微炭酸の夏と食レポラブレター

【パンケーキ2-1】

 蒸し蒸しとした陽炎が地面から立ち上がる。それによって汗が噴き出して堪らない。
 目の前の雲が、青い空が、大きな向日葵が、朝顔が、川の音が、夏の匂いが調和している。そんな美しさの調和を横目に私は学校に向かう。そんな私の頭を支配するのは蛍さんのこと。昨日初めて、いや、正しくはこの前初めて知り合ったKさんこと蛍さん。正しくは蛍斗さんだが、私の中でKさんが抜けないため蛍さんと呼ぶ。鮮明に蘇る。あの、光を集めて輝く茶色い髪も、切れ長なのに見開かれた景色を吸い込む目も、少し赤い頬が映える白い肌も、角張った大きな手も。あの、シーブリーズの匂いと飽和する夏の匂いと図書室の匂いも。少しカサついた優しい声も、言葉遣いも。鮮明に蘇る。あの時感じた安心感だって、嫌ってほど思い出せる。
 空には海月のような淡い月が浮かんでる。
 私は自己中心的にも、安心したのだ。Kさんが蛍さんでいたことに、蛍さんに拒絶されなかったことに、まだ蛍さんを居場所にしていていいのだと安心したのだ。いつでも私は自分のことしか考えてない。本当に醜い。それでも、蛍さんを見てるとそんな自分を許せてしまうから困るものだ。
 夏の匂いが風に乗って景色を泳ぐ。
 こんな私に居場所なんてあっていいのかさえわからない。どんな場所も息苦しくて、辛くて、叫び出したくなる。でもそれはみんな同じなんじゃないか?私ばっかり被害者ぶってはいけない。悲劇のヒロインにはなってはいけない。わかってる。わかってるつもりだ。でも、青い空を見ていると自分の醜さが体全体から滲み出てくる。それが本当に嫌で堪らなくて俯く。下を向いて歩くのだ。そしてしばらく、浮かない気持ちで歩けば白いコンクリートが見えてくる。それが学校だと気がつくのに時間はいらない。私は今日もいつも通りの日々を送る。胃の底では今日食べた朝食と共に憎悪が煮えたぎる。
 今日も届いてる無垢な青い手紙を見て、尚更自分の汚さに後ろめたさを感じるのだ。


 千花の顔は今日も近い。こんなに近接する必要が私にはわからないが千花なりの感情なのだろう。千花が近いから私は後ろに反る。
「Kさん、どうだった?そもそもちゃんと男だった?」
「男だったよ。」
 ガッツリねと私は笑う。あんな男らしい人の書く字があんなに可愛らしいなんて可笑しい。千花は目を細めてにやりと口角を上げる。
「で?イケメン?」
 絶対に聞いてくると思った。韓国のアイドルが好きな千花。イケメンには目がなく、付き合いたい人の理想が高いで千花は有名だ。可愛い顔してるのにモテないのはそのため。色々残念なやつだ。
 蛍さんの顔を思い浮かべる。
「イケメンというか、情けない感じ?でも不良っぽい。」
「いや、不良っぽいのに情けないってどういうこと?」
 千花はすかさずつっこむ。ぽんと私の頭を叩いた。
「う〜ん、なんていうんだろ」
 言葉がパッと思いつかない。蛍さんを表す言葉が。私は考える。
「優しそうな人だよ。良い人そう」
 隣の川谷君は私の机に乗り出して、頬杖をついて興味があるように聞いてきた。
「なんて名前?」
「え〜と、、、確か、、、、。千代田 蛍斗」
「え」
 私が名前を伝えると川谷君は驚いたように目を見開いて口をぱくぱくと餌を待つ金魚みたいに動かした。そこで私はわかった。きっと川谷君の友人と同じ名前だったのだろう。
「何、知り合いだった?」
 私がフリーズしてる川谷君の顔を覗き込んで言うと、川谷君と目が合った。
「うん。知ってるやつだ。なんなら結構仲良い」
「え」
 それは、蛍くんに悪いことしたかも。友人に知らぬ間に意図せず恋愛事情が知られてしまったなんて。
「へ〜、あいつラブレターなんて古風なことするんだな。しかも好きなやつに情けないって」
 ついに川谷君は笑い出した。
「ほ、本人には言わないでね」
「言わないよ」
 川谷君はそう言いながらも笑っていた。信用できない。
「じゃあ今度会わせてよ。蛍さんにさ」
 千花は笑ってる川谷君の前に身を乗り出して言った。私は想像する。こんな性格の千花や友人の川谷君をあの蛍さんと会わせたら。絶対蛍さんは恥ずかしさで消えたくなるはず。なんか、簡単に顔を真っ赤にして照れる姿が想像できる。
「多分蛍さんは会いたがらないと思う」
 私が遠慮がちにそう言うと「なんだと」とムッとした千花がコツンと私の頭を殴る。私は殴られた部分を抑えて千花を見上げた。殴るなら根性なしと私に思われてしまった蛍さんを殴ってくれ。
「まあ、そのうち」
 私がそう答えると「それ、絶対に来ないやつ〜」と千花が嘆いた。


 やっと静まる午後の時間。この時間だけは自分を曝け出せる気がする。羽を広げる蝶のように。図書委員会の仕事は今となっては何よりも心地いい場所だった。嫌な家にも帰らなくていいし、うるさいクラスにもいなくていいし。自分を他に曝け出せないから、小説を書いてそこに吐き出す。そのため、私の書く小説はドロドロと汚らしくてとてもじゃないが人様に見せられない。だから本当に愚痴の吐き場所でしかない。読み返すのは、私でも少し嫌だ。そしてそれを読まれるのも。
 私が気持ちや本音を吐き出せなくなったのは、親の離婚、再婚のせいじゃなかった。
 私は、母親がやっと安心して生きれるようになったのだから離婚も再婚もそんなに嫌じゃなかった。そりゃ、少しは苦しかったけどそれ以上に早く私の母親を楽にしてやりたかった。だから母親が嬉しそうに再婚することを告げた時は嬉しかった。
 何が、私をここまで苦しめるのか。それは妹の存在が大きかった。再婚相手との、私と血が半分繋がってない妹。私は、母親に言った。再婚するときの条件として、子供はもう作らないと。母親は確かにその条件を飲んだ。なのに、なのにどうして。
 理解ができない。
「小説、書くんすね」
 私は、勢いよくノートを閉じる。背筋が伸びたせいでガタっと音がする。耳元で音がするものだから驚いた。後ろを見るとビクッと肩を振るわせて私から距離をとる蛍さんがいた。どんだけ近くにいたんだ。てか、いつからいたんだ?もしや私の小説を読まれた?
「見たの?」
「え?」
 蛍さんは眉をハの字にして私の顔を見ていた。
「私の小説」
 私は威圧感のある声でそう言う。
「え〜……と」
 私の威圧感から自分がまずいことをしたと感じ取った蛍さんは目を泳がせる。心なしか汗も滲んでる。見たな。これは。
「ご、ごめんなさい!!」
 蛍さんは勢いよく頭を下げる。二人しかいない図書室に蛍さんの声が響き渡る。
 私はため息をつく。蛍さんはそれを聞くとビクっと肩を振るわせた。
「読んだの?」
 蛍さんは顔を恐る恐る上げて首を横に振る。
「……読んではないです」
 私はそれを聞いて安堵して胸を撫で下ろす。よかった。蛍さんは何か言いたげに、体を捩っていた。
「あの…!」
 私はまっすぐ前を向く。
「今度一緒に食事に行きませんか?!」
 なんて大きな声でのデートのお誘いだろう。こっちが恥ずかしい。今、この場に千花たちがいなくてよかった。その勢いに思わず声が出ない。蛍さんはぎゅっと閉じた目をゆっくり開け、こっちを見た。
「じゃあ」
 私がそう言うと蛍さんは目をまんまるにした。
「前話してた駅前のパンケーキ、食べに行きましょ」
 蛍さんの顔がみるみる明るくなる。断られると不安だったのだろうか。頬も赤い。
「はい。はい!ぜひ!僕、連れて行きますよ!」
 嬉しそうに頬を緩めて、声を張る。目にはたくさんの新星が浮かんでいた。
 そんな無邪気な姿に私は私で安心してしまうのだった。その星を捕まえたいと手を伸ばした。
「そうだ!」
 私が声を上げると蛍さんは目を丸くして肩をまた震わせた。私はそんな蛍さんの手を握って言った。
「連絡先、交換しましょ!」
 あぁ、きっと私、今目輝いてる。


 家に帰るとすぐに母がリビングから顔を覗かせる。母は逃がさんと言わんばかりに私に質問する。
「おかえり。今日、学校どうだった?」
 私はそんな母を避けながら答えた。
「まあまあ!」
 私の曖昧な答えに戸惑ってる隙に私は部屋に向かった。でも残念なことにしばらくすると夕飯が作り終わってすぐに食事に誘われる。家族で食事をするのは我が家の暗黙のルールだ。仕方ない。
 好きなものに囲まれた私の部屋。見渡す限りの本。本棚に本は入り切らず二重にしまわれ、そばには本の山。ただ本が読むだけじゃ満足できないコレクション癖のある私にとってこの景色は当然のものだった。小説だけでなく漫画、新書など私の好きが部屋には詰まってる。大好きな場所。なのに心が休まらないのは私がわがままだから。
 私は本がつまれたベッドに横になった。ボフンと本が一瞬浮かぶ。ベッドに横になって目を瞑った。嫌なことが瞼の裏に浮かぶ。学校のこと、家族のこと、社会のこと、どうしようもないこと。全部全部嫌で。目を瞑っても気が休まらない。目を開ける。スマホを手にとってメッセージ画面を開いた。「よろしくです!」「こちらこそよろしくお願いします。」と言う文字と可愛らしいキャラクターのスタンプ。蛍さんとのメッセージアプリ越しの会話。見つめても変わらない文字を何度も目で追う。女の子みたいな人。いや、今どき女の子みたい、男の子みたいなんてくくり方しないのかな。私は、薄らニヤつく顔を抑えて布団に顔を埋めた。

【トースト2-2】

今日は、起きるのが遅くなってしまった。いつもより一時間遅く起きて、内心その狂いに腹を立てていた。ストレスで気が狂いそうなのを下唇を噛むことによって堪え、学校の準備をした。いつもより遅いということは、再婚相手のお父さんと、妹が起きてくるということだ。その事実に泣き出してしまいそうなくらいの痛みを覚えて階段を駆け下りる。
「夏樹ー!寝坊したなー!!」
お母さんが悪戯に笑うのを睨んで黙らせる。とりあえず、トーストを齧った。味の薄い、口の中の水分を吸い上げるパンに苛立ちを覚えて、さっさと食べてしまおうにも、口が動かない。
なんとかそれを飲み込んで、雑に水で流した。バタバタと準備をすれば、階段を下る音がした。
「おはよう、かなちゃん!」
お母さんの明るい声に内心舌打ちする。日比谷 花奏、通称かなちゃん。現在三歳のかわいいかわいい妹。それの存在に腹底が煮えくり返ってしまうのを感じて、さっさと部屋に戻り制服を着た。髪を雑に整えてリビングを越えて玄関に向かおうとした時。
「おはよう夏樹。ほら、かなちゃんも」
と声がした。お父さん、慎也の声。その顔を見れば、温かみのある笑顔を浮かべていた。それに気持ち悪さを覚えて顔を背ければ「ねぇね、おはよ」と妹の声がした。それに、私は下手に笑い、答えた。
「おはよう。お父さん、かなちゃん」
そして、すぐさま顔を背けて、「行ってくるね」と玄関に向かった。靴を雑に履き、走り去るように玄関を飛び出た。涙が滲むのに、気づかないふりをして。

学校について、やっと息を吸った。学校の空気は糊の匂いがする。そして、塩素の匂い。それは、嫌いではなかった。
連絡先を交換してから、蛍さんからの食レポレターは届かなくなった。それに、内心寂しく思いつつ、食レポが連なるメッセージを見てにやにやした。
へぇ、今日はオムライスを食べたんだ。いいなぁ。
靴箱の付近ではぁと息を吐きしゃがみ込んだ。全ての力が抜けるようだった。今はただ、音沙汰なく消えてしまいたい。この世界から、この状態で。蛍さんから食レポをされ、友達がいて、家族がいて。この状態で消え去りたい。全てが愛おしくて、憎たらしい。全て消えて欲しくて、でも私一人では生きていけないから、私が消えてしまいたい。そう願うと、涙が溢れそうだった。
消えてしまいたい、消えたいと口に出す勇気もなく、涙で揺れる視界の中自分の上履きを見つめた。
「日比谷?」
そう言うのは、蛍さんではなく川谷君だった。まぁ、もともと蛍さんがいるのもおかしいか。その言葉にゆっくり顔を上げた。
「おはよう。川谷君」
笑顔を浮かべて、声を弾ませる。私の一日が始まる。
「どっか痛い?」
「え?」
下手な心配に思わず声を上げた。そして、笑った。川谷君は顔を顰めて「げんきそーでなにより」なんて言う。だから私も「げんきですよ」なんて悪戯に言う。
川谷君は相変わらず太陽みたいに明るく笑う。
「今日図書委員会は?」
「私の当番じゃないよ」
その言葉を合図に私たちは教室に向かいだした。くだらない話を川谷君がするのを流し聞き、時々反応する。川谷君といるのが楽なのは、私に過度な反応を要求してこないところだ。
「そうだ。蛍斗、あいつどう?」
川谷君は私にそう問いかける。だから私は、手紙が届かなくなったことを伝えた。
「連絡は取り合ってんの?」
「んー、あんまり。時々食レポが届くけど」
スマホの中を見せるのは流石に気が引けて、見せないが、連絡の一連を話すと川谷君は苦笑した。
「蛍さんって、乙女みたいな人だね」
私がそう雑に、何も考えずに行けば、川谷君は「え?」と声を出した。そして、私を見た。
「どこが乙女なの」
その迫真さに私は圧倒されながらも「すぐ顔赤らめるところとか?」と雑に答えた。すると、川谷君は笑った。相変わらずの大きな声で。そして、スマホを操作し、私に見せてきた。そこには、まるで別人の蛍さんがいた。鋭い目でこちらを睨みつけてる写真。それだけ見ると、凄く恐ろしいヤンキーのような、殺人鬼のような迫力があった。
「え、これ蛍さん?」
「そうだよ。あいつ、写真写り悪いから。にしても、これが顔を赤らめる……か。めっちゃ笑える」
とても楽しそうにしてるから、私は私で笑えてきてしまった。川谷君と笑いながら教室に行き、各々席に着いた。私は本をバッグから取り出し、読み始めた。川谷君は、こういう時気を利かせて話しかけてこなくなる。多分、川谷君は誰より空気が読める人なのだ。

空色、すみれ色、桃色の夕顔が咲き出す頃。私は図書室で図書委員として仕事をしていた。図書室に来るのは、静かな人ばかり。だから、全く空気が揺れないのだ。そんな微かな空気の揺れに敏感になり、私はパッと顔を上げた。先には相変わらず眉を八の字にする蛍さんがいた。
「こんにちは」
図書室で唯一の声という振動。それを受け取った蛍さんは「こんにちはっ」と声を弾ませて裏返していた。自信なさげな黒曜石は揺れ動き、頬は赤らむ。髪先は流れ、額には汗が滲んでいた。
彼は、星新一の「きまぐれロボット」を手に持っていた。差し出されるそれを受け取り、バーコードをスキャンする。
かつて、図書室で漫画を読んでいた蛍さんは文学も嗜むようだ。
「今日、な、何時に終わりますか」
その言葉に私は目をぱちりと瞬かせ、彼を見た。彼は相変わらず顔を赤らめている。泣き出しそうなのかと錯覚するその黒曜石には大きな星が浮かんでいた。
私はできるだけ優しく、安心させるように微笑んだ。
「17時には終わります」
すると彼はわかりやすく笑って目尻を垂らした。黒曜石が潰される。その瞬間、キラキラ煌めいて、新星を飲み込んだ。
私の持ち寄ったサイダーは炭酸が抜けて微炭酸になっていた。そしてそれは、私たちの沈黙の間で、しゅわしゅわと音を立てていた。小さな星が弾ける音が、耳に残る。蛍さんにも、聞こえてるのだろうか。

日は沈みかけ、茜色の空は黄金の雲を浮かべていた。溢れんばかりの金剛石の煌めきは図書室に一人の私に降り注いだ。私はそれが眩しくて目を細める。荷物を纏めて、図書室から出ると、図書室の扉付近でポケットに手を突っ込んだ男子がいた。すぐに、わかった。蛍さんだと。蛍さんは不安げに瞳を揺らして、めいいっぱい空を見つめていた。その瞳が何を願ってるのか、私にはわからない。わかりやしなかった。
「蛍さん」
私は蛍さんの顔を覗き込んだ。驚くように黒曜石を丸め、私を見下ろす。そして、口を開け閉めした後、髪を触れ、私に笑いかけた。
「お疲れ様です」
柔らかい声。優しい、彼だけの特別な声。それに、私は笑い「待っててくれてありがとうございます」と言った。
蛍さんが歩き出すのに合わせて、私も歩き出した。蛍さんは歩幅を合わせてくれてるのか、或いは歩くのが遅いのか、のんびり歩いていた。それに合わせるのは楽だった。
黄金色の光が零れる廊下を進む。その後には黒い影が張り付いた。
「敬語じゃなくていいですよ」
そう言う蛍さんに私は笑った。
「じゃあ、蛍さんも」
すると、蛍さんは困ったように顔を赤らめた。
「僕は、癖なので……」
それに私は瞬きし、彼を見つめた。
「そっか。ならいいよ。蛍くん」
蛍くんを強調させて言えば、彼は目を細めて顔を背けた。猫背な彼はポケットに手を突っ込んだまま、私の横を歩く。なんだか、大きな猫ちゃんのようだった。
「パンケーキ、美味しかった?」
そう私が聞けば、蛍くんは顔を明るくして頷いた。
「はい!僕はドライベリーフレークが、美味しいと感じました!トッピングを選べて、ホイップかドライベリーフレークか、チョコソースを選べるんですが、ドライベリーフレークは、甘酸っぱくて頬が落ちそうでした!酸味と甘みと、そしてパンケーキの温もりがあまりにも美味しくて……!」
語りだしてしまった彼を見つめながら下校した。彼は、こういう時一番楽しそうに話す。それが、なにより温かかった。

【メープルシロップ 2-3 】

飛び起きるようにして、ベッドの上で上半身を起き上げた。時計の針は午前十時を指していて、私は焦ってベッドから飛び降りる。柔らかな小鳥の囀り、優しい夏風の音が窓の外で響く。カーテンを開ければ、プラチナ色の光で溢れかえり、目を瞑る。白黄金の世界の中で、窓を開ければ穏やかでほんのり冷たい朝の風が入ってきた。
今日は、蛍くんとパンケーキを食べに行く日。ある時から始まった文通から思いを馳せていた今日この時。私は、やけに重い頭で世界を認識した。生身の蛍くんと食事に行くのか。私に、食レポをして、食というものを美しく鮮やかにしてくれた、彼と。そう思うと、大層なことに思えて、変に緊張してしまった。こうなると、逃避癖が顔を出すのだ。行くのはやめようか、風邪を引いたことにしようか。断るすべはいくらでもある。その逃避癖からまた逃れようと今度考えるのは、なぜ逃避したいのか。どうせくだらない理由なのはわかっている。だから、考えるのだが、思いつくのは、人間不信、疑心暗鬼、消滅欲など、大袈裟なものばかり。でもそれを意識してしまえば、自分は駄目で、弱い生き物だと錯覚してしまう。
みんなは、精神疾患だのイジメだの家庭崩壊だの理由を持って堕ちているが、私はどうだ?なんにもない。それが余計に苦しくした。
そんな大層なことを考えながらも、準備する手は止まらない。メイクを軽く施して、髪を整えて。滑らかに進んでいく準備の中で、手が止まる。
服、どうしようか。いくら蛍くんでも、男の人は男の人。だから、意識してしまっても仕方ないのだが、可愛く着飾れるほど服など持っていなかった。仕方なく、唯一と言ってもいいほど数少ない、花柄のシャツにプリーツスカートを合わせた。少しは女の子に見える。それに、ほっとしてリップを塗った。力強く、赤いリップを。

リビングを通り過ぎて玄関に向かおうとした時、母親に「なつき!」と呼び止められた。次になんて言うかなんてわかってる。それにイライラして顔を顰めながら足を止めた。
「どこ行くの。そんなにめかしこんで」
私はそれに目を回して貧乏ゆすりをした。
「友達とカフェ巡り」
それっぽいことを言えば、母は納得したように瞬きした。わかってるようで、なんにもわかってないお母さん。それに、ほくそ笑みながら玄関に向かった。
靴は、学校では履かない黒のスニーカー。玄関の姿見で自分の姿を確認した。
変じゃないかな。ただ、それだけが不安。着飾ってはいないが、意識してないわけではない。その事実が一番のアクセサリーで、目障りだった。
逃げたい。逃げたい。でも、逃げられるほど勇気もない。下唇を噛んで、扉を開けた。流れるように入り込んでくる光に目を細め、手で遮った。小鳥の囀りが掻き消されるくらいの蝉時雨。それが心をざわつかせた。吐き出してしまいそうなくらいのこれに、名前をつけるなら嫌悪感だろうか。いや、ただの緊張だろう。そんなくだらない自問自答を繰り広げながら、私は一歩前に踏み出した。自分の体が光に包まれる。燃えるように暑く、体を照らした。
歩くのもやっと。肌を刺す日光に腹を立てながら、バッグを肩にかけ直して進んだ。集合は、学校の最寄り駅。いつも通りの道のりなのに、どこか眩しく思えた。色鮮やかで、眩しくて。それが堪らなく苦しくて、目を細めたまま歩いた。とんでもない顔してるだろうと思った。でも、そんなことを気にしてられないくらいには目が痛い。
早く駅に着いて欲しいのに、着かないで欲しいと思った。その矛盾と、刻々と進む時間と距離に歯軋りをして、スカートを握りしめた。
世界がこんなに痛々しく輝いてると感じるのは、きっと初めて。あるいは、小学生以来だろうか。どっちにしろ、私には無縁の世界だ。

駅に着けば、今度はどこで待ってるのだろうという疑問で頭がいっぱいになる。もし、待ち合わせ場所を間違えていたら。もし、時間を間違えていたら。もし、彼は来なかったら。そう思えば思うほど不安で体が満たされた。蝉時雨は不安を強く煽り、人々の波は、私を惨めにするのには充分すぎた。目が回る感覚で世界を見つめ、じりじりと陽炎を立ち上げる地面を睨んだ。
人々みんな、私を見てる気がする。そう思ってしまえば、世界中が急に敵に回った気がした。
……帰ろうかな。そう思った頃、視線の先にスニーカーが映った。
「ひ、日比谷さん」
その声に、ハッとして顔を上げた。急に静まり返るように彼の吐息が聞こえる。ゼーゼーと音を立てる胸を抑えるのは、蛍くんだった。
「蛍くん」
私が零すようにそう言えば、蛍くんは顔を明るくした。そして、手を擦り合わせながら「学校ぶりです」と笑った。そして、暑さで顔を火照らせながら汗を拭う。
「暑いですね」
そう言いながら手で顔を扇ぐ仕草をするから、私も「そうだねー」と笑った。
そんな笑顔を浮かべる私は、ただただ安堵に飲み込まれていた。来てくれてよかった。惨めにならなくて良かった。そんななんとも自己中心的な安堵に笑えてしまう。
「パンケーキ屋さんは、駅からすぐです。行きましょうか」
なんて言って歩き出す蛍くんは、光に飲み込まれて、今にも燃え尽きてしまいそう。そんな彼を見失わないように、後を追いかけた。

パンケーキ屋さんは、赤いレンガ造りの可愛いこじんまりとしたカフェだった。駅から大通りには行かず、裏道を進むとある、ちょっと古いカフェ。ベルの音と共に扉が開き、中には赤いベルベットカバーの椅子と、ブリティッシュ風のテーブルがあり、とても可愛らしい雰囲気を漂わせていた。普段、一人なら絶対に入らないであろうカフェはあまりにも煌びやかだった。
「いらっしゃいませ」
語尾の潰れた柔らかい声にびくっと肩を揺らした。すると、蛍くんが前に出て店員さんと顔を見合せていた。
「あちらの席にどうぞ」
その言葉に、彼は真っ直ぐ角の窓際の席に進んだ。それの後を追い、席に着くと、蛍くんは荷物を受け取ってくれた。内心、気まずく思いながら、お冷をちびちび飲んだ。
「パンケーキはこれです」
そう言ってメニュー表の一つを指差す先を見ると、パンケーキが大々的に載っていた。見てるだけでも甘いメープル。見出しには、「レトロパンケーキがついに」と書かれており、どうやらここのイチオシメニューなのだとわかった。そして、そのパンケーキの種類には、ベリーフレーク、ホイップ、チョコソースの三つが並んでいた。
「美味しそう」
私が零すようにそう呟けば、蛍くんは笑った。
その時、私の肘がお手拭きを押してしまったみたいで、テーブルから滑り落ちた。
「あっぶね」
それをキャッチする蛍くんの顔は、同じく拾おうとした私と、グンと近づいた。咄嗟に出た、彼の言葉と、咄嗟にした、彼の表情に変に息を吸った。あ、蛍くんってこんな人なんだ。何も知らない癖に、知らないところを見つけてしまったみたいな顔をして、私は黙った。そんな私をお構い無しに、蛍くんはお手拭きを私に差し出した。
「落としましたよ」
そう言う彼の手を見つめながら、お手拭きを受け取った。
「蛍くんって」
その言葉に彼は顔を上げた。
「私といて楽しい?」
そう言われる意味がわからなかったのか、彼は顔をじわじわ赤らめて、俯いた。
「楽しいです」
それを聞くと、私は「そっか」とだけ返した。心には霧がかかり、変な心地だった。だけど、蛍くんはそれに気づきやしない。なんて、滑稽な話なんだろうと私は、お冷を飲んだ。

私の元にきたパンケーキは、彼のおすすめ通りドライベリーフレーク。きつね色のパンケーキに、ベリーフレーク。メープルのポーションがついてきて、私はそれをパンケーキの上に零した。とろりとした、甘い甘いメープル。その香りだけでも涎が出そうだった。
蛍くんが頼んだのは、チョコソース。メープルにチョコソースはあまりにも美しかった。美味しそう。それは、パンケーキからと言うよりかは、彼の表情からそう思えた。彼は漫画みたいに、目をキラキラさせて口をぽかんと開けてパンケーキを見つめていた。あまりにも、美味しそうにするから、私まで美味しそうに見えてきた。
「食べましょ」
私がそう言って、パンケーキにナイフを通す。その切れ目にメープルが流れる。お皿の白にメープルの黄金色がかかる。あまりにも甘い。それを、一口大に切り分けて、私は口に入れた。
美味しい。
私の感想はそれだけだった。彼は大きな口でパンケーキを頬張った後、飲み込んだ。
「めっちゃうまいな!チョコソースは意外と苦めで、香ばしい。それが甘いメープルシロップによく合って、すっごくうまい!」
目を輝かせたままの彼の口から溢れるのは見事な食レポ。私が言葉を返す間もなく、彼はパンケーキを頬張り、ぺろりと平らげてしまった。
私はナイフが上手く使えず、もたもた食べていた。そんな私を見て、蛍くんはくふっと笑った。
「…なに」
私がぶっきらぼうに言えば、彼は目を細めてにやりと笑った。頬杖をついて私を見つめるから私はパンケーキに視線を落とした。
「いや?ナイフ使うの下手なんだなーって思って」
そんな意地悪なことを言う彼を睨んだ後、パンケーキを食べた。相変わらず、ぼろぼろパン屑を零しながら。あぁ、もう。腹立たしいのに、こんなにパンケーキが甘いのは錯覚なのだろうか。
私を面白いと見つめる彼を睨みながら、カフェで時間を溶かした。それは、あまりにも甘い時間。私は、どうも胃もたれがしてしまいそうだった。

【コンビエンスストアのグミ2-4 】

ニュースを届けたのは、母だった。ピンクのキャミソールを着た、派手な金髪を雑に結び、整えられてない眉毛を露わにする母は、チラシを持ちながら私に駆け寄った。
「夏樹!」
私が無視をしていると、「なつきなつきなつき!」と大騒ぎを始めるから、私は舌打ちをして、「なに?」と雑に答えた。すると母は嬉しそうに顔を明るくし、私の顔に、至近距離でチラシを近づけた。カラフルなチラシ。それには、緑と赤とオレンジがよく目立っており、セブンイレブンがすぐに頭にチラついた。母からチラシを奪い取り、見てみると、私の家から徒歩五分程度のところにセブンイレブンができたという知らせだった。ここら辺にあるコンビニは、ミニストップとファミリーマートが多い。セブンイレブンに行くには、十五分くらい歩かなくてはならないのだ。だから、母はセブンイレブンができたと知って興奮気味なのだろう。
「セブンできたんだ」
「やったねー!今から行こーよ!」
なんて上機嫌な母に、「かなちゃんが一人になっちゃうから無理でしょ」と冷たく言った。すると、母はガッカリしたようにわかりやすく俯いた。
「じゃーしょうがないから夏樹が行ってきてよ」
その言葉に、私は雑に「えーなんで」なんて言う。
「アイス、買ってきて」
そう言われて、嫌だが「私の分もいいなら」と言う条件で出掛けることにした。お母さんからのお金と私のお金を少し財布に入れて雑にポケットに詰め込んで家を出た。
日曜日の夕方はあまりにも暑く、黄金色に輝いていた。蝉時雨も最後の力を振り絞るように響き渡り、頭がくらくらする。
さっさと帰ろう。そう思ってサンダルで力強く地面を蹴った。

昨日買ってきたのは、アイスとグミ。アイスもグミもファミリーマートでも買えそうな、ごく普通のもの。それを、わざわざできたてのセブンイレブンに買いに行ったのだ。確かに、近場で、広めだった。中は涼しいし、イートインスペースもあるので、なかなかいいコンビニができたのではないだろうか。母はアイスを早々に食べていた。私は、お風呂上がりに食べた。私のお母さんには、我慢というものができないのだ。だから、これも見慣れた光景。しかし、無くなってから、「うわ、アイスいいなぁ」と言い出すのはやめてもらいたい。だいたい取られるし。結局、私に残ったのはグミだった。グミは、翌日の学校で食べる予定だった。
グミというのも、サイダー味のひんやりグミというもので、まぶされている粉がひんやりするらしい。
暑い暑い空の下を歩くのはなかなかきつく、私はグミを食べることにした。グミの封を切り、袋に指を突っ込んだ。そして、摘み上げたグミは別に冷たくもなんともなかった。なーんだ、名前だけ。そう思いながら口に入れると、確かにサイダーの味がして、確かにひんやりと冷たくなった。それに、美味しいと思い、もう一つ口に入れた。
美味しいって言うかな。なんて、すぐに思い浮かべたのは蛍くん。なんで、なんて思うことは無い。だって、彼が私に食の楽しみを教えたから。
蛍くんに、このグミ食べてもらいたいな。あぁ、でもクラス知らないや。そんなことを思っていれば、さっさと学校に着いた。白いインクの塗られた壁はあまりにも眩しい。運動部の声と、吹奏楽部の演奏。全てが蝉の声と絡まり、雑音になっていた。
「おう。おはよう日比谷」
この時間にそう言うのは、川谷君くらいしかいない。
「おはよう川谷君」
川谷君はサッカー部の話をグダグダしながら教室に向かった。途中で、私にリアクションを求めてきたが、私が愛想笑いしたら、流してくれた。
教室に着いた時、私はふと思った。
川谷君は蛍くんと仲がいい。ということは、クラスを知っているかもしれない。こんな小さなことに勇気を出すのは、馬鹿馬鹿しい?そんなことを考えていたら、川谷君に「蛍斗とはどう?」それに、私は口を薄ら開いて、色々ぐちゃぐちゃ巡る思考の中で言葉を吐いた。
「蛍くんのクラス知ってる?」

廊下には午後の光が差し込んでいた。柔らかい午後の光は、私の心とは正反対に滑らか。だから、余計に頭を痛めた。本当に行くの?まさか。馬鹿なの?私は自分を強く責めて、自分の愚かさに保険をかけながら足を進めた。
汗が垂れてそれを拭う。それだけで口がゆるゆる震えた。
まさか、グミのために蛍くんに会いにいくなんて。しかもクラスに訪れてまで。馬鹿でしょほんと。私は歯軋りをしながら、爪を噛んだ。爪と肉の間には血が滲み、ほんのり鉄の味がした。でも、今はそれでじゃないと落ち着けなかった。
一年三組。なんとも、間抜けな響きのクラス。中学生の頃にもあったけど、蛍くんがいるというだけでますます間抜けにした。蛍くんがいるのは、私のクラスの隣。図書室から向かえば、階段を上って三クラス追い越した先。一年三組。繰り返すだけで、息が吸えてない心地だった。
でも、考えてるうちに三組には辿り着いてしまう。
三組の雑音を聞いて、引き返すべきか考えた。今なら、恥はかかずに済む。まだ、大丈夫。でも、なんで足が動かないんだろう。私は、教室を覗き込んだ。
女子グループに、男子グループ。中でも、派手髪の男の子がいるグループには、正直怖く思った。けれど、目が離せない。だって、そこに蛍くんがいるから。椅子に反対に座り、派手な緑髪の男の子と話をしているのは間違いなく蛍くんで、彼は眉を釣り上げて、ずっと悪戯に悪い笑顔で笑っていた。犬歯を覗かせる口元は大きく満面の笑顔を浮かべていて、男の子を殴るみたいにじゃれていた。
それを見て、私は変な気持ちになった。それは、私の知らない蛍くんのせいだとすぐにわかった。蛍くんのことなんて、大して知らない癖に、知ったような気になって、知らない姿と責める。そんな自分に嫌気が差して、頭が痛んだ。あんな笑い方する人知らない。あんな笑顔を浮かべる人知らない。その事実と同時に浮かんでくるのは、どうして私には見せてくれないのだろうという、わがまま。それをぐるぐる考えてると、脳が叫び出す。お前も見せていない癖にと。それに、私たちの関係が歪で上辺だけで、表面上のみなのだとわかってしまった。
「あれ、誰?」
その声に酷く体を震わせた。私のことだとすぐにわかった。蛍くんはこちらを見ようとした。だから私は逃げるようにして、その場を後にした。

私の手首を、ぱしっと掴んだのは蛍くんだとすぐにわかった。私はすぐに振り返った。蛍くんはやはりいつもの顔で私を見ていた。眉は八の字に、目尻を垂らして、顔をほんのり赤らめた。その顔は私の知ってる蛍くんで、安心してしまった。
「蛍くん」
私は泣き出すみたいに声を裏返らせて呟いた。蛍くんは柔らかく、下手に笑って私から手を離した。
「どうしたんですか」
その問いに、私は俯いた。そして、どう躱したものかと考えた。でも、私はすぐに顔を上げて笑った。
「美味しいグミ買ったから、お裾分けしようと思って」
それを聞くと、彼は心底安心したと言わんばかりに微笑んで、「どれですか?」と私の顔を覗き込んだ。だから、私は笑いながら、ポケットからグミを取り出した。自分の心の叫びを無視しながら。

【スーパーカップチョコミント味2-5 】

夏の張り付くような暑苦しさの中で、みんなが興奮して笑うのにはきっと理由がある。理由がないのなら、暑さでとち狂ってしまったのかもしれない。そう思うくらいには、みんな浮ついていて、楽しそうに話をしていた。
セブンイレブンができたはこっちのニュースだし、とくになにか大きな出来事は起きていない。
ではこの騒ぎはなんだと向日葵は上向く。私は読書をしながら教室で一人、静かにホームルームを待った。
そこに駆けてくる足音がして、すぐに誰かわかった。
「夏樹おはよ」
千花だ。可愛い顔して、悪戯に心を燃やす女の子。茶髪のボブは揺れ、甘い匂いを漂わせていた。千花は私の机に手をつき、私の顔を覗き込んだ。
「おはよう千花」
千花は私の言葉を聞くなり、早々にスマホ画面を見せてきた。そこには、花火大会と書いてある。それで納得する。なるほど、この浮つきはそれか。
「花火大会?」
私が腑抜けた声を漏らせば、千花はもーやっぱり知らない!と声を上げて脱力した。千花の髪がさらりと揺れ、汗の滴る顔に張り付いていた。
「今度、川沿いでやるの!私ぜーったいに行きたいの!」
そんな風に興奮気味に言う千花と一緒にいると、きっと私も花火大会に浮かれる女子の一人に属されるのだろう。私は苦笑で「そうなの?」と会話を続ける。
「そう!だって高校生活初の花火大会だよ?行かないとだよー!」
大興奮で言う千花をどうどうと落ち着かせながら話を聞いた。
聞いたところによると、屋台も出たりするらしく、結構本格的に花火大会をするようだ。私たちは、中学生時代大きな感染症によって叶わないことが沢山あった。花火大会はその一つ。だから、みんなここまで浮ついているのだ。
「誰と行くの?」
私が千花にそう言うと、千花はそれを待ってましたと言わんばかりに私の隣に座る川谷君の腕を掴んだ。
「こいつ!」
なんとも雑な紹介に、川谷君は顔を顰めていた。川谷君は、私に「こいつがうるさいから」と言う。それに、なんだ、意外と仲良いんだ。なんて笑った。それに千花は満足気に笑い、私の背中を叩いた。
「いたっ、なによ」
私がそう千花を睨むと、千花はにやりと口角を上げた。
「あんたは、蛍さんとでしょ?」
それに、私はきょとんとした後、本を閉じた。
「行かないよ。私」
誘われてないし。と本をバッグにしまいながら言う。顔を上げた先にはやはりにやついている千花がいて、どこか居心地が悪い。
「なに」
私が反抗気味に言えば千花は私を小突いた。
「わかんないよ?誘いたいけど躊躇ってるのかもだし」
それに私は苦笑した。でも、まだ話を続けようとする千花に押されながらも、ホームルーム前のチャイムが鳴り、なんとかなった。
私は、外の向日葵を見つめながら考えた。
花火大会。なんて、浮ついた言葉だろうと。たかが、火の花を空に浮かべて、屋台を回るだけ。それなのに、どうして、こんなにみんな大騒ぎなのか。そして何より、わざわざこんな捻くれた考えをする自分にも、なにかあるとしか思えなかった。

数学の先生に押し付けられた生徒たちの課題集めてを職員室に運ぶ。それだけのことで、汗が溢れて溢れてやまなかった。体に張り付くシャツが気持ち悪い。額に垂れる汗がうざったい。なのに、外の向日葵の黄色はあまりに鮮やかに視界に飛び込んできて、目を逸らす。
舌打ちをして、足を大股で進めた。
職員室は、私のクラス、一年二組から階段を下り、三年のクラスを通り越した後図書室を越えてようやく辿り着いつく。
途中、背が高すぎる向日葵の花壇が窓の外から見える。それに水をやる園芸部を人を見た。汗をかきながら、分厚い軍手をして、つば広の麦わら帽子を被っている。一瞬生徒かも疑うそれは、見てるだけで暑苦しい。頑張ってるなぁ、と感じる途端室内が涼しく思えた。汗は止まらないけれど。
職員室が見えてきて、やっと息を吐けた。あと少し。そう前を向いた時。目の前に、蛍くんがいた。
蛍くん。
そう言葉を漏らしかけてすんでで飲み込んだ。蛍くんは女の子と話していたから。へぇ、女の子とも話すんだ。なんて思っていると、そこにいた女の子は松野さんだった。え、松野さんと蛍くんが話してる。珍しい。そう思いつつも、どうでもよくてさっさと通り去ろうとした時、松野さんの笑い声が聞こえた。思わずそちらを見てしまう。すると、松野さんは生き生きと、悪戯に意地悪な顔をして蛍くんを軽く拳で小突いていた。それに、蛍くんはクラスで見た、意地悪なあの顔をして松野さんに笑い返していた。私に見せない顔で。
この二人、どんな関係なの?
私の頭にはクエスチョンマーク。松野さんと蛍くんの横を通り過ぎながら、ぼーっと考えていた。
汗がやけに冷たく感じた。なのに、内側から溢れてやまない。脳裏にこびりつくのは、やはり蛍くんのあの顔だった。

疲れた体で家に帰れば、母の靴がないことにすぐに気がついた。代わりに、義父の靴がある。それに、酷く、体から熱が引くのを感じた。
「夏樹」
その声にぶわっと体を震わせて前を向いた。そこには、穏やかな顔をした義父、慎也がいた。
「た、ただいま」
私が震えた声でそう言えば、慎也は困ったように眉を寄せて笑った。そして、さっさと階段を上っていった。
「アイス買ってあるよ。夏樹、好きだろ。スーパーカップ」
そう言って、慎也が見せるのはスーパーカップのチョコミント味。私は思わず苦笑する。私が好きなのはスーパーカップのバニラ味。この人には、スーパーカップという情報しかないんだ。そして、それは思い出ではなく情報として伝わっているんだと思うと気持ち悪かった。
蝉時雨が窓の外で響く。黄金の雲が、群青の空にゆっくり現れ始めた。午後五時のチャイムが鳴り始める。唯一それだけが、私を現実に留めてくれた。
「うん。好き。ありがとう」
私は慎也からアイスを受け取った。手は触れないように、そっと。スーパーカップのチョコミント味の蓋を開ければ、ミント色のアイスにチョコの破片が散っていた。それは、見事なコントラストで目が痛む気がする。それに、スプーンを差し込み、掬いあげて口に入れれば、鼻から抜けるようなミントを感じた。次に、舌の上で、熱で溶けたチョコレートの甘みを感じた。別に、嫌いじゃないチョコミント。でも、今は特別美味しくは思えなかった。体がスっと冷えて、ただただ何かを探していた。助けてと、心が悲鳴を上げている。
慎也は悪い人ではない。話もできるし、怒らないし、優しい。でも、それが気持ち悪いのだ。その寛容さが。
今は、ただ窓の外を眺めて探す。何を探してるか、わからない癖に。

【りんご飴2-6 】

背の高い向日葵の影はほんのり冷たい。顔を上げれば眩しすぎる日差しと黄色い花弁が視界に入った。汗を拭い、向かうのは図書室。私の居場所。でも、何故だろうか。今は足が進まない。
図書室は冷房が備わっていて、涼しい。それでいて静かで穏やかな場所。でも、今はそこに入るのを躊躇している。汗は滞りなく流れる。でも、足は動かない。どうしてなのと自分に問う。自分の脳は考えるのを頑なに拒否しており、だんまり。これは、夏の暑さのせいなのか、それとも別の理由なのか。
「日比谷さん!」
そんな私を現実に引き戻したのは、可愛い笑顔の松野さんだった。松野さんは長い前髪を揺らして、にこにこと私を見つめていた。
松野さん。松野さんを見ていると、あの意地悪な松野さんの顔を思い出す。そして、それと同時に蛍くんも。松野さんも、蛍くんも、私には見せない顔で笑いあっている。その事実だけが足を絡めとっていた。
「おはようございます。松野さん」
私が笑顔でそう言えば、松野さんは笑った。上手く笑えているのはわかってる。こんな風に、笑顔を作るのは得意だから。別に、胸は苦しくない。大して痛くもない。でも、なにかと胸に留まるのは、霧のようなもや。それを取り除きたくて、サイダーを飲んだ。まだ、炭酸の抜けていないサイダー。それがしゅわしゅわと喉を通り抜けた。
図書室での仕事は嫌いではない。言うほど図書室は仕事が多くはないし、覚えてしまえばできてしまうから。先生も、生徒もいない。私と松野さんの二人きり。松野さんが本を捲る音がする。私も、それに合わせて本を手に取ってみた。
今思えば、蛍くんが図書室に来たのは松野さんがいるからなのかもしれない。私がそこにいることなんて知らないだろうし、あんな感じの人が本なんて読むとは思えない。だから、きっと私の推測はあながち的を得ている。松野さんと、蛍くん。一見正反対な二人だが、どんな関係なのだろう。二人は、別にお似合いではないだろうに。
いや、あんな風に笑い合える関係なんだ。きっと、お似合いなのだろう。
下唇を噛む力が強くなり、ぷつと音がした。そして、口の中に鉄の味が広がった。
私、気持ち悪い。
そう自己嫌悪しては、本の文字を目で追った。でも、文字が滑ってしまい、なかなか頭に入ってこない。それに、さらに腹を立てて、サイダーをもう一口飲んだ。さっさと、この時間が終わればいいのにと思いながら。
すると、図書室の扉が開いた。そして、私も松野さんも扉の方を見た。急に入り込んでくる熱風に顔を顰めが、すぐに驚きの表情に変わる。
蛍くん。
蛍くんは俯いていたが、私の方を見て、顔を明るくした。柔らかい、笑顔を浮かべて私の方にやってくるから、私は思わず松野さんを見た。松野さんは、本に夢中だった。
「日比谷さん、おはようございます」
吃りながらそう言う彼に、私は笑って「おはよう」と返した。彼は、猫背をさらに酷くして俯き、本の返却をしてきた。なにか言いたげな彼をちらりと見て、返却する。すると、彼はようやく小さく口を開けた。
「今日もおすすめ、教えてくれたり……しませんか」
そう言うので、私は「いいよ」と席を立った。そして、彼と本棚の奥に向かった。向かう先は
文学コーナー。私の好きな棚。
私があれこれ本を選んでいても、後ろで何か言いたげにしてる彼に私は気づいていた。言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに。なんて思って、彼におすすめの本を渡すと、彼は目を据えて真っ直ぐ見てきた。それに、変に心臓が鳴り、私は固まった。
「ひ、日比谷さん」
彼の問いかけにも私は答えられない。ただ、黙って彼を見上げていた。
ちょうど、この本棚は図書委員のいるところからは見えない。それに気づいたらますます、変な心地だった。
「今度、花火大会があるんですけど、一緒に行きませんか」
その問いに、私は拍子抜けに脱力した。花火大会。その言葉を頭の中で繰り返す。花火大会。浮かれた言葉。でも、今はそんな言葉に、私も浮ついている。
「いいよ」
この返事には、彼がメッセージではなく直接会って話してくれた勇気を称えて出たもの。決して、私も行きたかったわけではない。

こんなこともあるんだと思った。この私が千花に頼るなんて。でも、確実に千花しか頼れなくて、私一人ではどうすることもできない問題なのだった。
目の前で、これもいい、あ、でもこっちの方が、と声を漏らして目を輝かせてる千花を横目に私は手で自分を扇いでいた。暑いのは、どこも同じで、夕方でも同じだった。この後、カフェでも入ろうと思いながらぼーっと見てるのは、千花の選んでる服。
私が、千花に頼んだのだ。花火大会に着ていく服を選んでくれと。千花はまず誘われたことを喜んでくれた。良かったねと、沢山言ってくれた。それに、妙な気持ちになって思わず笑ってしまったのを覚えてる。こうして、私のために服を選んでる千花を見るのも、少し妙だった。
初め千花は、私に浴衣の方がいいと言った。そう言われるのは目に見えていた。けれど、私は浴衣なんて着たくないし、なにより母親に着付けて貰うのなんて絶対に嫌だった。だから、その案は取り下げされた。
「これなんか良くない?ネイビーのお花の描かれた白のワンピース!めーっちゃかわいよ」
なんてはしゃいで言う千花に私は首を横に振る。
「こんなの似合わないよ」
「えーどうかな?似合うと思うけど」
私は頑なに首を横に振る。
千花が手に持つワンピースは白いレースワンピースにネイビーの花が描かれているもので、ノースリーブだ。その、儚さや可憐さに圧倒されて着る気には到底なれない。だから、私の中では絶対に却下なのだ。
「いや!絶対これがいい」
「じゃあ千花が着れば?」
「私は浴衣だもん!」
そんな会話をしてれば千花はだんだんむくれた。
「……じゃあ、このシースルーカーディガンと合わせるのは?」
そう言って、千花が指さしたのは、イエローのシースルーシフォンカーディガン。確かに可愛いデザインで、ノースリーブも隠せる。私は千花の期待の目から逃れられなくて「いいよ。これにする」と千花からワンピースとカーディガンを受け取った。千花は飛び跳ねるようにして喜んだ。
私は、じっとワンピースを睨んでいた。花柄のワンピース。私にはきっと似合わない。でも、いい。花火大会。その言葉の浮かれ具合にはちょうどいい気もした。

日が沈んだ、藍鉄色の空を見つめた。行き交うのはみんな浴衣や気合いの入った服を着た浮かれた人々ばかり。それの一人に、私がいると思うとむず痒かった。
空は暗いのに、まだ明るいのは夏のせいか。私は鏡で前髪を整えた。千花がセットしてくれた髪の毛。浴衣に着替えた千花はとっても可愛くて、私は思わず見蕩れていたのを思い出す。千花は川谷君と。千花と川谷君って、付き合っているのかな。なんて思いながら思い浮かべるのは蛍くんの姿。
前は、こうして待つのでさえ不安でいっぱいいっぱいだったのに、今は不思議と全然嫌じゃない。それは、この可愛い服のおかげなのか、浮ついた頭のおかげなのか。私は爪を噛んでハッとした。リップが落ちると。爪には僅かに紅が差していて、私はもう一度鏡を見た。唇の紅は爪の形でむらになっていた。だから、私は唇を擦り合わせてむらを無くした。
街灯の光がだんだん強く感じるようになる。ワンピースが風に靡いて少し足元がすーすーする。
車が通り過ぎれば、そこに蛍くんがいた。蛍くんは、私を見るなり顔を明るくした。図書室の時と同じ、犬みたいな顔。
「蛍くん」
「日比谷さん!」
私に駆け寄る蛍くんは私を見つめて動かなかった。そして、不器用に私の手を引いた。
向かうは、屋台の並ぶ川沿い。その先には花火大会会場がある。不器用に握られた手の温もりが心をざわつかせて、気持ち悪い。なのに、不思議と嫌ではなくてそれも気持ち悪かった。
蛍くんは、本当に食べるのが大好きで、りんご飴、焼きそば、たこ焼き、いか焼き、ベビーカステラ、お好み焼きとあれこれ買い始めては、すごいスピードで平らげていた。途中で私に一口くれたりしたけれど、私にはその一口の積み重なりでお腹がいっぱいになってしまった。蛍くんは本当に美味しそうに食べる。だから私も美味しく食べることができた。
彼は両手に食べ物を持ちながら川沿いの花火大会会場に向かった。私の手には、彼が持ちきれなかったりんご飴。その紅はあまりにも眩しく美しく、可憐でそこにあった。それに見蕩れて入れば蛍くんが笑った。
「なに」
私が蛍くんを睨んでそう言えば蛍くんは笑うのをやめて、私を微笑ましそうに見つめてきた。
「日比谷さんもはしゃいでるみたいで良かった」
楽しめてないと、不安にさせていた。でも、それは私が悪くて、浮つくことになれてない私のせいだった。だから私は俯いて髪を耳にかけた。
「楽しいよ」
すると蛍くんは良かったと笑う。その大きな優しい笑顔の前にいると、私自身が溶けてしまいそうになる。だから、私は顔を背けた。
暗がりの中、花火は打ち上げられていた。私たちは、来るのが少し遅かったみたいで、人混みの中を泳いでいた。少し抜ければ花火が良く見えた。
暗い黒いキャンパスには、白い星が光り、それをかき消すように赤や青や緑、黄色の花火が飛び散っていた。大きな音と共に大きな光が空に打ち上げられていた。
なんとも、美しい光景だと思った。それに私はうっとりして、思わずじっと空を見つめていた。
「花火大会、初めて?」
そう聞いてきたのは蛍くんだった。蛍くんの黒い黒曜石の瞳には花火が散り、とても美しかった。
「小さい頃に、お父さんと」
そう言いかけて、私は止めた。あの人は、もうお父さんではない。そう思い、慎也に悪いことをしたと息を殺した。そして、サイダーを飲んだ。サイダーは微炭酸で、刺激が弱い。おかげでこのもやもやを消し去ることが出来なかった。
蛍くんは私をなにか言いたげに見ていた。でも、ふと口を閉じて何も言わずに花火を見上げた。
今だけ、今だけは蛍くんに救われた気がした。今、何を言おうとしたかわからないけれど、何も言われたくはなかった。だから、黙って寄り添ってくれる蛍くんに私は心底安心した。蛍くんは、静かな水面のような人。そう信じて、私も花火を見上げた。空には、有り余る光を散らしていて、なんだか胸騒ぎがした気がした。

【チョコチップクッキー2-7】

今でも、脳裏に焼き付くのは色鮮やかな火花。あの音がこびりついて離れない。そして、なにより、屋台の食べ物が美味しかったことを忘れられないでいた。
色鮮やかな世界は今や空色と向日葵色、アイボリーと打って変わり、いつもの日常が戻っていた。今日も暑い。陽炎の立ち上がる見事な夏のいつも通りだった。
「夏樹、なんか太った?」
「……は?」
千花は、ポッキーを食べながら、ぽかんとして私に言った。その言葉は、今までの私なら聞くことのない言葉で、思わず冷たい声を漏らしてしまっていた。
「いや、なんか顔とかぽちゃっとしたなぁって」
私の声に怯みもせず千花はまだその話を続ける。それに、私は顔を顰めてクッキーを食べる手を止める。
「前なんて、お菓子食べてなかったじゃん」
それに、ふと自分の手元を見る。摘まれたチョコチップクッキーは齧られた跡がある。それに、私はますます顔を顰めた。
「確かに、最近はよく食べてるよな」
そう川谷君まで言い出すから私は川谷君と千花を睨んだ。話を変えなければと私は早口にまくし立てる。
「てか、二人はなに。付き合ってるの?」
私の雑な会話に千花はじとりと私を睨む。川谷君はいつもみたいに太陽のような笑みを浮かべた。
「いや?全然」
全然ということは、付き合っていないのだろうか。それに、千花は慌てて否定する。
「うちら、全くそういう感じじゃないよ。ただの幼なじみ。あーあ、昔は私に求婚してきたのに」
千花は悪戯に笑いながら川谷君を小突く。すると川谷君も千花を小突き返す。
「あん時は見る目なかったわ」
それに、千花は「なにー?」と怒っていた。私はなんとか話を逸らせたことに安心して笑った。幼なじみ。そうか、この二人はそういう独特な関係なのか。私には幼なじみというものがいないから少し羨ましく思ったりした。
「てかやばいよ」
千花はポッキーをもう一本食べながら机に突っ伏す。
「なにが?」
私の返答に千花は、わからないの?と言わんばかりにじと目で見てきた。だから私も肩をすくめる。
「そろそろ夏休みだよ?わかってる?」
なんだ、そんなことか。と私はクッキーを口に放り込んだ。
「あーあ。暇になるなぁ。バイトでも始めるかな」
なんて机の上で猫みたいに伸びてる千花の頭を軽くぽんぽん撫でながら私はスマホを見た。スマホには通知が二件来ていて、誰だろとスマホを開こうとした。すると、朝のホームルーム前のチャイムが鳴って、千花は戻って行った。スマホの中身は確認できていない。

クラスは、夏休みが来ると少しそわそわしていた。シアンの絵の具を広げたみたいな空と白いホイップみたいな雲。そして、耳障りな蝉時雨。古典の先生の授業は退屈で、私はうとうとしていた。先生は先生で、「夏休みだから」「夏休みに向けて」と夏休みというワードを出すものだからクラスがざわつく。みんな楽しみなのと、寂しいのと、色々な気持ちを抱えているのが、熱で漏れ出していた。
私はというと、なにか映画でも観ようかと考えていた。サブスクには入っているが、家のテレビでしか見れないのと、義父のサブスクだと言うのが引っかかって、どうしたものかと思っている。そこで、思いついたのが祖父母の家に行くということ。祖父母の家は、同じ関東圏内なので、少し電車に乗れば辿り着く。
母方の祖父母は、離婚して母が働き詰めになる時に、私を熱心に育ててくれた人だ。母は、私を祖父母の家に預けて、私を置いて仕事をしていた。あの時は、寂しかったが祖父母のおかげで苦しくない日々を送ることができた。
そんな祖父母とは今でも仲良しで、会いに行こうと思えば歓迎してくれると確信していた。
そんな祖父母の家に行こうか、考えていると授業が終わっていた。
「なぁ」
そんな私を現実に引き戻したのは、川谷君だった。
「なぁに」
私が間延びした声を漏らせば私にスマホ画面を見せつけてきた。そこには、千花のトーク画面が映し出されていた。
「海行かね」
その言葉に、私は「え?」と漏らし、スマホをよく見た。千花からのメッセージは授業中に送られていて、授業中にスマホでやり取りしていたとすぐわかる。
『かける!なつき連れて海行かね!』
『あ!蛍さんも誘おーよ!』
『夏に会えなくなるなんて最悪じゃね!?』
『なんなら泊まっちゃう!?』
一人で楽しそうに会話してる千花に私はげっそりしながら川谷君に答える。
「本当に行くの?」
それに川谷君は当たり前という顔をして答える。
「え、行かないの?」
それに私は机に突っ伏す。まじか。海なんて行ったことない。思い出せるのは、祖父母と前の父と母と家族で海に行ったことくらい。でも、それも小学生の頃とかだ。
「考えとく」
私が無難にそう言うと、川谷君は「え」と声を漏らした。そして、せかせかとスマホを動かしてまた私に見せた。
「日比谷来るって蛍斗誘っちゃった」
それに、私はがばっと顔を上げてスマホを見る。
『蛍斗ー海行かね』
『海ー?なんで』
『幼なじみに誘われた』
『あー千花ちゃんだろ?お邪魔になっちゃ悪いから俺パス』
『えーいいの?日比谷来るけど』
『え、まじ?』
『まじ』
『なら行くわ』
見事に私抜きで話が進んでて私はもう脱力してしまって力が入らなかった。蛍くんが来る。私、ますます行きづらいけど。
蝉時雨が喧しく鳴り響く。それをかき消すように生徒の声がする。生徒は、「夏休み楽しみだね」と「どこに行こうか」と話している。みんな、夏休みに現を抜かしている。かく言う私は、選択を迫られていて、笑えなかった。
「……考えとく」
私の言葉はそれだけだった。

海の話ですっかり忘れていたが、メッセージが届いていた。母のくだらないメッセージか、妹か。そんな風に思いながらメッセージを開くと、そこには「蛍くん」という文字が並んでいた。蛍くんからか。なんて思いながら、スマホを操作してメッセージを確認した。
内容は、夏休み中、会えないのは悲しいから文通しないかというものだった。だから、私もまたあの食レポレターが届くのかと思い、少し嬉しく思った。
食レポレターは、私にとって蛍くんのそのものを見れる、素敵な思いのこもったものだった。私なんかに時間を割いて、手紙を綴ったと思うと、すごく前向きな気持ちになれるのだ。だから、大切に保管している。昔、祖母に貰った高級マカロンの素敵な缶に。
それが、また届く。そう思うと、少し夏休みが楽しみに思えた。だから、私は住所をメッセージに書いて送った。そしたら、すぐ彼からも住所が返ってくるので、私はわくわくした気持ちで、帰り道レターセットを買いに行こうと思った。多分、私は変わらず紺色のレターセット。そして彼は、気持ちのいい空色のレターセット。

【冷やし中華2-8】

聞こえてくるのは、蝉時雨と小鳥の囀りと、テレビの音と、隣の家の風鈴の音。どれも特別な音なのに、夏休みに入ってから当たり前になってしまった。成り下がったと言うには少し違うかもしれない。成り下がったというより、日常の一部に溶け込むような、入り交じった、なのかもしれない。夏にしか聞けない音。でも、今は永遠に聞こえる気がする。
結局、祖父母の家に行くのはやめることにした。こんな居心地の悪い家だけど、定期的に蛍くんから手紙が届くから。母には知られたくない。慎也にも知られたくない。だから、私がこの家に張り付いて、手紙を回収しないといけないのだ。
手紙は相変わらず食レポが綴られていた。それに、読む度笑顔になり、返事を書いた。
一昨日の手紙はカツ丼の話だった。その前は、かき氷。そして、今日は、
「冷やし中華……」
久しく食べていない冷やし中華の話。どうやら、酢醤油とごま油が甘くて酸っぱくて美味しく、カニカマと卵の甘みときゅうりのさっぱりさが堪らなく美味しかったらしい。
見事な食レポを披露されて私はまたも笑っていた。
冷やし中華。最後に食べたのはいつだろう。そう思うとなかなか昔に思えた。
彼の書く食レポは本当に美味しそうで、私までお腹が空いてくる。きゅうりの緑と卵の黄色、カニカマの赤を思い浮かべると、夏らしい風が吹いた気がした。
私は手紙を大切に缶にしまい、レターセットを用意した。そして、最近あったこと、冷やし中華を滅多に食べないこと、今日、お母さんに頼んでみることを綴った。そして、それに封をして机に放置した。
ばたばたと階段を駆け下りる。お母さんがテレビを観てる音がする。
だる着を着て、ポテチを頬張る母は、私を見るなり顔を明るくした。
「なつきー!」
そして、テレビへの集中を私に向けた。
「どこか行くの?」
「行かない」
上手く会話をできない母はただ、嬉しいと私を見つめていた。その間抜けさ、お気楽さが腹立たしい。けれど、今は憎んでる場合ではなかった。
「冷やし中華が食べたい」
作ってくれる?と母に頼めば、母は嬉しい嬉しいと笑顔になって、「いいよ!」と言った。そして、すかさず言う。
「かなちゃんの初冷やし中華だね」
その言葉に、私ははっと息を吸う。そうか。この人の中で、私より先にかなちゃんが出てくるのか。別に母はおかしなことは言っていない。ただ、何故かショックで仕方なかった。私は、さっさとリビングから離れ、事実に戻った。そして、下唇を噛み、缶を開ける。そこには青色がいっぱい。少し、気持ちが静まる。蛍くんからの手紙を手に取って、私は読み始めた。

千花はバイトも何もしていないみたいで、ずっと暇のようだった。私にメッセージを寄越しては通話をしようと懇願する。私は毎回断るが、千花はめげずにお願いしてくる。だから、とうとう私が折れたのだ。
「もしもし?」
私は雑誌を捲りながらそう言った。すると、元気な千花の声が響き渡った。少し、スピーカーを小さくして話を聞いてれば、暇すぎて仕方がないという話をされた。
「毎日毎日外に出るとしたらコンビニ!頭おかしくなっちゃう!!」
それに私は笑って返す。
「私も似たようなものだよ」
千花は「ちーがーうーのー」と泣き言を吐いた。
「私は出かけたいって言ってるのー!」
「出かければ?」
「ひとりで!?夏樹ひどーい」
私はだんだんめんどくさくなり、話を黙って聞いていた。途中で私は本棚から漫画を取り出して読み始めた。通話中に小説を読めるほど器用ではないが、漫画くらいなら読める。母が置き場所がなくて私の部屋に放置してる漫画。私も小さい頃に読んで気に入っている漫画。
「海行こーよー」
本題に入ったなと思いながら千花の声に耳を傾ける。
「あとは夏樹だけなのー」
私は答えない。海なんて、行けやしないと思ったから。
「水着は買いに行こ。別に海に入らなくてもいいからー」
そう言われて私はため息をついた。選択を迫られて、答えるとしたら今だと思ったから。
「わかった。行くよ」
これ以上うやむやにしても、千花には効かないことに気づいたのだ。だから私は潔く行くことを決めた。
「ただし」
私は声を張り上げて言った。
「うん!なに!?」
すっかり上機嫌になった千花は私の条件提示にも、気持ちよく応じる。
「水着は着ない。海にも入らない」
そう言えば、千花は「うん!うん!いいよ!」と言った。どんな顔をしてるのか簡単に想像がつく。実は少し楽しみにしてる私を殴りたい気持ちで紅茶を飲んだ。
「でも、夏樹はいいの?」
「なにが?」
急な言葉に私はすかさず返す。
「いや、水着着なくて」
私はそれを鼻で笑い、「いいの」と力強く言った。千花はただ笑っていた。

【かき氷2-9】

待ち合わせは10時に海岸駅。私は、黒いワンピースにつば広の帽子を持って黒い日傘を持ってそわそわしながら電車に乗っていた。見るからに海に行く人で、一人だけ世界で浮ついてる気がして恥ずかしかった。誰も私を気にもとめてないのに。
被害妄想癖は、多分私が一人で過ごすことが多いことに関係している。友達と上手く関われない。人と上手く関われない。人を信頼できない。強い不信感と拒否感で私は勝手に周りの人を敵視してしまうのだ。そう思うと、我ながら人間として欠乏してるなと思った。
それに比べて、千花や川谷君、蛍くんは私とは正反対の人間だ。明るくて、素直で、優しくて、信頼に満ちている。そう思うと、少しだけ羨ましく思える。私は愛される側ではないのだと実感してしまって。
俯いて、スマホでイヤホン越しに音楽を聴きながらさっさと目的の駅に着くのを待つ。早く、早くつかないかななんて思っていると、千花の明るい声がした。
「うわ!夏樹」
うわと言われる理由は何か私にはわからない。千花を不信げに睨みながら隣に座る千花を見た。その隣には川谷君もいて、二人は最寄りが一緒なのだとわかった。
千花は私を見るだけ見て、笑った。
「真っ黒だね」
それに、私は千花を見た。千花は、花柄のシャツの下に赤い水着を着ており、ダメージの入った短パンを履いていた。確かに、それに比べれば私は黒くて地味かもしれない。
「海楽しみだね」
千花はそう笑い、川谷君と会話を再開した。
千花が来てから電車の速度が、少しだけ早くなった気がした。

 海岸駅に着く頃には、電車の中の空気まで塩っぽく感じた。窓ガラスに貼り付いた光がぎらぎらして、視界の端で白く燃えている。改札を抜けた瞬間、熱気がどっと体を包んだ。海の方から吹く風は確かに冷たいのに、街のアスファルトが熱を返してくるから結局暑い。気持ちが悪いくらい、夏は元気だ。
 千花は駅の階段を下りると同時に「うわ、海だ!」と叫んで、すぐスマホを掲げて写真を撮り始めた。川谷君も笑って、それに合わせてふざけたポーズを取る。二人は自然に横に並んで、歩幅も息も揃っていて、見ているだけで腹が立つくらいだった。幼なじみという言葉は、私にとってはただの単語なのに、二人にとっては空気みたいに当たり前のものらしい。
 私は帽子のつばを指で押さえて、日傘を深く差し直す。黒い傘の影は涼しい。でも涼しいほどに、周りの眩しさが際立つ。海に向かう人たちは、皆、肌を晒して、色の明るい服を着て、浮き輪やビーチボールを抱えている。全員が「今日は楽しい日です」と宣言しているみたいで、私はその集団の中に異物として混ざっている気がした。
 千花が振り返って言う。
「夏樹、ほんと日傘ガチだね。吸血鬼みたい」
「うるさい」
 私は短く返す。千花は「だってさ〜」と笑って、川谷君の肩を小突いた。川谷君は「夏樹はそういうスタイルなんだよ」とか、妙に分かったふうに言う。分かったふうに言われるのが一番腹立たしい。私は誰にも分かってほしくない。分かったって言葉で、私を雑に箱に入れてほしくない。
 駅から海岸までの道は、店が多かった。焼けた匂いがする。砂糖の甘い匂い、油の匂い、潮の匂い、日焼け止めの匂い。全部が混ざって、鼻の奥にべったり張り付く。千花は屋台の列を見つけるたびに「え、あれ食べたい」「え、あれも」と落ち着きなく言うし、川谷君は「腹減るよな」と笑っている。私はその後ろで、ただ歩くだけだ。歩くだけで汗が垂れる。黒いワンピースの背中がじっとり張り付く。
 砂浜が見えた瞬間、周囲の歓声が一段階上がった。視界いっぱいに広がる海。光を反射して、白い金属みたいにぎらぎらしている。波が砕ける音は大きくて、耳に直接触れてくる。私は立ち止まりかけた。心臓が、嫌な鳴り方をした。海って、こんなに開けていたっけ。逃げ場がない。空も、海も、砂も、全部が「ここにいろ」と言ってくる。
「夏樹、ほら早く!」
 千花が手を振る。川谷君も「置いてくぞ」と笑う。私の足は重い。足首に鎖が巻かれているみたいだ。こんなところ、似合わない。似合わない場所に来ると、私はいつも自分を嫌いになる。どうして普通に笑えないの。どうして「わーい」って言えないの。どうして最初に出てくるのが、「恥ずかしい」とか「怖い」とか「帰りたい」なの。
 砂に足を踏み入れると、靴が沈んだ。砂は熱い。足裏がじりじりする。私は帽子のつばの影から、周りの人を見た。皆、笑っている。裸足で走って、叫んで、転んで、それすら楽しそうにしている。私はその輪に入りたくないくせに、入りたい気持ちもある。入りたいと思ってしまう自分が嫌だ。矛盾で頭がぐちゃぐちゃになる。
「おーい!」
 大きな声がして、私は反射でそちらを見た。
 蛍くんがいた。
 黒いTシャツに、短パン。首にはタオルを引っ掛けていて、髪は少し濡れているみたいに見えた。日差しのせいで茶色が明るく透けて、目だけがやけに黒くて、鋭い。なのにその目が、私を見つけた瞬間、ぐっと緩む。犬みたいな顔、って千花が言ってたのを思い出す。ああ、本当にそうだ。飼い主を見つけた犬みたいに、嬉しそうに走ってくる。
「日比谷!来たじゃん!」
 敬語じゃない。川谷君の前だから、というより、元からこっちの方が彼らしい。私はそれだけで少し安心してしまう。蛍くんは私の前で止まると、汗を拭って、息を整える暇もなく笑った。
 その笑い方が、私の知らない笑い方だった。
 犬歯が覗いている。意地悪そうで、悪戯っぽい。クラスで見た、あの顔。人の輪の中で、仲間とふざけている時の顔。私にだけ見せてた「眉八の字の男子」じゃない。
 胸の奥が、冷たくなる。やっぱり私は、知らない。蛍くんのこと。都合のいい部分だけ、拾って、勝手に好きになっていたのかもしれない。そう思った瞬間、自分が気持ち悪くなる。私は何様なんだ。相手の全部を自分の都合で決めつけて、勝手に安心して、勝手に不安になって。最低だ。
 蛍くんはそんな私の揺れなんて気づかないまま、後ろを指差した。
「つーか、暑すぎ。先に場所取っといた。あと、これ」
 紙袋を持ち上げる。
「かき氷買ってきた。あと焼きそばも。……千花ちゃん、絶対食うだろ」
「食う!!」
 千花が即答する。川谷君が笑って「お前、分かってんな」と言う。蛍くんは「だろ?」と肩をすくめた。そのやり取りがあまりにも自然で、私は置いていかれる。置いていかれるのに、置いていかれたくない。
 砂浜の端、パラソルの影に移動して、荷物を置いた。千花はさっそくかき氷を開けて、目を輝かせている。シロップの赤が眩しい。氷が溶ける音が小さく聞こえて、妙に生々しい。
「日比谷さんも食べますか?」
 蛍くんが、青いシロップのかかったかき氷を差し出す。ソーダ味、と書いてある。私は一瞬だけ迷って、受け取った。指先が冷たくなって、体の熱が少し引く。スプーンで一口掬って口に入れると、舌がびりっと冷える。甘くて、少し酸っぱくて、懐かしい味がした。

「美味しい?」
 蛍くんが聞く。私は小さく頷く。
「……うん」
 言った瞬間、蛍くんが「でしょ」と笑った。犬歯がまた覗く。意地悪な笑い。なのに、その意地悪さが、私を傷つけるためじゃないことだけは分かる。分かってしまうから、腹が立つ。分かってしまう自分が、情けない。
 千花と川谷君は海に向かって走り出した。千花は「水着最高!」と叫んで、川谷君は「うるせぇ!」と笑いながら追いかける。二人は波打ち際で水を掛け合って、すぐに濡れて、すぐに笑った。
 私はその光景を見て、じっとしていた。
 はしゃげない。私だけ。体が固い。心が固い。あんなふうに声を出すのが怖い。誰かに見られるのが怖い。誰かの「変」を探す目が怖い。誰もそんな目で見てないのに、見てると思ってしまう自分が怖い。私は海より、自分の頭の方がうるさい。
「日比谷さん」
 蛍くんが私の名前を呼ぶ。私は顔を上げる。
 彼はいつの間にか、水鉄砲を持っていた。子供みたいなやつ。透明なタンクに水が入っていて、光が反射してきらきらしている。
「やります?」
「……やらない」
「えー」
 蛍くんは不満そうに唇を尖らせて、でもすぐにまた、あの意地悪な顔をした。
「じゃあ、僕だけやります」
 そう言って、海の方へ走り出す。
 次の瞬間。
「うおっ!?」
 川谷君の声。水が弾ける音。千花の悲鳴。
 蛍くんが水鉄砲を撃っていた。しかも、めちゃくちゃ笑っている。犬歯を覗かせて、悪い顔で、肩を揺らして。川谷君が「お前それ卑怯だろ!」と叫ぶと、蛍くんは「卑怯が勝つんだよ!」と返す。完全にヤンチャだ。千花は「やったなぁ!」と叫んで、今度は砂を掴んで投げようとする。川谷君がそれを止めて「それはやめろ!」と突っ込む。三人がわちゃわちゃして、波の音に負けないくらい騒がしい。
 私はそれを、パラソルの影から見ていた。
 笑うべきところなのに、胸がちくっとする。あんな蛍くん、知らない。知らない顔。知らない声。知らないテンション。あの輪の中にいる蛍くんは、私といる時とは別の生き物みたいだ。そう思った瞬間、また嫌な考えが湧く。
 私の前では、演じているのかもしれない。
 優しい顔。穏やかな声。気を遣った距離。あれは全部、私が怖いから。私が面倒な人間に見えるから。だから蛍くんは、私に合わせてくれているだけ。
 勝手にそう結論を出しそうになって、私は息を止めた。違う。違うって言いたい。言いたいのに、言える根拠がない。自分が嫌い。自分のこういうところが嫌い。決めつけて、傷ついて、勝手に拗ねる。全部自分の中で完結する。誰も悪くないのに、私は勝手に不幸になる。
「日比谷さん」
 また蛍くんの声がした。振り向くと、蛍くんが戻ってきていた。髪が少し濡れて、肌に砂が付いている。息が上がっているのに、笑っている。あの輪の中の笑いを、まだ残したまま。
「楽しくない?」
 言い方が軽い。ちょっと乱暴で、でも嫌じゃない。私の胸の奥の霧が、少しだけ揺れる。
「そんなことない」
「ほんとですか?」
 蛍くんは私の前にしゃがみ込んで、顔を覗き込んできた。近い。近いのに、逃げたくない。逃げたいのに、逃げたくない。
「……みんなみたいに、できないだけ」
 気づいたら、私は言っていた。言葉が漏れてしまった。蛍くんは一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「できなくていいじゃないですか」
「よくない」
「よくないの?」
 蛍くんは意地悪そうに聞く。私は答えられない。答えると、自分の醜さが全部出てしまうから。すると蛍くんは、立ち上がって、手を差し出した。
「じゃあさ。足だけ、入りません?」
 その手は大きい。日に焼けていて、指が長い。私はその手を見た瞬間、喉が詰まった。怖い。握ったら、何かが変わってしまう気がする。変わるのが怖い。変わらないままでも苦しいのに。
 でも、差し出された手が、そこにある。
 私は息を吸って、指先で、そっと触れた。触れた瞬間、蛍くんの手が少し力を入れて、私の手を包んだ。握られた。逃げられない握り方じゃない。痛くない。ちゃんと、私が逃げられる余白を残した握り方。優しいのに、迷いがない。
「ほら」
 蛍くんが引く。私は立ち上がる。砂が足にまとわりついて重い。波の音が近づく。千花と川谷君の笑い声が遠くで弾けている。私はそれを、今までみたいに「うるさい」とは思わなかった。ただ、そこにある音だと思えた。
 波打ち際に着く。水が足元を撫でる。冷たい。驚くほど冷たい。私は反射で足を引こうとした。でも、蛍くんの手が、まだそこにある。
「冷たい」
「ですね」
 蛍くんが笑う。私は小さく笑ってしまった。笑ってしまった自分に驚く。こんなことで笑えるんだ、私。私だって。
 波がもう一度来て、今度は足首まで濡らした。黒いワンピースの裾が少しだけ水を吸って重くなる。私はそれを嫌だと思うはずなのに、嫌じゃなかった。むしろ、現実に触れている気がした。熱い世界の中に、冷たい線が一本通ったみたいで、頭の中の騒がしさが少し静かになった。
「……私、海に来たんだ」
 独り言みたいに言うと、蛍くんが「今さら?」と笑う。
「今さらだよ」
「おせーよ」
 蛍くんはそう言って、また犬歯を覗かせた。意地悪な笑い。だけど、その笑いが、私を置いていかない笑いだってことが分かった。私を輪の外に追い出す笑いじゃない。輪の中に引っ張る笑いでもない。ただ「ここにいていいんだよ」と言う笑い。
 その瞬間、胸の奥が少しだけ、軽くなった。
 私は、素直になれた。ほんの少し。足だけ。海に入るだけ。それだけのことなのに、それが私にとっては大きい。声を張り上げて笑うのはまだできない。走り回るのもできない。水鉄砲で撃ち合うのも、たぶん無理。でも、手を握って、足を濡らして、「冷たい」と言って、笑った。それだけで、今日は充分だと思ってしまった。
 嬉しい、と思ってしまった。
 嬉しいと思う自分が、また怖い。幸せの後に、必ず何かが来る気がするから。でも、今だけは、その怖さを棚に置けた。
「日比谷」
 蛍くんが私の手を軽く揺らす。その呼び捨てに私は思わず顔を上げた。
「ん」
「かき氷、溶けるよ」
敬語を外す蛍くんはほんのり頬を染めていた。それに、私は俯いて微笑んだ。
「もう半分食べた」
「早」
「蛍くんの食べるスピードには負ける」
「それはそう」
 蛍くんが笑って、波の方を見た。千花が派手に転んで、川谷君が腹を抱えて笑っている。蛍くんが「やば」と言って、また水鉄砲を構える。目が、悪い。あの顔。犬歯。意地悪な笑い。
「ちょ、やめろよ!」
 川谷君が叫ぶ。蛍くんは振り返って、私を見た。
「日比谷も撃つ?」
「撃たない」
「だよな」
 蛍くんは即答して、でも私の手を離さないまま、片手で水鉄砲を撃った。器用すぎる。千花の悲鳴が上がる。川谷君が「お前マジで!」と追いかける。蛍くんは走り出す直前、私の手をそっと放した。
「ここ、いろよ」
 命令みたいな言い方なのに、妙に優しい。
 私は頷いて、足元の波を見た。波は何度も来て、何度も引く。ずっと同じことを繰り返しているのに、飽きない。飽きないのは、今の私が、少しだけ、ここにいるからだ。
 私は深く息を吸う。潮の匂いが肺に入る。胸の奥の霧が、ほんの少しだけ薄くなる。
 みんなと違う自分が嫌いだった。今も嫌いだ。嫌いだけど、違うままでも、ここにいていい気がした。
 そう思えたことが、今日の海で一番の変化で思い出だった。砂が足の甲に貼りついて、海水が乾いてつっぱる。
青い空はほんのり紅を差し、鎖に繋がれた私を自由にしてくれる気がした。

【ブリティッシュスコーン2-10】

家に帰ると、いつもの景色が広がっていた。慎也とかなちゃんがいる日常が当たり前になってると思うととても奇妙な日常に思える。変な、心を揉まれるような、妙な気持ちを誤魔化すように音楽を流し、小説を書いた。最近は手紙を書くのに夢中ですっかり忘れていた執筆。やっぱり、同じ文字を書く行為でも、返事が来るのと来ないのではわけが違う。反応が返ってくると少しだけ自分の文に価値がある気がしてしまう。だから、そっちばかり書いてしまう。
今日も、蛍くんから手紙が届いた。最近は、恋愛事とは無縁な手紙が送られるようになってしまった。別にいいのだが、私をただ食レポを聞いてくれるだけの人間として認識してるのではないかと不安になる。
私は変化していないけれど、蛍くんは変化している。蛍くんは、少しだけ軽くなった。私を日比谷と呼び捨てにし、敬語が外れる。それに、かつて知りたがった彼そのものを知ることが出来た。でも、手紙は変わらず敬語。だから、皮肉にも安心してしまうのだ。私の知ってる蛍くんだと。私の中で蛍くんはやはり「八の字眉の男子」で、今の蛍くんには正直驚いている。知らない、新しく出会った人と関わってるみたいで。でも、これも私のわがまま。知りたいと望んだ癖に、知ってしまったら、今度は前の方がと言い出す。
でも、なんとなくだけど、私は私の前では「八の字眉の男子」の蛍くんに、特別感を見出していたのかもしれない。自分だけにしてくれる、周りの知らない顔。だって、あの意地悪な笑顔は松野さんとクラスの男子に見せてたものだ。私にじゃない。そう思うと、なんだか嫌だった。
机の引き出しから取り出した手紙の「です」を指でなぞる。私の知ってる蛍くんはいつまでも手紙の中で生き続ける。結局、無いものねだりなのだ。私は。
シャーペンの芯がぽつと折れて、一時思考を停止させる。ふーっと息を吐いて、伸びをして紅茶を飲んだ。そして、私の書く小説に、初めて浮かんだ言葉を指でなぞった。
「愛」それは、私とは無縁と信じていた文字。私の書く小説は、私の知ってるものだけを綴っている。だから、「愛」なんて、知らないのだ。私の小説に初めてデタラメが並べられた。そう思うと、なんだか吐き気がして、紅茶を雑に飲み干した。そして、小説を綴っているノートを閉じた。
私には、デタラメを書けるほどの力も才能もない。
私は引き出しから紺色のレターセットを取り出してシャーペンの芯を押し出した。そして、便箋に文字を並べた。
手紙。彼は食レポを、私は日々の風景を綴る、なんの意味もない紙切れ。お互い、自分のことも相手のことも綴らない、ちょっと不器用なもの。それを、ここまで愛おしく思ってることを彼は知らない。そして、私は彼がどんな思いで手紙を読んでいるかなんて知らない。その、知らないが積み上げるのは、虚栄なのか愛なのか。はたまたそれは紙一重なのか。
『蛍くんは、本当はどんな性格なの?』
それに、向き合いたいと願うのは、好奇心なの愛なのか。私たちは、知らないことがありすぎる。そして、お互い知らないように必死だった。それを、変えてしまったら、知り合おうとしてしまったら、私たちは壊れてしまうのか。どれほど脆くて、どこが弱いのかなんてわからない。でも、知らないでいるのは、もっと怖い。
私に食の美味しさを教えてくれた蛍くん。私は、今自分で作ったブリティッシュスコーンを食べながら手紙を綴ってるよ。貴方の力は大きいんだよ。
『私のどこが好きなの?』
でもきっと、私が私のままでは何も変われない。変わるべきなのは、私なのだ。蛍くんは変わった。それを認めるのも、私だ。
私が、本音を話したら、貴方は聞いてくれる?怒るのかな、悲しむのかな、同情するのかな。それとも、喜んでくれるのかな。
知りたいと思ったのは生まれて初めて。私は、できるだけ何も知らないで生きてきた。知るのが恐ろしかったから。でも、蛍くんと話していると嫌でも知ってしまうし、初めてを沢山経験する。
手紙を勢いよく書き終えて、その殴り書きを見つめた。連なる文字に嫌気が差して、私はそれを引き出しに突っ込んだ。出てこないことを祈って。
私は結局弱い。何も変われないし、変わろうと思って変われるほど、融通も効かない。考えれば考えるほど、自分の嫌なところを思い出す。短所と長所を教えてと言われたら、短所ばかり上がってしまう。そして、それを人のせいにする。家族のせいにする。母は一度も私の不幸を願ったことなんてない。私との約束を破ってかなちゃんを産んだのも、私が寂しくないようにだ。でも、私には許す力もない。無力な自分なんて、消えてしまえばいいのにと願った。
青色のレターセットを見つめては歯を噛み締めた。蛍くんは、弱いところとかあるの?蛍くんは、人に話せない苦しみを知っているの?
私たち、きっと住む世界が違うんだ。それは、手紙から伝わってきた。その青色が美しく見えるのも、私たちが違うからなんだ。私と一緒なら、特別には見えないはずだもの。