微炭酸の夏と食レポラブレター

【メレンゲクッキー5-1】

朝、校門をくぐった瞬間に、夏の匂いがした。蝉の声がまだ鳴りきっていない時間帯。けれど空気は、もう夏の体温をまとっている。昨夜の湿り気が、校舎の影に薄く残っていて、日向へ一歩出ると、それがすぐに蒸発していく。制服の襟の内側に、じわりと熱が溜まるのがわかった。
空は、薄い青だった。昼に見る青よりも少しだけ白く、まるで水を足したみたいに淡い。雲はない。晴れた朝の空は、きれいなのに、どこか不安になる。逃げ場がない色だからだろう。
靴箱の並ぶ昇降口は、朝の光に押されて明るかった。ガラスの扉の向こうで、校庭の砂が白く光っている。誰かが先に歩いたのか、湿った砂の匂いが、ほんの少しだけ鼻に届いた。ワックスの甘ったるい匂いと混ざって、学校の朝の匂いになる。
私は自分の靴箱の前に立って、いつも通り、上履きを取り出すはずだった。はずだったのに。指先が、なにかの角に触れた。紙の、乾いた感触。冷たくもないのに、ひやりとした気がする。私は息を止めて、それを引き抜いた。
青い封筒。薄い青。空の色よりも深く、ラムネの瓶を透かしたときの色に近い。封筒の角はきれいに揃っていて、指先に触れる紙は、少しだけざらっとしている。名前が書いてある。私の名前が、丁寧な字で。
視界の端が、ゆらいだ。
心臓が、胸の内側から叩く。どくん、どくん。ほんの少し走っただけみたいに、息が浅くなる。私は周りを見た。まだ登校している人は少ない。遠くで、下駄箱の扉が開閉する音がした。笑い声が一つ。制服の布が擦れる音。朝の校内は、音が少ない分、ひとつひとつがやけに大きい。
青い封筒を、私は胸の前で握った。
握った手のひらが、汗ばんでいくのがわかる。紙に滲みそうで、慌てて力を緩めた。濡らしたくない。汚したくない。――これは、最後だ。
そんな予感が、喉の奥で固い塊みたいに詰まっていた。
教室へ行くべきなのに、足が動かなかった。昇降口の冷たさと、外の熱の境目にいるみたいな気分で、私はその場に立ち尽くす。青い封筒が、重い。
開けるのが怖い。でも開けたい。
この矛盾が、胸の奥をぎゅっと締め付ける。喉が痛い。舌の上に、鉄の味が広がる気がした。私は、息をひとつ吐いて、封を切った。
中の便箋は、白い。白いのに、まぶしい。朝の光を受けて、紙が淡く光っている。折り目は几帳面で、文字は――蛍くんの文字だった。
読み始めた瞬間、周りの音が遠のいた。

『夏樹さんへ

便箋と封筒が、最後の一枚になりました。

沢山入ったレターセットを買ったのに、です。最初は、こんなに使うことになるなんて思っていませんでした。俺が、勝手に、書きたくて書いていただけなのに。

夏樹さんが、嫌がらず読んでくれたおかげです。ありがとうございます。

俺、手紙を読むのも書くのも、だいすきです。書く時間って、静かで、でも心の中はすごく忙しくて。書いているときだけ、いろんなことがちゃんと形になる気がして、安心します。

最近は、メレンゲクッキーを作ることにハマってます。
甘くて、白くて、可愛くて。口に入れると、少しだけ抵抗して、それからすぐにとろけて無くなるのが、癖になります。泡を固めて焼くだけなのに、ちゃんとお菓子になっているのが、不思議です。

俺は、そういうものが好きです。ちゃんとそこにあるのに、ふっと消えるもの。炭酸の泡とか、ラムネのビー玉が転がる音とか。

夏樹さんと、色んなものをこれからも食べたいと思います。

俺と、一緒にいてくれませんか。

俺は、夏樹さんといる時間が、すごく大事です。大事って、言葉が軽いくらい、ちゃんと大事です。


K』

読み終えた瞬間、息が止まった。
手紙は、たった数枚の紙だ。紙は薄い。簡単に破けてしまう。なのに、その中に詰まっているものは、簡単に受け止めていい重さじゃない。私は、便箋を持つ指先が震えているのを自覚した。
甘くて白い、メレンゲクッキー。口に入れると、とろけて無くなる。
消えるものが好きだなんて。どうしてそんなことを言うの。どうしてそんなことを、私に言うの。
胸の奥が、痛い。苦しい。でも、苦しいだけじゃない。熱い。熱が、胸の内側に溜まっていく。口の中が乾いて、舌が上顎に貼り付くみたいだった。
私は、手紙を握りしめた。
紙が、少しくしゃりと鳴る。しまった、と慌てて力を緩めた。最後の一枚。最後の封筒。最後の便箋。最後、なんて言わないで。そんなの、嫌だ。
私の足は、勝手に動いていた。
教室へ行くべきなのに、私は階段へ向かった。廊下へ出ると、朝の空気がいっそう熱を帯びて感じられる。窓は開いているのに、風は入ってこない。かわりに、太陽の匂いが、校舎の中にまで入り込んでいる。温められたワックスの匂い。汗と洗剤の匂い。誰かの柔軟剤の甘い匂い。そこに混じる、遠くから漂う焼き立てパンみたいな匂いは、きっと購買の方向からだ。
私は走る。
靴の裏が床を叩く音が、やけに大きい。朝の廊下はまだ人が少なくて、足音が反響する。廊下の光が、目の奥に刺さる。明るいのに、心は暗い。暗いのに、決心だけは明るい。
蛍くんは、どこにいる。
屋上。
そう思った時点で、もうそこへ向かっていた。理由はわからない。けれど、蛍くんが私にあんなことと書くなら、きっと、待っているはすだ。そうなると、待つ場所はひとつしかない気がした。
階段を上るたびに、息が荒くなる。喉の奥が熱い。肺が痛い。汗が背中に伝っていく。手紙が、熱を持ったみたいに手の中で温かい。
屋上への扉の前に着いた時、私は一瞬だけ躊躇した。
扉の向こうは、外だ。熱がある。空がある。逃げ場がない青が、そこにある。
でも、もう引き返せない。
私は扉に手をかけ、押した。
きい、と金属が擦れる音がした。扉が開いた瞬間、熱が顔にぶつかってくる。コンクリートが一日分の太陽を抱え込んで、その温度を吐き出している。足元からじわじわと温度が上がり、靴越しでも床が温かいとわかる。
風は弱い。それでも、屋上の空気は校舎の中より少しだけ軽い。熱を帯びた風が頬を撫でて、汗が少しだけ冷える。
空は高い。でも、今は手が届いてしまいそうに思えた。
雲はない。青は、昨日より少しだけ薄い気がした。夏の終わりが近づくと、青も少しだけ透明になる。そんな気がする。
フェンスの金網が光っている。鉄の匂いがする。日に焼けた金属の匂い。コンクリートの乾いた匂い。遠くの蝉の声。屋上はいつだって、世界から少し離れている。
そして、そこに蛍くんがいた。
フェンスにもたれていたわけじゃない。座っていた。あのときみたいに、コンクリートに座って、膝を立てて、その上に腕を置いて。髪が風に揺れて、日差しを受けて少しだけ茶色く見える。
横顔が、妙に大人っぽかった。
私は呼吸を整える暇もなく、声を出した。
「蛍くん!」
名前が、空に吸われていく。熱の中で、声が少し掠れた。蛍くんは、びくりと肩を揺らし、振り向いた。
目が合った瞬間、胸がぐらりと揺れた。
黒曜石みたいな瞳。いつもはふざけたり、笑ったり、ふっと逸らしたりするのに、今はまっすぐ見てくる。逃げない。逃げられない。
蛍くんは、立ち上がった。
その動きが、妙にゆっくりに見えた。空気が重いからかもしれない。私の心が重いからかもしれない。
「……来た」
蛍くんの声は、低かった。いつもみたいな軽さがない。笑って誤魔化す余裕がない声。喉の奥から絞り出したみたいな声。
私は、手紙を差し出した。青い封筒と便箋が、少し震える。
「これ……」
蛍くんはそれを見て、ほんの少し、目を細めた。泣きそうな顔と笑いそうな顔の、間。蛍くんは、いつもそうだ。感情が、ひとつにまとまらない。
「読んだ?」
「読んだ……」
声が震えた。悔しい。こんな時に震えたくないのに。
「……最後、って書かないでよ」
言った瞬間、喉が痛くなった。涙が出そうになって、私は奥歯を噛んだ。泣くのは、今じゃない。泣いたら、言いたいことが言えなくなる。
蛍くんは、少しだけ目を伏せた。
「……ごめん」
「違う。謝らないで」
私は一歩、蛍くんに近づく。熱の匂いがする。日差しの匂い。汗の匂い。石鹸の匂い。蛍くんの匂いだ、と気づいて、胸が痛くなる。
「私ね」
言葉が、喉につかえる。うまく出てこない。頭の中はいっぱいなのに、口はついていかない。私は、紙に書けない人間だ。蛍くんみたいに、整った文章で気持ちを渡せない。
だから、今ここで言わなきゃいけない。
「蛍くんのお陰で、ご飯が美味しいの」
言葉が出た瞬間、胸の奥が熱くなる。
「前は、食べるのが嫌だった。味がしないとか、粘土みたいとか……そんなふうに思ってた。ほんとに。……でも、蛍くんが、食べ物の話をしてくれて、私に食べさせてくれて、一緒に笑ってくれて……」
喉が詰まる。涙が熱い。視界が滲む。
「味が分かるようになったの。甘いとか、しょっぱいとか、苦いとか。全部、ちゃんと分かる。……それって、私が生きてるってことだって、最近思う」
蛍くんの目が、少し揺れた。
「蛍くん、私に、生きてるって思わせてくれた」
言ってしまってから、恥ずかしさが遅れて襲ってきた。重い。重すぎる。こんなこと言ったら、困るかもしれない。でも、もう止められない。
「だから……」
私は息を吸う。屋上の熱い空気が肺に入って、少しだけ喉が焼ける。
「私も、蛍くんと、これからも一緒にいたい」
言葉は、意外とまっすぐ出た。
「一緒に、食べたい。……ご飯も、お菓子も、ラムネも。メレンゲクッキーも。全部」
蛍くんの喉が、動いた。唾を飲み込んだのが分かるくらい、近い。
蛍くんは笑わなかった。ふざけなかった。目を逸らさなかった。
代わりに、少しだけ眉を八の字にして、子どもみたいな顔をした。
「……夏樹」
名前を呼ばれた瞬間、胸がきゅっと縮む。日比谷さんでも、日比谷でもない。夏樹。私の輪郭が、ちゃんと私に戻ってくる呼び方。
蛍くんは、一歩近づいて、手を伸ばした。
指先が、私の頬に触れそうで、触れない。熱で躊躇っているみたいに、宙で一瞬止まる。それから、そっと触れた。
指先が熱いのに、触れられた場所はひんやりしたみたいに感じた。矛盾している。でも、そう感じた。
「……俺、」
蛍くんは言葉を探した。いつも手紙なら整えて書けるのに、今は声だと詰まる。私はそれが、たまらなく愛おしいと思ってしまった。
「俺、言うの、怖かった」
「……うん」
「また、嫌がられたらどうしようって」
その言葉で、胸が痛んだ。あの日。あの苦しい日々。私は、蛍くんを避けた。勝手に傷ついて、勝手に逃げた。蛍くんが悪いわけじゃないのに。
「ごめんね」
私は小さく言った。
蛍くんは首を振った。ゆっくり。逃げない動き。
「……俺も」
それから、蛍くんは、私の肩に顔を埋めた。
ぎゅっと抱きしめてくる腕は、想像よりも細い。でも、力は強い。逃がさない力じゃない。支える力だ。支えたいと思っている力。
私の制服に、蛍くんの息が当たる。熱い。汗の匂いがする。けれど、それが嫌じゃない。むしろ、ここにいるってわかるから安心する。
私は、震える手で蛍くんの背中に触れ、ぎゅっと抱き返した。
蛍くんの肩が少し震えた。
泣いているのかもしれない。泣いていないのかもしれない。声は出ていない。でも、呼吸が乱れている。胸が上下している。私の肩に、少しだけ湿った熱が落ちた気がした。
私は何も言えなくて、ただ抱きしめ返した。
屋上の熱はまだそこにある。蝉は鳴いている。空は高い。コンクリートは温かい。風は弱い。
でも、不思議と苦しくなかった。
熱は、逃げ場のないものじゃなくて、ここにある現実の温度になっていた。
「……ねぇ」
私がそう言うと、蛍くんは肩に顔を埋めたまま、鼻で小さく返事をした。
「メレンゲクッキー、食べたい」
それは告白の言葉としては、きっと変だ。甘すぎるし、子どもっぽい。でも、私たちには、それが一番正しい気がした。
蛍くんの肩が、少し揺れた。
笑ったのだと思う。
「……作る」
くぐもった声。恥ずかしそうな声。だけど、嬉しそうな声。
「白くて、甘くて……消えちゃうやつ」
「消えないように、いっぱい作る」
「じゃあ、私も食べる」
「……食べて」
「うん」
蛍くんが、ようやく顔を上げた。
目が赤い。泣いたのかもしれない。泣いていないと言い張るかもしれない。でも、目が赤いのは確かだった。まぶしいからだ、と言い訳できない赤さ。
私はその赤い目が、好きだった。
「……夏樹」
「なに」
「俺さ」
蛍くんは、少しだけ視線を逸らして、それからまた戻した。逃げない。
「夏樹と、この先もご飯食べたい」
その言葉は、手紙よりも不器用で、でも手紙よりもまっすぐだった。
私は、笑ってしまった。泣きながら笑うって、変だ。でも、笑ってしまった。
「私も」
短い返事。だけど、全部。
あなたとなら、ご飯が美味しく食べれる。そう思った。
その瞬間、どこかで、からり、と音がした。
ラムネのビー玉が転がるような音。
弾けて、抜けて、それでも確かにそこにある透明さ。
微炭酸みたいに、淡くて、でもちゃんと刺激のある幸福が、胸の中で泡立った。
私はもう一度、蛍くんを抱きしめた。
蛍くんは、少しだけ固まって、それから、ちゃんと抱きしめ返した。
熱い屋上で、私たちはしばらく動けなかった。
空は相変わらず高くて、風は弱くて、蝉は鳴いていて、コンクリートは温かい。
世界は何も変わらないのに、私の中だけが変わっていく。
最後じゃない。これは、終わりじゃない。
青い封筒の最後の一枚が終わっただけで、私たちの「これから」は、まだ始まったばかりだ。そう思えた朝だった。