日が改まった翌日──由良はハルから今夜邦香が学校に徹夜して籠ることを聞いた。
聞いた、というよりは聞き出した、という方が正しい。
邦香がいつ帰ってくるのかを訊ねたところ、今日はなんでも研究の仕上げにかかるために徹夜するらしいと答えたのだ。
ならば、夜食の差し入れをするのがいいかもしれない。
しかし、今回はさすがに台所に入るのははばかられる。考えた末、由良は結婚前に母からもらった金を使って弁当を買って届けることにした。
街にはいろいろな店がある。きっと邦香の舌に合う料理の店もあることだろう。
夕方になって、由良は一人で若狭の屋敷を後にした。
だが、少し進んだところで後ろから人がつけてきていることに気づいた。
ちら、と振り返ると薊美と義両親がいる。
由良が一人で外出するのはこれで二回目だ。前回はうまく一人で抜け出せたが、大方、怪しんだハルが告げ口でもしたに違いない。
まくわけにもいかず、一定の間隔をとって歩く。
由良はガス灯がともり始めた街を歩き、一角の弁当屋に入った。
「ええと、鯖の塩焼きのお弁当を一つ、お願いします」
朝食が和食なので、きっと邦香は洋食より和食を好むはずだ。
少し待ってから弁当を受け取り、道へ戻る。やはり薊美たちは隠れつつ、ついてきていた。
しばらくして護衛学校に到着すると、そこはなにやら物々しい空気に包まれていた。
いつもの守衛の姿がなく、道を歩く学生たちが急いで学校に続く道を走っている。
道の奥から流れてくる異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、一人の学生を呼び止めて訊いた。
「なにかあったのですか」
学生は一刻も早く動きたいとばかりに、足踏みをしながら答える。
「戦闘訓練で呼び出した闇が暴走を始めたそうで、学生から先生に至るまで招集命令がかかったんです。若狭教授が今、一人で引き付けて戦っている、と」
邦香の名を聞いた瞬間、身が凍り付いた。
邦香が暴走した闇と一人で戦っている。
由良は胸元に扇子が入っているのを確認して、着物の裾がはためくのも構わず走り出した。
後ろから薊美たちが駆けてくる音がする。異変を察知したらしい。
学校への道を走り抜けると、校舎の前に広がる校庭に出た。
そこでは角を鋭く生やした、鬼の姿の闇が太い腕を振るっていた。
ジョロウグモの闇とはくらべものにならないほど大きい。校庭の半分がすっかり埋まってしまっている。
その手前で、サーベルを持った邦香が一人で戦っているのが見えた。校舎からは学生や先生らが走ってきているが、怖気づいて近寄れないらしい。
鬼の闇が攻撃を繰り出すたび、強い旋風が巻き起こる。
刹那、攻撃を軽やかに避けながら邦香が叫んだ。
「お前たち! これは訓練ではない。今まで学んできたことの実践だ。怖気づいてどうする? その態度で一人前の護衛隊になれるとでも思っているのか」
いつもは冷静な鉄仮面である邦香の顔が赤い。
そこに、闇と対峙する者を教育する彼の矜持と姿勢が見えた気がした。
邦香の発破は学生たちを揺り動かしたらしく、彼らは怒涛の勢いで闇の前になだれ込んできた。
「邦香!」
その時、背後で叫びが聞こえたと思えば、背中を突き飛ばされた。
「退きなさいよ、置物嫁。邪魔なのよ!」
薊美が日傘を持って飛び出していく。彼女は邦香の姉だ。弟を心配するのは当然である。
由良は尻もちをついたまま、扇子を取り出した。
(私も、戦いたい。邦香さんの力になりたい)
「薊美、邦香!」
邦香に似た声と共に出てきたのは、義父の城介だ。後ろには薔子を連れている。
二人はそれぞれ橙色の石がついた杖とブローチを握りしめ、闇に近づいていく。
(二人だって、戦おうとしているのに)
情けなさが積もって、瞳に薄い涙の膜を作る。
だが、こんな場で泣いていたところで、邦香の得には一切なり得ないのだ。
由良は扇子を構えて力を込める。
赤い石にちかちかとか細く輝き、扇子の先端から星のような光が飛び出す。しかし光は少ししか飛ばず、弱々しく地面に落ちて消えるだけだった。
──その役に立たない微弱な力が強くなったら、認めてあげてもいいでしょう。
薔子の声が脳裏で反芻される。
途端、由良の心臓が高鳴った。
少しなら、絶対に、私でもなにかできるはず。
腰を上げて扇子を手に、闇に向かって走り出す。
鬼の二つの目はらんらんとし、気味悪く動いている。学生や先生たちも健闘はしているらしく、少しずつ鬼の動きは鈍ってきていた。
中でも薊美は特に俊敏で、しなやかな身体を生かして間断なく攻撃を続けていた。
「私も」
鬼に群がる人混みに足を踏み入れた時である。
鬼の光る目はサーベルを振るう邦香を捕えていた。嫌な予感が過ぎり、由良は我知らず叫んでいた。
「邦香さん、危ない!」
「ゆ……ら?」
邦香の横顔に驚愕が浮かぶ。
次の瞬間──邦香の頭に鬼の拳が振り下ろされた。彼は後ろに吹き飛び、校庭の隅に倒れこんだ。
由良は前線から抜け、邦香のもとへ走る。
「邦香!」
由良より先に駆け付けたのは薊美と義両親だった。
「ひどい、頭から血が出てる」
校庭の土が赤黒い色に染まっていく。邦香は気を失ったらしく、微動だにしない。
「今、血を止めるから」
薊美が日傘の先端を邦香の頭に向け、呪文を唱える。
だが、うまくいかないらしい。
「東の空に赤く浮かぶもの、出でよ……あれ? どうして? 力が効かない!」
混乱に陥る薊美に代わって、城介や薔子も呪文を唱えて力を向けるが、結果は同じである。
(私の星の力が邦香さんの頭に膜を張って、他の力の妨害をしている)
由良は確信した。
あの日、邦香を助けたのは自分だ。
「その傷は、私しか治せないんです!」
由良は薊美たちの前に出て、扇子を広げた。
「なにを馬鹿なことを言ってるの? あんたみたいな弱い力しかない者が、こんな怪我を治せるはずないでしょう。悪い冗談はよしなさい」
「冗談ではありません」
由良は言い切って、邦香の前に座り込んだ。
「明星、昴、暁星……北辰、色白、五曜の星」
呪文を唱えつつ扇子をかざし、力を送り込む。
抵抗なく力が吸い込まれていくのが体感でわかったが、いかんせん力が微弱すぎて、傷が治る様子はない。
「やっぱり駄目ね。退きなさい、私がやるから」
薊美が由良を押しのけようとしたが、あくまで由良は居座った。
星の力を持っているのは、この郡では自分と両親だけだ。今から並の力を持つ両親を呼びに帰る余裕はない。
(私の力しか、今は使えない……でも、私の力では足りなさすぎる。どうしたら)
呪文をつむぎ、力を送り込む手と口を止めず、由良は思案する。
少しあって、由良は立ち上がった。
「誰か、風の力を持っている方はいませんか」
「な、なにを突然」
薊美が戸惑っているのを無視して、由良はなおも大声をあげた。
「お願いします、邦香さんを助けるのには、風の力の助けが必要なんです」
由良は、結婚を申し込みに来た日に、邦香が言ったことを思い出していた。
星の力と火の力は、関係が深く近い。
なぜなら星も火もどちらも熱く、燃える存在であるから。
つまり風で「燃えるもの」を煽れば、力が強まるのではないかと考えたのだ。
「若狭の奥さま! 私でよければ、力をお貸ししますが」
走ってきたのは首藤だった。手には緑の石がついた万年筆を持っている。
「これから、邦香さんの傷に力を送り込みます。首藤さんは後ろで、私に風の力を注いでくださいませんか」
真剣に頼むと、首藤は由良の思わんとしていることを理解したらしく、首肯した。
「わかりました。やってみましょう」
由良は扇子をかざし、力をこめる。
背後では首藤が呪文を唱えた。
「晨風、暁風、春一番──野分に薫風」
背中に強い風が吹きつけてくる。
それと同時に、腕に血潮がみなぎるのを感じた。
血潮は腕から手に流れ、扇子に伝わる。
扇子に張られた布がぶるり、と震えた。かと思えば、抑えきれないほどの振動になる。振動は風になって扇子からあふれ出した。
由良は要を両手で握りしめ、風に負けないよう腰を据える。
「明星、昴、暁星。北辰、色白、五曜の星」
赤い石が目もくらむほどに光り、星を生み出す。
星はほうき星のように尾を引いて、邦香の頭に吸い込まれていった。
「血が、止まっていく」
首藤がつぶやく。
確かに、邦香の出血は止まっていた。傷は完璧には治癒していないが、閉じかかっている。
反対に、邦香の目が開いた。
「由良」
彼が名を呼ぶ。瞳に力が宿り、邦香が身を起こした。
「お前が、傷を治してくれたのか」
「はい。首藤さんと共に、治しました。まだ治癒しきっていないので、動かないでください」
「助かった、礼は後でする。だが……私は生徒たちの教授だ、動かないわけにはいかない。許してくれ」
「駄目だって──」
由良が止めるのを振り切り、邦香が闇に駆け出す。
「なによ……どういうことよ。一度、この女に治療を受けていたってわけ」
隣で口をわなわなと震わせながら薊美が歯噛みしている。
「だから私の力を、邦香が受け入れなかったって言うのッ⁉」
薊美が地面を蹴って喚く。
その時、邦香が先陣を切ってサーベルを振るった。
刃先は鬼の目を貫き、轟音が鳴り渡る。
闇が形を失い、夜の空気に溶けていく。
「これで闇は祓われた。皆の者、感謝する」
邦香が鬼の闇から飛び降り、サーベルを地面に突き立てて大声で述べると、しんと場が静まる。
かと思えば、さざめきのように拍手が広がっていった。
拍手が鳴りやまない中、邦香が由良たちの方へ歩いてきた。
由良の前で足をとめ、大きな右手を差し出される。
「由良、もう一度礼を言わせてくれ。ありがとう」
由良は彼の手をとり、握りしめた。先ほどまでサーベルを握っていたせいか、熱く固い。
「いえ、首藤さんの力もあってのことですから。私一人の力ではありません」
「首藤、お前の力を由良に貸してくれたということだが、本当か」
代わって邦香が首藤に頭を下げる。
首藤は眼鏡に隠された目を丸くし、頭を掻いた。
「はい。星の力をお持ちになる奥さまの力を増幅させるためには、燃える炎をあおる風が必要だと目論まれたようです。賢明なご判断だったと思います」
人から褒められたのは何年ぶりだろう。由良は面はゆくなって顔を伏せた。
目を合わせられないのにかこつけて、思い切って邦香に過去のことを訊いてみる。
「……私が子どもの時、邦香さんの頭を治癒したのは私でした。私が忘れていただけだったんです」
ずっと昔、十年以上も前のこと。
その記憶を邦香は覚えていたというのに、自分ときたらすっかり頭の中からなくしていた。
「気にするな。私が汚い執着で覚えていただけだ──それより、由良はどうしてここに来たんだ。また弁当でも届けにきたのか?」
「はい! 来る途中、お弁当を買ってきたんです。台所に入れないので、代わりにお店で選んだのですよ。中身は和食です」
「ありがとう。嬉しい」
弁当の包みを出して邦香に渡す。
とうに冷めてしまっているだろうが、彼は宝物を受け取ったかのごとく優しく包みを抱きしめた。
「だが」
突如として、邦香の双眸が鋭くなる。
刺すような視線の先には、薊美がいた。彼女は眉根を下げて身を引いている。
「どうしてお前たちがここにいるんだ? 夜だから伴が必要だと思ったのか。だが、それならハルがいるだろうが。なぜ彼女に頼まない」
「ハルは私のことがお嫌いなようでして」
これくらいの事実を邦香に伝えても罰はあたらないだろう。
由良は腹の中で舌を出した。
「私の振る舞いによって、ハルに由良を侮って良い相手だと思わせてしまったのだろうな。帰ったらきつく締めあげねば」
すかさず薊美が口をはさむ。
「ハルが行かないっていうから、私たちが由良を見守るためについていったの。それだけよ」
無論、それが本音ではないだろう。由良が夜に出かけるのを不審がって尾行してきたに違いなかった。
「なるほど、それで薊美姉さんたちがついてきた……と」
薊美が頷こうとする──が、邦香の目には怒りが満ちていく。
「なら、どうして由良にきつく当たっていた? 先ほど『置物嫁』と叫んでいたのがしっかりと聞こえていたが」
薊美が息を呑むのが聞こえた。
握っていた日傘を落としたのにも気づかず、唖然としている。
「邦香、これはね」
夜の薄暗さの中でも、彼女の顔が青ざめていくのがわかった。
「どうして『置物嫁』などと呼んだ? 私が由良に構えなかったからか。だからと言っても、私が彼女にそんなあだ名をつけることを許したか? それに、母さんたちもなぜ薊美姉さんの暴言を咎めなかった」
薔子と城介は黙り込む。ばつが悪そうに視線をさまよわせるだけである。
「姉さんの当たり方はずいぶんと慣れていた様子だった。今日から『置物嫁』と呼び出したわけではないだろう。いつから呼んでいたんだ、答えろ」
金属音が鳴った。
邦香が、サーベルを抜いたのだ。
彼のサーベルの柄には橙の石がついている。すなわち、今すぐにでも力が放てる状態なのだ。
刃を向けられた薊美は固まっていたが、矢庭に落とした日傘を拾い、先端を邦香に向けた。
「どうしてぽっと出の女にそんなに優しくするのよ! 私の方がお前とずっと一緒にいたのに! お姉さまお姉さまって、懐いていた、あのかわいいお前は!」
日傘の先端に火の玉が宿り、大きくなっていく。
「あの頃の邦香を返してよ! お前は邦香なんかじゃない! 私の邦香じゃない!」
半分涙が混じった声でののしる薊美に対して、邦香はぴくりとも眉を動かさなかった。
ただ冷徹に憐れむように、姉を見下ろすだけである。
「由良はぽっと出の女などではない。もうわかっただろう? 由良はかつて、私の怪我を治したことがある。命の恩人なんだ」
「いつ……いつ怪我をしたの。私、知らないわよ!」
「それは、お前たちが知る必要のないことだ」
ふっと、薊美の火の玉が縮んで散った。
「そう……そうなの。最低……あんたなんか、もう私の弟じゃない。知らない男よ」
諦めたように肩を落として震わせる。薊美の両目からは涙があふれていた。
「ああ。お前も、もう私の知っている姉ではない。知らない女だ」
邦香が言い切ると、薊美は後ろを向いて、日傘を引きずりながらその場を去っていった。
彼女の憔悴ぶりに驚いたのか、慌てて義両親がついていく。
その場には、首藤と邦香と由良が残された。
「若狭教授、お見事でしたね」
首藤が声を殺して笑っている。由良は顔が赤くなるのを感じた。
「では、私はこれで。事務の仕事が残っていますのでね」
首藤の姿が消えるのを見送ってから、由良は邦香の顔を見た。
彼はすました表情をしていたが、ややあって手を由良の頭に乗せた。
「由良、今日は屋敷に帰るな」
「え」
訊き返す前に、邦香は由良の手を取って歩き出す。
言われた言葉の真意がつかめないまま、由良は彼の隣に並んだ。
二人が赴いたのは地下の研究室だった。
先日、由良が来た時と変わらず散らかっており、薄暗い。
地下にこもって研究していたら、昼も夜もわからなくなりそうだ。
「弁当はわけるか。俺のぶんは皿にとる」
由良が渡した弁当を、研究室の隅にあった棚から出した皿に取り分ける。
「紅茶も淹れよう。そこに座って食べろ」
邦香に促されるまま椅子に座って待っていると、いつものローズヒップティーを出された。
その隣に置かれた由良の分の弁当は、明らかに邦香のものより多い。
「邦香さん、あの……」
「力を使って腹が減っているだろう。そもそも由良が金を出して買った弁当だ。遠慮するな」
しばらく戸惑っていた由良だったが、弁当に詰められた鯖の塩焼きがよく照っていておいしそうに見えて仕方ない。
「……では、遠慮なく」
紅茶を一口飲んでから、箸で塩焼きを口に運ぶ。舌の上に乗せるなり、濃い塩気が味覚を刺激した。
「おいしいです」
緊張がほぐれ、身体が軽くなる。ちらりと邦香を打ち見ると、彼は今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。
「邦香さん、笑えたのですね」
思わずこぼれ出た言葉に、邦香は固まった。
「人間だからな、笑いもすれば泣きもする。最近は研究に没頭していて笑う暇もなかったが」
由良は安堵した。
彼は、感情を失っていたわけではなかったのだ。
ただ、日々の暮らしに表情が引きつられる、繊細な情緒を持った人物だったのか。
ローズヒップの香の息を吐き、ここぞとばかりに由良は問うた。
「すみません。研究の内容についてなのですが、小耳に挟んだことがありまして。私の力を取り戻すためだというのは、本当なのですか」
邦香はやや驚いたらしかったが、すぐに平静を取り戻し、組んだ長い足の上に手を置いた。
「本当だ。お前を妻に迎えることが決まった日から、私はずっと弱った力を取り戻すための研究をしていた」
ほんの少し、邦香の耳は赤く色づいていた。
「私は、中学生の頃までは特別強い力の持ち主ではなかった。だが、あの日──試験で良い結果が出なかった私は、機嫌を損ねたまま河原に寄り道をしようとしていた。愚かすぎて笑いも出ない。だが、河原で怪我をした私を由良が助けてくれた。自分より幼い、年端も行かない少女が、恐ろしいほどの力を持っていた……私には、それが衝撃だった」
邦香の指が、由良の顎を掴む。優しく持ち上げられ、かちりと目線がかち合った。
「赤い目の、星の力を持つ少女。若狭郡ではお前しかいない。私は、その日から由良のことが頭から離れなくなってしまった。この時私がお前に抱いていたのは、崇敬の念だっただろうな」
「私などを崇敬する必要ありません。この後、力を弱らせてしまったのですから」
気恥しさに目をそらす。顔から火がでそうだった。
「私が都心の大学から帰ってきて、両親が嫁を迎えろとうるさくなった時、お前のことを再度意識したんだ。あの時の少女は、今ごろ嫁に行く歳になっただろうと。その折に調べさせてもらったが、かつて『神童』と呼ばれていた由良の力が弱っていたことを知った」
若狭郡を治める次期当主の耳には、なにもかも筒抜けらしい。
由良は口の中が急速に乾いていくのを感じた。
「由良を、誰にも渡したくなかったんだ。どうしても、どうしても……他の男の隣で笑うお前を想像しただけで、身が引き裂かれそうになった。私の中で、崇敬は思慕になっていたんだろう」
崇敬が、思慕に。
たった一度助けただけで、と由良は思ったが、自分が逆の立場であったらと思えば、彼が自分に執着するのもわかる気がした。
「両親たちが持ってくる縁談を全て蹴って、代わりに由良だけに当てはまる条件を出し、これを満たす娘を探すという体をとった。特定の娘を指定すると角が立ちそうだったし、変に勘ぐられるのも嫌だったからな。こうするのが最善の策だったんだ」
邦香が紅茶を飲み干す。
「お前を妻に迎える時に、恩人であることと感謝を伝えられなかったのは、私の間違いだったかもしれない。どんな形であれ、過去のことを思い出させては、由良が傷つくかもしれないと思ったから。どう弁明しても、私自身のエゴにしかならないが」
由良は彼の橙色に燃える瞳を眺め、ゆっくりと頷いた。
「こんな私を、妻にしてくれてありがとうございます。あなたは私が他の男性の元に行くのではと案じていたようですが、それは無駄な心配でしたでしょう。私に浮いた話がたつことは一度もありませんでしたから」
もし、あの日に由良が邦香を助けていなかったら。
もし、あの雪の日に邦香が由良を迎えに来てくれなかったら。
──今の生活はなかった。
邦香は由良の自虐的な言葉を笑わなかった。代わりに由良の手をとり、甲をなでる。
じんわりと広がる温かさに、由良の涙腺は緩みそうになったが、すんでのところで耐えた。
「お前と結婚してから長らく研究室にこもっていたが、そろそろ研究の結果が出る時分だ。今夜の一晩頑張れば、朝には完成するだろう」
「それって、私の力が戻ってくるということですか」
「ああ。お前の力が弱ったのは、心と精神に強い衝撃を受けたためだ。力は由良の中に封じ込められた状態で、けっして失われたわけではない。比喩的な言い方だが、この力を封じ込める鎖を解けば、由良の力は元の通りに還ってくるだろう」
邦香の言葉は、由良の希望になった。
「お願いします、私の力をもとに戻していただけますか」
「善処する」
彼の首肯は力強かった。
その晩、由良は研究室の隅に布団を敷いて眠った。いつもは邦香が夜を徹して研究する時に使っている布団だという。
ほとんど干されていないらしく布団は少々かび臭かったが、邦香が使っているものだと思うと気にならなかった。
邦香はずっと書物を開いたり閉じたり、観葉植物のスポイトを抜いて試験管に移したり忙しそうである。
由良は黙って、布団をかぶった。
朝に、彼の研究が終わっていることを願いながら。
翌朝──といっても地下なのでまったく朝日もなかったのだが──時計の針が五時を指したあたりで、由良は邦香に揺り起こされた。
「由良、準備ができたから起きろ」
「準備、ですか」
寝ぼけ眼をこすっている由良に、邦香は切羽詰まった様子で語りかけた。
「研究は終わった。これから由良の力を取り戻すための儀式を行う」
一気に眼が冴え、布団から跳ね起きる。
「こっちだ」
邦香に先導され、研究室の戸を出て地上への階段を駆け上る。
校舎から出ると、校庭の隅に布や観葉植物が広げられ、曙光に照らされているのが見えた。
「布の真ん中に立ってくれ」
言われた通りに、布の中央に立つ。
布には「火」「星」「風」「波」「水」「地」などの力の根源が書かれている。それらの文字の周囲に波紋が描かれ、それぞれが複雑に絡み合っていた。少なくとも素人目に内容はわからない。
「人間で実験することができないから、観葉植物は代用として役立ってもらっていた。スポイトに入れていた水は、力の根源を液状化したものだ。植物には由良と似た負荷をかけた状態にして、スポイトの中身を植物に吸わせている。サンプルで十分な確証が得られたから、やっと実践に移せるというものだ」
説明をしながら邦香が手早く用意を整えていく。
ここに来て由良は自分の身体がどうなるのか不安になってきた。それが彼にも伝わったらしく、「案ずるな」と励まされる。
「では、始めるぞ」
昨日に邦香が振るっていたサーベルを取り出し、刃先を「星」と書かれた布地に突き刺す。
「不知火、焔、雷火に陽炎──そして東の空に赤く浮かぶもの、出でよ」
刺さった場所から、じわじわと血のような染みが出来ていき、それは高さを増して由良を包み込んだ。
赤く染まる視界の中、由良の脳裏には過去の思い出がよみがえっていた。
最初に出てきたのは、両親の顔。彼らは「神童」であった由良に、力の使い方について教えてくれた。
次に現れたのは、力で助けた人々の笑顔だった。中には邦香の顔もある。
(私は、たくさんの人たちを助けてきたんだ。けれど、たった一回の裏切りによって、心を折って動けなくなってしまった)
あの時、由良の心は弱かった。
でも今は違う。自分のことを思い続けてくれた、邦香がいる。
そう思った瞬間、全身に力がみなぎる心地がした。
目の前で星がまたたいている。星の出どころが自分の手からであった。
力が、由良に戻ってきたのだ。
やがて視界の赤はひいていき、校庭の片隅に帰ってきた。
「どうだ、由良。なにか身体に異変はあるか」
邦香がサーベルを抜いて鞘に戻す。
「はい。なんだか……心が満たされる感じがします。今まで失っていた一部がようやく帰ってきて、あるべきところに収まってくれたような、懐かしい心地になりました」
扇子を取り出して、くるくると円を描くようにして回すと、星が生まれて空に飛んでいく。
今までは弱々しい光しか生み出せなかったというのに。
由良が扇子を閉じて邦香を見据えると、彼は長く息を吐いてつぶやいた。
「成功したのか……」
「邦香さんのおかげです。あなたが私のために研究をしてくださらなかったら、私は弱いままでした」
「妻を支えるのは私の役目だ。当然のことをしたまでだから、大仰に喜ぶな」
素直ではない邦香が愛おしい。
力が弱いと馬鹿にされていた過去は変わらないかもしれない──それでも、邦香が自分のために力を注いでくれた事実は揺らがない。
由良は扇子にはめられた赤い石を太陽にかざし、まぶしさに目をすがめた。
昼過ぎに二人は屋敷に戻ってきた。
由良は離れの戸をくぐろうとしたが、邦香に止められた。
ついてくるよう促され、到着したのは本邸の表玄関である。
金属の重い扉を開いた彼は、扉の前で及び腰になっている由良の肩に手を置いた。
「お前が離れにいる必要はないだろう。力がもうあるのだから」
「ですが、お義姉さまやお義母さまに見つかったら咎められてしまいます」
「私が咎めさせない。それに、由良がこの屋敷に入るのは今日が最後になるだろう」
「それは」
どういうことかと問おうとした時、ポーチの奥から薊美が姿を現した。
いつものこじゃれた洋装に身を包んでいるのは変わらないが、切れ長の目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。
昨日から寝ていないのかもしれなかった。
「お帰り、邦香」
彼女が目を細めて笑っている。
由良は、薊美のその表情に見覚えがあった。珈琲屋で話した時に向けられた顔と同じなのだ。
笑顔であるのに、目が微塵も笑っていない。
邦香が彼女を無視してあがろうとした瞬間、由良の隣を光の筋が通り抜けた。
気づくと、扉の一部に小さく穴が開いている。
薊美の手には、身体の後ろに隠していたらしい日傘があった。鋭い先端は由良の胸を指している。
あと少しずれていたら、おそらく由良の胸を光が射抜いていただろう。
「姉さん、由良に向けて何をした」
邦香の地を這うような声が壁を震わせる。対して、薊美は平気でのたまった。
「かわいかった邦香をたぶらかした女を仕留めようとしてなにが悪いの。あんたが悪いのよ。私から離れて知らない女に心を寄せたから」
愛情が裏返り、憎悪になったのだと由良は察した。
小さいころからいつくしんでいた存在が自分の手元から離れていく事実を、薊美は受け入れられなかったのかもしれない。
「私の背中から出るんじゃないぞ、由良」
邦香に命じられ、逆らうことなく彼の背中に張り付く。
その行動が薊美の怒りを逆なでしたらしく、彼女は日傘の先に燃え上がる火球を作り出した。
「反抗する気なのね。なら構わないわ。あんたたちもろとも灰になってしまえばいい」
火球がはじけ、二人の身体にせまってくる。
だが、邦香は冷静さを保ったまま、右腕を横に振るった。
火球が中心から二分され、勢いを止めぬまま薊美に返ってくる。
そのまま薊美の顔に衝突し、じゅっと肉の焼けるような音と匂いが鼻を突いた。
「あ、あ⁉ あ……」
ばたばたと手足を動かしてもがき、やみくもに彼女が伸ばした腕が掴んだのは飾られていた花瓶だった。
花を引き抜き、水を顔にぶちまける。煙が広がって火が消えると、薊美は壁にかけられていた鏡を覗きこんで絶叫した。
「私の、私の顔が!」
薊美の顔の右半分に、大きな火傷ができていた。
変わり果てた自分の顔を見つめていた彼女だったが、とうとう腰から頽れた。
「力を傷つける目的で人に向けるものではない。力は己に返ってくるものだ。ゆめゆめ忘れるな」
顔を覆ってうずくまる姉に対して、邦香は冷たく言い放った。
「行こう。こっちだ」
彼に手を取られ、由良は黙ってついていく。
薊美のことが少々気がかりではあったが、自分を傷つけようとしたことを思えば、当然の報いのようにも感じられた。
案内されたのは邦香の自室だった。
よく日の当たる南向きの部屋で、天蓋つきの寝台やワードローブ、革張りの椅子など豪華な調度品が並んでいる。
しかし、そのどれもに埃がうすく被さっていた。
「他人を部屋に入れないようにしている。掃除に入るのも禁止しているゆえ、汚いのは目をつぶってくれ」
「私はいいのですか」
「由良は妻だから他人ではないだろう」
真顔で言われ、由良は思わず固まった。
「……ところで、なぜこのお部屋に私を連れてこられたのですか」
訊くと、彼は椅子の縁に手をかけて振り返った。
「それはだな」
一拍置いて、邦香が少しだけ口の端を持ち上げる。
「引っ越しをするからだ。由良にはその手伝いをしてほしい」
「このお屋敷を出るということですか。では、これからはどちらへ」
「近くに若狭の別荘がある。海に面した綺麗なところだ。そこに移って暮らそうと思っている。学校へ通うのに要する時間が増えるが、致し方ない」
言われてみれば、若狭郡を治める一族が立派な別荘を持っているのは当然な気がする。
由良は別荘という聞きなれない単語に胸が躍り、浮足立ってしまった。
「嬉しいか」
「はい。ずっと離れに一人でいましたから、邦香さんと二人で暮らせるのはこの上なく幸せなことです」
大げさな言い方だったかもしれない。しかし、邦香は馬鹿にすることなく「そうか」とだけ言って頷いた。
「持っていくのは私の家具だけだ。由良のために必要な家具は、後日に買う。下に車を用意させているから、力を使って家具を運ぶのを手伝ってくれ」
「承りました」
部屋に爽やかな空気を呼び込むために、カーテンを開いて大きな窓を開ける。
いっせいに春の香を乗せた風が吹き込み、部屋が明るくなったように思われた。
これから新しい生活が始まる。
由良は改めて夫──邦香に微笑みかけた。
聞いた、というよりは聞き出した、という方が正しい。
邦香がいつ帰ってくるのかを訊ねたところ、今日はなんでも研究の仕上げにかかるために徹夜するらしいと答えたのだ。
ならば、夜食の差し入れをするのがいいかもしれない。
しかし、今回はさすがに台所に入るのははばかられる。考えた末、由良は結婚前に母からもらった金を使って弁当を買って届けることにした。
街にはいろいろな店がある。きっと邦香の舌に合う料理の店もあることだろう。
夕方になって、由良は一人で若狭の屋敷を後にした。
だが、少し進んだところで後ろから人がつけてきていることに気づいた。
ちら、と振り返ると薊美と義両親がいる。
由良が一人で外出するのはこれで二回目だ。前回はうまく一人で抜け出せたが、大方、怪しんだハルが告げ口でもしたに違いない。
まくわけにもいかず、一定の間隔をとって歩く。
由良はガス灯がともり始めた街を歩き、一角の弁当屋に入った。
「ええと、鯖の塩焼きのお弁当を一つ、お願いします」
朝食が和食なので、きっと邦香は洋食より和食を好むはずだ。
少し待ってから弁当を受け取り、道へ戻る。やはり薊美たちは隠れつつ、ついてきていた。
しばらくして護衛学校に到着すると、そこはなにやら物々しい空気に包まれていた。
いつもの守衛の姿がなく、道を歩く学生たちが急いで学校に続く道を走っている。
道の奥から流れてくる異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、一人の学生を呼び止めて訊いた。
「なにかあったのですか」
学生は一刻も早く動きたいとばかりに、足踏みをしながら答える。
「戦闘訓練で呼び出した闇が暴走を始めたそうで、学生から先生に至るまで招集命令がかかったんです。若狭教授が今、一人で引き付けて戦っている、と」
邦香の名を聞いた瞬間、身が凍り付いた。
邦香が暴走した闇と一人で戦っている。
由良は胸元に扇子が入っているのを確認して、着物の裾がはためくのも構わず走り出した。
後ろから薊美たちが駆けてくる音がする。異変を察知したらしい。
学校への道を走り抜けると、校舎の前に広がる校庭に出た。
そこでは角を鋭く生やした、鬼の姿の闇が太い腕を振るっていた。
ジョロウグモの闇とはくらべものにならないほど大きい。校庭の半分がすっかり埋まってしまっている。
その手前で、サーベルを持った邦香が一人で戦っているのが見えた。校舎からは学生や先生らが走ってきているが、怖気づいて近寄れないらしい。
鬼の闇が攻撃を繰り出すたび、強い旋風が巻き起こる。
刹那、攻撃を軽やかに避けながら邦香が叫んだ。
「お前たち! これは訓練ではない。今まで学んできたことの実践だ。怖気づいてどうする? その態度で一人前の護衛隊になれるとでも思っているのか」
いつもは冷静な鉄仮面である邦香の顔が赤い。
そこに、闇と対峙する者を教育する彼の矜持と姿勢が見えた気がした。
邦香の発破は学生たちを揺り動かしたらしく、彼らは怒涛の勢いで闇の前になだれ込んできた。
「邦香!」
その時、背後で叫びが聞こえたと思えば、背中を突き飛ばされた。
「退きなさいよ、置物嫁。邪魔なのよ!」
薊美が日傘を持って飛び出していく。彼女は邦香の姉だ。弟を心配するのは当然である。
由良は尻もちをついたまま、扇子を取り出した。
(私も、戦いたい。邦香さんの力になりたい)
「薊美、邦香!」
邦香に似た声と共に出てきたのは、義父の城介だ。後ろには薔子を連れている。
二人はそれぞれ橙色の石がついた杖とブローチを握りしめ、闇に近づいていく。
(二人だって、戦おうとしているのに)
情けなさが積もって、瞳に薄い涙の膜を作る。
だが、こんな場で泣いていたところで、邦香の得には一切なり得ないのだ。
由良は扇子を構えて力を込める。
赤い石にちかちかとか細く輝き、扇子の先端から星のような光が飛び出す。しかし光は少ししか飛ばず、弱々しく地面に落ちて消えるだけだった。
──その役に立たない微弱な力が強くなったら、認めてあげてもいいでしょう。
薔子の声が脳裏で反芻される。
途端、由良の心臓が高鳴った。
少しなら、絶対に、私でもなにかできるはず。
腰を上げて扇子を手に、闇に向かって走り出す。
鬼の二つの目はらんらんとし、気味悪く動いている。学生や先生たちも健闘はしているらしく、少しずつ鬼の動きは鈍ってきていた。
中でも薊美は特に俊敏で、しなやかな身体を生かして間断なく攻撃を続けていた。
「私も」
鬼に群がる人混みに足を踏み入れた時である。
鬼の光る目はサーベルを振るう邦香を捕えていた。嫌な予感が過ぎり、由良は我知らず叫んでいた。
「邦香さん、危ない!」
「ゆ……ら?」
邦香の横顔に驚愕が浮かぶ。
次の瞬間──邦香の頭に鬼の拳が振り下ろされた。彼は後ろに吹き飛び、校庭の隅に倒れこんだ。
由良は前線から抜け、邦香のもとへ走る。
「邦香!」
由良より先に駆け付けたのは薊美と義両親だった。
「ひどい、頭から血が出てる」
校庭の土が赤黒い色に染まっていく。邦香は気を失ったらしく、微動だにしない。
「今、血を止めるから」
薊美が日傘の先端を邦香の頭に向け、呪文を唱える。
だが、うまくいかないらしい。
「東の空に赤く浮かぶもの、出でよ……あれ? どうして? 力が効かない!」
混乱に陥る薊美に代わって、城介や薔子も呪文を唱えて力を向けるが、結果は同じである。
(私の星の力が邦香さんの頭に膜を張って、他の力の妨害をしている)
由良は確信した。
あの日、邦香を助けたのは自分だ。
「その傷は、私しか治せないんです!」
由良は薊美たちの前に出て、扇子を広げた。
「なにを馬鹿なことを言ってるの? あんたみたいな弱い力しかない者が、こんな怪我を治せるはずないでしょう。悪い冗談はよしなさい」
「冗談ではありません」
由良は言い切って、邦香の前に座り込んだ。
「明星、昴、暁星……北辰、色白、五曜の星」
呪文を唱えつつ扇子をかざし、力を送り込む。
抵抗なく力が吸い込まれていくのが体感でわかったが、いかんせん力が微弱すぎて、傷が治る様子はない。
「やっぱり駄目ね。退きなさい、私がやるから」
薊美が由良を押しのけようとしたが、あくまで由良は居座った。
星の力を持っているのは、この郡では自分と両親だけだ。今から並の力を持つ両親を呼びに帰る余裕はない。
(私の力しか、今は使えない……でも、私の力では足りなさすぎる。どうしたら)
呪文をつむぎ、力を送り込む手と口を止めず、由良は思案する。
少しあって、由良は立ち上がった。
「誰か、風の力を持っている方はいませんか」
「な、なにを突然」
薊美が戸惑っているのを無視して、由良はなおも大声をあげた。
「お願いします、邦香さんを助けるのには、風の力の助けが必要なんです」
由良は、結婚を申し込みに来た日に、邦香が言ったことを思い出していた。
星の力と火の力は、関係が深く近い。
なぜなら星も火もどちらも熱く、燃える存在であるから。
つまり風で「燃えるもの」を煽れば、力が強まるのではないかと考えたのだ。
「若狭の奥さま! 私でよければ、力をお貸ししますが」
走ってきたのは首藤だった。手には緑の石がついた万年筆を持っている。
「これから、邦香さんの傷に力を送り込みます。首藤さんは後ろで、私に風の力を注いでくださいませんか」
真剣に頼むと、首藤は由良の思わんとしていることを理解したらしく、首肯した。
「わかりました。やってみましょう」
由良は扇子をかざし、力をこめる。
背後では首藤が呪文を唱えた。
「晨風、暁風、春一番──野分に薫風」
背中に強い風が吹きつけてくる。
それと同時に、腕に血潮がみなぎるのを感じた。
血潮は腕から手に流れ、扇子に伝わる。
扇子に張られた布がぶるり、と震えた。かと思えば、抑えきれないほどの振動になる。振動は風になって扇子からあふれ出した。
由良は要を両手で握りしめ、風に負けないよう腰を据える。
「明星、昴、暁星。北辰、色白、五曜の星」
赤い石が目もくらむほどに光り、星を生み出す。
星はほうき星のように尾を引いて、邦香の頭に吸い込まれていった。
「血が、止まっていく」
首藤がつぶやく。
確かに、邦香の出血は止まっていた。傷は完璧には治癒していないが、閉じかかっている。
反対に、邦香の目が開いた。
「由良」
彼が名を呼ぶ。瞳に力が宿り、邦香が身を起こした。
「お前が、傷を治してくれたのか」
「はい。首藤さんと共に、治しました。まだ治癒しきっていないので、動かないでください」
「助かった、礼は後でする。だが……私は生徒たちの教授だ、動かないわけにはいかない。許してくれ」
「駄目だって──」
由良が止めるのを振り切り、邦香が闇に駆け出す。
「なによ……どういうことよ。一度、この女に治療を受けていたってわけ」
隣で口をわなわなと震わせながら薊美が歯噛みしている。
「だから私の力を、邦香が受け入れなかったって言うのッ⁉」
薊美が地面を蹴って喚く。
その時、邦香が先陣を切ってサーベルを振るった。
刃先は鬼の目を貫き、轟音が鳴り渡る。
闇が形を失い、夜の空気に溶けていく。
「これで闇は祓われた。皆の者、感謝する」
邦香が鬼の闇から飛び降り、サーベルを地面に突き立てて大声で述べると、しんと場が静まる。
かと思えば、さざめきのように拍手が広がっていった。
拍手が鳴りやまない中、邦香が由良たちの方へ歩いてきた。
由良の前で足をとめ、大きな右手を差し出される。
「由良、もう一度礼を言わせてくれ。ありがとう」
由良は彼の手をとり、握りしめた。先ほどまでサーベルを握っていたせいか、熱く固い。
「いえ、首藤さんの力もあってのことですから。私一人の力ではありません」
「首藤、お前の力を由良に貸してくれたということだが、本当か」
代わって邦香が首藤に頭を下げる。
首藤は眼鏡に隠された目を丸くし、頭を掻いた。
「はい。星の力をお持ちになる奥さまの力を増幅させるためには、燃える炎をあおる風が必要だと目論まれたようです。賢明なご判断だったと思います」
人から褒められたのは何年ぶりだろう。由良は面はゆくなって顔を伏せた。
目を合わせられないのにかこつけて、思い切って邦香に過去のことを訊いてみる。
「……私が子どもの時、邦香さんの頭を治癒したのは私でした。私が忘れていただけだったんです」
ずっと昔、十年以上も前のこと。
その記憶を邦香は覚えていたというのに、自分ときたらすっかり頭の中からなくしていた。
「気にするな。私が汚い執着で覚えていただけだ──それより、由良はどうしてここに来たんだ。また弁当でも届けにきたのか?」
「はい! 来る途中、お弁当を買ってきたんです。台所に入れないので、代わりにお店で選んだのですよ。中身は和食です」
「ありがとう。嬉しい」
弁当の包みを出して邦香に渡す。
とうに冷めてしまっているだろうが、彼は宝物を受け取ったかのごとく優しく包みを抱きしめた。
「だが」
突如として、邦香の双眸が鋭くなる。
刺すような視線の先には、薊美がいた。彼女は眉根を下げて身を引いている。
「どうしてお前たちがここにいるんだ? 夜だから伴が必要だと思ったのか。だが、それならハルがいるだろうが。なぜ彼女に頼まない」
「ハルは私のことがお嫌いなようでして」
これくらいの事実を邦香に伝えても罰はあたらないだろう。
由良は腹の中で舌を出した。
「私の振る舞いによって、ハルに由良を侮って良い相手だと思わせてしまったのだろうな。帰ったらきつく締めあげねば」
すかさず薊美が口をはさむ。
「ハルが行かないっていうから、私たちが由良を見守るためについていったの。それだけよ」
無論、それが本音ではないだろう。由良が夜に出かけるのを不審がって尾行してきたに違いなかった。
「なるほど、それで薊美姉さんたちがついてきた……と」
薊美が頷こうとする──が、邦香の目には怒りが満ちていく。
「なら、どうして由良にきつく当たっていた? 先ほど『置物嫁』と叫んでいたのがしっかりと聞こえていたが」
薊美が息を呑むのが聞こえた。
握っていた日傘を落としたのにも気づかず、唖然としている。
「邦香、これはね」
夜の薄暗さの中でも、彼女の顔が青ざめていくのがわかった。
「どうして『置物嫁』などと呼んだ? 私が由良に構えなかったからか。だからと言っても、私が彼女にそんなあだ名をつけることを許したか? それに、母さんたちもなぜ薊美姉さんの暴言を咎めなかった」
薔子と城介は黙り込む。ばつが悪そうに視線をさまよわせるだけである。
「姉さんの当たり方はずいぶんと慣れていた様子だった。今日から『置物嫁』と呼び出したわけではないだろう。いつから呼んでいたんだ、答えろ」
金属音が鳴った。
邦香が、サーベルを抜いたのだ。
彼のサーベルの柄には橙の石がついている。すなわち、今すぐにでも力が放てる状態なのだ。
刃を向けられた薊美は固まっていたが、矢庭に落とした日傘を拾い、先端を邦香に向けた。
「どうしてぽっと出の女にそんなに優しくするのよ! 私の方がお前とずっと一緒にいたのに! お姉さまお姉さまって、懐いていた、あのかわいいお前は!」
日傘の先端に火の玉が宿り、大きくなっていく。
「あの頃の邦香を返してよ! お前は邦香なんかじゃない! 私の邦香じゃない!」
半分涙が混じった声でののしる薊美に対して、邦香はぴくりとも眉を動かさなかった。
ただ冷徹に憐れむように、姉を見下ろすだけである。
「由良はぽっと出の女などではない。もうわかっただろう? 由良はかつて、私の怪我を治したことがある。命の恩人なんだ」
「いつ……いつ怪我をしたの。私、知らないわよ!」
「それは、お前たちが知る必要のないことだ」
ふっと、薊美の火の玉が縮んで散った。
「そう……そうなの。最低……あんたなんか、もう私の弟じゃない。知らない男よ」
諦めたように肩を落として震わせる。薊美の両目からは涙があふれていた。
「ああ。お前も、もう私の知っている姉ではない。知らない女だ」
邦香が言い切ると、薊美は後ろを向いて、日傘を引きずりながらその場を去っていった。
彼女の憔悴ぶりに驚いたのか、慌てて義両親がついていく。
その場には、首藤と邦香と由良が残された。
「若狭教授、お見事でしたね」
首藤が声を殺して笑っている。由良は顔が赤くなるのを感じた。
「では、私はこれで。事務の仕事が残っていますのでね」
首藤の姿が消えるのを見送ってから、由良は邦香の顔を見た。
彼はすました表情をしていたが、ややあって手を由良の頭に乗せた。
「由良、今日は屋敷に帰るな」
「え」
訊き返す前に、邦香は由良の手を取って歩き出す。
言われた言葉の真意がつかめないまま、由良は彼の隣に並んだ。
二人が赴いたのは地下の研究室だった。
先日、由良が来た時と変わらず散らかっており、薄暗い。
地下にこもって研究していたら、昼も夜もわからなくなりそうだ。
「弁当はわけるか。俺のぶんは皿にとる」
由良が渡した弁当を、研究室の隅にあった棚から出した皿に取り分ける。
「紅茶も淹れよう。そこに座って食べろ」
邦香に促されるまま椅子に座って待っていると、いつものローズヒップティーを出された。
その隣に置かれた由良の分の弁当は、明らかに邦香のものより多い。
「邦香さん、あの……」
「力を使って腹が減っているだろう。そもそも由良が金を出して買った弁当だ。遠慮するな」
しばらく戸惑っていた由良だったが、弁当に詰められた鯖の塩焼きがよく照っていておいしそうに見えて仕方ない。
「……では、遠慮なく」
紅茶を一口飲んでから、箸で塩焼きを口に運ぶ。舌の上に乗せるなり、濃い塩気が味覚を刺激した。
「おいしいです」
緊張がほぐれ、身体が軽くなる。ちらりと邦香を打ち見ると、彼は今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。
「邦香さん、笑えたのですね」
思わずこぼれ出た言葉に、邦香は固まった。
「人間だからな、笑いもすれば泣きもする。最近は研究に没頭していて笑う暇もなかったが」
由良は安堵した。
彼は、感情を失っていたわけではなかったのだ。
ただ、日々の暮らしに表情が引きつられる、繊細な情緒を持った人物だったのか。
ローズヒップの香の息を吐き、ここぞとばかりに由良は問うた。
「すみません。研究の内容についてなのですが、小耳に挟んだことがありまして。私の力を取り戻すためだというのは、本当なのですか」
邦香はやや驚いたらしかったが、すぐに平静を取り戻し、組んだ長い足の上に手を置いた。
「本当だ。お前を妻に迎えることが決まった日から、私はずっと弱った力を取り戻すための研究をしていた」
ほんの少し、邦香の耳は赤く色づいていた。
「私は、中学生の頃までは特別強い力の持ち主ではなかった。だが、あの日──試験で良い結果が出なかった私は、機嫌を損ねたまま河原に寄り道をしようとしていた。愚かすぎて笑いも出ない。だが、河原で怪我をした私を由良が助けてくれた。自分より幼い、年端も行かない少女が、恐ろしいほどの力を持っていた……私には、それが衝撃だった」
邦香の指が、由良の顎を掴む。優しく持ち上げられ、かちりと目線がかち合った。
「赤い目の、星の力を持つ少女。若狭郡ではお前しかいない。私は、その日から由良のことが頭から離れなくなってしまった。この時私がお前に抱いていたのは、崇敬の念だっただろうな」
「私などを崇敬する必要ありません。この後、力を弱らせてしまったのですから」
気恥しさに目をそらす。顔から火がでそうだった。
「私が都心の大学から帰ってきて、両親が嫁を迎えろとうるさくなった時、お前のことを再度意識したんだ。あの時の少女は、今ごろ嫁に行く歳になっただろうと。その折に調べさせてもらったが、かつて『神童』と呼ばれていた由良の力が弱っていたことを知った」
若狭郡を治める次期当主の耳には、なにもかも筒抜けらしい。
由良は口の中が急速に乾いていくのを感じた。
「由良を、誰にも渡したくなかったんだ。どうしても、どうしても……他の男の隣で笑うお前を想像しただけで、身が引き裂かれそうになった。私の中で、崇敬は思慕になっていたんだろう」
崇敬が、思慕に。
たった一度助けただけで、と由良は思ったが、自分が逆の立場であったらと思えば、彼が自分に執着するのもわかる気がした。
「両親たちが持ってくる縁談を全て蹴って、代わりに由良だけに当てはまる条件を出し、これを満たす娘を探すという体をとった。特定の娘を指定すると角が立ちそうだったし、変に勘ぐられるのも嫌だったからな。こうするのが最善の策だったんだ」
邦香が紅茶を飲み干す。
「お前を妻に迎える時に、恩人であることと感謝を伝えられなかったのは、私の間違いだったかもしれない。どんな形であれ、過去のことを思い出させては、由良が傷つくかもしれないと思ったから。どう弁明しても、私自身のエゴにしかならないが」
由良は彼の橙色に燃える瞳を眺め、ゆっくりと頷いた。
「こんな私を、妻にしてくれてありがとうございます。あなたは私が他の男性の元に行くのではと案じていたようですが、それは無駄な心配でしたでしょう。私に浮いた話がたつことは一度もありませんでしたから」
もし、あの日に由良が邦香を助けていなかったら。
もし、あの雪の日に邦香が由良を迎えに来てくれなかったら。
──今の生活はなかった。
邦香は由良の自虐的な言葉を笑わなかった。代わりに由良の手をとり、甲をなでる。
じんわりと広がる温かさに、由良の涙腺は緩みそうになったが、すんでのところで耐えた。
「お前と結婚してから長らく研究室にこもっていたが、そろそろ研究の結果が出る時分だ。今夜の一晩頑張れば、朝には完成するだろう」
「それって、私の力が戻ってくるということですか」
「ああ。お前の力が弱ったのは、心と精神に強い衝撃を受けたためだ。力は由良の中に封じ込められた状態で、けっして失われたわけではない。比喩的な言い方だが、この力を封じ込める鎖を解けば、由良の力は元の通りに還ってくるだろう」
邦香の言葉は、由良の希望になった。
「お願いします、私の力をもとに戻していただけますか」
「善処する」
彼の首肯は力強かった。
その晩、由良は研究室の隅に布団を敷いて眠った。いつもは邦香が夜を徹して研究する時に使っている布団だという。
ほとんど干されていないらしく布団は少々かび臭かったが、邦香が使っているものだと思うと気にならなかった。
邦香はずっと書物を開いたり閉じたり、観葉植物のスポイトを抜いて試験管に移したり忙しそうである。
由良は黙って、布団をかぶった。
朝に、彼の研究が終わっていることを願いながら。
翌朝──といっても地下なのでまったく朝日もなかったのだが──時計の針が五時を指したあたりで、由良は邦香に揺り起こされた。
「由良、準備ができたから起きろ」
「準備、ですか」
寝ぼけ眼をこすっている由良に、邦香は切羽詰まった様子で語りかけた。
「研究は終わった。これから由良の力を取り戻すための儀式を行う」
一気に眼が冴え、布団から跳ね起きる。
「こっちだ」
邦香に先導され、研究室の戸を出て地上への階段を駆け上る。
校舎から出ると、校庭の隅に布や観葉植物が広げられ、曙光に照らされているのが見えた。
「布の真ん中に立ってくれ」
言われた通りに、布の中央に立つ。
布には「火」「星」「風」「波」「水」「地」などの力の根源が書かれている。それらの文字の周囲に波紋が描かれ、それぞれが複雑に絡み合っていた。少なくとも素人目に内容はわからない。
「人間で実験することができないから、観葉植物は代用として役立ってもらっていた。スポイトに入れていた水は、力の根源を液状化したものだ。植物には由良と似た負荷をかけた状態にして、スポイトの中身を植物に吸わせている。サンプルで十分な確証が得られたから、やっと実践に移せるというものだ」
説明をしながら邦香が手早く用意を整えていく。
ここに来て由良は自分の身体がどうなるのか不安になってきた。それが彼にも伝わったらしく、「案ずるな」と励まされる。
「では、始めるぞ」
昨日に邦香が振るっていたサーベルを取り出し、刃先を「星」と書かれた布地に突き刺す。
「不知火、焔、雷火に陽炎──そして東の空に赤く浮かぶもの、出でよ」
刺さった場所から、じわじわと血のような染みが出来ていき、それは高さを増して由良を包み込んだ。
赤く染まる視界の中、由良の脳裏には過去の思い出がよみがえっていた。
最初に出てきたのは、両親の顔。彼らは「神童」であった由良に、力の使い方について教えてくれた。
次に現れたのは、力で助けた人々の笑顔だった。中には邦香の顔もある。
(私は、たくさんの人たちを助けてきたんだ。けれど、たった一回の裏切りによって、心を折って動けなくなってしまった)
あの時、由良の心は弱かった。
でも今は違う。自分のことを思い続けてくれた、邦香がいる。
そう思った瞬間、全身に力がみなぎる心地がした。
目の前で星がまたたいている。星の出どころが自分の手からであった。
力が、由良に戻ってきたのだ。
やがて視界の赤はひいていき、校庭の片隅に帰ってきた。
「どうだ、由良。なにか身体に異変はあるか」
邦香がサーベルを抜いて鞘に戻す。
「はい。なんだか……心が満たされる感じがします。今まで失っていた一部がようやく帰ってきて、あるべきところに収まってくれたような、懐かしい心地になりました」
扇子を取り出して、くるくると円を描くようにして回すと、星が生まれて空に飛んでいく。
今までは弱々しい光しか生み出せなかったというのに。
由良が扇子を閉じて邦香を見据えると、彼は長く息を吐いてつぶやいた。
「成功したのか……」
「邦香さんのおかげです。あなたが私のために研究をしてくださらなかったら、私は弱いままでした」
「妻を支えるのは私の役目だ。当然のことをしたまでだから、大仰に喜ぶな」
素直ではない邦香が愛おしい。
力が弱いと馬鹿にされていた過去は変わらないかもしれない──それでも、邦香が自分のために力を注いでくれた事実は揺らがない。
由良は扇子にはめられた赤い石を太陽にかざし、まぶしさに目をすがめた。
昼過ぎに二人は屋敷に戻ってきた。
由良は離れの戸をくぐろうとしたが、邦香に止められた。
ついてくるよう促され、到着したのは本邸の表玄関である。
金属の重い扉を開いた彼は、扉の前で及び腰になっている由良の肩に手を置いた。
「お前が離れにいる必要はないだろう。力がもうあるのだから」
「ですが、お義姉さまやお義母さまに見つかったら咎められてしまいます」
「私が咎めさせない。それに、由良がこの屋敷に入るのは今日が最後になるだろう」
「それは」
どういうことかと問おうとした時、ポーチの奥から薊美が姿を現した。
いつものこじゃれた洋装に身を包んでいるのは変わらないが、切れ長の目の下にはくっきりとした隈が刻まれている。
昨日から寝ていないのかもしれなかった。
「お帰り、邦香」
彼女が目を細めて笑っている。
由良は、薊美のその表情に見覚えがあった。珈琲屋で話した時に向けられた顔と同じなのだ。
笑顔であるのに、目が微塵も笑っていない。
邦香が彼女を無視してあがろうとした瞬間、由良の隣を光の筋が通り抜けた。
気づくと、扉の一部に小さく穴が開いている。
薊美の手には、身体の後ろに隠していたらしい日傘があった。鋭い先端は由良の胸を指している。
あと少しずれていたら、おそらく由良の胸を光が射抜いていただろう。
「姉さん、由良に向けて何をした」
邦香の地を這うような声が壁を震わせる。対して、薊美は平気でのたまった。
「かわいかった邦香をたぶらかした女を仕留めようとしてなにが悪いの。あんたが悪いのよ。私から離れて知らない女に心を寄せたから」
愛情が裏返り、憎悪になったのだと由良は察した。
小さいころからいつくしんでいた存在が自分の手元から離れていく事実を、薊美は受け入れられなかったのかもしれない。
「私の背中から出るんじゃないぞ、由良」
邦香に命じられ、逆らうことなく彼の背中に張り付く。
その行動が薊美の怒りを逆なでしたらしく、彼女は日傘の先に燃え上がる火球を作り出した。
「反抗する気なのね。なら構わないわ。あんたたちもろとも灰になってしまえばいい」
火球がはじけ、二人の身体にせまってくる。
だが、邦香は冷静さを保ったまま、右腕を横に振るった。
火球が中心から二分され、勢いを止めぬまま薊美に返ってくる。
そのまま薊美の顔に衝突し、じゅっと肉の焼けるような音と匂いが鼻を突いた。
「あ、あ⁉ あ……」
ばたばたと手足を動かしてもがき、やみくもに彼女が伸ばした腕が掴んだのは飾られていた花瓶だった。
花を引き抜き、水を顔にぶちまける。煙が広がって火が消えると、薊美は壁にかけられていた鏡を覗きこんで絶叫した。
「私の、私の顔が!」
薊美の顔の右半分に、大きな火傷ができていた。
変わり果てた自分の顔を見つめていた彼女だったが、とうとう腰から頽れた。
「力を傷つける目的で人に向けるものではない。力は己に返ってくるものだ。ゆめゆめ忘れるな」
顔を覆ってうずくまる姉に対して、邦香は冷たく言い放った。
「行こう。こっちだ」
彼に手を取られ、由良は黙ってついていく。
薊美のことが少々気がかりではあったが、自分を傷つけようとしたことを思えば、当然の報いのようにも感じられた。
案内されたのは邦香の自室だった。
よく日の当たる南向きの部屋で、天蓋つきの寝台やワードローブ、革張りの椅子など豪華な調度品が並んでいる。
しかし、そのどれもに埃がうすく被さっていた。
「他人を部屋に入れないようにしている。掃除に入るのも禁止しているゆえ、汚いのは目をつぶってくれ」
「私はいいのですか」
「由良は妻だから他人ではないだろう」
真顔で言われ、由良は思わず固まった。
「……ところで、なぜこのお部屋に私を連れてこられたのですか」
訊くと、彼は椅子の縁に手をかけて振り返った。
「それはだな」
一拍置いて、邦香が少しだけ口の端を持ち上げる。
「引っ越しをするからだ。由良にはその手伝いをしてほしい」
「このお屋敷を出るということですか。では、これからはどちらへ」
「近くに若狭の別荘がある。海に面した綺麗なところだ。そこに移って暮らそうと思っている。学校へ通うのに要する時間が増えるが、致し方ない」
言われてみれば、若狭郡を治める一族が立派な別荘を持っているのは当然な気がする。
由良は別荘という聞きなれない単語に胸が躍り、浮足立ってしまった。
「嬉しいか」
「はい。ずっと離れに一人でいましたから、邦香さんと二人で暮らせるのはこの上なく幸せなことです」
大げさな言い方だったかもしれない。しかし、邦香は馬鹿にすることなく「そうか」とだけ言って頷いた。
「持っていくのは私の家具だけだ。由良のために必要な家具は、後日に買う。下に車を用意させているから、力を使って家具を運ぶのを手伝ってくれ」
「承りました」
部屋に爽やかな空気を呼び込むために、カーテンを開いて大きな窓を開ける。
いっせいに春の香を乗せた風が吹き込み、部屋が明るくなったように思われた。
これから新しい生活が始まる。
由良は改めて夫──邦香に微笑みかけた。
