星の花嫁 置物嫁と火の旦那様

 翌日、由良は早く起きた。
昔のことを考えて寝付けず、夜中に少し寝たくらいで朝日が昇るのと同時に目がさめてしまったのだ。
昨日の人力車の振動のせいか、尻がむずむずしてならない。
相変わらず少ない朝食を済ませ、「置物嫁」の名の通り縁側に座り込んでいた。

(車代のお礼、どうしよう)

 邦香はほとんど屋敷と護衛学校との往復の生活のようで、めったに屋敷では姿を見かけない。
 一度だけ、深夜に帰宅してきた邦香が薔薇の小道を歩いているのを見かけたが、眉間にしわを寄せていて、とてもではないが話しかけられる雰囲気ではなかった。
 護衛学校のお偉い方となると、それなりの責任が伴い、自然と顔も険しくなるのだろう。

(そうだ、お弁当でも作ってみようか)

 食事をしている時くらいは、笑顔になってほしい。
 思い立った由良は本邸に向かい、台所に忍び込んだ。まだ朝は早い。
 昨晩の薊美は闇と盛大に戦って稼いできたらしく、帰りが遅かった。鉢合わせる心配もないだろう。
 台所の隅に野菜や米などが置かれているのを見ていると、大あくびをしながらハルが入ってきた。
 彼女は怪訝そうに由良を眺め、「奥さま、何用でこちらに?」と訊いた。

「すみません、食材を少々いただいてもいいですか。旦那さまのお弁当を作りたいんです。ご迷惑はかけませんから」
「まあ、いいですが。今日の朝食作りの当番は私なんです。邪魔しないでくださいね」

 ハルは着物の上に割烹着をまとい、由良を押しのけて米の準備にかかった。
 さて、なにを作ろうか。食材は限られている。

(ちょうど旬だから菜の花のお浸しと、ご飯に梅干し。卵焼き、鯵の揚げ焼き……)

 適当に放り投げられていた割烹着を借りて、袖をまとめる。
料理は実家でもしていたから、苦ではない。力が弱くなったぶん、家事で役立ちたかったからだ。
流し台の端っこで、洗った菜の花を一口の大きさに切り分ける。
切るたびに青々とした春の香りが漂う、新鮮な菜の花だ。
ハルが火を使う場所から退いた隙を狙って、卵焼きと鯵の揚げ焼きも作った。
曲げわっぱの弁当箱を取り出し、炊けたご飯を詰めて梅干しを乗せる。
おかずも半分空いたところに入れ、弁当は完成した。

(我ながらいい出来)

 蓋をしめ、ゴムでしっかり止める。箸を乗せて風呂敷で包み、あとは邦香に渡すだけだ。
 いつ頃起きてくるのだろうと思っていると、台所に薔子が入ってきた。

「また、台所に入ってきたのですね。あれほど入るなと言ったのに。あなたは若狭の家の嫁としては半人前。まだ私は認めていないのですよ」

 紺色の着物の前で手を重ね合わせた上品なしぐさで、薔子が由良の前に立つ。

「ハルが教えてくれました。邦香さんにお弁当を作りたいと言って、台所に入ってきたと」

 言われて、さっきからハルの姿が見えないことに気づいた。
 由良は自分の間抜けさにめまいがした。
ぬかった! あのハルが、黙って自分を受け入れるはずがないではないか。

「どうしたら……私を若狭の家の嫁として認めてくれるのですか」
「そうですね。その役に立たない微弱な力が強くなったら、認めてあげてもいいでしょう。この本邸に入らないよう言っているのは、あなたが強い力に侵されないよう、邦香さんからのお達しですから。台所に入ることは、邦香さんの約束を破っていることにもなるのですよ。それがお分かりですか」
「……はい」

 そうだった。結婚式の終わりに、邦香から言われていたのだった。

「ごめんなさい」

 由良が頭を下げた隙に、薔子の腕が後ろに伸びた。

「これは私が預かります」

 弁当は薔子の手の中に収まっていた。

「それは、私が邦香さんにあげようと思っていたものです。せめて、邦香さんに渡したいのですが」
「私の言ったことが聞こえなかったのですか。私が預かる、と言ったのです。これは、約束を破った罰だとお思いなさい」

 約束を破った罰だからと言われると、由良は言い返せなくなってしまう。

「それに、邦香はもう屋敷を出ています。仕事が忙しいのでしょう」

 くるりと身をひるがえして、薔子が出て行く。
 由良はその場にうずくまった。
 ほとんど会うことがなくても、彼は自分と結婚した旦那なのだから、少しくらい邦香の役に立ちたい。
 そう思うことが、いけないことなのだろうか。離れに籠らされていては、何一つ動けやしないではないか。
 だが、薔子の言葉に由良の心はぽっきり折れてしまっていた。

「もう、本邸に入るのは最後にします」

 由良は誰に言うでもなくつぶやいた。
 炊けた米をもらい、二つの握り飯にする。中には梅干しを入れた。それを竹皮で包み、さらに風呂敷で包んだ。
 これを、一人で護衛学校に届けよう。
 そして、邦香に役立とうと思うのも、最後にしよう。
 由良は決心して、風呂敷を持って離れへと戻った。


 昼前に、由良は一人で護衛学校へと向かった。若狭郡の中でもとりわけ大きい建物なので、若狭に住む者は誰でもその場所を知っている。
 由良も例にもれず知っていたので、半刻ほどで迷うことなく学校にたどり着いた。

「……大きい」

 要塞のような佇まいの建物に、見上げずにはいられない。堅牢な門には「若狭郡護衛省・護衛学校」と彫られた鉄板がはめられていた。
 門の守衛に邦香の妻であることを名乗り、中へ通してもらう。
 長い道は茶色の煉瓦で舗装されており、歩いている途中に何度も護衛学校の学生とすれ違った。
 彼らは紺色の学帽に詰襟を着ており、胸には邦香がつけていたものと同じ校章を光らせている。
 寒い時期なので、長い外套をまとっている者もいた。
 寒風を避け、そそくさと校舎へと入る。

「失礼します、若狭邦香の妻なのですが、夫はどこにいるかご存じですか」

 試しに事務員らしき眼鏡をかけた若い男性に訊ねると、「わか、さ」と口の中で反芻して「あの、若狭教授の」と瞠目した。

「はい。お弁当を届けに参りました」
「そうですか……。確か、この時間は講義が入っていなかったはずですから、おそらく地下の研究室にいらっしゃるんじゃないでしょうかね。案内しましょうか」
「ぜひ、お願いします」

 事務員に頼み、地下への階段を降りる。
一段一段降りていくにつれ、肌に触れる空気が冷ややかになっていくのが感じられた。

「こちらですね。では、ごゆっくりしていってください」

 事務員を見送り、研究室の戸を叩く。しかし、返事はない。
 もう一度叩いて、それでもなお返事がなかったので、由良はこわごわ戸を開いた。
 室内は地下ということもあって薄暗い。天井にはシェードのある電球がいくつもあり、橙色の光を放っている。

(邦香さんの瞳と同じ色)

 大きな机がいくつかあり、その上にはぶ厚い書物が大量に置かれ、あるいは開かれ、積まれなどしていた。
 開いてある本を覗き込んでも、内容はさっぱりである。おそらく「力」について書かれているようだが、詳細は知れない。
 観葉植物もところせましとあり、実験にでも使われているのか緑色のスポイトが土に刺さっているものもあった。
 なにげなく由良が植物を見ていると、静かに戸が開かれた。
 これまた書物を小脇に携えた邦香が、能面のような顔で立っていた。

「それは実験用の植物だ。触れないでくれ」
「すみません、物珍しかったので……」
「怒っているわけではない」

 邦香は革靴を鳴らして歩き、書物を机に載せる。椅子を二つ引っ張ってきて、一つを由良に差し出した。

「まあ座れ。今日は何用でここまで来たんだ」

 由良は椅子を受け取り、ゆっくりと腰かける。
 それを認め、邦香もどっかと椅子に腰を降ろした。ちょうど向き合う形になる。

「あの、昼食用のおにぎりを持ってきたのですが……もしかして、もうお昼はすませてしまいましたでしょうか」

 由良は握り飯を包んだ風呂敷を取り出す。
 邦香はわずかに目を見開いて、「いや、まだだ」と首を横に振った。

「今日は用事が立て込んでいたから、二時頃に食堂に行くつもりだった。助かった、由良」

 素直に風呂敷を受け取った邦香は、包を開いて竹皮を広げた。

「いい形の握り飯だな、いただきます」

 彼が一つ手に取って食べようとした時、由良の腹から音が鳴った。朝食も昼食も食べていなかったのだ。

「お前、腹が減っているのか」
「い、いえ」
「嘘をつくな。もう一つはお前が食べろ。あと……そうだな」

 邦香は研究室の隅にあるストーブの上の薬缶を取り、カップを準備して湯を注ぎ入れた。
 少しして、研究室にかぐわしい匂いが広がる。

「紅茶だ。お前が気に入ってくれた、ローズヒップの」
「ありがとうございます」

 机に置かれたカップの中身は、あの日と同じ薄茶色で満たされている。

(なんだ、邦香さんは私のこと、気にかけてくれているんだ)

 心がじんわりと温かくなり、結婚した日の気持ちがよみがえってくる。
 二人でほおばる握り飯は冷めていたが、紅茶で温かくなった口の中で、米は優しくほどけていった。
 それぞれ食べ終わって一息つく。
 由良が紅茶の最後の一口を飲み干した時、邦香が立ち上がった。

「握り飯はおいしかった。──だが」

 にわかに、声が険を帯びる。

「握り飯を作ったということは、台所のある本邸に入ったということか」

 カップをソーサーに置く手が震えた。
 言い逃れできるはずもなく、由良も腰を上げる。そのまま深く頭を下げた。

「……はい。邦香さんの言いつけを破ってしまい、申し訳ございませんでした」
(でも、あなたの役に立ちたかったから。ほとんど構われない、置物嫁でも、少しくらい自分を見てほしかった)

 これは言い訳だ。ゆえに、口をついて出ることはなかった。
 邦香は風呂敷を畳んで由良に渡した。

「今のお前は力が弱い。私の近くにいると、私のまとう力に身体が耐えきれなくなってしまう。だから離しているんだ。由良のために。わかってくれ」

 頭を殴られたような衝撃が襲った。
 由良のために。私のために?
 手の中で風呂敷を揉みながら、由良は答えを探していた。
 ──それなら。

「どうして私を妻にしたのですか!」

 全身を振るって出した声は、研究室の壁を揺らした。

「私はあなたの妻です。離されたうえに、夫を一つも支えられない立場に置かれた女を、妻と呼べるものなのですか⁉」
「それは」

 邦香の返事を待つ間もなく、由良は研究室を飛び出した。


 地下の階段をあがって、地階の広間に出る。邦香は追いかけてこなかった。

(追いかけてこないということは、それまでってことだわ)

 痛くなった頭を押さえて学校を出ようとした折、先ほど案内をしてくれた事務員の男とすれ違った。
 彼は不思議そうに訊いてきた。

「もう用事はお済みになったのですか」
「いちおうは」

 目を合わせずに答えると、事務員は苦笑いした。

「そのご様子ですと、若狭教授となにかおありになったようですね。邪推ですが」

 心を読まれているらしい。頷いた由良を見て、彼は「実はですね」と切り出した。

「あの研究室が散らかり始めたのは、ごく最近のことなんです」

 意外な言葉に、由良は素直に耳を傾けた。

「以前は整頓されていた、ということですか」
「ええ。もともと綺麗な部屋であったとは言えませんがね。なぜ散らかっているのだと思いますか」

 唐突に振られた問題に、由良は口ごもる。
 少しの空白があって、事務員は微笑んだ。

「小耳に挟んだことですが、若狭教授が現在研究しているのは、『弱った力を元に戻す方法』なのだそうです」
「弱った、力を」
「奥さまの力が弱ってしまい、結婚した後に同居ができない。それを解消するために、自分がどうしたら良いのかを研究しているのだとか。奥さま、お心当たりは?」

 確か、研究室で邦香は「今のお前は」と言っていた。すなわち、彼は過去の由良を知っているということではないか。
 由良は息を呑んだ。

「でも、それなら! ……力の弱くなった私をなぜ選んだのか、ご存じではありませんか」

 だが、事務員はこの問いにはかぶりを振った。

「いえ、それは私にはわかりかねることです。特別、私と若狭教授は仲が良いわけではありませんから」
「で、ですよね。すみません、突っ込んだことを訊ねてしまって」

 言ってから、「突っ込んだこと」など妻である自分が言うことではなかったと思い直す。
 その時、どこからか鐘の音が鳴り響いてきた。

「どうやら、午課が始まるみたいですね。若狭教授もこれから講義でしょう」

 これでは、今から研究室に戻って問いただすことはできないであろう。

「今日はいろいろ、ありがとうございました。失礼します」

 由良は事務員に向かって腰を折る。彼は顔の前で手を振った。

「これくらい、お安い御用ですから。また用事がありましたら、この私……首藤にお任せください」

 この時由良は、首藤の瞳が緑色──風の力の持ち主の証──であることに気づいた。


 その日の夜のことである。
 由良は目が変に冴えてしまい、布団から身を起こした。
 壁にかかっている時計の針は、十時を指している。

「喉が渇いたな……」

 いつでも飲めるよう、茶は布団の傍らに置いてある。
ハルに頼んで淹れてもらったものなので、いやに味が薄かったりすることが多いのだが。
茶をひとすすりした折、薔薇の道の方から足音がした。
こんな夜に客人か、と首をひねって、気づいた。足音が、昼間に聞いた邦香のものと同じだ。まさか、今帰ってきたというのか。
由良は弾かれたように立ち上がり、寝巻に薄紅色の羽織を着て表に出た。
 ちょうど邦香が帰ってきたところらしく、重そうな鞄を持って歩いている。

「──邦香さん」

 由良が背中に声を投げかけると、彼の足が止まり、ゆっくりと一顧した。

「由良か。まだ寝ていなかったのか」

 目が暗闇に慣れてくると、次第に邦香の表情がわかってくる。だが、いつもと変わらない無表情だった。
 由良は構わず続けた。

「邦香さん。あなたは、私がかつて『神童』と呼ばれていたことを知っていたのですか」

 夜風が高いフェンスを揺らし、乾いた音を鳴らす。
心にすかすかとした虚無の風が流れた心地がして、どこか空しくなる。

「知っていた。お前と結婚する前に、調べさせてもらっている」
「であれば、私がもう強い力を持っていないことなどご存じでしたでしょうに。どうしてそれでも私を選んだのです?」

 ──由良だけに当てはまるような条件をつけてまで。
 ふと、邦香の目が寂し気に伏せられた。

「お前は、私の頭に大きな傷があることを知っているか」

 唐突に逸らされた話題に、由良は戸惑った。

(頭の傷? そんな話は聞いたことがない)
「いいえ……」

 由良が首を振ると、邦香は「そうか」とだけ答え、踵を返した。
 固い革靴の音が遠のき、由良が追いかけるのを拒絶しているかのようだった。

「頭の傷なんて……」

 ふらふらとした足取りで離れに戻り、縁側に腰かける。寒さのせいか、指先は震えていた。

(私が力を失う前、小学生だった時。そういえば、頭に怪我をした少年の傷を治癒してあげたことがあった)

 そう、昔の事である。
 小学校からの帰り道に土手を歩いていると、下の河原で頭を抱えて倒れている少年がいた。
 当時七つだった由良よりも年上で、近くの中学校の制服を着ていた。学帽は近くに落ち、むき出しになった髪を血が濡らしている。
 その光景で悟った。
 彼は土手から降りる途中で転び、河原に転がっている大きな石に頭をぶつけてしまったのだろう。

「大丈夫ですか」

 由良は転ばないよう河原へ降り、少年の傷の様子を見た。彼は右手になにかを握っているようである。
 その手には、橙色の光る石が握られていた。おそらく彼もなんらかの力の持ち主で、力でどうにか治癒を図っているらしい。
 だが、怪我をしたせいか、あるいは少年の力が及ばないのか、いっこうに傷は治癒されない。
 このままでは危ない、と由良は鞄に入れている赤い石のはめられた扇子を取り出した。

明星(みょうじょう)(すばる)暁星(あかつきぼし)──」

 呪文を唱えながら、扇子を少年の傷にかざす。すると赤い石が星のごとく輝き、傷に向けてまばゆい光を放った。
 瞬く間に血は止まり、傷口が閉じていく。痕は残るだろうが、仕方ない。

「これで大丈夫です」

 声をかけると、少年はぱっと顔を上げてしげしげと由良を凝視した。

「……君が、治してくれたの」
「はい。星の力には自信がありますから」
「ありがとう。寄り道していた時に怪我をしたなんて家の人に言えないから、助かったよ」

 そんな会話を交わしたことを覚えている。
 思い出せば、自分は名を名乗っていなかった。単純に忘れていたのだろう。

(あの少年が、邦香さんだったの?)

 思考が止まる。
 由良はすっかり失念していたが、邦香はそんな昔のことを覚えていたのか。
 確かに、命にかかわる怪我をしたところに現れた少女が助けてくれたという記憶は、忘れられるものではないだろう。
 邦香を助けたのが由良であったと彼に訊ねたかったが、自分から言い出すのは恩着せがましい気がしなくもない。
 由良は布団に戻って目を閉じた。
 明日、邦香に頭の傷のことだけを訊いてみよう。
当時の傷がまだ疼くようであれば、星の力で上書きして治癒をしてみるのもいいかもしれない。
決まった力で一度治癒をすると、治癒を受けた傷にはその力の膜が張られ、他の力では治癒ができなくなるのだ。
 もし由良の星の力を邦香の傷が受け入れてくれたら、自分が彼を助けた事実は明白になる。
 治癒の主を訊くよりは、黙って力を使って確かめるのが正解のように思えた。