぬ兄弟喧嘩だ。背を向ける鬼灯の後ろで、足手まといの琴乃はへたり込んでいた。どうしよう。どうすればいい。
鬼灯は、静月のために表舞台から去ろうとした。
静月は、引き留めたくて鬼灯を封じた。
鬼灯は、素行を危ぶまれ疎まれたと思い拗ねていた。
静月は、頼って泣きついてこない鬼灯に絶望していた。
なんだそれは。愛し合う兄弟のすれ違いの果ての、この惨状なのか。
「いいかげんに……して下さい!!」
琴乃はすっくと立ちあがった。パサ、と小袿の裾を直して両手を合わせる。
――そして、唱えた。
臥せっていた静月には、鬼灯の封印が壊れたのがすぐわかった。感じたのだ。
呪文の間をこじ開け蝕む、新たな言葉。そしてその裏にひそむ明確な意思。鬼灯と共にありたいという強い願いが静月の術を破った。
行かなければならない。鬼灯の元へ。
静月はダン、と立ち上がる。不思議と身が軽かった。結界と鬼灯へ送り込んでいた妖力が返ってきたのだろう。力と同時に怒りもみなぎった。
「小娘、余計なことを――!」
誰が封を破ったのか、静月にはわかっていた。文をやり取りした贄嫁の琴乃だ。名前だけの妻のくせに鬼灯をたぶらかすとは痴れ者め。
静月は忙しなく表へ出た。控えていた従者たちがざわめくが、片手を上げて黙らせる。すぐ平良宮へ飛ばなければ。
空を行くのは静月の異能のひとつ。ふわりと宙に浮いた静月は、鬼灯の宮を目指した。
✻
不穏な気配に気づいた鬼灯が空を仰いだ。それは都の方角。
「――静月」
つぶやいたその声は、警戒と緊張と――懐かしさに満ちていた。聞きつけた琴乃が問う。
「静月さまが、どうなさったのですか」
「来る」
「え」
琴乃は不安げに眉をひそめてしまった。微笑んだ鬼灯が妻をそっと地におろす。
「下がっていろ。皆も離れているように」
「お館さま、北の方さま……」
人々は鬼灯と琴乃を主人夫婦と認めたようだ。指示に従いオロオロしながら建物の陰へと下がっていった。だが琴乃はためらう。
「鬼灯さま、私は」
「おまえも皆の方へ――さすがに静月をぶっ飛ばしたいのでな」
鬼灯は手首を回し、拳を握ってみせた。
封じられて何年経つだろう。百年か二百年か数えてもいないが、怒ってもいいと思う。
「琴乃を巻き込むと死なせてしまいそうだ。よけていてくれ」
「どんな兄弟喧嘩ですか!?」
とんでもないことを予告されて琴乃は口をあんぐりしたが、慌てて閉じた。鬼灯に変な顔を見られたくない。
「……わ、わかりました。でもなるべく穏やかにお願いします」
「それは静月次第だ――来たぞ」
スウと冷徹な光をおびた鬼灯の視線の先を見て、琴乃は息を飲んだ。
空。鳥のごとく舞い降りる、白の綾錦。
やさしげな直衣姿は若い公達のようだ。だが思わず平伏して控えたくなる圧がある。
これが静月――髪の長さと角の色は違うが、面差しは鬼灯と似ていた。
「鬼灯――」
兄弟の名を呼ぶ静月の瞳は狂おしい。久しぶりに対面した鬼灯をからめ取るように見つめた。
「私の封を破るとは。どこへ行こうというんだ」
「その前に――何故俺を封じた」
鬼灯の問いは正当な疑問だ。だが、そんなことすら訊かぬまま立てこもっていた鬼灯も相当な意地っ張りではないのか。静月は染み通るような声で答えた。
「鬼灯は私のものだからだ」
「――はん?」
所有を宣言されて、鬼灯の鼻にしわが寄った。
「何を言う。俺は俺だ。静月のものじゃないぞ」
「そういう態度だから封じるしかなくなった。おまえがいけないんだ、私から逃げようなどと」
「ちょ、ちょっと待て! 静月から逃げるだと?」
鬼灯は困惑を深める。だってあの時は身を引こうとしただけだ。荒っぽく、土地とあやかしとを従えていく鬼灯など理知的な静月の治世にはそぐわない。
玲瓏優美で麗しい静月。
精悍雄偉な益荒男ぶりの鬼灯。
乱世がおさまった後にふさわしいのが誰なのかは自明のこと。
「俺など……静月には必要ないだろう。おまえは人々に慕われていて、政も切り回せて」
「生まれてからずっと隣にいたのにか? 満ち欠けは一体のもの、私たちは離れられない」
詰め寄られて、鬼灯の胸が熱くなる。そんなことを先日も言われたっけ。
「〈満〉も〈欠〉も命の道しるべ――琴乃もそう言ってくれた」
強く結ばれた双子の鬼。その絆を琴乃はたちまち言い当ててみせた。あの言葉は、悪行を懸念されたゆえに封じられたのだと拗ねていた鬼灯を救った。
だが鬼灯の頬に浮かんだやわらかい笑みが、静月の心を凍らせる。
「……そんなに、その女がいいのか」
口走った静月は、怒りの矛先を視界の端に見つけた。
橘の木の陰に立ちすくむ、若菖蒲の襲をまとった女――琴乃。鬼灯の心に忍び込んだ者。
そもそも琴乃が鬼灯の妻になったのは静月のせいだったが、そこは無視する。
「小娘がッ――!」
静月は琴乃に向け両手を突き出した。ドンという波動。鬼灯が飛び出す。
「グァッ――!」
腹を折って吹っ飛んだ鬼灯は、身を挺して守った琴乃の前までもんどりうった。
「鬼灯さま!」
「カハッ――!」
立ち上がる鬼灯の口の端から血が垂れる。静月の放った衝撃波を至近で受けたのだ。
だが鬼灯の目はらんらんと光り、戦意に満ちていた。琴乃への殺意を許してはおけない。たとえ静月が相手でも。
「鬼火――」
ポゥ、と幾つもの火が鬼灯の周りにあらわれた。
ひとつひとつが勢いを増す。猛る鬼灯の心そのままに炎が伸び上がり、踊った。
「私に刃向かうかっ、鬼灯!」
「先に仕掛けたのは静月だろうが!」
静月を目がけて渦を巻く火。打ち払うように繰り出される衝撃波が、あらぬ方へ飛んで本殿の屋根に当たった。建物が半分崩れ落ちる。
これは確かに巻き込まれたら死ぬ兄弟喧嘩だ。背を向ける鬼灯の後ろで、足手まといの琴乃はへたり込んでいた。どうしよう。どうすればいい。
鬼灯は、静月のために表舞台から去ろうとした。
静月は、引き留めたくて鬼灯を封じた。
鬼灯は、素行を危ぶまれ疎まれたと思い拗ねていた。
静月は、頼って泣きついてこない鬼灯に絶望していた。
なんだそれは。愛し合う兄弟のすれ違いの果ての、この惨状なのか。
「いいかげんに……して下さい!!」
琴乃はすっくと立ちあがった。パサ、と小袿の裾を直して両手を合わせる。
――そして、唱えた。



