冷徹軍医の最愛嫁 ~無能の妻は、夫の愛に気付かない~

 夜の帳が下り、屋敷の中すらも静まり返った深夜。
 千鶴は足を忍ばせて紫苑の部屋に入室した。
 昼間に見た時よりも赤黒い靄の量が多い。
 そろそろと靄の中心まで足を進めると、そこには紫苑がいた。
 寝台に沈む彼は、息苦しそうに浅い呼吸をしている。

(お姉様が癒やしを与えているのに、どうして……?)

 帝国一の治癒術師と謳われる小夜ですら治せない病がこれまであっただろうか。
 疑問が尽きず立ちすくんでいると、紫苑が呻いた。
 はっと我に返った千鶴は、寝台へと駆け寄る。
 側置卓子(サイドテーブル)に置かれた水の満ちた小さなたらいに、準備していた手拭を浸けた。
 濡れた手拭を絞り、紫苑の顔に浮かぶ大粒の汗を拭う。
 その冷たさからか固く閉じられていた睫が震えた。
 あっと思った時には遅く、開かれた浅葱色の瞳と目があった。
 紫苑の驚きは一瞬で、千鶴が口を開く前に疑問が投げかけられる。

「どうして、君が、ここに」
「あ……」
妖毒(ようどく)が移ってはいけない。早く部屋に戻りなさい」

 寝起きの掠れた声には心配の色が滲んでいた。
 自身の体よりも千鶴へ病が移ることを懸念している。
 それだけで、千鶴のしおれた心に潤いをもたらせた。
 動こうとしない千鶴に痺れを切らしたのか、ふらつきながらも紫苑が起き上がった。
 彼の手が千鶴へと持ち上がり、手に触れる寸前で止まる。
 ぐっと手が握り込まれる様を眺めていると、ため息が聞こえた。

「千鶴」
「は、はい」
「もう一度言う。妖毒が移ってはいけないから、君は早く部屋に戻るんだ」
「妖毒……?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。
 眉を顰めた紫苑に気がつき、千鶴は慌てて弁解を舌に乗せた。

「あ、あの、勝手に寝室に入ってしまって申し訳ありません! 妖毒とはきっとこの赤黒い靄のことですよね? 私、病弱と言われていますが、本当は健康で! なので、えっと、きっと、大丈夫です! せめてお姉様が来られるまで、看病させてほしくて……その……紫苑様の、妻ですから……!」

 言いたいことをすべて捲し立てる。
 目を丸くしている紫苑が考え込むように口元に手を添えた。
 不自然なほど赤く染まった顔を眺めていると、紫苑が首を傾げる。

「今、なんと?」
「え? 紫苑様の妻、と」
「そこじゃない。最初の方に言った……」
「申し訳ありません?」
「その次だ」
「妖毒とは赤黒い靄のことですよね……?」
「それだ」

 何かを探るような浅葱色の瞳が千鶴へ向けられる。
 その眼光の鋭さは高熱に浮かされているとは思えない。

「君は、妖毒が見えるのか?」
「? この赤黒い靄がそうなのであれば、見えますね……?」

 困惑のまま頷くと紫苑は「そうか」と唸り、頭を抱えてしまった。
 先ほどまで部屋に戻れと言っていた紫苑の反応に、千鶴は戸惑いを隠せない。

(私、何か変なこと言ったのかしら……?)

 千鶴が目を瞬かせていると、ふと赤黒い靄が集中している場所を見つけた。
 それは紫苑の指先だ。
 よく目を凝らせば、集中しているわけではなく、そこから靄が溢れていた。

(ここを止めれば……)

 無意識に手を伸ばし、紫苑の手を握る。
 驚いた顔の紫苑には目もくれず、千鶴はその節くれ立った指先を自身の唇に寄せた。
 途端、赤黒い靄が弾けるように四散した。