冷徹軍医の最愛嫁 ~無能の妻は、夫の愛に気付かない~

 夜の闇が世界を抱き、日付が変わる少し前。
 洋館の窓から軍用車が見えた。

(帰ってきた……!)

 千鶴の落ち着かなかった心がさらに暴れ出した。
 紫苑からの贈り物であろう浅葱色の着物が着崩れていないことを確認する。

(大丈夫、よね)

 千鶴は覚悟を決める。
 そっと部屋を抜け出して、玄関へと急ぐ。
 急く心のまま早足で向かい、廊下を抜けたと同時に口を開いた。

「おかえりなさ――」

 目に飛び込んできた光景に、千鶴は閉口した。
 玄関ホールで寄り添う、紫苑と小夜。
 小夜が紫苑の背に手を回し、支えているようにも見える。
 心なしか紫苑の顔が赤いのは、美人な小夜と寄り添っているから、体調が悪いからなのか、千鶴には分からない。
 しかし、千鶴の足を止めるには十分な衝撃だった。

(どうしてお姉様と……?)

 踏み出しかけた足が根を張ったように動かない。
 妻帯者が妻ではない女性と寄り添うのを、女中達も咎める様子がなかった。
 誰から見てもお似合いの二人に、女中達が息を潜めて見守っている。
 ぎしりと心臓が歪んだ。
 紫苑からの手紙で温かくなっていた体の中心が冷えていく。
 見たくないと叫ぶ心とは裏腹に、一度視界に入れた二人から目が離せない。
 紫苑の部屋に行くのだろう。
 進み出した小夜と視線が絡んだ。
 千鶴に気がついたのは小夜だけではない。
 その場にいる女中達もまた、初めて千鶴の存在に気がついた。
 見せつけるように小夜が紫苑の耳元に顔を寄せる。

「東雲様。千鶴が出迎えに来ていますよ」

 小夜の声はとても甘く、優しげだ。
 彼女の言葉に一瞬、紫苑の表情が曇った。
 女中達は小夜の献身的な姿に見入っているのか、誰一人動こうとしない。
 水を打ったように静まり返った玄関ホールで、皆固唾を飲んで紫苑の出方を窺っている。
 誰一人として口を開けずにいると、小夜が得意げに微笑んだ。

「千鶴ったら……。少し、顔色が悪いみたいだわ」

 弾けるように顔を向けた紫苑が、千鶴を捉える。
 浅葱色の瞳にさらされ、千鶴は震えそうになる言葉を押し出した。

「お、おかえ――」
「なぜ君がこんな時間に起きている?」

 出立前に聞いた安心感のある声色ではなく、少し堅い声色で問われる。
 なにか言わなければと口を開いた千鶴だったが、返事をする前に紫苑から呆れたような言葉を投げかけられた。

「わざわざ出迎えなくていい。君は体が弱いのだろう? 部屋へ戻って休んでくれ」

 千鶴を気遣うような口調だが、拒絶の色が強い。
 早く下がれと言わんばかりの視線に、足下がぐらぐらと揺れているような気さえしてくる。
 よくない思考だけが脳内を回り、口からようやく零れたのは、頼りない謝罪の言葉だった。

「っ、申し訳……ありません。部屋に、戻ります」

 踵を返した千鶴は、一目散に自室へと駆けていく。
 先ほどまで床に縫い付けられていたとは思えないほど、足はとても簡単に動いた。
 逃げるように自室へと戻ると、その場にしゃがみ込む。
 途端、滲む視界。
 ぎゅっと丸まれば、膝ではなく床へと涙が落ちた。
 着物に水滴が落ちなかったと心の奥底で僅かに安堵が浮かび、千鶴は苦笑する。

「わかってたはずだったのにな……」

 寄り添うような二人を、目を閉じなくても思い出せる。

「お似合い、だった」

 女中達が咎めるわけでもなく息を潜めていたのは、支え合う二人の間に割って入ることができなかったからだろう。
 妻であるはすの千鶴ならあの二人の間に入ることもできたはずだった。
 だができなかった。

「本当、浮かれて、ばかみたい」

 自身を嘲笑した言葉は夜の闇へと吸い込まれていった。