翌朝、光が縁側で茶を飲んでいると、廊下の方から明るい声がした。
「御台所様、少しよろしいですか」
顔を上げると、お夕が立っていた。
お夕は、軽やかな萌黄色の着物を着て、丸い目をぱちぱちとさせながら光を見ていた。その目に悪意はなかった。悪意がないどころか、純粋な好奇心が光っていて、光はどう対応すればよいか、一瞬戸惑った。
大奥では誰も、光に用があって訪ねてくることはなかった。
「どうぞ」と光は言った。
お夕が縁側に腰を下ろした。女中が茶を持ってきて、お夕はそれをひと口飲んで、それからまた光を見た。
「御台所様って、何を考えておいでなんですか」
唐突な問いだった。
「怒ったりしないんですか、こういう生活が」
光は少しの間、お夕の顔を見た。
「怒る?」
「だって……将軍様はずっと私のところへ……あ、すみません、こういうことを申し上げるのは」
「いいえ」
光は首を振った。
「怒っていないと言えば、嘘になります。けれど、怒りを誰かにぶつけても、何も変わらない。私はそれがわかっているだけです」
お夕は少しの間、黙っていた。
「御台所様は、怖くないんですか。こんなふうに……誰にも顧みられないことが」
光は窓の外の枯れ木を見た。
「怖い? 何も感じなくなることの方が、怖いかもしれません」
お夕が、思いがけず目を潤ませた。
「私、御台所様のことが怖かったんです。近寄ったらいけない方だと思っていて。でも違うんですね」
「私は誰も怨みません」と光は言った。「お夕様のことも。あなたは何も悪くない」
お夕がぽろりと涙を落とした。
「なんで御台所様がそんなに……」
「泣かないでください」と光は言った。「私が困ります」
そう言ってから、光は自分でも驚いた。今のは、冗談のようなものだった。大奥に来てから、冗談を言ったことなど一度もなかった。
お夕がくすりと笑った。
二人はしばらく、並んで庭を見ていた。
その日の夕刻、大奥の女中たちは目を丸くした。御台所様とお夕様が、縁側に並んで茶を飲んでいるのを見たからだった。
一方、江戸城の御用部屋では、筆頭老中・水野頼久が一枚の書状を眺めていた。
書状には、陸奥の小藩・片桐家の家系に関する調査結果が書かれていた。水野はそれを読み終えると、静かに文箱にしまった。その顔に、薄い笑みが浮かんでいた。
その夜も光は庭に出て、枯れ木の前で祈った。
今夜は木が光ることはなかった。
けれど光は知らなかった。廊下の柱の陰に、また誰かが立っていたことを。
入江雅吉という、光付きの御用人が立っていたことを。
雅吉は三十歳で、二年前に光付きに命じられた。細身で目立たない顔立ちの、静かな男だった。最初の半年、雅吉は大奥でもっとも面白みのない役目だと思っていた。顧みられない御台所の御用人など、出世の見込みもない閑職だと。
けれど今は違う。
雅吉は光の祈る姿を見ていた。あの姿をもう何十度見たかわからない。どんな言葉も出てこない姿だった。あれほど孤独で、あれほど美しい祈り方を、雅吉は見たことがなかった。
光が部屋に戻ると、雅吉は暗がりの中で少しの間立ったままでいた。
この方を、誰かが守らなければならない。
そう思いながら。
「御台所様、少しよろしいですか」
顔を上げると、お夕が立っていた。
お夕は、軽やかな萌黄色の着物を着て、丸い目をぱちぱちとさせながら光を見ていた。その目に悪意はなかった。悪意がないどころか、純粋な好奇心が光っていて、光はどう対応すればよいか、一瞬戸惑った。
大奥では誰も、光に用があって訪ねてくることはなかった。
「どうぞ」と光は言った。
お夕が縁側に腰を下ろした。女中が茶を持ってきて、お夕はそれをひと口飲んで、それからまた光を見た。
「御台所様って、何を考えておいでなんですか」
唐突な問いだった。
「怒ったりしないんですか、こういう生活が」
光は少しの間、お夕の顔を見た。
「怒る?」
「だって……将軍様はずっと私のところへ……あ、すみません、こういうことを申し上げるのは」
「いいえ」
光は首を振った。
「怒っていないと言えば、嘘になります。けれど、怒りを誰かにぶつけても、何も変わらない。私はそれがわかっているだけです」
お夕は少しの間、黙っていた。
「御台所様は、怖くないんですか。こんなふうに……誰にも顧みられないことが」
光は窓の外の枯れ木を見た。
「怖い? 何も感じなくなることの方が、怖いかもしれません」
お夕が、思いがけず目を潤ませた。
「私、御台所様のことが怖かったんです。近寄ったらいけない方だと思っていて。でも違うんですね」
「私は誰も怨みません」と光は言った。「お夕様のことも。あなたは何も悪くない」
お夕がぽろりと涙を落とした。
「なんで御台所様がそんなに……」
「泣かないでください」と光は言った。「私が困ります」
そう言ってから、光は自分でも驚いた。今のは、冗談のようなものだった。大奥に来てから、冗談を言ったことなど一度もなかった。
お夕がくすりと笑った。
二人はしばらく、並んで庭を見ていた。
その日の夕刻、大奥の女中たちは目を丸くした。御台所様とお夕様が、縁側に並んで茶を飲んでいるのを見たからだった。
一方、江戸城の御用部屋では、筆頭老中・水野頼久が一枚の書状を眺めていた。
書状には、陸奥の小藩・片桐家の家系に関する調査結果が書かれていた。水野はそれを読み終えると、静かに文箱にしまった。その顔に、薄い笑みが浮かんでいた。
その夜も光は庭に出て、枯れ木の前で祈った。
今夜は木が光ることはなかった。
けれど光は知らなかった。廊下の柱の陰に、また誰かが立っていたことを。
入江雅吉という、光付きの御用人が立っていたことを。
雅吉は三十歳で、二年前に光付きに命じられた。細身で目立たない顔立ちの、静かな男だった。最初の半年、雅吉は大奥でもっとも面白みのない役目だと思っていた。顧みられない御台所の御用人など、出世の見込みもない閑職だと。
けれど今は違う。
雅吉は光の祈る姿を見ていた。あの姿をもう何十度見たかわからない。どんな言葉も出てこない姿だった。あれほど孤独で、あれほど美しい祈り方を、雅吉は見たことがなかった。
光が部屋に戻ると、雅吉は暗がりの中で少しの間立ったままでいた。
この方を、誰かが守らなければならない。
そう思いながら。



