冷徹軍医の最愛嫁 ~無能の妻は、夫の愛に気付かない~

 本邸に案内された千鶴は、居間で紫苑と食事を囲んでいた。
 食事を運んできた榊は部屋の隅に控えており、千鶴は彼にも御礼をしてから手を合わせた。
 久しく口にする事のなかった温かな食事に、千鶴は感嘆を漏らす。

「ふわぁ。美味しゅうございますね、紫苑様」
「気に入ったならなによりだ」
「こんな温かい食事は久しぶりです」

 幸せそうな表情で箸を進める千鶴を眺めていた紫苑の眉が僅かに釣り上がる。

「久しぶり、か」
「あ……えっと、紫苑様。先ほどのお話なのですが」

 千鶴はわざとらしく話題を逸らす。
 内心冷や汗をかいていたが、紫苑はそれ以上追求しなかった。

「妖毒とは、あやかし由来の病気全般に使われる名称だ」
「あやかしと戦うと、皆、妖毒を患うのでしょうか」
「いや。上級以上のあやかしと戦闘し、それから攻撃を受けると感染することがほとんどだ」

 紫苑が膝に置いていた左手を千鶴に見せるように持ち上げた。
 その手は昨夜、千鶴が口づけた場所だ。
 指先に小指の爪ほどの切り傷がある。

「たったこれだけで妖毒が体を蝕む」
「紫苑様は軍医でしたよね? どうしてあやかしと交戦が……?」
「国同士の戦争であれば十字の旗を掲げればいいが、あやかしにそのような国際法は通じない」
「……そう、なのですね」
「厄介なことにな」

 茶を飲む紫苑は面倒だと言わんばかりの口ぶりだ。
 異能を持たない千鶴は戦場へと赴いたことがない。しかし、あやかしとの戦が長引くのは負傷兵すらも巻き込むからだろうと、察しがついた。

「ちなみに、妖毒が赤黒い靄を放つことを知っているのは俺と総司令官だけだ」
「え?」
「正確には、妖毒だけではない病の元を視ているんだが」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 千鶴が慌てて制止の声をかける。
 紫苑は不思議そうな表情をしたが、千鶴の要望通り閉口した。
 頭に疑問が詰め込まれ混乱する千鶴は、ごちゃごちゃになった思考のまま口を開く。

「赤黒い靄って、紫苑様のお部屋に充満していたあれですよね? 紫苑様しか見られないって仰ってましたが、私も見てます。ということは、お姉様も見えてますよね? だってお姉様は帝都一の治癒術師で……」
薬師寺(やくしじ)には見えていない」
「え……?」
「あいつの異能は、あやかし由来の病魔には効き目がない。寝込んでいる僕を介抱していたのは薬師寺だったのだろう? ただの風邪だったなら彼女が異能を使った時点で回復している」

 紫苑の言葉がぐるぐると脳内を巡る。
 千鶴は眉を下げ、困り切った顔で紫苑へ目を向けた。

「なら、なぜ……どうして、私には靄が見えるのですか? 私は異能なんて、持ってない……持ってないんです」

 消え入りそうな声が情けなくて、千鶴は両手で顔を覆った。
 妖毒が見えることに、どれだけの意味があるのだろう。
 異能さえあれば、と無能を嘆いても、異能が使えるようにはならない。
 後天的に発現することのない異能に焦がれ、身を焼くほどにほしかったものだ。
 だが、そんな都合のいい出来事が起こるはずがない。
 視界が滲むのは、何も持たない自身に対する嘆きだろうか。
 かたりと音が耳に届いた直後、千鶴の隣に紫苑が腰掛けた。
 紫苑の腕が背中に回り、引き寄せられたかと思うと、優しく頭を撫でられた。

「千鶴。君はちゃんと異能持ちだ」
「っ、そんな、慰め……」
「僕の異能は、まぁ色々とあるんだが、そのうちの1つに異能の感知がある」
「異能の感知……?」
「異能を持つ人間は異能の性質に合わせた色を纏っている。君の姉は治癒術師らしい銀。だが千鶴は白だ」
「?」

 紫苑の口から出てくる言葉が、途端に異国の言葉になってしまったかのように、意味が理解できない。
 首を傾げる千鶴の顎を掬い、紫苑が上を向かせた。

「大丈夫。千鶴は異能持ちだよ」

 安心する声色と自信満々な紫苑に、千鶴はとうとう涙をこぼしてしまった。
 溢れ出るそれは止まることを知らず、夜着を濡らしていく。
 突然泣き出した千鶴の頭を撫でる紫苑は、神妙な面持ちで部屋の隅に控えていた榊へと目を向けた。
 彼は心得たと言わんばかりに頷き、足音もなく部屋から出ていった。
 榊の後ろ姿を見送った紫苑は、止めどなく溢れる千鶴の涙を拭うように目尻へと唇を寄せた。
 一瞬の触れ合いだったが、千鶴の喉から「ぴゃっ」と変な音が漏れる。

「落ち着いたか?」
「お、落ち着くもなにも……その……」

 今度は羞恥からか目尻に涙が浮かぶ。
 その様子を紫苑は楽しげに見ていた。
 千鶴が落ち着いたと判断したのだろう。彼は小さく笑って千鶴の頭を一撫でした。

「昔、昨夜と同じように妖毒に苦しんでいた僕を助けてくれた人がいた」
「へ……?」
「その人はたまたま居合わせた薬師寺家の人間だということしか分からなかったが、千鶴の姉ではないことは確かだった」
「えっと、確信できるようなことがあったのですか?」
「僕には異能の色が視えると言っただろう? だから違うと分かった。じゃああの時の娘は一体どこにいるのか、不思議で仕方なかった」

 千鶴の頭に乗っていた大きな手が頬を撫でる。
 慈しむような視線に、千鶴はどこか落ち着かない気持ちでいっぱいだ。

「その娘のおかげで医者を目指す決心がついたから、会うことがあれば礼を言おうと思っていたんだ」
「えっと?」
「千鶴。ありがとう。僕を2回も救ってくれて」
「私、が……?」
「あぁ。昨夜のことで確信が持てた。千鶴。君は僕が探していた人だ」

 思わず頬が緩んだような紫苑の笑みに、千鶴の心臓が跳ねた。
 早鐘を打つ鼓動が耳の奥で聞こえる。

「幼少の頃からずっと、僕の心は君にある」