枯れ木に花が咲く頃 ――不要と言われた正室の、静かな大逆転――

六月に入って、江戸にも疫病が来た。

最初は品川の宿場町で倒れる者が出た。それが日本橋に広がり、神田に広がり、日に日に感染が広まっていった。幕府の医師団が奔走したが、どうにもならなかった。

秀隆が光を呼んだのは、品川で最初の患者が出た翌日だった。

光は秀隆の前に座った。

秀隆はしばらく光を見ていた。

「……頼む」

低い声だった。

「頼む。だが、死ぬな」

光は秀隆の顔を見た。

この六年間で、この人がこれほど真剣な目で自分を見たことがあっただろうか。

「将軍様」と光は言いかけた。

「秀隆と、呼べ」と秀隆は言った。

光は一瞬、動きを止めた。

将軍を名で呼ぶなど、御台所であっても通常はしない。それを今、秀隆自身が言った。

「……秀隆様」

秀隆が、初めて、微笑んだ。

ほんのわずかな微笑みだった。けれど光には、それが見えた。

翌朝、江戸城の庭に光が立った。

雅吉が傍らにいた。大奥の女中たちが、遠巻きに見ていた。秀隆が、少し離れたところに立っていた。

光は目を閉じた。

両手を胸の前で重ねた。

祈った。

これまでの祈りとは違う祈りだった。抑えるのではなく、開く祈りだった。六年間、いや、もっと前から封じ込めてきたものを、今日は開く。

光の髪が、白銀に変わった。

ゆっくりと、根元から毛先へと白さが広がっていった。光の瞳が金色に変わった。

周囲の女中たちが息を呑んだ。

庭の枯れた桜の木が、花を咲かせた。一輪、二輪、百輪、千輪。あっという間に満開になった。

光の体から、白い粒子のようなものが広がり始めた。庭を越え、城壁を越え、江戸の町へと広がっていく。

「……すごい」と誰かが呟いた。

光の膝が、曲がった。

崩れ落ちそうになった瞬間、誰かが支えた。

「光!」

秀隆だった。

光を両腕で支えながら、秀隆が叫んだ。

「……もう少し、です」

光は答えた。声が遠かった。体の中から何かが流れ出していく感覚があった。熱い。どこまでも熱い。

「光」と秀隆が言った。「聞こえているか」

「聞こえています」

「死ぬな」

「……はい」

「命令だ」

光は少し笑った。笑いながら、祈り続けた。

江戸の町で、高熱に苦しんでいた者たちの体温が、一斉に下がっていった。眠り続けていた者たちが、少しずつ目を開け始めた。品川の宿場町で、神田で、日本橋で、人々が目を覚ました。

光が意識を失ったのは、それと同時だった。

秀隆が光を抱きかかえた。

「光、目を開けろ。光」

光は答えなかった。

秀隆は光を抱いたまま、しばらく動かなかった。

白銀の髪が、そのまま白く輝いていた。