思っていた話もできないまま、緇綺が部屋を後にしてから、莎夜香は支度部屋で花嫁衣装を脱いだ。
「なによあれ!そりゃ関係ないでしょうけど!」
緇綺の態度に苛立っていると、そよ風が吹いてナギが姿を現した。
「まあまあ、落ち着きなよ莎夜香。同衾がなくなったのだから良かったじゃないの」
「それもそうだけど。……決めたわ、ナギ。今すぐここを出ましょう」
「そうね。でも逃亡は真夜中がいいわ。もう少し経ってからの方が。少し仮眠したら?」
「うん……でもその前に湯を浴びてさっぱりしたいな。化粧も落としたいし。湯殿使ってもいいよね?」
「もちろん、あなた専用なのだから。あたしが見張っててあげる」
莎夜香は頷き湯殿へ向かった。
身体が温まると心も落ち着いた。
(あのとき、閣下は何を言おうとしたんだろう)
ふと思ったが、莎夜香は考えるのをやめた。
屋敷を出て、どこか遠くに行くと決めたのだ。誰も私を知らないところへ。そこで新しい生活を始めるのだ。
入浴を終え、莎夜香は支度部屋で選んだ衣服に着替えた。逃亡のため、なるべく動きやすく、地味な色合いのものを着た。
荷物はあの花嫁衣装と宝石の髪飾り。箪笥の中から紺色の大きな風呂敷を見つけたので、包もうとしたのだが。
衣装は荷かさがあり、思っていたより大きな荷物になってしまう。背負うには大きすぎないほうがいい。
莎夜香はナギと相談し、衣装はここで裁断することに決めた。部屋にハサミが見当たらないので、ナギの力を借りて行う。
使役霊となった神獣の力は、主となった莎夜香にも操れる力となる。
莎夜香は『風の刃』の術を使い、花嫁衣装を裁断していく。
大きさをいくつか決め、無理なく持ち運べる枚数にし、余りは置いていくことにした。
こうして荷造りを終えたときだった。
「莎夜香、なんだか嫌な感じがするわ。外が騒がしいみたい」
ナギが言うので、莎夜香は小庭に面した窓を少し開けた。
庭に異変は感じられないが、ナギの言う通り、遠くから風に混ざって騒めきが聞こえ、邪気のような気配も感じた。
「妖の気配がする」
ナギが言った。
「それから誰か来るわ。足音がこっちに近付いてる」
「まさか閣下?」
「違う。たぶん、あの女中よ」
「───奥様!」
ナギの言う通り、出入り口の向こうからカナエの声が響いた。
莎夜香が戸を開けると、息を切らし、ひどく慌てた顔のカナエが立っていた。
「どうしたんですか?」
「奥様、ここは危険です!守護殿へ行ってください。私が案内しますので」
「守護殿?」
「はい、緊急事態のときに使用人たちが集まる部屋です。強い護符に守られた場所です。ここよりは安全なはずです」
「緊急事態って?理由を説明して」
「妖獣が現れたのです!」
「妖獣って、アヤカシのこと?物怪とか?」
「はい」
「……はい、って。そんなの滅多に現れるものじゃないでしょ。なぜなの?何か理由があるの?」
「それは……」
何か言いかけたが、カナエは不安気に黙ってしまった。
(何か知ってるのね)
「カナエさん。私は今日からこの屋敷の女主人です。私の質問に答えない使用人は信用できませんね。守護殿とやらには行きません」
「そんな……。あの、これは緇綺様の命令でもあるのです。奥様を守護殿へ案内するようにと。きっとご心配なさって……」
「心配?そんなこと信じられないわ。閣下は今宵、私と過ごすことを拒まれました。花嫁衣装にも触れずに部屋を出て行ったので、私はひとりで着替えを済ませたんです。閣下はどうやら私を嫌ってるようです。心配だったら本人が迎えに来ればいいでしょう?」
「緇綺様はたぶん体調が……」
「体調が悪いとでも?とてもそんなふうには見えなかったけど?」
俯いていたカナエだったが、すぐに意を決したように莎夜香を真っ直ぐ見つめて言った。
「妖の類は緇綺様に引き寄せられて現れるのです。緇綺様は……坊ちゃんには妖族にある魔性の血が流れているから、それで……」
妖族!そして魔性の血⁉
緇綺から感じたあの禍々しさは魔性のせいだったのか。それから『坊ちゃん』⁉
「あなたは閣下を坊ちゃんと呼んでるの?」
「はい、私は坊ちゃんが幼い頃から、お屋敷で働かせてもらっています。私は緇綺様の御母上様である詩織様にお仕えしていたので。詩織様は三年前に病でお亡くなりになりましたが、私はそのまま黒曜家に仕え、今は女中頭として働いています。とにかく奥様、時間がありません!移動しながらお話ししますから、私と守護殿へ向かってください!」
カナエの必死な様子に嘘は感じられない。
「……わかったわ」
莎夜香はカナエと守護殿へ行くことにした。
聞けば守護殿とは、昼間に婚儀を行なった建屋だという。そしてカナエは詩織から聞いている話を莎夜香に伝えた。
その話によると、黒曜家の遠い祖先には妖族と番いになった当主がいて、そこから代々、魔性の血が受け継がれるようになり、黒曜家は妖の魔力を持つ一族となった。中でも当主となる者は特に魔力が強く、妖やモノノ怪はその力に引き寄せられるのだという。
「坊ちゃんは普段、魔性を身の内に封じ、妖族を引き寄せないよう、そして力が暴走しないよう魔力を抑えて生活しているのですが」
戦時になるとその力を扱うときもあるようだとカナエは言った。
殺戮を好む魔性の力を操ることは容易ではなく、そして戦場から帰還するとまた、魔力を抑えるため、身の内に魔性を封じなくてはならない。しかし一度でも制限を解いた魔性の力を完全に封じるのには数日がかかるという。
「隣国の戦場から戻られたばかりで、坊ちゃんはまだご自分の魔性を完全に封じられていないのだと思います。そのせいで結界も弱くなっているのかも……」
「結界……」
カナエは頷いた。
「いつもは屋敷のあちこちに妖などの侵入を防ぐ結界が張ってあるのです。そして坊ちゃんは戦から戻られると真っ先に結界術の強化を行うのです。それなのに凶暴な妖獣が入り込んでしまって」
「えっと……。それって……」
(その結界の効果が弱まったのって。もしかして私のせいかも⁉)
などと、そんなことを言えるわけもなく。莎夜香は先を急ぐカナエの後を遅れないように付いていくのだった。
