五月の初めに、陸奥から文が届いた。
母・玲からだった。
光は文を受け取って、一人で部屋に入り、障子を閉めてから開いた。
母の字は、いつも几帳面で整っていた。しかし今日の文字は、少し乱れていた。書く手が震えていたのだろうと、光はすぐにわかった。
光へ。
今すぐ江戸を出なさい。
疫病はお前を呼んでいる。お前が動けば、もう止められない。
光は文を読んで、長い間、動かなかった。
雅吉を呼んだ。
雅吉が文を見て、顔色を変えた。
「御台所様、実は……お話しなければならないことがあります」
雅吉が持ってきたのは、古い記録だった。虫食いで端が欠けた、年代物の文書だった。
「片桐家の、御台所様のご実家の、家系に関する記録です。私が独自に調べておりました」
光はその文書を受け取って、読み始めた。
片桐の家は、神代から続く巫女の血筋の末裔である——
読み進めるうちに、光の手が少しずつ震え始めた。
書かれていたのは、こういうことだった。
片桐の家は、数十年に一度、「神の花嫁」と呼ばれる女を輩出する。その女だけが持つ「御神血」は、疫病や天変地異の際に発現し、国を守る力を持つ。将軍家はこれを知っており、代々、この家系の女を正室として迎えてきた。
そして、片桐の家から将軍家に嫁いだ女が、過去にも一人いた。
光の曽祖母だった。
享保の大飢饉の折、関東に疫病が広まった際に、曽祖母は力を発現させ、疫病を鎮めた。将軍家の記録にはそう書かれていた。
そしてその三日後に、曽祖母は静かに息を引き取ったと。
「御台所様」と雅吉が静かに言った。「力の発現には……命の代償を伴うようです」
光は文書から目を上げなかった。
「……では私は、道具として選ばれたということですか」
「——」
雅吉は答えられなかった。
光は少しの間、窓の外を見た。枯れ木が、変わらずそこに立っていた。
「母が隠していたのは、私が普通の幸せを掴めるようにと思ったからでしょう」
そう言う光の声は、静かだった。怒ってはいなかった。ただ、静かだった。
「幼い頃に一度、力が暴走したことがあります。近くの村の人が何人も昏睡して……私のせいだと思っていました。今もそう思っています。だから、ずっと祈り続けることで、抑えてきました」
「御台所様——」
「入江様」と光は言った。そして顔を上げた。「人が死んでいるのです」
雅吉は光の顔を見た。
その顔には、涙はなかった。ただ、静かな決意があった。もう何年も前から、この人はこういう顔の下に何かを持っていたのだと、雅吉はその瞬間に思った。
「将軍様に、お目通りを願います」
雅吉は深く頭を下げた。
一方、江戸城の御用部屋では、水野頼久が同じ文書のもう一つの写しを眺めていた。
水野がこの秘密を知ったのは、もう五年前のことだった。
光が嫁いでくる前から、水野は知っていた。だからこそ光を孤立させ続けた。将軍が光の力に気づかないように。光が力を使えないように。そして——光が力を使って死ねば、将軍の正室の座が空く。そこに水野の娘を送り込めれば。
水野は文書をそっと文箱に戻した。
御台所がお目通りを願い出たという報告が届いたのは、その翌朝だった。
水野の薄い笑みが、少し固くなった。
母・玲からだった。
光は文を受け取って、一人で部屋に入り、障子を閉めてから開いた。
母の字は、いつも几帳面で整っていた。しかし今日の文字は、少し乱れていた。書く手が震えていたのだろうと、光はすぐにわかった。
光へ。
今すぐ江戸を出なさい。
疫病はお前を呼んでいる。お前が動けば、もう止められない。
光は文を読んで、長い間、動かなかった。
雅吉を呼んだ。
雅吉が文を見て、顔色を変えた。
「御台所様、実は……お話しなければならないことがあります」
雅吉が持ってきたのは、古い記録だった。虫食いで端が欠けた、年代物の文書だった。
「片桐家の、御台所様のご実家の、家系に関する記録です。私が独自に調べておりました」
光はその文書を受け取って、読み始めた。
片桐の家は、神代から続く巫女の血筋の末裔である——
読み進めるうちに、光の手が少しずつ震え始めた。
書かれていたのは、こういうことだった。
片桐の家は、数十年に一度、「神の花嫁」と呼ばれる女を輩出する。その女だけが持つ「御神血」は、疫病や天変地異の際に発現し、国を守る力を持つ。将軍家はこれを知っており、代々、この家系の女を正室として迎えてきた。
そして、片桐の家から将軍家に嫁いだ女が、過去にも一人いた。
光の曽祖母だった。
享保の大飢饉の折、関東に疫病が広まった際に、曽祖母は力を発現させ、疫病を鎮めた。将軍家の記録にはそう書かれていた。
そしてその三日後に、曽祖母は静かに息を引き取ったと。
「御台所様」と雅吉が静かに言った。「力の発現には……命の代償を伴うようです」
光は文書から目を上げなかった。
「……では私は、道具として選ばれたということですか」
「——」
雅吉は答えられなかった。
光は少しの間、窓の外を見た。枯れ木が、変わらずそこに立っていた。
「母が隠していたのは、私が普通の幸せを掴めるようにと思ったからでしょう」
そう言う光の声は、静かだった。怒ってはいなかった。ただ、静かだった。
「幼い頃に一度、力が暴走したことがあります。近くの村の人が何人も昏睡して……私のせいだと思っていました。今もそう思っています。だから、ずっと祈り続けることで、抑えてきました」
「御台所様——」
「入江様」と光は言った。そして顔を上げた。「人が死んでいるのです」
雅吉は光の顔を見た。
その顔には、涙はなかった。ただ、静かな決意があった。もう何年も前から、この人はこういう顔の下に何かを持っていたのだと、雅吉はその瞬間に思った。
「将軍様に、お目通りを願います」
雅吉は深く頭を下げた。
一方、江戸城の御用部屋では、水野頼久が同じ文書のもう一つの写しを眺めていた。
水野がこの秘密を知ったのは、もう五年前のことだった。
光が嫁いでくる前から、水野は知っていた。だからこそ光を孤立させ続けた。将軍が光の力に気づかないように。光が力を使えないように。そして——光が力を使って死ねば、将軍の正室の座が空く。そこに水野の娘を送り込めれば。
水野は文書をそっと文箱に戻した。
御台所がお目通りを願い出たという報告が届いたのは、その翌朝だった。
水野の薄い笑みが、少し固くなった。



