微炭酸の夏と食レポラブレター

【ラムネ4-1 】

図書室の窓は、いつもより大きく感じた。
夏の光は容赦がない。ガラス越しでも、鋭い青をそのまま押し込んでくる。白いカーテンの端が、ゆるく揺れていた。風はあるはずなのに、空気は重たい。昼前の学校は、熱をゆっくり溜め込んでいく箱みたいだった。
本棚の間を歩くと、紙の匂いがする。古い本の乾いた匂いと、新しいインクの匂いが混ざって、少し甘い。夏になると、この匂いが濃くなる気がする。空気が湿るからかもしれない。
貸出カードの束を揃えながら、私は窓の外を見た。
空が、青い。ただ青いだけじゃない。透明な青。水みたいに澄んだ青。
昨日まで胸に詰まっていたものが、少しだけ溶けていくような青だった。
今日は蛍くんが図書委員会に来ていない。だから静かだ。静かなのに、不思議と嫌じゃない。むしろ、少しだけ呼吸がしやすい。
昨日、家に帰ったあと、チョコモナカを母と食べた。
袋を開けた瞬間、冷たい甘い匂いがふわっと広がって、なぜか泣きそうになった。
それでも食べたら、ちゃんと美味しかった。
カードを整理していると、松野さんが本を抱えて歩いてきた。
「これ、返却棚お願い」
「うん」
受け取った本は、少し重い。ハードカバーの背表紙が手にひんやりしている。指先で背をなぞると、細かい凹凸がある。古い装丁の本は、触ると少しざらざらしている。
本棚に戻しながら、私はまた窓の外を見る。
校庭の向こうで、体育の授業をしているらしい。遠くから、ホイッスルの音が聞こえた。短く、乾いた音。
そのあと、笑い声。男子の大きい声。ボールが弾む音。全部が遠い。
図書室の中だけ、別の時間が流れているみたいだった。
窓から入る光が、本棚の上に四角い影を作っている。埃が少しだけ舞っているのが見える。小さな粒が、ゆっくり浮かんで、消える。
静かだ。私はふと、思った。蛍くん、今日なんで来ないんだろう。来なくてもいいのに、そう思う自分がいる。
図書委員会は別に、一人でも出来る。むしろ一人の方が気楽だ。それなのに。気付くと、視線が入り口に向いている。来ないって分かってるのに。変なの。
自分で小さく笑いそうになって、カードの束をトントンと机に揃えた。
「じゃあ今日はここまでで」
松野さんの声がした。
時計を見ると、もうすぐホームルームの時間だった。
図書室の空気が、少しだけ動く。椅子が引かれる音。本を閉じる音。
私は机の上を軽く拭いて、鞄を持った。
ドアを開けると、廊下の空気が一気に流れ込んできた。
図書室より、少しだけ暑い。
廊下の窓も開いている。風が抜けていくたびに、カーテンがふわっと膨らんで、またしぼむ。遠くで誰かが走る足音が響いている。
階段を降りるとき、窓から空が見えた。青い。さっきよりも、もっと青い。まぶしいくらいの青。でも嫌じゃない。胸の奥が、少しだけ軽い。こんな青を見るのは久しぶりな気がした。
私は廊下を歩きながら、教室へ向かう。
窓際を通ると、光が腕に当たる。制服の布越しでも、熱が分かる。夏だ。
ふと、廊下の先に人影が見えた。男子が数人、壁にもたれて話している。その中に、見覚えのある背中があった。茶髪の刈り上げられた襟足。少しだけ猫背。制服の袖をまくっている腕。蛍くん。胸が、少しだけ跳ねる。
来てたんだ。なんだ、来てるじゃん。
声をかけようか、少し迷った。でも、男子の輪の中に入るのはなんとなく気まずい。
だから私は、少し遠回りして通り過ぎようとした。
その時だった。
「お前さ」
男子の声。軽い調子。笑い混じりの声。
「最近、あの女子と一緒にいんじゃん」
あの女子。その言葉に、足が止まる。
「付き合ってんの?」
一瞬、世界の音が遠くなった。蛍くんの声がした。
「あぁ?」
少し低い声。
「付き合ってねーよ」
胸が、どくんと鳴る。そうだよね。付き合ってない。分かってる。分かってるのに、なぜか喉が詰まる。
別の男子が笑った。
「じゃあなんでそんな執着してんだよ」
執着。その言葉が、耳の奥に刺さる。蛍くんは少し間を置いた。
「なんでもいいだろ」
短い声。そのあと、また笑い声。
「まぁ、可愛いもんな」
その一言で。胸の奥が、ぐしゃっと潰れた。可愛い。なんて、軽くて雑な言葉。軽い笑い。軽い空気。全てが、穢れたもので覆われているかのような、恐怖 さっきまで青かった空が、一瞬で遠くなる。
私は動けなかった。足が床に貼り付いたみたいに、動かない。
廊下の光が急に強くなる。目が痛い。呼吸が、浅い。胸の奥がぎゅっと縮む。
執着。可愛い。付き合ってない。私の好まない言葉がぐるぐる回る。あれは、ただの話。男子の冗談。そう分かっているのに。分かっているのに。胸の奥深くが痛い。胸の奥に、針が刺さったみたいに痛い。息がうまく吸えない。視界が少し滲む。
なんで。なんでこんなに苦しいの。さっきまで、あんなに青かったのに。
空気が重い。廊下が長い。世界が、少しだけ歪んで見える。笑い声がまた聞こえた。その音が、刃みたいに刺さる。
もう聞きたくない。私は、逃げた。足が勝手に動いた。廊下を走る。床を叩く足音がやけに大きい。息が荒い。涙が出る。なんで泣いてるのか分からない。ただ、苦しい。胸が痛い。喉が痛い。目が痛い。全部痛い。
窓から光が差し込んでいる。さっき見た青空。でももう、まぶしいだけだ。きれいじゃない。ただ、痛い。
私は階段を駆け下りた。息が切れる。胸が苦しい。涙が止まらない。こんなの、変だ。
あんな、醜い戯言を、意識に留めるほうがおかしい。馬鹿正直でもない限り、普通なら聞き流す。当たり前のことなのに。それなのに。今は、そんな当たり前をする余裕もない。
胸の奥で何かが壊れる音がした気がした。ラムネの瓶を落としたみたいな、乾いた音だった。でもそれは、炭酸の軽い音じゃない。もっと鈍くて、重い音。胸の中で、何かがひび割れる音だった。

【マフィン4-2】

翌日から、世界は色を抜かれたみたいになった。絵の具を全部水で洗い流して、残ったのは鉛筆の芯だけ、みたいな。空は相変わらず夏のはずなのに、青さは届かない。窓の外で光が踊っていても、私の目には薄い灰の膜がかかったまま、ただ眩しいだけだった。眩しさは色じゃない。痛みだ。
教室に入ると、湿った熱が皮膚の上に張り付く。制服の布が肌に吸い付いて離れない。エアコンの風は一応出ているのに、冷えきらない。扇風機が回る鈍い音だけが、空気を押し潰すみたいに重たい。
誰かの制汗剤の甘い匂いと、濡れた髪の匂いと、黒板消しの粉の乾いた匂いが混ざって、喉の奥にざらつきが残る。
昨日まであんなに大きく感じた青は、今日は天井の蛍光灯と同じ、無機質な白に沈んでいた。白って、こんなに冷たかったっけ。冷たいのに、汗は出る。冷たさと暑さが喧嘩して、身体だけが落ち着かない。
蛍くんが視界に入ると、背中の皮膚がひりつく。目を合わせたら、何かがこぼれる気がして、恐ろしいのだ。こぼれたら、拾えない気がする。だから私は、見ない。見ないように、机の角や、ノートの罫線や、スマホの黒い画面ばかりを見た。黒は安心する。青より、白より、ずっと。
千花は最初、いつも通りに笑っていた。いつも通りに、私の机に肘をついて「おはよー」と言って、髪を揺らして、誰かの話に「それウケる」と声を上げて。
でも私が返事をしない回数が増えるにつれて、千花の声は、ほんの少しだけ慎重になった。慎重になる千花を見るのが、妙に苦しい。千花は慎重にならないでほしい。明るいままでいてほしい。私のせいで空気が変わるのが嫌だ。嫌なのに、変えてしまう。
川谷君は、逆だった。私の沈黙を、笑いで壊そうとする。
「夏樹、なんだよその顔。夏バテ?氷食う?」
「……別に」
「別にって言い方、女子って感じだな」
そう言いながら、自分で笑って、私の机を軽く叩く。その軽い衝撃の音が、今日はなぜか耳に刺さった。軽いのに刺さる。軽いから刺さるのかもしれない。私はもう、軽いものを受け止められないくらい、内側が重かった。

昼休みが来ても、休みじゃなかった。鐘の音が鳴って、教室がざわついて、弁当箱の蓋が開く音がして、パンの袋が破れる音がして、ジュースのキャップが回る音がして、笑い声が跳ねる。いつもの昼休み。いつものはずなのに、私はそこにいない。
窓の外の光は白く、校庭の砂が照り返して、目がちかちかする。蝉の声が、途切れない機械音みたいに続いている。熱がガラス越しに押してきて、教室の空気が粘っこくなる。湿った匂いと汗の匂いが、もっと濃くなる。
私は机の上にマフィンを置いた。コンビニで買ったやつ。袋を開けた瞬間、普通なら甘い匂いがふわっとするはずなのに、今日は匂いが遠い。鼻の奥まで届かない。届かないというより、届いても意味がない。
手で割ると、もそっとした感触が指先に残る。崩れるのに、柔らかくない。乾いたスポンジを握っているみたいな抵抗。口に入れると、粉が舌に広がって、すぐ喉が渇く。甘い、はず。バターの、はず。なのに、味がしない。
味がしないって、静かに恐ろしい。世界から情報が消えるみたいで。食べ物って、こんなに存在感がなかったっけ。
噛むたびに、もそもそと口の中の水分が吸い取られていく。飲み込むために、無理やり唾を作る。唾が足りない。喉の奥がざらざらする。粘土細工を食べているみたいだ、と思った。作品じゃない粘土。乾きかけの、色も匂いもない塊。口に入れて、噛んで、形を変えるだけのもの。そこに温もりはない。あたたかさもない。
私の中で「美味しい」という感覚が、遠くで死にかけているのが分かった。あのカレーの香りや、湯船の熱さや、アイスの冷たさは確かに私の中を通ったのに。今日の私は、それを感じる器を失っていた。
どれだけ噛んでも、空腹は満たされない。満たされないのに、胃だけが重くなる。お腹の中に灰が溜まっていくみたいに。

「夏樹」
千花の声が、いつもより小さかった。私は顔を上げるのが億劫で、マフィンの欠片を指でいじった。粉が指先に残る。
「……なに」
「さ、最近さ。あのさ」
千花が言葉を探す時って珍しい。千花はいつも、言葉を迷わない。迷わないから、羨ましい。
私は黙っていた。黙っていると、千花は息を吸って、そして、珍しく真剣な目をした。いつもの冗談っぽい目じゃない。人をちゃんと見て、置いていかない目。
「蛍くんと、なんかあった?」
その名前が落ちた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。縮んで、痛みが広がる。私は笑って誤魔化したかった。でも、笑い方が分からなかった。
「別に」
小さく言った。いつもの逃げ道。
でも千花は引かなかった。引かない千花も珍しい。
「別にって、別にじゃないやつじゃん」
声は強くない。責めてない。ただ、真剣に、そこにいる。真剣にそこにいられると、逃げられない。逃げられないから、怖い。
私はマフィンをもう一口かじった。味がしない。咀嚼の音だけがやけに大きい。教室のざわめきの中で、自分の噛む音だけが浮く。
「……聞いちゃったの」
ぽつりと、声が漏れた。千花の眉が少しだけ動く。
「なにを」
私は喉の奥の粉っぽさを飲み込んで、息を吸った。息を吸うと、教室の匂いが肺に入ってくる。
汗と制汗剤と、パンの甘さと、埃っぽい熱。全部が嫌だ。
「蛍くんが……友達と話してるの」
言葉にすると、また痛い。
「……付き合ってんの、って。付き合ってないって。執着って。可愛いって」
まくし立てるように早口で言っているうちに、胸の奥が熱くなる。熱いのに、涙は出ない。涙が出ないのが、逆に怖い。
千花は一瞬、口を閉じた。笑わなかった。茶化さなかった。
「聞いちゃったんだ」
「うん」
「……そりゃ、しんどいわ」
しんどい。千花の口から出たその言葉が、意外と優しかった。私の痛みを、痛みとして認められた気がした。認められると、少しだけ楽になる。楽になると、今度は崩れそうになる。
私は目を伏せた。
「私が悪いの。勝手に聞いて、勝手に苦しくなってるだけ」
そう言うと、千花は小さく首を振った。
「悪いとかじゃなくない?だって、好きなんでしょ」
好き。
その単語を、千花が軽く言うから、胸がまた痛んだ。好きって簡単に言えるものじゃない。好きは、私の中では危険物だ。触ると爆発する。
私は返事ができなかった。
その時、後ろの席から椅子が引かれる音がした。川谷君だった。いつの間にか、私たちの会話を聞いていたらしい。聞き耳を立てているというより、距離が近いだけの感じで。
「はは」
川谷君が、わざと明るく笑った。笑って、空気を軽くしようとする笑い。
「じゃあさ」
川谷君は、私の机の端を指でとんとんと叩いて、軽い調子で言った。
「俺、蛍斗のことぶん殴ってこようか?」
その言い方が、あまりにも川谷君らしくて、私は一瞬だけ呼吸が止まった。ぶん殴る。そんな乱暴な言葉のはずなのに、私を守る側に置かれているのが分かって、胸が変な形に潰れた。
千花が「やめなよ」と言いかける。でも私は、先に口を開いた。
「その必要はない。ありがとう」
凛として言った。言ったつもりだった。
本当は、凛としてなんかいない。凛としていないと、崩れてしまうだけだ。
川谷君は「おう」と言って、安心したように口角を上げた。まるで、そう答えるのをわかっていたみたいに。
千花は、私の顔を見た。真剣なまま。
「夏樹さ」
「なに」
「しんどい時、しんどいって言っていいんだよ」
その言葉は、優しすぎた。優しすぎると、怖い。優しすぎると、私は甘えたくなる。甘えたくなって、甘えたら最後、依存みたいになってしまう気がする。
私は首を振った。
「大丈夫」
大丈夫って言えば、全部終わる。終わるはず。終わってほしい。
「大丈夫じゃない顔してる」
千花が小さく言う。
私は返せなかった。返せない代わりに、マフィンをもう一口食べた。味がしない。もそもそする。温もりもない。口の中の粉が増えるだけ。

昼休みが終わるチャイムが鳴った。金属みたいに冷たい音。教室のざわめきが少しずつ座席に収まっていく音。椅子が床を擦る音。プリントが配られる音。先生の声が入ってくる音。
私はノートを開いた。シャーペンを握った。握ったのに、文字が出てこない。線が薄く、途切れる。汗で手が滑る。
窓の外は相変わらず青く、まぶしい。まぶしいのに、私の中は灰色のままだった。灰色は濡れない。汗も涙も吸わない。ただ積もる。
蛍くんの姿を、私は見ないようにした。見ないようにして、でも耳だけが勝手に探す。廊下の足音、教室の扉が開く音、誰かが笑う音、その中に蛍くんの声が混じっていないかを。混じっていたら、心臓が跳ねてしまうから、怖いのに。

放課後になって、教室の空気が少しだけ緩んだ。帰り支度の音が、あちこちで鳴る。鞄のチャックの音。部活の掛け声。窓から入る熱風。
千花が小さく言った。
「今日、帰り一緒に帰る?」
私は一瞬迷って、それから首を振った。
「いい」
千花は「そっか」とだけ言った。引いたわけじゃない。ただ、無理をしないでくれた。
川谷君は、わざと明るく手を振った。
「またな。夏樹」
いつもなら「うるさい」と返せるはずなのに、今日は口の端が少しも動かなかった。夏樹、と呼ばれたことに驚いたからではない。ただ、その温もりが熱すぎただけ。
二人が教室を出ていく背中を見て、私は机に手を置いた。机はまだ温かい。人の温度の残り。
私はその温かさを、怖いと思った。
温かいものは、失った時に痛い。
だから私は、冷たくなろうとする。凛として、気取って、何もいらないふりをする。
それくらい気取ってないと、心が壊れそうだから。

窓の外の青が、夕方の白に薄まっていく。蝉の声が少しだけ弱くなる。
私はマフィンの袋を丸めて、捨てた。空っぽの袋は軽い。軽いのに、私の喉の奥にはまだ、もそもそした粉っぽさが残っていた。
味のしない世界で、今日も私は息をするだけで精一杯だった。

【チョコレート4-3】

図書室は、夏のくせに薄暗かった。暗いというより、光があるのに届かない。窓は開いているのに風は鈍く、外の熱がじわじわと壁を通して染み込んでくる。机の表面に触れると、木がほんのり温かい。誰かの体温じゃない。建物そのものが溜めこんだ熱。逃げ場のない温度。
本の匂いも、いつもより重かった。乾いた紙の匂いが湿気を吸って、甘さより先に苦さが来る。古いインクが雨の前みたいな匂いに変わっていて、鼻の奥にべたっと貼りつく。蝉の声は外で鳴いているはずなのに、遠い。ここだけ音が布で包まれているみたいで、響きが丸くなる。私はその丸さに救われるはずなのに、今日は救われない。丸い音は、私の中の尖ったものを余計に目立たせた。
蛍斗は来ていない。
来ていない、という事実が、紙みたいに薄いくせに、毎回私の胸を擦る。擦って、痛い。痛いのに、私は痛がっているのを誰にも見せない。
見せたら、終わる気がするから。
棚の間を歩きながら、私は返却された本の背表紙を指でなぞった。凹凸が指先に引っかかる。硬い。触れるものが硬いと、心まで硬くなる気がする。硬くしないと、私はここに立っていられない。
貸出カードの束を整える音が、妙に大きい。紙の端が擦れる音。空気の中で、乾いた小さな音が勝手に膨らむ。私は耳の奥に残っている男子の笑い声を、こういう細い音で上書きしようとしていた。上書きしても、消えない。消えないものほど、いつも軽い顔をして戻ってくる。

カウンターに戻ると、松野さんが窓際の席で本を閉じた。松野さんの動作はいつも静かだ。指先が綺麗に揃っていて、ページを閉じる音も柔らかい。扉の開閉みたいに、バタンと世界を切らない。すうっと境目を作る。私はその境目が好きだった。境目があると、息ができる。
松野さんは私を見て、いつも通りの穏やかな笑顔をした。笑顔の形が変わらない人の存在は、時々残酷だ。変わらないというだけで、私の変わってしまった部分が浮いて見える。
「日比谷さん」
「なに」
私の声は自分でも分かるくらい低かった。悪意じゃない。ただ、音が出るだけ。
松野さんは少しだけ目を細めて、机の上の返却棚を指した。
「これ、お願いしてもいい?」
「うん」
本を抱える。重い。重いのに、安心しない。以前なら重い本の重さは、現実に引っ張ってくれていた。今は、現実が私を傷つける側に回っているから、重さがただの負担になる。
棚に戻していくうちに、私は何度も入口の方を見てしまった。見て、何もないのを確認して、また見てしまう。自分で自分の傷を確かめるみたいで、気持ち悪い。
その私の癖を、松野さんは見逃さなかったのかもしれない。
私が戻る頃、松野さんはカウンターの端に寄って、小さな声で言った。
「最近、蛍斗来ないね」
その名前を、松野さんは呼び捨てにした。教室で誰かが「蛍」と呼ぶ時とは違う。軽い呼び捨てじゃない。昔から当たり前にそこにある呼び方。呼び名って、距離だ。
私は、胸の奥の灰色が少しだけ濃くなるのを感じた。
「……そうだね」
答えは短い。短くしないと、余計なものが漏れるから。
松野さんは私の顔を見て、いつもより少し真剣な目をした。真剣の種類が、千花の真剣とは違う。千花は正面から来る。松野さんは、横から光を当てる。影をいきなり剥がさない。影の存在を許す。
「喧嘩した?」
その言い方に、私は一瞬だけ呼吸が乱れた。喧嘩。喧嘩って言葉は軽い。軽いのに、私の中では重い。
「別に」
言ってしまう。逃げ道の言葉。でも松野さんは責めない。
「そっか」
それだけ言って、一度目線を本棚の方へ流した。窓の外を見ない。私の逃げ場を、勝手に確保するみたいに。
沈黙が落ちる。図書室の時計の秒針が、乾いた音で進む。カチ、カチ。音が増えるほど、私の中の焦りが増える。何も言いたくないのに、何か言わないとこの沈黙に押し潰される気がした。
「松野さんは……蛍くんと、仲いいよね」
口から出てしまった。出てしまった瞬間、私は自分を殴りたくなった。言いたかったわけじゃない。聞きたかったわけでもない。私はただ、確認したかった。確認して傷つきたかった。最低だ。
松野さんは驚いたように目を丸くして、それから少し困ったように笑った。
「仲いい、っていうか」
言葉を選ぶ。
「私と蛍斗、幼なじみなの」
幼なじみ。
その単語が、図書室の空気を一段冷たくした気がした。冷たくしたのは空気じゃなく、私の皮膚かもしれない。
幼なじみって、私が持っていない種類の時間だ。勝てない時間。私がどれだけ手紙を書いて、どれだけ名前を覚えて、どれだけ相手の表情を見ようとしても、追いつけない時間。
松野さんは続けた。語り口は穏やかなのに、内容はちゃんと重さがある。重さを誇らない重さ。
「小さい頃、よく一緒に遊んでた。蛍斗、すごい泣き虫でね」
松野さんが少しだけ笑う。その笑いは優しい。笑いながら、過去を愛おしむ笑い。私はその笑いに、胸がきゅっとなる。
「転んだだけで泣くし、虫が怖いって泣くし、あと、負けると泣く。悔しいって泣く。泣きながらまたやるの。あれ、今思うとすごいよね」
私は黙って聞いた。
泣き虫の蛍くん。
想像すると、胸の奥が勝手に揺れる。今の蛍くんの犬歯の意地悪な笑いと、雨の日に私を抱きしめた腕と、その全部の奥に、泣き虫がいる。そう思うと、痛いのに、少しだけ温かい。温かいのが怖いのに、想像してしまう。
松野さんは指で髪を耳にかけて、少し視線を落とした。語る顔が、先ほどより大人になる。
「でも、中学入る頃からかな。だんだん反抗的になった。急に口悪くなって、急に誰ともつるまなくなって。笑わなくなるっていうより、笑う時だけ別人みたいになって」
別人みたい。
その言葉が、私の中の何かに触れた。海ではしゃいで犬歯を覗かせて笑う蛍くん。あの時の私の違和感。あれは、別人みたいだった。別人じゃない。全部同じ人なのに。
「片親になってから、もっと不安定になった」
松野さんの声が少し低くなる。
その瞬間、図書室の匂いが変わった気がした。紙の匂いの裏に、湿った鉄みたいな匂いが混ざる。重い話の匂い。私はその匂いに慣れている。うちの匂いだ。
私は反射で呟いてしまった。
「え、片親?」
言ってから、口を閉じた。遅い。
松野さんは私を見た。驚かない。責めない。ただ、事実として頷いた。
「うん。蛍斗のお母さん、色々あってね。詳しくは私も全部は知らないけど……家が落ち着かなくなって、蛍斗、すごく尖ってた」
尖る。尖るって、痛い。痛いのは本人だけじゃない。周りも痛くなる。
私は急に、自分の皮膚が薄くなる感覚がした。蛍くんも、片親。
その事実は、私が勝手に抱いていた「住む世界が違う」を、静かにひっくり返す力があった。違うと思っていた。違うから、安心していた。違うから、憧れていた。違うから、羨んでいた。
でも、同じ穴の影がある。そう思った瞬間、胸が痛いのに、息が少しだけ入りやすくなる。痛いのに、楽になるって、変だ。
松野さんは続ける。
「一回、殴ったこともあったよ」
私は思わず目を上げた。
「友達がね、蛍斗のお母さんのこと、からかったの。よくあるじゃん、子どもって、残酷でさ。冗談のつもりで。蛍斗、普段は何言われても笑って流すのに、その時だけ、急に、顔が変わって」
松野さんの声は淡々としている。淡々としているから余計に生々しい。
「殴った。迷いなく。止める間もなく。私、怖かった」
怖い。でも松野さんは、その「怖い」を嫌悪では言っていない。人間が壊れそうな時の怖さだ。守りたいものを守るための、怖さ。
「そのあと、泣いてた。殴ったあと、本人が一番びっくりしてた。『ごめん』って。ほんとに子どもみたいに泣いてた」
泣き虫。泣き虫の蛍斗が、殴って泣く。
その映像が、私の中で勝手に組み上がる。私は蛍くんの「ごめん」を知っている。あの日、公園で私が「きえてよ」と叫んだ時、蛍くんは悲しそうに目を伏せて、「ごめん」と言った。
あの「ごめん」が、今、別の重さで胸に落ちた。
私は、何も知らないまま、傷ついて、勝手に遠ざけていた。
知らないまま、怖がっていた。怖がって、避けて、見ないふりをして、でも本当は見たかった。
見たかったものは、意地悪な犬歯だけじゃない。泣き虫の奥の、守り方の下手な優しさ。
「でもさ」
松野さんは少しだけ表情を緩めた。
「今は、落ち着いたと思う。再婚してから、環境が変わって。今の家のこと、あんまり話さないけど……前より、ちゃんと呼吸してる感じ」
再婚。その言葉が、また違う匂いを運んできた。湿った鉄の匂いの上に、洗剤みたいな清潔さが混ざる。嫌な清潔さじゃない。生活の整い。
「再婚……したんだ」
私は呟く。松野さんは頷いた。
「うん。だから今は、たぶん。蛍斗なりに、いろいろ抱えながら、ちゃんとやってる」
ちゃんとやってる。
その言葉が、今日の私には眩しかった。眩しいのに、痛い眩しさじゃない。図書室の窓から差し込む夏の青みたいに、すっきりしていて、目の奥が洗われる眩しさ。

私はそこで、気づいてしまった。
私が見ていた蛍くんは、表面の一部だ。
優しいとか、意地悪とか、犬歯とか、手紙の敬語とか、そういう見えやすい部分だけ。
でも蛍くんは、生活の中で生まれた人間で、過去の中で作られた人間で、泣き虫のまま反抗して、反抗しながら謝って、誰かを守って、自分も壊れそうで、それでも呼吸してきた人間だ。
その全部を、私は知らない。
知らないから、勝手に想像して勝手に痛くなる。
だったら、知りたい。
痛いなら、痛いままでも、知りたい。
知ったら、私の中の灰色が、少し違う色に変わるかもしれない。
松野さんがふと、鞄をごそごそと探した。
「これ、日比谷さん」
差し出されたのは、小さなチョコレートだった。個包装。銀紙が光を反射して、図書室の暗さの中で小さな星みたいにきらっと光る。
「甘いの、好き?」
「……普通」
私はつい、素直じゃない返事をした。でも松野さんは笑った。
「今の顔、甘いの欲しい顔だったよ」
そう言われて、私は何も言えなくなる。図書室の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。軽いのに刺さらない。軽いけど、浮つかない。
私はチョコを受け取って、包装を開けた。指先に少しだけ粘着く甘い匂いがつく。カカオの香り。濃いのに、嫌じゃない。
口に入れると、最初に苦味が来て、そのあと甘さがゆっくり広がった。舌の上で溶ける温度が、わずかに体温より高い気がして、胸が妙に熱くなる。
さっきのマフィンは味がしなかったのに、チョコは味がする。
味がするだけで、私は少しだけここに戻ってこられる。世界が薄紙みたいに頼りなくても、味があると、その薄紙に重さが乗る。
甘い、という感覚が、久しぶりに「温度」を連れてきた。
甘みが、ただの甘みじゃなくて、「人から受け取った甘み」だからかもしれない。
私は、チョコが溶けていく間、黙って呼吸をした。図書室の紙の匂いが少しだけ甘く感じた。インクの匂いが、さっきより角が丸い。
「日比谷さん」
松野さんが小さく言う。
「蛍斗のこと、嫌いになった?」
嫌い。その単語が胸を叩く。嫌いになりたいわけじゃない。嫌いになれたら楽なのに、なれないから苦しい。
私は正直に言えない代わりに、視線を机の端に落として、言った。
「……分かんない」
松野さんは「そっか」とだけ言った。そして、付け加える。
「分かんないって言えるの、偉いと思う」
その言い方が、押し付けじゃなかった。評価でもない。事実の確認みたいな言い方。
私はチョコの最後の甘みを舌に残したまま、ふっと息を吐いた。
灰色の空気の中に、ほんの一滴だけ色が落ちたみたいだった。
蛍くんの過去を知る前、私はずっと「怖い」で止まっていた。
怖いから見ない。怖いから避ける。怖いから言葉を少なくする。怖いから凛としていないと壊れる。
でも今は、違う種類の感情が、同じ場所に湧いている。
怖い、の横に、知りたい、が並ぶ。知りたい、は危険だ。知りたいと望んだら、もっと深く傷つくかもしれない。
それでも、知りたい。
泣き虫の蛍斗。殴って泣く蛍斗。片親で不安定だった蛍斗。再婚して落ち着いた蛍斗。
その繋がりの上に、今の蛍くんがいる。
そのことを思うだけで、世界の匂いが少し変わった。
図書室の窓から、外の空が見えた。
さっきまで、ただ痛いだけの青だったのに、今は少しだけ透明に見える。光が紙の上に落ちて、埃が舞う。その埃が、嫌じゃない。小さな粒が、ちゃんと空気の中に存在している。
蝉の声も、遠いのに、ちゃんと夏の音として聞こえた。
私はチョコの包み紙を丸めて、指先で小さく潰した。銀紙が小さく鳴る。
その音が、心臓の音みたいに頼りなくて、でも確かだった。
「蛍くんのこと、もっと知りたい」
声に出すつもりはなかったのに、喉の奥からこぼれた。
松野さんは驚かず、ただ少しだけ笑った。
「うん」
たったそれだけ。でもその「うん」が、許可みたいに聞こえた。好奇心は悪じゃない、と。知りたいって思うのは、生きようとしてるってことだ、と。
私はそのまま、棚の間に視線を移した。背表紙の列が続いている。知らないタイトル。知らない世界。知らない匂い。
知らないものが、今日は少しだけ怖くなかった。
怖いのに、触れてみたい。
チョコの甘みが、まだ舌の端に残っている。甘みは、私の中の灰色に小さな穴を開けて、そこから風を通す。
私は、その風に背中を押されるみたいに、思った。
蛍くんに、会いたい。謝りたい、だけじゃない。知りたい。
私はまだ、彼の何も知らない。だから、今度は逃げないで、ちゃんと聞いてみたい。
その思いが胸に生まれた瞬間、図書室の空気はほんの少しだけ軽くなって、紙の匂いに甘さが混じった気がした。

【オムライス4-4】

昼休みの校舎は、外の光に押されて膨らんでいた。
窓は全部開いているのに、風はほとんど入ってこない。かわりに、太陽の熱だけが廊下の奥まで入り込んで、空気の中にじっと留まっている。
白い廊下の床は光を鈍く反射して、目の奥がじんとするほど明るい。天井の蛍光灯は消えているのに、校舎の中は昼の光だけで満ちていた。明るいはずなのに、空気は軽くならない。むしろ熱が壁や床に溜まり、逃げ場を失ってじわじわと身体にまとわりつく。
窓の外では蝉が鳴いている。
ひとつの声が終わる前に、別の蝉が鳴き出す。
その音が校舎の壁に反射して、少しだけ鈍くなって耳に届く。
私は、喉から鉄の味がすることに、舌打ちしながら階段を駆け上がった。汗が弾けて、跳ね上がる。服に張り付くのも、髪が顔にくっつくのも全部がうざったい。でも、今一番うざったいのは、他でもない私自身だった。
彼が、蛍くんがどこにいるのかはだいたい目星が付いていた。彼の教室一年三組。昼休みは、屋上か三組で友達とご飯を食べている。そこで、犬歯をのぞかせて笑ってる姿を思い出すと、胸が締め付けられた。
三組に着くなり、教室を覗き込んだ。しかし、いるのは、怪訝そうに私を見ている女子たちと、勉強をしてる男子、ふざけてる男の子だけだった。
蛍くんはいない。それだけわかると、私は乱れた呼吸を正すように、息を吸った。ふっと吸い込む空気には夏の匂いが混じっていた。ワックスの匂いが熱で少し溶けたみたいに漂っていた。鼻の奥に残る、甘くもないのにどこかべたつく匂い。そこに、教室から漏れてくる昼ご飯の匂いが重なっている。パンの甘い匂い。コンビニの揚げ物の油の匂い。お弁当の卵焼きの、ほんのり砂糖が混ざった匂い。どれも、今は私の具合を悪くした。
帰ろう。そう振り向いた時、声がした。
「日比谷……」
そこには、驚いたように目を丸くする蛍くんがいた。蛍くんの周りには前、会話をしていた男子。男子は、私を見るなりさっさとその場を離れてしまった。気を利かせてくれたのかもしれない。
蛍くんは、気まずそうに目を泳がせた。やっぱり、蛍くんは私といるのが嫌なのか。そう思って、私ははっと短く息を吐き、その場を離れようとした。すると、彼が私の手首を掴むから思わず振り返ってしまった。
「蛍く、」
「日比谷!俺、」
蛍くんは、泣き出しそうになりながら言葉を紡いでいた。あんな滑らかに言葉を操る蛍くんは、今は言葉を詰まらせてばかり。なんにも上手く言えない蛍くんに、私は小さく呟いた。
「蛍くんも、再婚って本当?」
蛍くんは目を丸くして「え」と呟いた。その黒曜石は涙で濡れていた。
「私、蛍くんのこと知りたい。蛍くんは、私のそばに居てくれたけど、私は蛍くんを知ろうとしなかった。でも、今知りたいの」
私は、まくし立てるように、でもはっきりと言った。私の起こした、小さな勇気だった。
蛍くんは、黒曜石いっぱいに新星を灯し、涙を拭った。
泣き虫の蛍くんだ。
私は、蛍くんの本当に、少しだけ触れられた気がした。松野さんの話す、泣き虫蛍くんを見れて。
蛍くんは、照れ隠しみたいに笑って、私の手を引いた。
「もう、お昼食べました?俺、まだなんです。よければ、一緒に食べませんか」
久しぶりに戻る、彼の敬語に鼻先がつんとした。蛍くんと、私会話してる。それだけで、胸がいっぱいだった。

屋上の扉を開けると、熱がまとわりつくように広がった。
外の空気は涼しいはずなのに、ここは違う。コンクリートが昼の太陽を一日中抱え込んで、熱をゆっくり吐き出している。足元から、じんわりと温度が上がってくる。靴越しでもわかるくらい、床が温かい。
空は高かった。夏の青は、屋上に立つと余計に近く感じる。手を伸ばせば届きそうなくらい広いのに、逃げ場がない色。
フェンスの金網が、光を受けて白く光っている。触れると熱い。鉄が太陽の匂いを吸って、かすかに金属の匂いが漂っていた。
風はある。でも弱い。吹いてもすぐ止まる。まるで屋上の上で足踏みしているみたいに、空気が同じ場所に溜まっている。
私と蛍くんは、屋上の温かい床に向かい合わせに座った。
「日差し、大丈夫ですか?」
私は、今の心地に微睡みながら「うん」と頷いた。蛍くんと一緒にいると、空気が変わるのには、ずっと前から覚えがあった。でも、それを上手く言葉に表せなくて、頭がくらくらした。例えるなら、それは熱中症やインフルをもっと暖かくした感じだろうか。とても、変な心地。
蛍くんも、私もお昼はお弁当だった。私のお弁当はお母さんが作ったものだ。きっと、蛍くんもあの優しいお母さんがつくったものだろう。
蛍くんは「はらへったー」と早々にお弁当箱を開けた。そこには、オムライスが入っていた。
オムライス弁当か。珍しいな。なんて思いながら、私もお弁当箱を開けた。
そこには、少しだけ歪な黄色い甘くてふわふわな布団を被った、ケチャップライスがあった。
蛍くんは笑った。
「一緒!」
それに、私も息を吐くように笑った。蛍くんと、一緒。それが、何よりおかしいのだ。
蛍くんは、その綺麗なオムライスを頬張った。とても、美味しそうに。でも、食レポはしなかった。多分、自分の母が作ったものを食レポするのは、変だと思ったのだろう。
私もオムライスに手をつける。その甘みは、色んな思いを湧きあげた。
ふと、蛍くんを見た。蛍くんは、ぺろりとオムライスを平らげていた。
「俺の元お父さんは、遊び人で」
突然始まった、彼の回想に私は目を瞬きさせた。でも、一言も逃したくなくて、必死に聞いた。
「ギャンブル、酒、タバコ。まぁ、想像するやつだいたいやってた。……借金まみれで、お母さんがやっとの思いで、別れたのが俺が中学二年生の頃。お母さんはずーっと働き詰め。で、親父と再婚して今って感じ。……俺さ、親父のこと、とにかく嫌いで。なんて言うんだろう。ぽっと出のやつに、親父面される?なんかめっちゃ嫌だった。まぁ、良い奴だったけど」
空になったお弁当箱を風呂敷で包みながら問う。
「殴ったって聞いた」
蛍くんはそれに、目を丸くした。
「……響から聞いたの?」
響。そこで、松野さんの名前を思い出した。松野響。やっぱり、二人は幼なじみなんだと認識した。私は頷く。
「……響は、俺の姉貴みたいなやつ。お母さん同士が仲良いんだよ。一個だけ年上の響は、ずっと威張ってた。……で、俺はお父さんがいなくなってから、お母さんへの悪口を言う男子いて。堪えてたけど、あまりにも腹が立って、響の目の前で男子を殴った」
蛍くんは、お茶を飲んで、言った。
「しばらく、俺の暴力は問題視されて、俺は問題児扱い。まぁ、慣れたけど」
私は、ただ黙って彼の話を聞いた。彼が、黙って、俯いて、でも私に気遣って笑うから、私は瞳が濡れてしまった。溢れそうなのが、なんなのかわかった頃には、声を裏返して彼に聞いていた。
「じゃあ、私があの日、あんなこと言った時、どう思ったの」
あの日。私が彼に「きえてよ」と叫んだ日。私は、喉の奥から鉄の味がして、唾液を飲み込んだ。
蛍くんは、笑った。ただ、優しく。
「俺は、日比谷の気持ちが一番にわかるはずなのに、酷いこと言ったなって、思ったよ」
「なつき」
私は、あまりにも幼稚な声を漏らした。それに、蛍くんは「ん?」と優しく聞くから私はますます泣き出しそうになった。
「日比谷じゃなくて、夏樹がいい」
私がそう言えば、蛍くんは「わかった」と笑った。
「私は、蛍くんに酷いこと言ったよね。ごめんね」
私の、稚拙なごめんねに、蛍くんはどう思うのだろうか。私は、蛍くんの黒曜石を覗き込んだ。
「俺もごめんね夏樹」
それに、私は泣き出しそうになった。こんな風に、思いをぶつけ合って、謝り合うのは、ここ最近ずっとしていなかったから。それに、あんな事を言っておいて、まだ謝ろうとする、蛍くんに私は胸を締め付けられた。
サイダーがぱちぱち音を立てる。その破裂音はどこか心地いい。
今だけ、私は自分を少しだけ好きになれた気がした。

【マシュマロ4-5】

朝の校門をくぐると、まだ完全には目覚めきっていない夏の空気が広がっていた。
昼のような重さはない。けれど、夜の涼しさももう残っていない。
太陽は校舎の向こうから顔を出したばかりで、光はまだ柔らかい。白い校舎の壁に当たって、淡く反射している。校庭の砂は乾いていて、歩くたびに小さく音を立てた。
空は、青い。昨日まで見ていた青より、少しだけ薄い。
まだ朝だからだろうか。光の中に水を混ぜたみたいな、やわらかい青だった。
蝉はまだ本気では鳴いていない。
遠くの木で、試しに声を出してみるみたいに、短く鳴く蝉がいるだけだ。
その声は、静かな校庭にゆっくり広がって、すぐに溶けていく。
廊下に入ると、空気がひんやりしていた。
窓が全部開いている。
夜のあいだにたまっていた空気が、まだ少しだけ残っているのかもしれない。
床のワックスの匂いが、ほんのり甘く漂っていた。
掃除をしたばかりの教室の匂い。どこか静かで、まだ誰の体温も混ざっていない匂い。
靴箱には、今日も何も入っていない。それに、内心ほっとして、図書室に向かった。
図書室に向かう途中には、もうだいぶ枯れて項垂れている向日葵が立ち並んでいて、それの先から涼しくて心地いい夏の風が吹いてくる。
夏の終わる音がする。
朝顔はしぼみ、向日葵は俯く。風はほんのり冷え冷えとしており、甘い匂いがする。夏が終わる、独特の甘い匂い。どこか、澄んだ赤紫のような色を纏う、夏の終わり。私は、それを横目に図書室に入った。
図書室には、松野さんが本を読んで待っている。私を見るなり、髪を耳にかけて笑う。
「おはよう日比谷さん」
それに、私も安心したように笑う。
「おはようございます松野さん」
松野さんは、「今日は仕事少なめなの」と悪戯に笑い、本を読み始めた。その仕草は可憐で、どこか美しさすらあった。松野さんは、育ちのいい人。私の中で、そんな印象だった。
私は私で、本を読もうと文学コーナーに行く。本を読むのは嫌いではない。でも、読むよりかは、書く方が好きだ。私は、本の背表紙を撫でた後、その場を離れた。
カバンからノートを取り出し、自分の書いた作品を読んだ。前まで歪だった、「愛」の字も、今なら難なく並べることができる。自分に、何が起きたのか、私はわからないまま、マシュマロを食べた。その、白いふわふわは、甘味をじゅわっと溶けさせながら口の中で消えた。
食べ物も、今は美味しく食べられる。甘みも、苦味も、酸っぱさも、辛さもわかる。前まで、食事が苦だったけれど、今は違う。
私は、変われた。確かに、昔とは違う。
ガラッと、扉が開いた。その視界の先には、蛍くんと川谷君と千花がいた。
「夏樹ー!来ちゃった」
なんて明るく言う千花に笑いかけて、「図書室では静かに」と注意した。すると、千花は川谷君と顔を見合わせて笑った。
「夏樹真面目ー」
川谷君はそう私の肩を軽く突いて言った。それに、私は「図書委員なので」と笑った。
蛍くんは、私を見て頬を赤らめていた。
「ごめん、こいつら着いてきちゃって」
なんて、眉を八の字にして謝る蛍くんに笑いかける。
「いいよ」
千花と川谷君は、「えー!こんなに本あるー!」とはしゃぎながら、本棚の間に消えていった。
松野さんは、蛍くんに「蛍斗」と呼びかけていた。その声は、優しさも厳しさも混じっていた。
「あ!響お前!」
蛍くんは、松野さんに言う。どこか怒りとじゃれ合いが混じったその声は愉快だと弾んでいる。
「夏樹に俺の事話しただろ」
「手助けしてあげたのよ」
松野さんも意地悪に笑う。この二人、よく似てるな、なんて思うと私は笑うのをやめられなかった。
「夏樹」
蛍くんは、私を呼びかけるから、私は笑いながら顔を上げた。
「おすすめの本、ありますか?」

彼に紹介された、「高慢と偏見」。それは、思いの外私に響いた作品。優しさと可憐さと厳しさと優雅さを掛け合わせた、和やかなロマンス。蛍くんの、優しさ、強さを感じられて、読んでいて、少しだけどきどきした。感想は、彼には聞かせられない。きっと、彼も、知ろうとはしない。でもいつか、笑い話みたいにして教えてあげるね。