冷徹軍医の最愛嫁 ~無能の妻は、夫の愛に気付かない~

 紫苑が床に臥せたと千鶴の耳に届いたのは、彼の帰還から一週間経ってからだった。
 どうやら帰宅してすぐ発症したようで、その日から小夜が付きっきりで看病をしている。
 しかし、癒やしの異能をもってしても快方に向かう気配がないらしい。

(来ちゃったけど、どうしよう……)

 千鶴はかれこれ数分間、紫苑の部屋の前で立ち尽くしていた。
 庭師にお願いしてお見舞いの花束を作ってもらったにも関わらず、最後の一歩が踏み出せない。
 小夜のように癒やしの異能を持たない千鶴が紫苑の見舞いをしてもいいのだろうか。
 悶々と考えていると、不意に目の前の扉が開かれた。
 開かれた扉の先で、赤黒い(もや)のようななにかがとぐろを巻いている。
 千鶴が驚きに目を丸くしていると、視界の端で看護服が揺れた。

「あら、千鶴。どうしたの?」

 小夜からかけられた声色は柔らかい。
 女中達が千鶴と小夜の様子を伺っているが、声を掛けてくる気配はなかった。
 千鶴は小夜の問いかけに視線を彷徨わせる。
 小夜の視線が手元へ落ち、口元に笑みをたたえた。

「東雲様のお見舞いかしら? 残念だけれど、今寝入ったところだから時間を改めたほうがいいわ」
「……わかり、ました」
「その花束はちゃんと生けておくから安心して頂戴」

 小夜の手が花束へ伸びる。
 一向に花束を離さない千鶴に、小夜はほんの僅かに眉を(ひそ)めた。

「千鶴?」
「紫苑様の……容体はどうなのでしょうか……」

 声が震える。
 普段であればすぐに花束を小夜に渡し、その場を離れていただろう。
 だが、どうしても気になった。
 部屋を満たすような赤黒い靄が頭を離れない。
 俯く千鶴の肩に小夜の手が乗った。

「大丈夫よ。私の異能で東雲様をお救いするから。いつも通り、千鶴はなにもしなくていいの」

 優しげな声とは裏腹に、いつも通りなにもできない無能の妹だと、言外に滲んでいた。

「っでも」

 小夜の異能で治してきた人達が赤黒い靄を纏っていたことはない。
 それだけ病状が悪いということだろう。

「東雲様が心配になるのはわかるわ。でもここは私に任せなさい」

 力強い笑みを浮かべた小夜に、女中達が感嘆を漏らす。
 自信たっぷりな彼女の影になったような気分で、千鶴は花束を差し出した。

「紫苑様を……よろしくお願いいします」
「えぇ。夜は自宅に帰ってしまうけれど、それまではずっと診るつもりよ」
「……では私はこれで」

 千鶴は頭を下げ、踵を返した。
 目に見える献身に、千鶴の心が締め付けられる。
 こと病に関して、小夜以上の適任者はこの帝都にはいない。
 頭では理解しているものの、なにもできない不甲斐なさが募る。
 無能な自分をこれほど恨めしいと思ったことはなかった。
 ぐしゃぐしゃに丸めた紙のような胸の中心は、どんなに広げて伸ばしてもシワだらけで、伸ばそうとするほど破れてしまいそうだ。

(お姉様の前じゃ、何も言えなくなる。私も看病するって言えなかった)

 紫苑の妻として、なにか役に立ちたい。
 自分にしかできないことはないかと、思考を巡らせる。
 そして小夜の言葉を思い出した。
 未婚の彼女はいくら妹の家とはいえ、夜は帰らなければならない。

(もしかして夜だけなら、看病に行っても咎められない……?)

 帰宅時に投げられた夜更かしを咎めるような言葉は、千鶴が病弱だと思っているからだ。
 もし会話ができるならば、健康であると一番に告げよう。
 そして看病をする承諾を得よう。
 僅かに持ち直した気分に、千鶴は窓の外を見る。
 まだ太陽が空の真上にいるのを視認して、足早に自室へと戻った。