年下将軍閣下の戦利品花嫁〜この婚姻、ワケありで歓迎もされてないようなので、逃亡しようと思います。

 屋内の廊下をしばらく進んだところで、カナエは立ち止まり莎夜香に言った。

「ここから先は中庭の渡り廊下になります」

 見覚えがあった。婚儀の後、広間の祭壇横にある細い通路を抜けた先には中庭があり、左右に続く渡り廊下があったのだ。

「守護殿までもう少しです」

 廊下に出ると風に乗って邪気の気配を強く感じた。

「大きいのが一匹暴れてるみたいね。でもそれだけじゃない。ほかにも集まってきてるわ」

(えっ⁉ 妖獣は一匹じゃないの?)

 ナギの声に莎夜香は叫びそうになった。

「……カナエさん。閣下は今どちらに?」

「坊ちゃんは現れた妖獣を祓うために戦っておられます。妖獣を守護殿に近付けないため……っ⁉」

 突然、カナエがヒッと声を上げた。
 見れば前方に邪気を放つ何かがいる。
 周囲に置かれた石灯籠から漏れる仄かな明かりの中、それは赤黒い色で四肢があり蜥蜴のような姿の妖獣だった。赤子が四つん這いになったくらいの大きさで、紫色の眼が一つと、大きく裂けた口には牙があり、不気味な唸り声を上げている。

「お、奥様ッ……」

 カナエが震えながら言った。

「私が囮になりますから。奥様は隙を見て走ってください」

「何言ってるの!」

 莎夜香は首を振った。

「カナエさん、あなたが囮になる必要はないわ。──ナギ、どう?風の力で祓えそう?」

「そうね。でも莎夜香の神霊気も必要よ」

「わかった。じゃあ、まずは攻撃を」

 莎夜香はカナエの前に立った。

「……あ、あのっ。奥様……?いったい誰と話を……?」

「ミカゼとマオトはカナエさんを護っていてね」

 目の前で背を向けた莎夜香の身体から、淡い光と炎のような揺めきが昇るのをカナエは見た。そして莎夜香は、あろうことか前方に現れた恐ろしい妖獣へと一歩を踏み出したのだ。

「いけません!奥様っ」

 莎夜香を止めようとしたカナエだったが、目の前を淡い光の壁のようなものに遮られ、進むことができなくなった。

「神獣ナギよ、風神の力を起こせ!」

 莎夜香はこう言いながら自分の霊気を放つ動作をした。
 高く上げた右手を一気に振り下ろす。すると指先から放たれた神聖力が、ナギの霊気と混ざり、刃となって妖獣を攻撃する。
 勢いを増していく風の中で、莎夜香はまた呟いた。

「神聖なる風よ、疾風(ハヤテ)の刃となり悪しき獣を祓え!」

 ナギが空中で大きく翼を広げると、青銀色の輝きが妖獣に降り注いだ。
 その眩しさに目を閉じ、次に莎夜香が目を開けたときにはもう、あの蜥蜴のような妖獣は跡形もなく消えていた。

「莎夜香、大丈夫?」

「……うん」

 返事はしたものの、こんなふうに霊力を強く使ったのは初めてだったせいか、少し目眩を感じる。

「大丈夫。今のうちにカナエさんと守護殿へ行かないと」

 莎夜香はミカゼとマオトの力で護られたカナエに駆け寄った。

「ミカゼもマオトもご苦労様」

 二匹の力を戻すべきか、それともこのまま護りの力を維持させながら守護殿へ行くべきかと考えたときだった。

「奥様っ」

「莎夜香!まだ近くにいる!」

 カナエとナギの声を受け、嫌な気配がする方へ視線を向けると、茂みの陰で何かが蠢いていた。
 けれど目を凝らしてその姿を確かめる間もないまま、それは莎夜香に向かって飛び出して来た。
 瞬時にナギが吹かせた清浄な風に包まれ、守られる気配を感じたが、長くは持たなかった。
 茂みの陰からムカデのような妖獣が次から次へと現れ、地を這い、莎夜香とナギへ迫る。
 もうダメかと思った瞬間、氷のように冷たい風が吹き降りた。

(この霊気は……)

 莎夜香の前に降り立ったのは緇綺だった。
 緇綺は手にしていた刀剣で、向かってくる妖獣を難なく斬り祓っていく。そしてその動きと力に妖獣たちが怯んだ一瞬の隙を狙い、緇綺は構えていた刀を大きく振り下ろした。
 その斬撃はムカデの妖獣たちを瞬く間に祓い消した。

(凄い力。………だけど。危険な予感がする)

 緇綺の肩が大きく上下して動いている。苦しそうな様子が後ろ姿からでもわかる。緇綺は自身の魔性が暴走しないように、必死になって抑えようとしているのだろう。
 緇綺の苦痛をなんとかしてあげたい。莎夜香は思った。このままではまた違う妖獣が引き寄せられるのではないだろうかと。

「莎夜香、何する気?」

 ナギの声に答えず、莎夜香はふらつきながら緇綺に近寄った。

 何をどうしたらいいかわからない。この行動が、本能的なものなのか、どんな結果をもたらすのかも。
 ただ、心と身体が動くままに莎夜香は行動していた。
 目眩はまだ続いているし、緇綺の魔性の影響か、近付くほどにこちらまで息苦しい。

(それでも。なんだか放って置けなくて。怖いけど、あのひとの苦痛と一緒に伝わってくるものが、私の知っているものと同じような気がするから)

 莎夜香の気配に気付いた緇綺が驚いたように振り向いた。けれど莎夜香は構わずに両手を広げ、緇綺の胸に抱き付いた。
 巫女の血族には浄化の気が備わってる。そして意識しなくても自然に放たれている霊気があるのだとナギは言っていた。
 魔性の力で張り巡らせた結界を、弱めることができるほどの霊気なら。彼の苦痛を和らげてあげることもできるかもしれない。
 少しでも、魔性の暴走を防ぐ力になれたら。

(ああ、でも。頭がくらくらする……)

 立っているのも、目を開けているのさえ辛い。

「───あなたはなぜこんなことをっ……‼」

 緇綺の怒り声が聞こえた直後、莎夜香は身体がふわりと浮かんだように思った。
 力が抜けていく莎夜香の身体を緇綺は抱き上げていた。
 意識が遠のいていく中、緇綺から冷たい霊気が消えはじめ、温もりが感じられたことで、莎夜香は安心しながら眠りの闇の中へ意識を手放した。


♢♢♢

 莎夜香が目を開けると、寝台の上部を覆う美しい天蓋の装飾品が見えた。

(あれ……私、どうしたっけ?)

 意識はまだ完全に覚醒していないようで、とても眠い。
 寝具もふかふかと気持ちよく温かで。ずっと夢見て憧れだった『ふかふかの布団』の中で、このままずっと眠っていたいな、なんて思ったり。

(いや、でもこれ、夢じゃないし)

 記憶が少しずつはっきりとしていく。この部屋は軟禁されていた場所ではなくて。緇綺との婚儀の後に案内された部屋の寝室だ。

「ナギ。ミカゼ、マオト」

 半身を起こし大切な神獣虫の名を呼ぶと、そよ風が吹いてナギが現れ、莎夜香の右肩に乗った。それからふわりとミカゼが現れて胸元に止まり、モゾモゾとマオトが姿を見せると左の肩に止まった。

「気分はどう?」

「ナギ。私あの後、どのくらい眠ってたの?」

「日付が変わって夜が明けて、今は昼過ぎよ」

「そう。かなり眠っちゃってたのね」

「仕方ないわよ、神霊気を使ったから。それにこの国へ来てからだってよく眠れてなかったでしょ?婚儀もあったし疲れは溜まっていたはずよ」

「それもそうね」

「本当に大丈夫?」

「うん。ごめんね、あなたたちに心配かけて。でもこのお布団、フッカフカなのよ。おかげでよく眠れたわ」

「あなたってば、ほんと楽天家ね」

「それよりあの後、どうなったの?カナエさんは無事よね?妖獣は現れなかった?私、閣下に抱き上げられたまでは覚えてるけど。あのひと、なんだかとても怒ってなかった?」

 ナギは「さあねぇ」と言って、頭を傾げながら言った。

「女中は無事だったわ。妖族もあれから現れてない。あの当主のことはわからないわ。使役主であるあなたが意識を失った時点で、あたしたちの力も一時的に無効化されるから。莎夜香が目覚めるまで待つしかないんだもの。でもあなた、思いきったことをしたわね。神聖力であの当主に癒しを与えるなんて」

「だって……あのひと、かなり危険な状態だと思ったから。あ、でも効き目はあったのかな?少しは苦痛を和らげてあげることできたかしら」

「それは自分で聞いてみるのね。足音が近付いてる。当主とカナエよ」

 ややあって、部屋の戸が開く音がして、寝室の外からカナエの声がした。

「奥様……?」

 目覚めただろうかと伺うようなその声に、莎夜香は返事をした。

 「……はい。どうぞ」

 「──奥様!お目覚めになられましたか!」

 安堵の声と共にカナエが姿を見せた。

「奥様……よかった。気分はいかがですか?どこか痛くはありませんか?」

「大丈夫です。どこも痛くないわ。それよりカナエさんは大丈夫でしたか?」

「私のことを気にかけてくださるなんて……。私は奥様のおかげで怪我もなくこうして生きてます。本当にありがとうございます」

(お礼なんていいのに……)

 でも、誰かからお礼を言われるなんて。とても久しぶりな気がした。

「奥様にはなにか特別な力があるのですね」

「いえあの、特別というのか……」

「奥様、言い難いことならば、何も仰らなくてもいいですから」

 言い淀む莎夜香を気遣うようにカナエは言った。

「坊ちゃんがお部屋の外に来ています。こちらへお通ししてもよろしいですか?気分が悪いならば無理をしないようにと言ってましたが」

「いいわ。お通しして」

「わかりました。でもまずは髪を梳かしましょう。それからお着替えも必要ですね」

「あぁ……」

 そうだった。髪は乱れているし、服は逃亡するために選んだものを着たままだ。

「お願いします、カナエさん」

「はい、お任せください。奥様がお目覚めになって、坊ちゃんもこれで一安心なさるでしょう。気を失った奥様をここへ運んでから、坊ちゃんは明け方まで一睡もせずに……ここで奥様を見守ると言って。離れようとしなかったのですから」

(ええぇっ⁉ それ本当⁉)

 心の中で叫びながら莎夜香は思った。だとしたら、緇綺はかなり腹を立てているに違いない。

(私が気を失う直前にも怒っていた様子だったし)

 重い気分になりながら、莎夜香は身支度に取り掛かるのだった。