星の花嫁 置物嫁と火の旦那様

 埃の積もった窓枠を雑巾でぬぐう。まだこの離れには、掃除されていない場所があるようだ。
 ステンドグラスの光る煉瓦造りの洋館。その離れが早蕨由良(さわらびゆら)──今の名字を若狭(わかさ)由良──が住む場所である。
 由良がこの離れに住まうことになったきっかけは、一か月前の結婚だった。
 十八での、初めての結婚。夢を見ていたことは否定できない。
 しかし、今の由良の夢はすでに木っ端みじんに砕かれていた。それも、結婚相手とその周囲の手によって。

「あの、水を汲んできてもいいですか。本邸に入る許可をいただきたいのですけど」

 汚れた雑巾をバケツの中につけて引き上げる。水は灰色によどんでいた。
 部屋の隅で正座をしたまま船をこいでいる使用人のハルに訊ねたが、返事はない。
 無視をしているのか、はたまた本当に眠っているのか。
 結婚してからあてがわれた使用人の彼女は、最初こそはせわしく働いてくれていたが、三日ほどで仕事を放棄した。
 理由は明確、由良を世話するに値しない人物だと判断したからだろう。

「仕方ないわね。お義姉さまたちに見つからないといいのだけど」

 バケツをもって離れを出る。水場はこの離れには用意されていないため、本邸の台所まで行かねばならないのだ。
 この掃除は、由良が勝手にしていることである。する必要などないのだが、動いていなければ退屈すぎて倒れてしまいそうだった。
 離れから本邸の道の間は、茨が巻き付く高いフェンスで飾られている。由良の義両親かつ、屋敷の主人である若狭城介(じょうすけ)の妻、薔子(そうこ)の名にちなんだものだ。
 春の初めということもあって、まだ薔薇は咲いていない。代わりに、植え込みの向こうに佇む木に梅がほころんでいるのが見えた。

「今は誰もいないみたい」

 本邸の勝手口に回り、左右を確認してから台所にあがる。幸い、誰の姿もなかった。
 石造りの流し台に汚れた水を捨て、新しい水を満たしていく。
 透明に澄んだ水に自分の顔が映り込んでいた。
 顔は白く、血の気がない。結婚してからろくなものを食べていないからだろう。今朝だって、米と漬物しか食べていない。他は、食事を持ってくるハルがつまみ食いしたのだ。
 嫁入り前に母が用意してくれた紅色の銘仙が、なぜだかみすぼらしく見えた。

「由良さん、一人でなにをしているの。本邸には入ってはいけないと言いつけたはずよ」

 ふいに投げかけられた冷たい声に、背筋が震えた。一顧すると、セピア色の千鳥格子が織りだされた洋装に身を包んだ義姉──若狭薊美(あざみ)がいた。
 彼女はただでさえ鋭い双眸をさらに吊り上げ、こちらに近づいてくる。
手足は長く、外国人じみた高い鼻を持つ薊美に睨まれると身がすくんでしまう。

「まさか、朝食が足りないからと言って台所に盗み食いに入ったのではないでしょうね」
「いえ、そのようなことは」

 ところが折り悪く、由良の薄い腹から渦巻くような音が鳴った。

「お腹は正直みたいね。情けない音を出すなんてみっともない」

 長くのばされた爪が由良の腹をつつく。我知らず口角が引きつった。

「薊美さん、なにかあったの」

 台所の向こう、広い廊下から中年の女が顔をのぞかせる。義母の薔子だ。

「泥棒猫が入ったのよ。ちゃんと食事はあたえてやっているのに、まだ足りないみたい」

 薊美が吐き捨てると、薔子がため息をついた。

「そう。おにぎりでも与えてやんなさい。お櫃に少し残っているから」
「それもそうね。勝手に食べられちゃたまらないわ。弟に見向きもされない置物嫁のくせに」

 置物嫁。その言葉がぐっさりと由良の心臓に突き刺さる。だが、否定はできない。なぜなら、由良は結婚式の後からまともに旦那と顔を合わせていないからだ。
 由良は薊美に強く身体を押され、勝手口から出された。彼女は米を握るのも面倒と言わんばかりに櫃を開けて投げつけてきた。
 木の蓋が外れて、乾いた音をたてて地面に転がる。米は転がり出て土にまみれてしまい、とてもではないが食べられる状態ではなくなった。

「はは、土なんて置物嫁にはいい付け合わせじゃない」
 薊美のあざ笑う声が頭に響いて離れない。やがて勝手口は勢いよく閉じられ、その場には櫃と汚れた米、由良が残された。

(なぜ、こうなったんだっけ)

 由良は米を見下ろして、ひと月前のことを思い出していた。

   ***

 由良が結婚したのは、若狭邦香(くにか)という二十六の男だった。
 由良が暮らす若狭(ぐん)の一帯を仕切る一族、それが若狭家であり、次期当主でもある彼は、結婚相手を探していたのだ。
 彼自身が切望して探していたのかはわからない。とにかく、邦香の両親が躍起になっているのだと噂では聞いていた。
 ある時、結婚相手探しに躍起になっているはずの若狭家からこんなお触れが出た。

「十八の、瞳の赤い娘を嫁にほしい。この条件は譲れない」

 瞳の色。この国では、瞳の色にその人間が持つ力が現れる。
 かつて、この日の本を創ったと言われる神々が地上に降りてきた時、彼らと彼らに選ばれた人間は契約を交わした。
 神が創った大地を人間に預ける代わりに、闇に生き日の本を脅かす輩から守る術として、自然を操る力を与えたのである。
 風の力、海の力、月の力──力は様々にあったが、由良の一族が持っているのは「星の力」だった。
この力は珍しく、若狭郡では早蕨家しか持っていない。
そして、星の力を持つ人間の瞳は深い血のような赤い色をしていた。

「初めまして、早蕨由良さん」

 雪が降り積もる冬の日、邦香は馬車に乗って早蕨家の門前に現れた。
 傘もささずに馬車から降り、ちょうど玄関から出かけた由良に一礼した。

「あなたは私の求める条件をすべて満たす、唯一の人だ。どうか、私の妻になっていただきたい」

 言葉は甘いが、整った白皙の細面には一つの笑みもない。
 彼はグレーのシャツにベンガラ色の背広を着ていた。髪はやや癖があり、黒々とした艶がゆらゆらとした波をうっている。
 瞳は燃えるような橙。火の力を持つ者の証だった。
 突然の来訪者に由良の両親は驚いたが、若狭家の者だとわかるとすぐに居間へと上げた。

「私の両親にはなかなか息子が生まれず……後継ぎにでもしよう、と姉を遠縁から養女にもらって二年後、私が生まれました」
「それは、それは」

 火鉢を置いた居間に、邦香と両親、少し下がったところに由良が座っている。
 訥々と語る邦香の口調には、あまり感情が現れていない。だが、低く腹に優しく響くような声色をしていた。
 由良はなんとなく、ずっと聞いていたいと思った。
 邦香は表情を変えず、続ける。

「星の力と火の力は関係が深く近い、隣り合った存在です。理由は簡単、どちらも熱く、燃えるからです。そこで、星の力を持つ由良さんを、火の力を持つ私の妻にいただけたら──きっと、強い力が両家にもたらされることでしょう」

「強い力」の言葉に両親の顔が輝く。対して、由良は肩が重くなった。

(強い、力……。かつては、私にもあったもの)

「利己的にも思えるでしょう。しかし、これは悪くない話のはずです。いかがですか」
「由良、どうかな。この話、受けるかい」

 父が一応というように訊いてきたが、彼が求めている答えは是しかないことは明らかだった。
 十八という年齢で縁談の一つもなかった身である。一年前に卒業した女学校で、浮いた話がないことを笑われたくらいだ。
 どこに身を置けばいいのか悩んでいたのは事実である。
 由良は一拍置いてから、おもむろに口を開いた。
 心はすでに決まっていた。

「はい、わかりました。私、邦香さんの妻になります」


 それから間もなく、結納を済ませ、吉日を選んで若狭家で結婚式が行われた。
 集まった早蕨家の親族たちは、大きな洋館に浮足立ちつつも笑顔に満ちている。
 対して、若狭家の義両親と義姉の薊美は険しい面持ちだった。
待望の嫁であるというのになぜだろう、と白無垢に身を包んだ由良は思ったが、口に出して訊けるはずもない。

「行くぞ、由良」
「……はい、邦香さん」

 差し出された邦香の大きい手を取り、由良は高砂へと歩みを進めた。
 式がつつがなく終わり、重い白無垢を脱いで座っていると、邦香が盆を持ってきた。
 西洋で作られたらしいティーカップの中は、薄茶色の液体で満たされている。
ふわりとした薔薇の匂いが香った。

「うちの薔薇から採れた、ローズヒップの紅茶だ。疲れた身体によく染みるだろう」

 礼を言って受け取り、一口飲む。

「おいしいです、こんなハイカラな飲み物、初めて飲みました」

 その時、邦香の微動だにしない表情が少しばかり柔らかくなった。口元がわずかに弧を描いたのだ。
 だが、それも一瞬のことだった。

「申し訳ないが、由良にはこれから離れに住んでもらわないといけない。この屋敷には強い力が満ちているから、少し離れたところにいなければ身体が壊れてしまう」
「わかりました」

 彼の言う通り、由良の身体は重くなっていた。白無垢のせいだけではない。
 力が弱い者が力の強い者の近くにいると、力にあてられて弱ってしまう。

(彼と、一緒に住めないんだ)

 突如として現実を突き付けられ、心臓が縮む心地がした。
 なぜ邦香が条件をつけて妻を求めたのか。なぜ若狭家の者が自分を嫌がっているのか。
 後者は力の弱い自分を厭うているのだとようやく気付いたが、前者の理由がわからない。
 わからないことだらけの知らない屋敷で、由良は一人きりになった。
 しかし、この結婚は己で決めたこと。
 一人でいたとて平気だ、と自分を叱咤し、曲がりかけていた背筋を伸ばした。

   ***

 転がった米を片付けて離れに戻ってきた時には、とうに正午を過ぎていた。
 ハルは昼食を持ってこなかった。台所に入った罰ということらしい。
 することがなくなれば、決まって由良は縁側に座って邦香のことを考える。
 彼は力を持つ者を統率し、教育する護衛学校の教官として働いている。きっと、今ごろは昼休みが終わって午課が始まるあたりだろう。
 ハルよろしくまどろみ始めた折、砂利を踏みしめる足音が近づいてきた。

「由良!」

 はっとして顔を上げると、めかしこんだ薊美が立っていた。

「縁側に座って居眠りなんていい身分ね。本当の置物みたいだったわ」

 ふいに薊美の柳眉が吊り上がった。

「今から街に出るわよ。支度なさい」


 若狭郡の街は、帝都のある武蔵郡に負けないくらいに栄えている。
 大通りでは土煙をあげて馬車が通り過ぎ、後を追うように鐘を鳴らしながら路面電車が走る。
 土煙が目に染みて、由良は目をこすろうとしたが、自分の手首にかかった袋や両手に抱える箱を見て、無理なのだったと思いだした。
 つばの広い帽子をかぶった薊美の後ろを、自分は荷物持ちとして歩かされていたのだ。
 薊美は金遣いが荒い。二十六の邦香の二つ上とのことだが、まだ結婚せずに屋敷にいる。

「そうね、そろそろ珈琲屋で一休みしようかしら」

 長いまつ毛が橙色の瞳の上で揺れる。
彼女もまた火の力の持ち主で、強い力にあてられている様子がないのを見る限り、相当の実力者であろうことは疑いの余地がない。
 二人は珈琲屋の戸をくぐり、窓際の席に腰を降ろした。
 由良はメニューを盗み見て、ふとある文字列に目を止めた。

 ──ローズヒップ茶 二銭

「なに、頼みたいものでもあるの」

 ねめつけるように見られ、由良はかぶりを振った。
 薊美の頼んだ珈琲が一銭五厘なのだ。それより高い紅茶を頼めるはずもない。

「そう。じゃあ私と同じでいいわね。片方がなにも頼まないのも、体裁が悪いから」

メニューを見ずに薊美は女給に注文する。

「珈琲二つ。砂糖もミルクも要らないわ」

 珈琲など飲んだことがない。せめてミルクを入れてくれと思ったが、口に出せなかった。
 やがて、湯気を立ち昇らせる珈琲が運ばれてきた。
 ことり、と固い音をたててカップが目の前に置かれる。黒々とした液体の中に眉根を下げる由良の顔が映っていた。

「……いただきます」

 薊美が飲むのに合わせて、カップを口に運ぶ。口の中に入れた途端、得も言われぬ苦みと酸味が広がった。

(苦い!)

 吹き出しそうになるのを堪えて、どうにか喉に押し込んでいると、薊が口元を抑えているのが視界に入った。

「面白い顔」

 かっと頬に血が集まるのがわかる。首元は熱くなっていた。
由良は消えたくなった。
 こうやって笑いものにされるのはもう慣れたはずなのに、外で笑われるのは初めてだったので、恥ずかしくて仕方ない。

「……私の、なにが気に入らないのですか」

 悔し紛れに訊ねると、薊美はカップを置いて長い息を吐いた。

「なにがって、わからないの?」

 呆れた、とでも言いたげな口ぶりである。

「この郡を治める若狭の血にあんたのような力の弱い者の血が混じるのが嫌なのよ。強い者は強い者同士で縁を結び、弱い者は弱い者で縁を結ぶ。そうして淘汰されるものはされ、強いものは生き残る。それが自然の摂理というものではなくって?」

 予想通りの返答に、由良は口の端を噛んだ。
 どうして変な条件を付けて妻を選び、弱い力の自分をめとったのか。

「なぜ条件を付けて嫁を選んだのですか。私以外にもっといい人はいたでしょうに、選択肢を狭めるようなことをして」
「最初はお母さまたちも、色々な強い力の娘をあてがおうとしていたわ。でも、全部邦香は気に入らないと言ったのよ。そしてついに邦香は条件を出すと宣言してきたの」

『十八の、瞳の赤い娘を嫁にほしい。この条件は譲れない』

「まるで、あんたを探し出すために出したような条件ね」

 薊美がテーブルの上に肘をつき、両手を組んだ。飲みかけの珈琲の表面がさざめき立つ。

「あんた、いつ邦香と出会ったの? 初めて顔を合わせたのはいつ?」

 薊美の顔に笑みが満ちていく。反して、目は笑っていなかった。
 彼女は由良を疑っている。結婚を申し込む以前に、由良と邦香が出会っていたのではないかと探っているのだ。
 熱かった頬に冷や汗が一筋流れる。

「……知りません。会ったはずないんです」

 少なくとも、邦香の顔は記憶にない。

「邦香も変な娘を選んだものだわ。あの子、幼いころは本当にかわいかったのよ。お姉さま、お姉さま、って言って私の後ろをついて歩いていたんだから」

 うっとりと夢見るような様子で薊美が瞑目する。
こつこつとテーブルを叩いていた長い爪が、にわかに由良の眼前に向けられた。

「答えなさい。どうやって邦香をたぶらかしたのか」
「だから知らないと──」

 答えようとした刹那、窓の外から騒音が聞こえてきた。

「闇が現れたぞ!」

 誰かの叫びが響く。それを皮切りに、珈琲屋の客たちが店の奥へと避難していく。
彼ら彼女らの瞳の色は黒──力を持たぬものの証だ。
 待っていたとばかりに薊美が立ち上がった。

「来たみたいね」

 店の戸を開けて駆けだす薊美を呆然と見送り、由良も奥へ避難しようと後ずさりする。
 ところが、その足を止める声があった。

「あんた、瞳が赤いじゃないか。力があるんだろう? 護衛隊の方々が来るまで、闇を引き付けてくれよ」

 黒い瞳の店主に背中を押され、由良は店から押し出される。力を持つ者は、持たないもののために戦うのが常識だった。

「私は、その」

 力なんて、もう。
 抵抗むなしく表の通りにまろびでる。
 そこには、大きな黒いジョロウグモの形をした闇が陣取っていた。
 闇は夕方、すなわち黄昏時から夜明け前に現れる。
日の本が創られる時に地の底に沈められた者たちが、夜の加護をもって頭をもたげるのだ。
 闇たちは人間を食らう。食らった人間は闇を祓うことでしか救えない。
その祓うことを専門に行うのが、各郡に配置された護衛省の護衛隊だった。

「こっちに来なさい、私が祓ってやるわ」

 ジョロウグモと対峙しているのは薊美だった。
橙色の石が結ばれた日傘を構え、先端を突き付けている。

(そうだ。確か護衛隊とは別で、自由に闇と戦う人たちもいるんだった。それで、仕留められるとお金がもらえる……)

 橙色の石が輝き、日傘の先端にまばゆい光が集まっていく。
やがてそれが炎のごとく放たれ、ジョロウグモの頭に命中した。
 ジョロウグモの頭は燃え、ぐうぐうと声にならない呻きをあげながら薊美に立ち向かっていく。
 由良はふところから扇子を取り出した。
この扇子の要には、赤い石がはめ込まれている。
 万が一闇と鉢合わせた時に、対抗できるように持っている代物だ。

(持っているだけ。今の私にはもはや意味のないものだけど)

 その時、薊美を見ていたジョロウグモの複眼が隠れていた由良の方へ向いた。
 まずい、と形ばかり扇子を構えながら狼狽していると、ジョロウグモの足が由良の頭に伸びてきた。
 あ、食われてしまう──と、目を閉じるやいなや、激しい銃声が轟いた。
 ジョロウグモの燃える頭にぷすりと穴が開き、そこから黒い靄が飛び出していく。
 だんだんと闇は薄くなり、ついに消えてしまった。

「命中したか。構えをさげろ」

 腹に響く低い声。それに続く、はっ、と揃った返事。
 弾かれたように目を開けると、ジョロウグモの背後に黒い馬に乗った邦香がいた。その後ろには銃を降ろした数人の男たちがいる。彼らも同じ馬に騎乗している。
護衛隊の乗る馬は闇に紛れやすい黒だと決まっているのだ。

「邦香! 学校はどうしたの」
「姉さんですか。今日は、指導した生徒たちを護衛省の方に連れて行っていましてね。そこに闇が現れたと聞いたので、生徒たちを引き連れて実技演習を兼ね、撃たせてみたのですよ」

 相変わらずの仏頂面で邦香が答える。
 護衛省と護衛学校は付随する施設だ。
由良は詳しくはないが、護衛隊のたまごを引き連れてくることが可能となると、邦香は護衛省においても偉い立場の人間なのかもしれない。

「危ないところだった、まったく」

 紺色の軍服をまとった邦香は、初めて会った時と比べて恐ろしく近寄りがたい。
胸には護衛学校の校章と、護衛省の紋章の飾りがついていた。

「……ところでなぜ、ここに由良がいる。薊美姉さんが連れて来たのか」

 馬から降り、邦香がこちらに歩み寄る。
なぜだか由良はいたたまれなくなって、しどろもどろになってしまった。

「私の買い物に付き合ってもらっただけよ。そこに闇が現れたから、お金稼ぎのために仕留めようとしたってわけ」
「姉さんにとって闇は賞金稼ぎのために存在しているようなものだな」

 ふん、と邦香は鼻を鳴らして、由良の方に向き直った。
 夕日に照らされて、橙色の瞳が鋭く光る。軍服に包まれた厚い胸板が迫り、まるで壁のようになっていた。

「闇に会ったら、必ず離れていろ。どうして面に出てきた」

 語気が強い。由良は息を整えつつ、どうにか平静を装って答えた。

「珈琲屋の主人に押し出されてしまって……。すみません、自分の身も守れないのに」

 目をつぶって頭を深く下げる。
勢いあまって邦香の胸に額がぶつかってしまい、「あ、あ」と情けない声を漏らしながら頭を再び上げた。
さりとて、邦香は意に介した様子はなく、軍帽を被りなおして懐から金を出した。

「わかった。珈琲屋の主人には後で由良のことを言っておく。お前は一人でもう帰れ。車代は私が出す」
「そんな、悪いです」

 由良の返事を黙殺し、彼はちょうど通りがかった人力車に手を掲げて止めた。

「彼女を若狭の屋敷まで乗せてくれ」

 車夫は若狭の名に目を丸くしていたが、ややあって由良を座席に乗せてくれた。
 ふかふかとした紅色の座席に腰を降ろし、落ち着かないでいると、邦香が由良の顔も見ずに小さくつぶやいたのが聞こえた。

「気を付けて帰れ」

 間もなく人力車が動き始め、景色が音もなく流れていく。
身を乗り出して後ろを眺めると、馬に乗った邦香が生徒たちと道の向こうへ走り去るのが見えた。

(邦香さん)

 座席に座り直し、ぼんやりとひざ掛けの上で指を組む。

(私が今でも、強い力の持ち主だったら)

 脳裏に浮かぶのは昔のことばかりだ。
 由良は、かつて「神童」と呼ばれていた。
 生まれながらに星の力をあらわし、小学校に入る前に、ほとんど一人の大人と同等の力を使いこなせていたのだ。

「強い力を持っているからといって、驕ってはいけない」

 両親からはそう教えられ、力は闇と戦う時だけではなく、人助けのためにも使った。むしろ、その方が多かったかもしれない。
 荷物が重くて運べない老婆。
 花を枯らしてしまったと嘆く少女。
 頭をひどく怪我して、血を流す少年。
 彼らに星の力で、力添えをし、甦らせ、治癒をした。
 だが、由良のその行為を黙って見ていられない者がいた。
 小学校の同輩、それも親友だった少女である。
 由良の力を妬んだ彼女は、由良を学校の裏に呼び出して、力を持って暴行を加えようとした。
彼女も由良と並ぶ優秀な力の持ち主だったのだ。それゆえに、肩を並べるよりは抜きんでたかったのだろう。

(力を、人を傷つけるために使ってはいけない)

 由良の中に出来上がっていた美学が、抵抗を許さなかった。
 結果として由良は全身に怪我をして帰ることとなり、早蕨家は騒然となった。
 痛めつけた少女は学校を追われたものの、由良の中には大きなしこりが残った。
親友だった子に、手ひどく裏切られた──。
その事実が由良の精神を揺るがし、強い力を身体の中に封じ込めるように働いたのである。
 自分に力がなければ、並であったら。彼女とずっと仲良くできていたはずなのに。
 たちまち力は弱まり、ほとんど使い物にならなくなってしまった。
 由良の「神童」のあだ名は立ち消え、反対に無能の烙印が押された。
 自分はどうすればよかったのか、時折考えることはある。だが、今さらどうにもならない。
 とっぷりと日が暮れた街を走る人力車に腰かけ、由良は冷えた頬をなでた。