✻ ✻ ✻
琴乃はひとり、釣殿にたたずんでいた。目の前には静かな水面。庭の西側に広がる池に張り出したここには使用人もおらず、琴乃がひと息つけるのだ。
「鬼灯さま――」
つぶやいたら胸が、きゅ、となった。
鏡からあふれ出して琴乃を守った鬼の気配。荒々しいが、強さと矜持に満ちていた。
ここに来た頃の春の気配は過ぎ去り、初夏の予感が空に薫る。そよと吹きすぎた風が水面にさざ波をたてた。
「あの方は、悪鬼などではないんだわ」
確信して、琴乃はつぶやいた。誰にも受けとめてもらえない言葉が池に沈んでいく。
気ままに人を殺めるような鬼だったなら琴乃を守ったりはしないだろう。封印を破り出ていくと激昂した勢いのまま、宮が壊れようが気にせず暴れたに違いない。でも鬼灯は、そんなことしなかった。
だが宮の使用人たちは、ますます鬼灯を怖れたと思う。揺れたのは封印のある本殿だけではなく宮全体だったのだ。あちこちで物が倒れ、戸の建てつけが歪んだところもあった。
揺れがおさまってから自室に戻った琴乃は、侍女に向かって「案じずとも大丈夫」と記してみせた。だが侍女は珍しく筆をひったくり書きつける。「こんなに揺れたのは初めてです」と。
封印の揺らぎ。そして宮の危機は繰り返していた。宮の者が声をあげることすら嫌がるのは、積み重なった恐怖ゆえなのだった。
✻ ✻ ✻
「これまでも封印が壊れそうなことが?」
お勤めにおもむいた琴乃が訊いてみると、鬼灯はあっさり肯定した。
「もちろん。俺も最初は苛ついて暴れてたからな」
「……それは昔でしょう。宮の者たちは今、揺れに怯えているのです」
「ふうん?」
琴乃は相変わらず鬼灯の姿を見ることは叶わない。だが考えているような気配はちゃんと伝わるのだ。琴乃に向けて心を閉ざしていないというだけのことが、とても嬉しい。
「ああ……琴乃が来る前に、静月の力が途切れがちになることがあった。それかもしれん」
「途切れる……」
「なんだかガクッと封印が跳ねるんだ。すぐに繕われるんだが。あいつは何をやってるんだと首をかしげていた」
あいつ、と気安く呼ぶのは国の王・静月のこと。鬼灯とどんな関係だったのか気になったが畏れ多くて踏み込めない。
「しかし琴乃、おまえ俺が恐ろしくはないのか」
逆に鬼灯から訊かれた。正直に答える。
「恐ろしいとは思いません」
「宮を潰しかねない力で暴れる鬼だぞ、俺は」
「でも私のことは守って下さいましたし……」
強くあたたかい気配に包まれたことを思い出し、琴乃はやや恥じらう。あれは鬼灯と一体になったかのような安心感だった。
「ふん、あんなのは気まぐれにすぎん」
突き放す鬼灯の声にもわずかな照れが含まれていた。鏡ごと琴乃にまで守護の妖力をめぐらせた鬼灯は、彼女の心根に触れてしまったのだ。
冷たくあしらわれながら育ったこと。にもかかわらず曇らない目。偽りを受け付けないひたむきさ。
真っ直ぐな気性は、鬼灯にとって好ましい。
だって鬼灯は直情径行、思ったことはすぐ行動に移しがちな男だった。
気に入らなければ拳を合わせ、その後で友人になった相手も数知れない。とにかく嘘だの陰口だのが大嫌いなのだ。そういうところが琴乃には一切ない。
――だからこそ、静月に裏切られたのには心底怒った。今でも意味がわからない。鬼灯をここに捕らえておいて、人を贄にしてまで生かそうとしているのは何故なのか――。
「琴乃、これからは祝詞をあげるな」
鬼灯が厳しい声で告げた。琴乃はハッとする。悲しみを隠して尋ねた。
「……やはり、おそばにいてはいけませんか」
「宮を出ていけというんじゃない。俺の所に来るのはいいが、祝詞をやめろと言っている」
それは不思議な要求だった。琴乃は首をかしげ考えてしまう。それを見た鬼灯が説明してくれた。
「あの祝詞には、静月の術が仕込まれているような気がする。あれを唱えたせいで、琴乃の体が蝕まれたのではないか? ひどい顔色をしていたからな」
「ああ、たしかに祝詞をあげた時に目まいが……え? え、私の顔色などごらんになれるのですか?」
別のところが気になって琴乃の声が裏返った。異界に封じられている鬼灯に、琴乃の姿などわからないと思っていたのだが。
「俺からはそちらが見えているぞ。鏡越しにな」
「えええっ?」
琴乃は悲鳴をあげてしまった。
鏡――この、目の前にあるこれが! ならば今もまさに見られているというわけで――琴乃は赤くなった顔を両手でおおった。
「ずる、ずるいです! そんなの!」
思わず無礼なことを叫んで鏡に背を向ける。
大慌ての琴乃が面白かったのか鬼灯が爆笑するのがわかった。見えはしないが肩をゆすって笑っている姿が目に浮かぶような気がして――でも琴乃は、鬼灯の顔も体つきも髪の長さすら知らない。
「やっぱりずるいです……」
琴乃はいじけたようにつぶやいてしまい、再び鬼灯が笑いこけた。
✻ ✻ ✻
その後から、琴乃は祝詞をあげるのをやめた。
鬼灯が体を案じてくれたのが嬉しくて従ったのだ。本殿に伺候して鏡を磨き、話し相手になることは受け入れてもらえたし、それでいい。
琴乃の中で鬼灯はもう、やさしい鬼ということになっていた。
だが、祝詞に籠められているという静月の術は気になる。都からの文にも「祝詞はあげ続けよ」と書いてあったし、何かの意味がありそうだ。
文言としてはどこにでもあるものだと思うのだが――。
✻ ✻ ✻
かけまくも畏きかけるの鬼神の御前に
この身を奉る者のかしこみかしこみて申さく――
鬼神の堅磐に幸えまつり敷き坐す里々には
荒御魂によりて平らけくしろしめしたまいて
民の安く穏いに立ち栄えしむるため
この宮に依したまい神留まり坐したまえと
かしこみかしこみて申す――
この文章は鬼灯に対して静月が仕掛けた檻。
言霊を使った結界術だ。
鬼灯が戦って平和をもたらした土地を、転じてくびきと成す。
さらに鬼灯を神とし、安寧のためこの宮に留まれと呼びかける。
祝詞と見せかけているが、封印の前で繰り返すことにより静月のほどこした結界を支え続ける。実体は祝詞ではなく、呪文だ。
そしてこの呪文は唱えた者の「身を奉り」鬼灯に喰らわせてしまうことにもなる。静月にとってはとても助かる仕組みなのだった。
だがその呪文が、何日も働いていない。
「――琴乃とかいう娘、勤めをおこたっているのか? それとも病でも得たか?」
静月は美しい顔を歪めた。
贄嫁が生気を与えずにいれば鬼灯が弱る。放置できないので最低限は静月の妖力を分けるのだが、負担が大きかった。
その直前、久しぶりに鬼灯が封印を破ろうともがいたのもつらいところだ。
互いの妖力が近づき重なったことにはゾクゾクしたが、ぶつかり合いの消耗から回復しきれていない。琴乃が贄になっていてくれないと困るのだが。
「仕方ない――」
もたれていた脇息から身を起こし、静月は立ち上がる。しかし一度ガクリとよろけた。
片膝をついたまま見やるのは、鎮座する二つの宝珠だ。
「――」
ゆっくり近づき、手を触れたのは満の宝珠。静月が持って生まれたものだった。
中には静月の力がおさめられていた。それを少し体に戻せば楽になれる。国を統べるに必要な力なので宝珠を空にしたくはないが。
もう一つの宝珠、欠。
その本来の持ち主・鬼灯は今――。
✻
「くそっ、静月はどうしている」
封印の中で苛立ちをつのらせていた。
さっきは静月の術にガクリという乱れを感じた。結界にいる鬼灯にはわかりにくいが、これでいちいち宮が揺れているのかもしれない。仕える者たちが鬼灯を恐れるのも当然の帰結。
「元凶は俺じゃないんだが……いや、静月は俺の振る舞いに怒ってこうしたのだろうし、俺が原因と言えるのか?」
だとしても、結界を維持するのまで責任は負えないし自分でなんとかしてほしい。
「無理ならさっさと解放しろよ……」
ブツブツ言った自分の言葉に、鬼灯はおや、となった。
ついこの間までは、このまま死んでもかまわないと考えていたような気がするが。
静月は、鬼灯の片割れだ。
信じていたのに裏切られ、怒り絶望した。
そして思った。憎まれたなら、もう静月の邪魔をせず消えてしまおうかと。
「なのにどうして俺は……」
どうしてもこうしてもない。今、鬼灯の脳裏をよぎったのは琴乃のおもかげだった。
久しぶりに話が通じた花嫁。
鬼灯にへつらうでもなく、恐れるでもなく、考えたことを正面から話してくる女。
切れ長の目は笑うと愛らしく。鬼灯に見られていたと知って恥ずかしがりながら怒る姿が面白く。
「……見ていて飽きない」
琴乃を思い出しながら、鬼灯はククッ、と笑った。
琴乃はひとり、釣殿にたたずんでいた。目の前には静かな水面。庭の西側に広がる池に張り出したここには使用人もおらず、琴乃がひと息つけるのだ。
「鬼灯さま――」
つぶやいたら胸が、きゅ、となった。
鏡からあふれ出して琴乃を守った鬼の気配。荒々しいが、強さと矜持に満ちていた。
ここに来た頃の春の気配は過ぎ去り、初夏の予感が空に薫る。そよと吹きすぎた風が水面にさざ波をたてた。
「あの方は、悪鬼などではないんだわ」
確信して、琴乃はつぶやいた。誰にも受けとめてもらえない言葉が池に沈んでいく。
気ままに人を殺めるような鬼だったなら琴乃を守ったりはしないだろう。封印を破り出ていくと激昂した勢いのまま、宮が壊れようが気にせず暴れたに違いない。でも鬼灯は、そんなことしなかった。
だが宮の使用人たちは、ますます鬼灯を怖れたと思う。揺れたのは封印のある本殿だけではなく宮全体だったのだ。あちこちで物が倒れ、戸の建てつけが歪んだところもあった。
揺れがおさまってから自室に戻った琴乃は、侍女に向かって「案じずとも大丈夫」と記してみせた。だが侍女は珍しく筆をひったくり書きつける。「こんなに揺れたのは初めてです」と。
封印の揺らぎ。そして宮の危機は繰り返していた。宮の者が声をあげることすら嫌がるのは、積み重なった恐怖ゆえなのだった。
✻ ✻ ✻
「これまでも封印が壊れそうなことが?」
お勤めにおもむいた琴乃が訊いてみると、鬼灯はあっさり肯定した。
「もちろん。俺も最初は苛ついて暴れてたからな」
「……それは昔でしょう。宮の者たちは今、揺れに怯えているのです」
「ふうん?」
琴乃は相変わらず鬼灯の姿を見ることは叶わない。だが考えているような気配はちゃんと伝わるのだ。琴乃に向けて心を閉ざしていないというだけのことが、とても嬉しい。
「ああ……琴乃が来る前に、静月の力が途切れがちになることがあった。それかもしれん」
「途切れる……」
「なんだかガクッと封印が跳ねるんだ。すぐに繕われるんだが。あいつは何をやってるんだと首をかしげていた」
あいつ、と気安く呼ぶのは国の王・静月のこと。鬼灯とどんな関係だったのか気になったが畏れ多くて踏み込めない。
「しかし琴乃、おまえ俺が恐ろしくはないのか」
逆に鬼灯から訊かれた。正直に答える。
「恐ろしいとは思いません」
「宮を潰しかねない力で暴れる鬼だぞ、俺は」
「でも私のことは守って下さいましたし……」
強くあたたかい気配に包まれたことを思い出し、琴乃はやや恥じらう。あれは鬼灯と一体になったかのような安心感だった。
「ふん、あんなのは気まぐれにすぎん」
突き放す鬼灯の声にもわずかな照れが含まれていた。鏡ごと琴乃にまで守護の妖力をめぐらせた鬼灯は、彼女の心根に触れてしまったのだ。
冷たくあしらわれながら育ったこと。にもかかわらず曇らない目。偽りを受け付けないひたむきさ。
真っ直ぐな気性は、鬼灯にとって好ましい。
だって鬼灯は直情径行、思ったことはすぐ行動に移しがちな男だった。
気に入らなければ拳を合わせ、その後で友人になった相手も数知れない。とにかく嘘だの陰口だのが大嫌いなのだ。そういうところが琴乃には一切ない。
――だからこそ、静月に裏切られたのには心底怒った。今でも意味がわからない。鬼灯をここに捕らえておいて、人を贄にしてまで生かそうとしているのは何故なのか――。
「琴乃、これからは祝詞をあげるな」
鬼灯が厳しい声で告げた。琴乃はハッとする。悲しみを隠して尋ねた。
「……やはり、おそばにいてはいけませんか」
「宮を出ていけというんじゃない。俺の所に来るのはいいが、祝詞をやめろと言っている」
それは不思議な要求だった。琴乃は首をかしげ考えてしまう。それを見た鬼灯が説明してくれた。
「あの祝詞には、静月の術が仕込まれているような気がする。あれを唱えたせいで、琴乃の体が蝕まれたのではないか? ひどい顔色をしていたからな」
「ああ、たしかに祝詞をあげた時に目まいが……え? え、私の顔色などごらんになれるのですか?」
別のところが気になって琴乃の声が裏返った。異界に封じられている鬼灯に、琴乃の姿などわからないと思っていたのだが。
「俺からはそちらが見えているぞ。鏡越しにな」
「えええっ?」
琴乃は悲鳴をあげてしまった。
鏡――この、目の前にあるこれが! ならば今もまさに見られているというわけで――琴乃は赤くなった顔を両手でおおった。
「ずる、ずるいです! そんなの!」
思わず無礼なことを叫んで鏡に背を向ける。
大慌ての琴乃が面白かったのか鬼灯が爆笑するのがわかった。見えはしないが肩をゆすって笑っている姿が目に浮かぶような気がして――でも琴乃は、鬼灯の顔も体つきも髪の長さすら知らない。
「やっぱりずるいです……」
琴乃はいじけたようにつぶやいてしまい、再び鬼灯が笑いこけた。
✻ ✻ ✻
その後から、琴乃は祝詞をあげるのをやめた。
鬼灯が体を案じてくれたのが嬉しくて従ったのだ。本殿に伺候して鏡を磨き、話し相手になることは受け入れてもらえたし、それでいい。
琴乃の中で鬼灯はもう、やさしい鬼ということになっていた。
だが、祝詞に籠められているという静月の術は気になる。都からの文にも「祝詞はあげ続けよ」と書いてあったし、何かの意味がありそうだ。
文言としてはどこにでもあるものだと思うのだが――。
✻ ✻ ✻
かけまくも畏きかけるの鬼神の御前に
この身を奉る者のかしこみかしこみて申さく――
鬼神の堅磐に幸えまつり敷き坐す里々には
荒御魂によりて平らけくしろしめしたまいて
民の安く穏いに立ち栄えしむるため
この宮に依したまい神留まり坐したまえと
かしこみかしこみて申す――
この文章は鬼灯に対して静月が仕掛けた檻。
言霊を使った結界術だ。
鬼灯が戦って平和をもたらした土地を、転じてくびきと成す。
さらに鬼灯を神とし、安寧のためこの宮に留まれと呼びかける。
祝詞と見せかけているが、封印の前で繰り返すことにより静月のほどこした結界を支え続ける。実体は祝詞ではなく、呪文だ。
そしてこの呪文は唱えた者の「身を奉り」鬼灯に喰らわせてしまうことにもなる。静月にとってはとても助かる仕組みなのだった。
だがその呪文が、何日も働いていない。
「――琴乃とかいう娘、勤めをおこたっているのか? それとも病でも得たか?」
静月は美しい顔を歪めた。
贄嫁が生気を与えずにいれば鬼灯が弱る。放置できないので最低限は静月の妖力を分けるのだが、負担が大きかった。
その直前、久しぶりに鬼灯が封印を破ろうともがいたのもつらいところだ。
互いの妖力が近づき重なったことにはゾクゾクしたが、ぶつかり合いの消耗から回復しきれていない。琴乃が贄になっていてくれないと困るのだが。
「仕方ない――」
もたれていた脇息から身を起こし、静月は立ち上がる。しかし一度ガクリとよろけた。
片膝をついたまま見やるのは、鎮座する二つの宝珠だ。
「――」
ゆっくり近づき、手を触れたのは満の宝珠。静月が持って生まれたものだった。
中には静月の力がおさめられていた。それを少し体に戻せば楽になれる。国を統べるに必要な力なので宝珠を空にしたくはないが。
もう一つの宝珠、欠。
その本来の持ち主・鬼灯は今――。
✻
「くそっ、静月はどうしている」
封印の中で苛立ちをつのらせていた。
さっきは静月の術にガクリという乱れを感じた。結界にいる鬼灯にはわかりにくいが、これでいちいち宮が揺れているのかもしれない。仕える者たちが鬼灯を恐れるのも当然の帰結。
「元凶は俺じゃないんだが……いや、静月は俺の振る舞いに怒ってこうしたのだろうし、俺が原因と言えるのか?」
だとしても、結界を維持するのまで責任は負えないし自分でなんとかしてほしい。
「無理ならさっさと解放しろよ……」
ブツブツ言った自分の言葉に、鬼灯はおや、となった。
ついこの間までは、このまま死んでもかまわないと考えていたような気がするが。
静月は、鬼灯の片割れだ。
信じていたのに裏切られ、怒り絶望した。
そして思った。憎まれたなら、もう静月の邪魔をせず消えてしまおうかと。
「なのにどうして俺は……」
どうしてもこうしてもない。今、鬼灯の脳裏をよぎったのは琴乃のおもかげだった。
久しぶりに話が通じた花嫁。
鬼灯にへつらうでもなく、恐れるでもなく、考えたことを正面から話してくる女。
切れ長の目は笑うと愛らしく。鬼灯に見られていたと知って恥ずかしがりながら怒る姿が面白く。
「……見ていて飽きない」
琴乃を思い出しながら、鬼灯はククッ、と笑った。



