三月の初め、大奥で茶会が催されることになった。
諸藩の奥方を招いての茶会で、主催は御台所、すなわち光である。年に一度の恒例行事で、将軍家の格式を示す大切な場だった。
光は一月前から準備を始めた。
茶器を選び、菓子を選び、席次を考え、庭の手入れを命じ、女中たちへの当日の所作の指導を何度も行った。光はこういった仕事を一人でこなした。誰も手伝わないからではなく、誰かに任せることで粗が出ることを恐れたからだった。将軍家の体裁を傷つけることだけは、したくなかった。
当日の朝、光は夜明けから起きていた。
茶室に入って最後の確認をしようとした時、光は足を止めた。
茶器が、違っていた。
昨日まで並べてあった、将軍家に伝わる由緒ある茶器が、全て粗末な品にすり替えられていた。どこで手に入れたのか、素人目にも粗悪とわかる器が、それらしく並べてあった。
光は少しの間、その茶器を見ていた。
女中たちを問い詰めることもできた。誰がこれをしたか、調べることもできた。しかし今は時間がない。奥方たちが来るまで、あと二刻もない。
光は部屋に戻って、自分の簪を一本抜いた。
雅吉を呼んだ。
「これを持って、日本橋の茶問屋へ行ってください。入江様が個人的に購入したいということで、その店で一番良い茶葉を、これで買えるだけ」
雅吉が目を丸くした。
「御台所様、これはあなた様の——」
「時間がありません。急いで」
雅吉は光の顔を一瞬見て、それから深く頭を下げて走った。
茶器については、光は自分の部屋に飾ってあった小ぶりの茶碗を使うことにした。将軍家の茶器ではないが、光の父が光に持たせてくれた、良質の備前焼だった。派手ではないが、品があった。
奥方たちが集まった。
最初は皆、粗末な茶器が消えていることに気づかなかった。ところが宇和島藩の奥方が、光の手元の備前焼を見て、少し眉を動かした。
「御台所様、その茶碗は……将軍家の品ではありませんね」
座がざわめいた。
「私の手元の品でございます」と光は静かに言った。「今日はこれで皆様をおもてなしいたしたく」
「まあ」という声がした。「将軍家の御台所様が、ご自身の手元の品で……」
くすくすという笑い声がした。嘲るような笑いだった。
光はその笑いを全部聞いた。全部聞きながら、顔色を変えなかった。
雅吉が戻ってきたのは、茶会の半ばだった。雅吉が持ってきた最上の茶葉で点てた茶を飲んで、宇和島藩の奥方が目を細めた。
「……これは」
「いかがでしょうか」と光は言った。
「素晴らしい。江戸でこれほどの茶葉が手に入るとは」
「お気に召していただけたなら、幸いです」
茶会はそのまま穏やかに終わった。
帰り際、宇和島藩の奥方が光に小声で言った。
「御台所様。あなたは……不思議な方ですね」
光は会釈だけした。
全員が帰った後、茶室に一人残った光は、片付けをしながら小さく息をついた。
雅吉が入ってきた。
「御台所様、なぜ私に言ってくださらなかったのですか。茶器のことを。誰がすり替えたか、調べれば——」
「今日の場が終わることの方が大事でした」と光は言った。
「しかし」
「入江様」
光が雅吉の方を向いた。
「将軍家の名誉を傷つけるわけにはいきません。それだけです」
雅吉は何も言えなかった。
その夜、雅吉は一人で水野の動きを探り始めた。茶器のすり替えが偶然であるはずがなかった。誰かが意図して御台所を貶めようとしている。その誰かが誰なのか、雅吉にはおおよその見当がついていた。
茶室で一人残った光は、冷めた茶を一口飲んだ。
それから、初めて、涙が一粒だけ落ちた。
誰も見ていなかった。光は自分でも気づかないうちに、袖でそれを拭っていた。
枯れ木が、窓の外で静かに立っていた。
諸藩の奥方を招いての茶会で、主催は御台所、すなわち光である。年に一度の恒例行事で、将軍家の格式を示す大切な場だった。
光は一月前から準備を始めた。
茶器を選び、菓子を選び、席次を考え、庭の手入れを命じ、女中たちへの当日の所作の指導を何度も行った。光はこういった仕事を一人でこなした。誰も手伝わないからではなく、誰かに任せることで粗が出ることを恐れたからだった。将軍家の体裁を傷つけることだけは、したくなかった。
当日の朝、光は夜明けから起きていた。
茶室に入って最後の確認をしようとした時、光は足を止めた。
茶器が、違っていた。
昨日まで並べてあった、将軍家に伝わる由緒ある茶器が、全て粗末な品にすり替えられていた。どこで手に入れたのか、素人目にも粗悪とわかる器が、それらしく並べてあった。
光は少しの間、その茶器を見ていた。
女中たちを問い詰めることもできた。誰がこれをしたか、調べることもできた。しかし今は時間がない。奥方たちが来るまで、あと二刻もない。
光は部屋に戻って、自分の簪を一本抜いた。
雅吉を呼んだ。
「これを持って、日本橋の茶問屋へ行ってください。入江様が個人的に購入したいということで、その店で一番良い茶葉を、これで買えるだけ」
雅吉が目を丸くした。
「御台所様、これはあなた様の——」
「時間がありません。急いで」
雅吉は光の顔を一瞬見て、それから深く頭を下げて走った。
茶器については、光は自分の部屋に飾ってあった小ぶりの茶碗を使うことにした。将軍家の茶器ではないが、光の父が光に持たせてくれた、良質の備前焼だった。派手ではないが、品があった。
奥方たちが集まった。
最初は皆、粗末な茶器が消えていることに気づかなかった。ところが宇和島藩の奥方が、光の手元の備前焼を見て、少し眉を動かした。
「御台所様、その茶碗は……将軍家の品ではありませんね」
座がざわめいた。
「私の手元の品でございます」と光は静かに言った。「今日はこれで皆様をおもてなしいたしたく」
「まあ」という声がした。「将軍家の御台所様が、ご自身の手元の品で……」
くすくすという笑い声がした。嘲るような笑いだった。
光はその笑いを全部聞いた。全部聞きながら、顔色を変えなかった。
雅吉が戻ってきたのは、茶会の半ばだった。雅吉が持ってきた最上の茶葉で点てた茶を飲んで、宇和島藩の奥方が目を細めた。
「……これは」
「いかがでしょうか」と光は言った。
「素晴らしい。江戸でこれほどの茶葉が手に入るとは」
「お気に召していただけたなら、幸いです」
茶会はそのまま穏やかに終わった。
帰り際、宇和島藩の奥方が光に小声で言った。
「御台所様。あなたは……不思議な方ですね」
光は会釈だけした。
全員が帰った後、茶室に一人残った光は、片付けをしながら小さく息をついた。
雅吉が入ってきた。
「御台所様、なぜ私に言ってくださらなかったのですか。茶器のことを。誰がすり替えたか、調べれば——」
「今日の場が終わることの方が大事でした」と光は言った。
「しかし」
「入江様」
光が雅吉の方を向いた。
「将軍家の名誉を傷つけるわけにはいきません。それだけです」
雅吉は何も言えなかった。
その夜、雅吉は一人で水野の動きを探り始めた。茶器のすり替えが偶然であるはずがなかった。誰かが意図して御台所を貶めようとしている。その誰かが誰なのか、雅吉にはおおよその見当がついていた。
茶室で一人残った光は、冷めた茶を一口飲んだ。
それから、初めて、涙が一粒だけ落ちた。
誰も見ていなかった。光は自分でも気づかないうちに、袖でそれを拭っていた。
枯れ木が、窓の外で静かに立っていた。



