全体の挨拶が終わったあと、瑛理は上長との打ち合わせに入っていた。
異動者対応、席配置、引き継ぎスケジュール。四月初日の営業部はとにかく慌ただしい。
会議室を出たとき、瑛理は一瞬だけ深く息を吐いた。
(……よし)
視線を営業部のデスクに向ける。
——いる。
居酒屋で笑っていた男。
今井裕太。
さっきの全体挨拶の時、確実にこちらに気づいていた。だが、あえて何も言わなかった。
(なら、こっちから行くしかない)
一瞬の隙でも噂になるのがこの会社だ。
先手必勝。
何事もなかったことにする。
瑛理は歩み寄り、営業スマイルを完璧に作った。
「はじめまして、向といいます。この部署の営業事務担当です。よろしくお願いします」
柔らかい声、丁寧な言葉。
——ただし。
目だけは、笑っていない。
“余計なこと言うな”
そんな無言の圧を込めた視線。
裕太は一瞬、目を見張った。
だが次の瞬間には、すぐに口元を緩めて、どこか余裕のある笑みを瑛理に向ける。
「今井です。よろしくお願いします」
さらりと返し、そのまま瑛理の正面の席に腰を下ろした。
(……よりによってそこ?)
顔はいつも通り、真顔になりすぎないように、内心で軽くため息をつく。
落ち着かない。
だが幸いなことに、その日は裕太も前任者との引き継ぎで席を空けることが多く、顔を合わせる時間はほとんどなかった。
そして——。
定時まであと1時間くらい。
瑛理は小さく肩を回す。
少し休憩を入れて、ラストスパートにしよう。
立ち上がり、休憩室へ向かう。
コーヒーサーバーでミルクティーを紙コップに注ぐ。
(……落ち着く。)
一口飲んでほっと息をついたその時、休憩室のドアが開いた。
「……。」
入ってきた人と目が合う。
今井裕太だ。
(最悪のタイミング)
瑛理はコップを持ち上げる。
「お疲れ様です」
それだけ言って、足早に出ていこうとした瞬間——
「ちょっと待ってください。」
背中から声が飛んできた。
ぴたりと足が止まる。
(ああ、もう)
ゆっくり振り返る。
そこには、にこやかにこちらを見ている裕太がいた。
完全に、楽しんでいる顔だ。
瑛理も負けじと、微笑みながら聞く。
「……何かありました?」
「連絡先、次会えたら交換しましょって言いましたよね?」
瑛理はゆっくり天井を見上げた。
数秒の沈黙。
「……はあ〜……」
盛大に息を吐く。
「もう!知らないふりくらいしてくれ。」
裕太が少しだけ肩を揺らして笑う。
「いや、最初ほんとに一瞬、違う人かと思いましたよ。声のトーンとか、全然違うし。」
瑛理は腕を組む。
「一応ね、会社ではああなの」
そして、軽く指を立てる。
「だから、これからは会社バージョンでいくのでよろしくお願いします」
裕太は少しだけ目を細めた。
「……なるほど、」
そして、さらっと言う。
「じゃあ、LINEだけ交換しましょ。約束、でしょ?」
スマホをゆらゆらさせながら
(ああ、逃げられない)
瑛理は観念したように、また大きくため息を吐く。
「……わかった。仕事中は持ち歩かないから、ID教えて。席に戻ったら登録する。」
「絶対ですよ。」
念押しするように言われたから、はーい、と言いながら、腕組みを外して背筋を整える。
「じゃ、今井さん」
瞬時に営業スマイルに戻し、
「お先です」
ぺこりと軽く頭を下げ、そのまま休憩室を出ていく。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、裕太はコーヒーを入れながら、しばらくスマホを見つめた。
すると、ポンッと通知が届き、追加されたばかりの名前。
『向 瑛理』
席についてすぐ追加したんだろう瑛理の姿を想像して、裕太は小さく笑う。
「……ふは、律儀。」
そして、ぽつりと呟いた。
「すごいな、切り替えが。」
もう一度画面を見る。
瑛理のLINEの背景は、大きい猫の写真だった。
裕太はくすっと笑い、猫のスタンプをひとつ送る。
スマホをポケットに戻しながら、小さく肩をすくめた。
「俺も、戻りますか」
面倒だったはずの転勤が——
少しだけ、楽しみになってきた。
異動者対応、席配置、引き継ぎスケジュール。四月初日の営業部はとにかく慌ただしい。
会議室を出たとき、瑛理は一瞬だけ深く息を吐いた。
(……よし)
視線を営業部のデスクに向ける。
——いる。
居酒屋で笑っていた男。
今井裕太。
さっきの全体挨拶の時、確実にこちらに気づいていた。だが、あえて何も言わなかった。
(なら、こっちから行くしかない)
一瞬の隙でも噂になるのがこの会社だ。
先手必勝。
何事もなかったことにする。
瑛理は歩み寄り、営業スマイルを完璧に作った。
「はじめまして、向といいます。この部署の営業事務担当です。よろしくお願いします」
柔らかい声、丁寧な言葉。
——ただし。
目だけは、笑っていない。
“余計なこと言うな”
そんな無言の圧を込めた視線。
裕太は一瞬、目を見張った。
だが次の瞬間には、すぐに口元を緩めて、どこか余裕のある笑みを瑛理に向ける。
「今井です。よろしくお願いします」
さらりと返し、そのまま瑛理の正面の席に腰を下ろした。
(……よりによってそこ?)
顔はいつも通り、真顔になりすぎないように、内心で軽くため息をつく。
落ち着かない。
だが幸いなことに、その日は裕太も前任者との引き継ぎで席を空けることが多く、顔を合わせる時間はほとんどなかった。
そして——。
定時まであと1時間くらい。
瑛理は小さく肩を回す。
少し休憩を入れて、ラストスパートにしよう。
立ち上がり、休憩室へ向かう。
コーヒーサーバーでミルクティーを紙コップに注ぐ。
(……落ち着く。)
一口飲んでほっと息をついたその時、休憩室のドアが開いた。
「……。」
入ってきた人と目が合う。
今井裕太だ。
(最悪のタイミング)
瑛理はコップを持ち上げる。
「お疲れ様です」
それだけ言って、足早に出ていこうとした瞬間——
「ちょっと待ってください。」
背中から声が飛んできた。
ぴたりと足が止まる。
(ああ、もう)
ゆっくり振り返る。
そこには、にこやかにこちらを見ている裕太がいた。
完全に、楽しんでいる顔だ。
瑛理も負けじと、微笑みながら聞く。
「……何かありました?」
「連絡先、次会えたら交換しましょって言いましたよね?」
瑛理はゆっくり天井を見上げた。
数秒の沈黙。
「……はあ〜……」
盛大に息を吐く。
「もう!知らないふりくらいしてくれ。」
裕太が少しだけ肩を揺らして笑う。
「いや、最初ほんとに一瞬、違う人かと思いましたよ。声のトーンとか、全然違うし。」
瑛理は腕を組む。
「一応ね、会社ではああなの」
そして、軽く指を立てる。
「だから、これからは会社バージョンでいくのでよろしくお願いします」
裕太は少しだけ目を細めた。
「……なるほど、」
そして、さらっと言う。
「じゃあ、LINEだけ交換しましょ。約束、でしょ?」
スマホをゆらゆらさせながら
(ああ、逃げられない)
瑛理は観念したように、また大きくため息を吐く。
「……わかった。仕事中は持ち歩かないから、ID教えて。席に戻ったら登録する。」
「絶対ですよ。」
念押しするように言われたから、はーい、と言いながら、腕組みを外して背筋を整える。
「じゃ、今井さん」
瞬時に営業スマイルに戻し、
「お先です」
ぺこりと軽く頭を下げ、そのまま休憩室を出ていく。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、裕太はコーヒーを入れながら、しばらくスマホを見つめた。
すると、ポンッと通知が届き、追加されたばかりの名前。
『向 瑛理』
席についてすぐ追加したんだろう瑛理の姿を想像して、裕太は小さく笑う。
「……ふは、律儀。」
そして、ぽつりと呟いた。
「すごいな、切り替えが。」
もう一度画面を見る。
瑛理のLINEの背景は、大きい猫の写真だった。
裕太はくすっと笑い、猫のスタンプをひとつ送る。
スマホをポケットに戻しながら、小さく肩をすくめた。
「俺も、戻りますか」
面倒だったはずの転勤が——
少しだけ、楽しみになってきた。
