その部屋には黒い扉があった。
カナエは鍵がかけられていて開かないのだと言ったが。
鍵ではなく術で扉が開かないようになっているのがわかる。扉の前に立つだけで、莎夜香には感じるものがあった。
(でもこれ、私は平気かも。わりと弱い術ね。私の神霊力で開けられそう)
でもその前に。
莎夜香はカナエに一声かけてもらうことにした。
「坊ちゃん、どうかお食事をとってくださいませ。奥様もお顔が見たいと一緒にいらっしゃってますよ」
返事はなかった。
「閣下、扉を開けてもらえませんか?皆が心配していますよ」
莎夜香の呼びかけにも返事はない。
(まったく!返事くらいできないの?中で具合が悪くなったりとか、倒れてるとか!みんなそういう心配してるのに!)
「カナエさん、どうやらこの扉には鍵ではなくて術がかけられているようです。でも私の異能で開けられそうなので。一度、私だけ入ってみますね。閣下とお話しができるといいけれど。カナエさんは私が呼ぶまでここで待っていてください」
「わかりました。奥様、どうか坊ちゃんをよろしくお願いします」
莎夜香は頷き、扉の取っ手に触れた。
邪気を祓うときのように清浄な霊気を高めながら、それが取っ手に伝わるよう意識して、莎夜香は扉を開けた。
「閣下……緇綺様、入りますよ?」
中は薄暗い廊下が続き、とても寒い。そのまま進んでいくと、小さな明かりが灯された空間に出て、部屋の中央に緇綺が困惑した表情で立っていた。
「まさかあなたがここまで入ってこれるなんて。私の術が破られるとは思いませんでした。なぜ入ってきたんですか」
「緇綺様はこの部屋へ入ると何日も食事をしないと聞いて。カナエさんが心配しています。食事はきちんと摂るべきです」
「カナエにはなんの心配もいらないと伝えてください。私はまだここでやることがあるので。あなたも戻ってください」
「なにをしているんですか?結界強化に必要なことですか?」
「ええ、そういうことです」
「飲まず食わずで続けるなんて危険です」
「私のことよりあなたはどうなんですか?力の抑制のこと、神獣と相談しましたか?」
「──はい。ですからそのことでお話ししたかったんですよ」
「では手短に、結論だけでいいです」
苛立つような言い方に、こちらも腹が立ちそうになるが、莎夜香は一呼吸おいてから言った。
「力の抑制は私の健康によくないと神獣に言われました。危険もあり、慣れたとしても体調を崩すことが多くなるだろうと。それで……」
「まさか試したんですか?」
「えっ?───っ⁉」
緇綺がいきなり近付いて手を伸ばし、その指先は莎夜香の頬に触れた。
(なんて冷たい手!)
莎夜香は驚きと共に首を振った。触れていたのはほんの数秒だったが、緇綺の手の冷たさは息を呑むほどだった。
「……そんなに危険なら抑制はしなくていいです」
緇綺は呟くように言うと、気まずい顔で視線をそらした。
莎夜香はそんな緇綺の片手を取り、怒った口調で言った。
「こんなに冷たい手をして!身体が冷えてる証拠ですっ。ここは寒いし、ご飯も食べてないし、風邪ひきます!ここから出てください!」
「そういうわけには……」
緇綺は莎夜香の手を振りほどくことはなかったが、動こうともしなかった。
けれど莎夜香もまた、手を離そうとしなかった。
「私、力の抑制はできませんけど、結界を張れるように神獣から教えてもらうことにしました。私の結界でお屋敷を守ります」
「あなたが結界を?でも覚えるまで時間が必要でしょう?それまで屋敷の結界を、今よりもっと強力なものにしておかないとならないのです」
「だったら神獣たちに協力させます。あなただって今以上に危険な魔性力を高め続けていくわけにもいかないでしょう?」
緇綺は黙ったままだった。
「私が結界を扱えるようになるまで、必要なだけ神獣の力で補えばいいんです」
「しかし……。あなたの肩に乗ってるやつが、さっきからギャーギャーと文句を言ってるようだが」
確かに。ナギはあまり緇綺に協力したくない様子だ。
……でも。
「大丈夫です。口うるさく言うのは、ナギが私のことを心配してるからです。緇綺様だってさっき、私のことを心配してくれましたよね?」
(力の抑制が私の健康に害を及ぼすと聞いて。もう試したのかと慌てて………)
頬に触れたのは心配だという感情が起こり、咄嗟に行動したのではないだろうか。
莎夜香の問いかけに、緇綺は無言だった。
「緇綺様。私も緇綺様のことが心配です。でもそれは私だけじゃありません、カナエさんも、屋敷の使用人たちだってあなたのことを心配してますよ。緇綺様だって、皆のことが心配だから、大切に思っているから、二度と誰かが傷付かないようにと、そう思って結界を強力なものにしようとしているんでしょ?」
守護殿と呼ぶ建物まであるのだ。いざというときに使用人たちが逃げ込める場所まで用意されているのは、緇綺が皆を大切に思っているからだろう。
緇綺は莎夜香の言葉を受け入れたかのように小さく頷くと口を開いた。
「カナエもほかの使用人たちも皆、昔から黒曜家に仕えてくれている。悪い噂が多い家なのに。それでも働いてくれている皆を危険な目に遭わせたくないんだ。だから……」
「焦っているのですね?それだけ皆のことが大切なんですね」
「なぜわかるのですか?」
「だって、大切に思う気持ちも、心配する気持ちも、焦るのも、人であればあたりまえの感情だからです。たとえ緇綺様に魔性の血が流れていても、半分は人。ちゃんと温かい心があるからです。『心配』するのは『大切なもの』として想っている証拠です」
「大切なもの……」
「緇綺様、お部屋を出ましょう。緇綺様と一緒でなければ私もこの部屋から出ません。……寒いけど。私が風邪ひいたらあなたのせいですからね」
「………わかりました、行きます」
緇綺は歩き出した。莎夜香は掴んでいた手を離そうとしたのだが、緇綺の手がそれを許さず、今度は逆にしっかりと繋がれてしまった。
手を繋いだまま歩き出すと、なんだか婚儀のときを思い出した。
あのときは正直不安で、絶望感もあったけれど。
今は違うから不思議だ。
莎夜香は今いる場所で、自分ができることをしたいと思うようになっていた。
「緇綺様、ここを出たら私の部屋で一緒に朝ご飯を食べませんか?」
「……はい」
無愛想で無機質な印象の返事だったけれど、拒否されないだけでもいいかと莎夜香は思った。
「私、誰かと一緒にご飯を食べるのが夢でした。離宮にいたときはずっと何年も食事はひとりだったから。神獣たちは見守ってくれたけど、一緒に食べるという行為はできないので」
「そうでしたか。……私も誰かと一緒に食事をするのはとても久しぶりです」
廊下から黒扉を開けると、外でカナエがホッとしたように微笑んだ。
「心配をかけたな、カナエ」
緇綺の言葉に、カナエは瞳を潤ませながら頷きを返した。
「カナエさん。これから私の部屋で緇綺様と一緒に朝ご飯を食べるので、準備をお願いします」
「はい!かしこまりました」
カナエは嬉しそうな笑顔で、緇綺と莎夜香に会釈をすると、急ぎ足でその場を離れた。
「私たちはゆっくり行きましょう」
緇綺が言った。
「はい。……あの、緇綺様。私が結界を使う件、許してくれますか?」
歩き出す前に、莎夜香は改めて聞いてみた。すると緇綺は意外にも優しい眼差しを向けながら言った。
「部屋の扉にかけた術を簡単に解いたくらいですから、あなたの結界も頑強なのでしょう。見てみたいです」
「じゃあ、いいんですね?ありがとうございます!私の希望を受け入れてくださって」
「では私からも、ひとつ希望を」
「はい、なんでしょう?」
しばらくの間があったが、緇綺は真っ直ぐに莎夜香を見つめて言った。
「あなたを愛してもいいですか?」
莎夜香は驚いて瞳を大きく見開いた。
まさかそんな言葉が聞けるなんて。
「ダメだと言っても遅いので。あなたはもう、私の大切な者になりましたから」
誰かの大切な者になる。そして愛されて幸せになる……。
それは莎夜香がずっと欲しかった願いでもあった。
「あの……私……」
(──でも。本当に?)
「形だけの夫婦でなく、私はあなたと本当の夫婦になりたいと思います。私の希望を受け入れてくれますか?」
(でも私は戦利品で。逃亡だって考えていて……)
本当に、いいのだろうか。
莎夜香が返事に詰まっていたそのとき、肩に乗っていたナギがふわりと空へ飛び立ち、そよ風を吹かせながら言った。
「はぁ〜もう!あんたたち、お熱いけどなんだかじれったいわねッ。あたしはこれから屋敷の結界を見回ってくるから。莎夜香は素直に返事をしなさい!………気付いてるでしょ?自分の本当の気持ちに。あたし、先に言っちゃうわよ!──おめでとう、莎夜香!」
ナギは翼を広げると大空高く舞い上がった。
「もしかして、あの神獣が反対でもしてますか?」
「いえ!……いいえ、違うんです。決心が弱い私を叱って……。あの……緇綺様、私でよければ……」
「あなたがいいです」
莎夜香は頷いた。
「──はい、緇綺様。私、とても嬉しいです!」
莎夜香が答えると、晴天の空から柔らかくて優しい春の光を含んだような風が、二人を祝福するように吹き渡った。
