枯れ木に花が咲く頃 ――不要と言われた正室の、静かな大逆転――

元禄の世から数十年が流れた、享保の春。

江戸城大奥の廊下は、いつも静かだった。静かすぎるほどに静かで、その静けさの中心にいつも一人の女がいた。

片桐光という女である。

年は二十八。将軍・徳川秀隆の正室、すなわち御台所という、この国でもっとも高い位にある妻だった。

もっとも高い位にある妻が、もっとも誰にも見えない女だった。

廊下を歩けば、女中たちがひそひそと声を落とす。光には聞こえている。全部、聞こえている。けれど光は聞こえていないふりをして、ただまっすぐに歩く。背筋を伸ばして、視線を正面に向けて、薄墨色の着物の裾を静かに引いて歩く。

「今日で五日目だそうよ」

「お夕様のところへ?」

「しっ、声が大きい」

ひそひそ。くすくす。

光は歩く。

将軍・秀隆がお夕の部屋に入って五日目だということは、光も知っていた。知らないはずがない。大奥では水が流れるより早く、そういう話が広まる。

お夕というのは秀隆が三年前から寵愛している側室で、年は二十五、明るく愛嬌があり、大奥の者たちから好かれていた。光がこの城に嫁いで六年、秀隆が光の部屋に来たのは最初の一年で数えるほど、それ以降は形ばかりの対面の儀が月に一度あるだけで、あとは何もなかった。

何もない、というのは、本当に何もない、ということだった。

廊下の角を曲がると、向こうから女中が三人やってくるのが見えた。光の顔を見て、三人は少しだけ足を止め、それから会釈をして通り過ぎた。腫れ物に触るような、そういう会釈だった。

光は立ち止まらなかった。

自分の部屋に戻って、障子を閉めて、一人で座った。

部屋には小さな文机があって、その上に硯と筆と、薄い紙が重ねてあった。光は毎日、日記をつけていた。大奥に来た最初の日から、一日も欠かさず。

筆を取って、墨を磨って、光はゆっくりと書いた。

今日も見えない妻であった。それでよい。私は、誰も傷つけない。それだけでよい。

書き終えて、光は筆を置いた。

窓の外に、庭が見えた。枯れた桜の木が一本、もう何年も花を咲かせないまま、ただそこに立っていた。植木師が首を傾げ続けている木で、伐るべきか否かという話が出たこともあったが、光が「もう少し待ってください」と言って、それ以来誰も何も言わなくなった木だった。

なぜ伐らないでほしいと思ったのか、光自身にもよくわからなかった。ただ、あの木がそこにいる限り、自分もここにいてよい気がした。枯れていても、そこに立っている木のように、自分もここに立っていてよい気がした。

夜になった。

大奥が眠りに落ちた頃、光は一人で庭に出た。

これも毎日の習慣だった。誰もいない庭に出て、枯れた桜の木の前に立って、ただ祈る。何に祈るのかは、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、祈らずにはいられなかった。幼い頃から、夜になると祈らずにはいられない性質で、それだけは六年経っても変わらなかった。

目を閉じて、両手を胸の前で重ねて、光は祈った。

その瞬間だった。

枯れた桜の木が、ほんの一瞬だけ、満開になった。

光が目を開けた時には、もう元の枯れ木に戻っていた。

光は長い間、その木を見ていた。それから小さく息をついて、部屋に戻った。

知らなかった。その一瞬を、廊下の暗がりから見ていた者がいたことを。

その者は、光が部屋に戻るまで、ずっと動かなかった。枯れ木が満開になった光景を、まばたきもせずに見ていた。

将軍・徳川秀隆は、その夜、なかなか眠ることができなかった。