33歳、妄想短編集〆

全体の挨拶が終わったあと、瑛理は上長との打ち合わせに入っていた。

異動者対応、席配置、引き継ぎスケジュール。四月初日の営業部はとにかく慌ただしい。

会議室を出たとき、瑛理は一瞬だけ深く息を吐いた。

(……よし)

視線を営業部のデスクに向ける。

——いる。

居酒屋で笑っていた男。

今井裕太。

さっきの全体挨拶の時、確実にこちらに気づいていた。だが、あえて何も言わなかった。

(なら、こっちから行くしかない)

一瞬の隙でも噂になるのがこの会社だ。

先手必勝。

何事もなかったことにする。

瑛理は歩み寄り、営業スマイルを完璧に作った。

「はじめまして、向といいます。この部署の営業事務担当です。よろしくお願いします」

柔らかい声、丁寧な言葉。

——ただし。

目だけは、笑っていない。

“余計なこと言うな”

そんな無言の圧を込めた視線。

裕太は一瞬、目を見張った。
だが次の瞬間には、すぐに口元を緩めて、どこか余裕のある笑みを瑛理に向ける。

「今井です。よろしくお願いします」

さらりと返し、そのまま瑛理の正面の席に腰を下ろした。

(……よりによってそこ?)

顔はいつも通り、真顔になりすぎないように、内心で軽くため息をつく。

落ち着かない。

だが幸いなことに、その日は裕太も前任者との引き継ぎで席を空けることが多く、顔を合わせる時間はほとんどなかった。

そして——。

定時まであと1時間くらい。
瑛理は小さく肩を回す。
少し休憩を入れて、ラストスパートにしよう。

立ち上がり、休憩室へ向かう。

コーヒーサーバーでミルクティーを紙コップに注ぐ。

(……落ち着く。)

一口飲んでほっと息をついたその時、休憩室のドアが開いた。

「……。」

入ってきた人と目が合う。

今井裕太だ。

(最悪のタイミング)

瑛理はコップを持ち上げる。

「お疲れ様です」

それだけ言って、足早に出ていこうとした瞬間——

「ちょっと待ってください。」

背中から声が飛んできた。
ぴたりと足が止まる。

(ああ、もう)

ゆっくり振り返る。
そこには、にこやかにこちらを見ている裕太がいた。
完全に、楽しんでいる顔だ。

瑛理も負けじと、微笑みながら聞く。

「……何かありました?」

「連絡先、次会えたら交換しましょって言いましたよね?」

瑛理はゆっくり天井を見上げた。

数秒の沈黙。

「……はあ〜……」

盛大に息を吐く。

「もう!知らないふりくらいしてくれ。」

裕太が少しだけ肩を揺らして笑う。

「いや、最初ほんとに一瞬、違う人かと思いましたよ。声のトーンとか、全然違うし。」

瑛理は腕を組む。

「一応ね、会社ではああなの」

そして、軽く指を立てる。

「だから、これからは会社バージョンでいくのでよろしくお願いします」

裕太は少しだけ目を細めた。

「……なるほど、」

そして、さらっと言う。

「じゃあ、LINEだけ交換しましょ。約束、でしょ?」

スマホをゆらゆらさせながら

(ああ、逃げられない)

瑛理は観念したように、また大きくため息を吐く。

「……わかった。仕事中は持ち歩かないから、ID教えて。席に戻ったら登録する。」

「絶対ですよ。」
 
念押しするように言われたから、はーい、と言いながら、腕組みを外して背筋を整える。

「じゃ、今井さん」

瞬時に営業スマイルに戻し、

「お先です」

ぺこりと軽く頭を下げ、そのまま休憩室を出ていく。

扉が閉まる。

静かになった部屋で、裕太はコーヒーを入れながら、しばらくスマホを見つめた。

すると、ポンッと通知が届き、追加されたばかりの名前。

『向 瑛理』

席についてすぐ追加したんだろう瑛理の姿を想像して、裕太は小さく笑う。

「……ふは、律儀。」

そして、ぽつりと呟いた。

「すごいな、切り替えが。」

もう一度画面を見る。

瑛理のLINEの背景は、大きい猫の写真だった。
裕太はくすっと笑い、猫のスタンプをひとつ送る。
スマホをポケットに戻しながら、小さく肩をすくめた。

「俺も、戻りますか」

面倒だったはずの転勤が——

少しだけ、楽しみになってきた。