✻ ✻ ✻
「鬼灯さま」
ある朝、本殿へやって来た琴乃は鏡に向かって紙を広げた。何やら文字が書きつけてある。
「どうした琴乃……いや、おまえ。それは」
顔を向けた鬼灯が目を丸くする。琴乃が書いてきたのは、鬼灯に捧げていた祝詞の文言だった。静月が施した術だと思うとあまり気分がよくない。
「なんでそんな物を。声に出さなければ問題ないとは思うが」
「鬼灯さま、本当にこちらが見えているんですね」
本題から外れたところで琴乃はちょっと唇をとがらせた。素の顔で接していたのが恥ずかしかったのだが、今は紙の陰にいるのでバレないはず。
果たして鬼灯は吹き出したりせず、戸惑った声色だった。
「それを確かめるために、わざわざ?」
「違います。この祝詞が術だというので……言葉のどこに仕掛けがあるのか考えてみたんです」
琴乃は木霊の末。言葉には敏感だ。
言葉は物事を規定する。あやふやに存在する事象を固定する。
世界とは、「こうだ」と認識するから「こう」なるのであって、「そうではない」と言い張れば違って見えるもの。
琴乃は祝詞を示しながら読み解いていった。
「鬼灯さまは勇ましく戦って、鬼が統べるこの国を作り上げたのですね。その頃に従えた民を栄えさせるため神となり宮にいてほしいと――願いのように見せかけていますが、昔の事績を背負わせることにより鬼灯さまのことを縛っているのではないかと思います。この部分が封印の術です」
「うむ」
「そして、祝詞を口にする者の名乗りが〈この身を奉る者〉になっています。妻として神に仕える者が申し上げる、とも読めますが――体そのものや命を差し上げる、の意味にもなります」
サラリと言ってみせたが、それに気づいた時には琴乃もふるえた。倒れそうに感じたあれは魂が削られる感覚だったのか、と。
「祝に鬼の妖力があった頃ならまだしも今となっては……私の木霊の力など知れたものですから。祝詞を禁じて下さって助かりました」
琴乃はそっと頭を下げた。しかし鬼灯は喜べない。琴乃の前の妻たちは鬼灯に喰われたも同然だ。
最初は静月への怒りから。後には送り込まれた嫁たちへの無関心から。祝詞の不自然を考えることもなく放置し、何人もの命を散らせてきた自分に腹が立つ。
「……よく気づいてくれた。俺の方こそ礼を言う」
「鬼灯さま……いえ、私など」
「琴乃がいなければ、俺はずっと拗ねた子どものようにここにいて祝の命を吸い上げるばかりだった」
「拗ね……ふふ。あ、申し訳ありません」
鬼灯は真剣に懺悔したのだが、言い方が可愛らしかったのか琴乃が吹き出す。だがおかげで鬼灯の心は救われた。
「――俺と静月は、双子なんだ」
ふと、そんな話が口をついてこぼれた。
――昔、鬼の双子が生まれた。二人はそれぞれ宝珠を抱いていた。
「満」と「欠」。二つの宝珠が示すものは「生」と「死」。
この世の理を抱いて生まれた、力ある者。それが静月と鬼灯だ。
高みから命を見守る静月。魂を黄泉へ送る鬼灯。
長じた二人はそこらのあやかしたちなどまったく敵わない妖力を持ち、この国を従えていく。
まつろわぬ者を討つ鬼灯は、相手を容赦なく殲滅することもあれば、友として心酔させて戻ることもある奇妙な鬼だった。静月はそんな兄弟を頼もしく、しかし危うくも感じていた。
世が平らかになり討つ敵がいなくなった時、鬼灯はどうすればいいのだろう――。
「俺は嵐のように豊穂足へ死をもたらしていた。できあがった国を治めていくには向かない男だ。あとは静月にまかせてどこかへ行ってしまおうかとも思ったんだが……静月は俺を危ぶんだのだろう、欠の宝珠を預けた隙に結界へ封じられた」
昔語りを琴乃はじっと聞いていた。国造りの伝説を本人から語られるなど、なかなかない。
それに「国を統べる鬼」と「暴虐の悪鬼」が双子だとは伝えられていなかったから驚いた。気安く名を呼び、ののしりながら文句を言っていたわけがわかった。
「仲のよい兄弟……だったのですね」
「さあな。そう思っていたのは俺だけだったのかもしれん。静月が育てる命を刈り取るだけの俺など、憎まれて当然だ」
なんでもなさをよそおって鬼灯は言う。だがその裏にある寂しさが琴乃には聞こえたような気がした。
「鬼灯さまは――」
思わず反論した。
「やさしいお方です。死を生みだす悪鬼などではありません」
「琴乃」
「生きる者に、死は必ず訪れる。鬼灯さまのせいではありません。魂が迷わず黄泉へたどり着けるよう導く灯りが鬼灯さまだと、私は思います」
琴乃は言いつのった。
しばらく宮で過ごしてきて、鬼灯の心は受け取ったつもりだ。怒った声は怖いけど、いつだって無理は言わなかった。乱暴な口調ではあったけど琴乃のことを案じてくれていた。
「宝珠の力について私はよくわかりませんけど――「生」と「死」が双子であるならば、それが表すのは命の輪。「欠」は魂の導なのではないでしょうか」
琴乃が示す宝珠の在り方に衝撃を受け、鬼灯は黙り込んだ。
鬼灯は「欠」の鬼神。
ただ死をもたらす厄災だと自分を規定していた。
なのに琴乃はそれを鮮やかにひっくり返す。
「満」も「欠」もともに命の道しるべである、と。
鬼灯の返事がないことで琴乃は慌てて頭を下げる。出すぎた口をきいてしまった。
「すみません。生意気なことを」
「いや――さすが言葉にさとい木霊の娘だ」
つつしみ深く目を伏せる琴乃のことを鏡の向こうに見つめ、鬼灯の胸に不思議な気持ちが湧き上がる。
そっと腕を伸ばした。だが、琴乃には届かない。心臓が軋んだ。強く願う。
――やさしい言葉をつむぎ出してくれた、琴乃の唇に触れたい。
✻ ✻ ✻
世の中はすっかり夏になった。
宮にもかっきりとした光が降り注ぎ、輝く庭石と軒下の陰影が目を惑わす。外の森ではジージーと蝉が鳴き、涼しい刻限にはヒグラシが歌うのが聞こえた。
琴乃は毎日鬼灯のもとに通っていたが、もちろん祝詞はあげなかった。祭壇をととのえたら、あとは二人で言葉を交わすだけ。最初琴乃を怒鳴りつけていたのが嘘のように最近の鬼灯はおだやかだ。
「……鬼灯さま、お元気なのですよね?」
「なんだ。俺が暴れていないとおかしいか」
「そういうことでは……ただ、妖力が足りずに衰えてしまうのではと不安で」
贄嫁として、喰われないのはありがたいが微妙な気持ちだった。
「静月の力が送られてきているから問題ない」
鬼灯は受け流してみせた。しかし本当は、少し苦しい。
外にあれば自然と回復していくはずの妖力が細っていくのが感じられた。そしてそれは静月も同じなのが伝わる。鬼灯のぶんまで支えていては――いずれ共倒れになるだろう。
さあどうする、静月。鬼灯は双子の出方を探っていた。
「あっ――!」
琴乃が小さな悲鳴をあげる。
封印が傾いで、宮が揺れたのだ。そんなことが日々増えていた。
静月の封印はもともと無理のあるもの。
手配した贄嫁は次第に妖力も消え、魂を削ることで細々と鬼灯を支えていた。足りない分を補いつつ結界を維持し続ける静月には多大な負荷がかかり続けている。
そのうえに今は、琴乃が祝詞の術を看破し贄の役を放棄したからたまらない。静月はもう限界なのだ。
「鬼灯さま――このままでは、いつ術が壊れるかわからないのでは?」
おずおずと琴乃は尋ねた。迷いながらも芯のある瞳の色を、鬼灯は愛おしくながめる。
「そうかもしれないが」
「結界がつぶれたりしたら、鬼灯さまが巻き込まれてしまいませんか」
「ああ……俺のことはいい。だが宮が壊れたら琴乃を巻き込むのか。それはいけないな」
「私はどうでも。鬼灯さまをお助けしなくては」
気づかい合うが、二人は名ばかりの夫婦――ですらない。嫁入りした日に鬼灯は琴乃を拒んだのだから。
ゆえに琴乃は宙ぶらりんの身の上だった。だが、それでもいいと思っていた。
嫁ではなく、話し相手として。本当は悪鬼などではない鬼灯のことを支えられたらと願う。差し出がましいのは知っているが、鬼灯のこと――琴乃は大切に想うようになってしまった。
「この封印を……解くことはできないのでしょうか」
考え込む琴乃は真剣だ。そうは言っても琴乃には何もできないだろうに。可愛らしくて鬼灯は微笑んでしまう。
琴乃を想ってこんな甘い顔をしている……などと知られなくてよかった。
鏡をへだて、鬼灯は胸をなでおろした。
「鬼灯さま」
ある朝、本殿へやって来た琴乃は鏡に向かって紙を広げた。何やら文字が書きつけてある。
「どうした琴乃……いや、おまえ。それは」
顔を向けた鬼灯が目を丸くする。琴乃が書いてきたのは、鬼灯に捧げていた祝詞の文言だった。静月が施した術だと思うとあまり気分がよくない。
「なんでそんな物を。声に出さなければ問題ないとは思うが」
「鬼灯さま、本当にこちらが見えているんですね」
本題から外れたところで琴乃はちょっと唇をとがらせた。素の顔で接していたのが恥ずかしかったのだが、今は紙の陰にいるのでバレないはず。
果たして鬼灯は吹き出したりせず、戸惑った声色だった。
「それを確かめるために、わざわざ?」
「違います。この祝詞が術だというので……言葉のどこに仕掛けがあるのか考えてみたんです」
琴乃は木霊の末。言葉には敏感だ。
言葉は物事を規定する。あやふやに存在する事象を固定する。
世界とは、「こうだ」と認識するから「こう」なるのであって、「そうではない」と言い張れば違って見えるもの。
琴乃は祝詞を示しながら読み解いていった。
「鬼灯さまは勇ましく戦って、鬼が統べるこの国を作り上げたのですね。その頃に従えた民を栄えさせるため神となり宮にいてほしいと――願いのように見せかけていますが、昔の事績を背負わせることにより鬼灯さまのことを縛っているのではないかと思います。この部分が封印の術です」
「うむ」
「そして、祝詞を口にする者の名乗りが〈この身を奉る者〉になっています。妻として神に仕える者が申し上げる、とも読めますが――体そのものや命を差し上げる、の意味にもなります」
サラリと言ってみせたが、それに気づいた時には琴乃もふるえた。倒れそうに感じたあれは魂が削られる感覚だったのか、と。
「祝に鬼の妖力があった頃ならまだしも今となっては……私の木霊の力など知れたものですから。祝詞を禁じて下さって助かりました」
琴乃はそっと頭を下げた。しかし鬼灯は喜べない。琴乃の前の妻たちは鬼灯に喰われたも同然だ。
最初は静月への怒りから。後には送り込まれた嫁たちへの無関心から。祝詞の不自然を考えることもなく放置し、何人もの命を散らせてきた自分に腹が立つ。
「……よく気づいてくれた。俺の方こそ礼を言う」
「鬼灯さま……いえ、私など」
「琴乃がいなければ、俺はずっと拗ねた子どものようにここにいて祝の命を吸い上げるばかりだった」
「拗ね……ふふ。あ、申し訳ありません」
鬼灯は真剣に懺悔したのだが、言い方が可愛らしかったのか琴乃が吹き出す。だがおかげで鬼灯の心は救われた。
「――俺と静月は、双子なんだ」
ふと、そんな話が口をついてこぼれた。
――昔、鬼の双子が生まれた。二人はそれぞれ宝珠を抱いていた。
「満」と「欠」。二つの宝珠が示すものは「生」と「死」。
この世の理を抱いて生まれた、力ある者。それが静月と鬼灯だ。
高みから命を見守る静月。魂を黄泉へ送る鬼灯。
長じた二人はそこらのあやかしたちなどまったく敵わない妖力を持ち、この国を従えていく。
まつろわぬ者を討つ鬼灯は、相手を容赦なく殲滅することもあれば、友として心酔させて戻ることもある奇妙な鬼だった。静月はそんな兄弟を頼もしく、しかし危うくも感じていた。
世が平らかになり討つ敵がいなくなった時、鬼灯はどうすればいいのだろう――。
「俺は嵐のように豊穂足へ死をもたらしていた。できあがった国を治めていくには向かない男だ。あとは静月にまかせてどこかへ行ってしまおうかとも思ったんだが……静月は俺を危ぶんだのだろう、欠の宝珠を預けた隙に結界へ封じられた」
昔語りを琴乃はじっと聞いていた。国造りの伝説を本人から語られるなど、なかなかない。
それに「国を統べる鬼」と「暴虐の悪鬼」が双子だとは伝えられていなかったから驚いた。気安く名を呼び、ののしりながら文句を言っていたわけがわかった。
「仲のよい兄弟……だったのですね」
「さあな。そう思っていたのは俺だけだったのかもしれん。静月が育てる命を刈り取るだけの俺など、憎まれて当然だ」
なんでもなさをよそおって鬼灯は言う。だがその裏にある寂しさが琴乃には聞こえたような気がした。
「鬼灯さまは――」
思わず反論した。
「やさしいお方です。死を生みだす悪鬼などではありません」
「琴乃」
「生きる者に、死は必ず訪れる。鬼灯さまのせいではありません。魂が迷わず黄泉へたどり着けるよう導く灯りが鬼灯さまだと、私は思います」
琴乃は言いつのった。
しばらく宮で過ごしてきて、鬼灯の心は受け取ったつもりだ。怒った声は怖いけど、いつだって無理は言わなかった。乱暴な口調ではあったけど琴乃のことを案じてくれていた。
「宝珠の力について私はよくわかりませんけど――「生」と「死」が双子であるならば、それが表すのは命の輪。「欠」は魂の導なのではないでしょうか」
琴乃が示す宝珠の在り方に衝撃を受け、鬼灯は黙り込んだ。
鬼灯は「欠」の鬼神。
ただ死をもたらす厄災だと自分を規定していた。
なのに琴乃はそれを鮮やかにひっくり返す。
「満」も「欠」もともに命の道しるべである、と。
鬼灯の返事がないことで琴乃は慌てて頭を下げる。出すぎた口をきいてしまった。
「すみません。生意気なことを」
「いや――さすが言葉にさとい木霊の娘だ」
つつしみ深く目を伏せる琴乃のことを鏡の向こうに見つめ、鬼灯の胸に不思議な気持ちが湧き上がる。
そっと腕を伸ばした。だが、琴乃には届かない。心臓が軋んだ。強く願う。
――やさしい言葉をつむぎ出してくれた、琴乃の唇に触れたい。
✻ ✻ ✻
世の中はすっかり夏になった。
宮にもかっきりとした光が降り注ぎ、輝く庭石と軒下の陰影が目を惑わす。外の森ではジージーと蝉が鳴き、涼しい刻限にはヒグラシが歌うのが聞こえた。
琴乃は毎日鬼灯のもとに通っていたが、もちろん祝詞はあげなかった。祭壇をととのえたら、あとは二人で言葉を交わすだけ。最初琴乃を怒鳴りつけていたのが嘘のように最近の鬼灯はおだやかだ。
「……鬼灯さま、お元気なのですよね?」
「なんだ。俺が暴れていないとおかしいか」
「そういうことでは……ただ、妖力が足りずに衰えてしまうのではと不安で」
贄嫁として、喰われないのはありがたいが微妙な気持ちだった。
「静月の力が送られてきているから問題ない」
鬼灯は受け流してみせた。しかし本当は、少し苦しい。
外にあれば自然と回復していくはずの妖力が細っていくのが感じられた。そしてそれは静月も同じなのが伝わる。鬼灯のぶんまで支えていては――いずれ共倒れになるだろう。
さあどうする、静月。鬼灯は双子の出方を探っていた。
「あっ――!」
琴乃が小さな悲鳴をあげる。
封印が傾いで、宮が揺れたのだ。そんなことが日々増えていた。
静月の封印はもともと無理のあるもの。
手配した贄嫁は次第に妖力も消え、魂を削ることで細々と鬼灯を支えていた。足りない分を補いつつ結界を維持し続ける静月には多大な負荷がかかり続けている。
そのうえに今は、琴乃が祝詞の術を看破し贄の役を放棄したからたまらない。静月はもう限界なのだ。
「鬼灯さま――このままでは、いつ術が壊れるかわからないのでは?」
おずおずと琴乃は尋ねた。迷いながらも芯のある瞳の色を、鬼灯は愛おしくながめる。
「そうかもしれないが」
「結界がつぶれたりしたら、鬼灯さまが巻き込まれてしまいませんか」
「ああ……俺のことはいい。だが宮が壊れたら琴乃を巻き込むのか。それはいけないな」
「私はどうでも。鬼灯さまをお助けしなくては」
気づかい合うが、二人は名ばかりの夫婦――ですらない。嫁入りした日に鬼灯は琴乃を拒んだのだから。
ゆえに琴乃は宙ぶらりんの身の上だった。だが、それでもいいと思っていた。
嫁ではなく、話し相手として。本当は悪鬼などではない鬼灯のことを支えられたらと願う。差し出がましいのは知っているが、鬼灯のこと――琴乃は大切に想うようになってしまった。
「この封印を……解くことはできないのでしょうか」
考え込む琴乃は真剣だ。そうは言っても琴乃には何もできないだろうに。可愛らしくて鬼灯は微笑んでしまう。
琴乃を想ってこんな甘い顔をしている……などと知られなくてよかった。
鏡をへだて、鬼灯は胸をなでおろした。



