微炭酸の夏と食レポラブレター

【パンケーキ1-1】

 夏の匂いがする。夕方の鼻を抜けるような匂い。茜色の空いっぱいに広がるあの夏特有の匂い。額には汗がたらりたらりと伝う。蒸し蒸しとした重い空気の中に留まっているのはなかなか苦しい。イヤホン越しに聞こえるロックバンドのボーカルの声と重低音なベースの音。煌びやかなギターの音と弾んだドラムの音がいい感じに絡んで心地良い。そんな音楽の爽快感に合わせてペンを走らす。ノートにはみるみる文字が綴られていく。
 放課後、図書室で私は今日も一人妄想に取り憑かれるのだった。ペンを走らせる手は忙しなく動いては止まって。脳もそれに合わせて忙しなく回転する。紙さえ前にすればいくらでも物語は浮かんできた。
 私は今、夏の匂いをテーマに小説を書いている。誰も知らない私だけの秘密の時間。


 私は失敗を恐れて生きてきた。だから人一倍経験が少なかった。そんな私を補ったのはいつだって本だった。本は不確かな私を少しだけだが確かなものにした。幼少期の頃から本に取り憑かれて、いわゆる本の虫。私は家族に嫌がられるほど本を読んでいた。一冊読んではもう一冊と手が止まなかったのを今でも鮮明に覚えている。本の感触、匂い、音、全てが私を魅了した。人と関わるのを忘れて本を読んだ。その文字に酔って酔って焦がれていた。いつしか、それでは満足できなくなってしまった。脳が、体が、疼くほど本を、物語を、文字を求めるのに、読むだけでは満たされない。満足ならないのだ。満足できない私はノートを手にした。そしてペンを走らせた。好きなフレーズを好みな人物をサラサラと文に起こした。好みな物語をノートに作り上げては一人で満たされる。それが、何を意味するのか考えたことがある。自己表現、承認欲求、理想追求。どれもぴったり当てはまることはなく、結局この行為に名前はつかなかった。でも、これだけが、私の子頃を癒してくれる。これだけが、わたしの本音を吐き出せる場所。今言うなら、これは逃避だ。

 朝、朝露の落ちる音に目を覚ました。汗の滲む服が肌に張り付いて嫌気が差す。カーテンとカーテンの隙間から差し込む定規みたいな一本の光。それが目に入って眩しい。もう少し眠っていたい気持ちを無理やり打ち消して、布団から出る。夏なのに少しの肌寒さを感じていち早く着替える。よく見慣れた制服で身を包み、リビングに向かう。母親と「おはよう」と言葉を交わし合い準備されている朝食をとる。ニュースをつけてそれを見ながら朝食を済ませる。寝起きの頭にニュースキャスターの声は届かなかった。
 窓の外から入ってくる柔らかい光は鮮やかな青で、今日の天気がニュースなんてなくても伝わった。スマホで時刻を確認して、私は食器を片付けて、学校に向かう準備をした。


 誰もいない教室はしんと静まり返っていて、校庭で活動している部活の声が響いている。私はバッグを自分の机の横に置いてノートを取り出した。誰か来るまで小説を書くことにした。
 7月の初め。夏の匂いがする。どこからか聞こえる風鈴の音がまた私の創作意欲を増す。自分の世界に入り込むのは心地良い。
 教室の外からパタパタと駆けてくる音がする。初めは部活動の生徒だと思ったが明らかにここに向かってきている。音も軽い。少なくても男ではないだろう。私はパタンとノートを閉じた。それと同時に教室の扉が勢いよく開いて、思わず肩を揺らした。扉の方を見れば、友人の橘 千花がいた。何やら息が上がっていて私に用があるようでじっと私を見て離さなかった。ずんずん足を進めて私に近づいてくる。手には水色の手紙が握られていることに気がついた。
「千花?おはよう……」
 千花は黙って私に向かう。私の肩をがしっと掴んで言った。
「ねえ、アンタの靴箱に手紙入ってたよ?」
 手紙を強調して言う。そして私の顔の目の前で手紙ひらひら舞わしていた。千花は少しむっとした表情から頬を緩めて私を揶揄うようなにやけ面でこちらを見てくるから居心地が悪い。
「アンタにもついに春?」
 私はひったくるように千花の手から手紙を奪い取ってその手紙に書かれた名前を見た。
 『日比谷 夏樹』と私の名前が確かに書いてあった。なんで千花が私の靴箱を見てるんだと言う疑問はすぐ消える。千花の靴箱と私の靴箱は隣り合わせなのだ。だから私の靴箱の中が見えてしまったのだ。それを持ってくるのはどうかと思うが。
「読んでみよ!」
 何故か私よりも楽しそうにしている千花はそう言った。私は面倒な気持ちと小恥ずかしい気持ちの入り混じった感情で手紙を開けた。
 気持ちのいい青の封筒。ぺりぺりとテープのりが剥がれる音が二人きりの教室に広がる。カサっと中の手紙に触れる。恐る恐るそれを引き出し、二つ折りを開いた。

『 日比谷 夏樹さんへ

 僕が手紙を書かせて頂いたのには理由があります。僕は貴方に恋をしてしまったからです。入学式のとき、友達と笑っている貴方は一段と輝いており、目を見張りました。それからずっと目で追ってしまうんです。一目惚れだったんです。こう、手紙を綴らせて頂いてるのは少し気持ち悪いと思いますが、本当に僕は貴方が好きなんです。

 そういえば、好きな料理はなんでしょう?甘党、辛党どっちですか。僕は甘党で最近駅前にできたパンケーキ屋さんに行ったんです。もう、すごく美味しくて幸せでした。ふわっふわなパンケーキにたっぷりのメープルシロップとクリーム。口に入れた瞬間じゅわっと溶け出して、とっても幸せでした。僕だけじゃどうしても言葉足らずですが、そのよかったら、一緒にパンケーキ、食べに行きませんか?

                                                           K 』

 ラブレターというか後半ほとんど食レポ。私は思わず千花の顔を見た。千花も私の顔を見た。
「何これ」
 千花はありがたい事に私の気持ちを代弁してくれた。私は無言で手紙を封筒にしまう。そしてまた顔を見合わせて笑った。
「食レポレターだよ」
「なんだそれは」
 千花は私にツッコミを入れる。ツッコミを入れたいのはこっちだ。「一緒にパンケーキ、食べに行きませんか?」と言う割に差し出し人の本名が書いていない。誰だKって。返事を書こうにも書けまい。
「でも一目惚れって。不憫だねえ。夏樹の恋人は本だって知らないのかな?」
 千花はそう言って笑った。本ばかり構っている私には本の虫を通り越して本の恋人という称号がついた。不名誉なのか名誉なのかわからない。
 私は手紙をカバンにしまった。千花はつまらなそうに口を窄めていた。
「まあいいんじゃない?これを機に一人くらい付き合ってみてもさ。」
 千花は私の机に頬杖をついて適当に言ってのけた。千花は自分のことじゃないとすぐに飽きて興味を失う。そして適当になる。
 私は窓の外に視線を移す。そして薄っすら思った。パンケーキが食べたいなと。
「ねえ」
 私は千花の注意を引く。
「何?」
 私は千花の顔を見てはっきり言った。
「パンケーキ食べに行かない?」


 放課後。日が沈み夜空がのぞく、青みがかったツツジ色の空が広がっている。ときどき赤にのぞく群青は美しかった。外には瑞々しい若い運動部の声が散らばっている。赤い光と金の光、柔らかい午後の風がカーテンにぶつかって揺らした。私の手元のノートに金と赤は滲んでいた。それが眩しくて少し顔を顰める。
 結局、千花にしたパンケーキを食べに行こうという誘いは断られてしまった。ついでに、手紙に影響されてると笑われてしまった。だから今日もいつもと同じで誰もいない図書室で小説を書く。意味など持たない純粋な文字。その純粋さは、私によって曲げられ、少し歪だった。私は、力の籠った手で、文字を並べた。それは、千花の言葉のせいかもしれない。べつに、断られたことが嫌なんじゃない。影響を受けてると、私を軽んじるのが腹立たしい。別に私は大層な人ではないが、それ以上に高く積み上げられたプライドがあった。雑に積み上げられたプライドは揺らされると倒れそうになる脆さがある。それで、揺らいでそれに苛立っているのだ。なんとも、醜い話。
 家に帰ったらどうしようか考える。想像するが騒々しくて嫌になる。家だと心が休まらない。自分のことも嫌いになる。だんだん嫌気が差して、苦しくなるから考えるのをやめノートに向き合った。

【牛丼1-2】

 瑞々しい朝。朝顔が光を浴びて目を覚ます。通学中に大きな目みたいな青と白と紫の朝顔を見た。蒸し暑くない心地よい風が吹く。私の髪は空の青と光を吸収して黒く風に揺れる。手に持つサイダーはもう微炭酸で、光り輝く気泡が弾けてる。ペットボトルはひんやりと冷えて結露が伝ってきた。服がほんのり汗ばむ。
 私は電車に乗るとノートを開いた。それなりに書けてきた文を見て頬が緩む。ペラペラと音を立ててページをめくる。 
 私の降りる駅名を二回言われて電車を降りる。少し歩いたら私の通う高校が見えた。私の高校の花壇には美しい大きな向日葵が沢山咲いている。その黄色に目眩がする。水溜まりを踏んで濡れたスニーカーにさえ、意味が欲しいと望んでしまう。
 蝉時雨が脳に響いて余計に暑さを増す。額に垂れる汗を拭って靴箱で靴を履き替える。そして気がついた。手紙に。手紙に手が触れて、思わず手を引く。今、学校に生徒は少ない。送り主を突き止めることができるかもしれない。そう考えたが、行動に移す勇気までは湧いてこなかった。手紙は昨日と同じ字で、同じく気持ちのいい青の封筒。差し出し人は昨日と同じKだろう。とりあえず手紙をノートに挟んで教室に向かった。
 
 教室に着くと手紙を開けた。今どき、思いを伝えるのを手紙で行うなんて古風な人だと思った。どんな人物なのか気になったのが本音。二通目には一体何が書かれているのだろう。そう、少しワクワクして二つ折りを広げた。

『 日比谷 夏樹さんへ

 二通目失礼します。昨日思いを手紙で伝えたKです。最近僕は、牛丼を食べました。駅前のあのちょっと古い牛丼屋さんです。ご存知でしょうか?
 あそこの牛丼は肉が柔らかくて、つゆだくで最高でした。口に入れた瞬間肉がほろほろ溶け出して旨みと共に広がって、ご飯の甘みを際立てていて幸せです。
 美味しい。
 日比谷さんは牛丼好きですか?僕は好きです。いつか貴方と食べに行けたら。そう願ってやまないのです。貴方を思い浮かべるといくらでもご飯が食べられる気がします。

                                                           K 』
  
 Kさんの食レポは昨日に続き見事だった。こちらまでお腹が空いてくる。それを満たすためにサイダーを一口飲む。しゅわしゅわとした痛みが気持ち良い。遅れてサイダーの甘みを感じる。
「へえー手紙?」
 そう私の背後から男子らしい声が響いて、私は思わず肩を揺らした。そして勢いよく振り返るとパッと目の前が陰る。私の顔の目の前に男子の顔があった。それにも驚いて思わず手紙から手を離し、男子と距離をとるように席を立つ。よく見れば隣の席の川谷 翔君だった。脱色されて、青い空の光を吸い込む金髪に、全ての景色を奪い去るようなぱっちりとした黒い瞳。サッカー部。首や額には汗がほんのり滲んでいた。
「今日は学校来るの早いんだね」
 私は完全に油断していて、それを誤魔化すように言った。すると川谷君は笑って言った。
「あぁ、部活早く終わったんだ。おはよう」
「おはよう」
 そう挨拶を交わすと再び沈黙が生まれた。それを破ったのは川谷君だった。
「これ、ラブレターってやつ?」
 そう言って川谷君は私が落とした手紙を拾い上げた。私はそれを受け取り「あぁ〜」と声を出して苦笑した。
「食レポレター、かな?」
 私が遠慮がちにそう言うと川谷君は目を丸くした。そして「へぇー」と言ってから私に手紙を読んでいいか尋ねた。私が首を縦に一回振ると川谷君は青い封筒から手紙を取り出して読み始めた。
 しばらくして、川谷君は声をあげて笑い出した。二人きりの教室にはうるさいくらい響いてしまっていた。
「確かにこれは食レポレターだわ」
 何故か嬉しそうにそう言った。だから私も呆れたように「でしょ?」と言って手紙を受け取った。そして改めて文字を見つめた。やっぱり、何度見ても食レポの文は変化していなかった。けれど川谷君が読んで笑った事によってより可笑しく思えて、私も軽く笑った。
 川谷君はしばらく考えて、まるで天才的なひらめきをしたかのような表情をして言った。
「レター返し、したら良いんじゃない?」
 レター返しを強調して言う。「レター返し?」と私は川谷君に聞き返した。
「返事を書くんだよ。そして早く学校に向かって差し出し人に会う。どうよ、この作戦」
「正直面倒くさい」
「でも差し出し人は気になるだろ?」
「そりゃ、まあ」
「なら決まり。誰か分かったら教えてな!」
 川谷君はそう言って太陽みたいに笑った。
「教えないし、明日も手紙来るとは限らないでしょ?」
 私がそう言うとやっぱり川谷君は楽しそうに笑っていた。何がそんなに楽しいのか、私にはわからなかった。だけど、どうしてもその笑顔につられて笑顔になってしまう。存在まで太陽みたいな人。私には眩しすぎてずっと見てると魂が天に召される気がするから顔を逸らした。
 レター返し、してみようかな。なんて思った。そして自分の家を思い出す。レターセット、どこにしまってたっけ?少しだけ、自分の家に帰ることが楽しみに感じてしまったのは、気のせいだろう。

 家に帰る頃には珍しく青い空が広がっていた。いつもなら藍鉄色の空が広がっているのに、今日は少し濃くなった空色の空にはとこどころ茜色がのぞいている。薄明るい道を街灯が照らす。べっ甲のような色の光が地面に広がっていた。私の影が伸びる。
 駅が見えてくると無意識に早歩きになる。電車に飛び乗って、席につく。茜色の光が青いスカートを染める。乗客は少なくて、閑散としていた。電車は音を立てて揺れる。体と髪が慣性の法則によってふわふわ動く。その度に頬に髪が当たってくすぐったい。
 いつもの帰宅時に感じる憂鬱は空腹なためかき消された。今日の夕食はなんだろう、なんて呑気に考えていた。どうしてそんなにお腹が空いているのか考えた。まさかとは思うが。いやまさか、そんなわけ。私はそんなふうに考えながらノートを取り出した。そしてノートに挟まっている手紙を広げた。まさかとは思うが、手紙の影響?そこで昨日の千花の言葉を思い出す。「手紙に影響されてる」と笑われているのが鮮明に思い返せる。
 私は手紙に視線を向けながら壁に寄りかかる。そしてぼんやり思うのだ。今日の夕飯、牛丼がいいな、なんて。いつもなら嫌いな家だって、今だけは少し恋しい。単純すぎて、笑えてきちゃう。そんな自分を殺すように爪を噛んだ。


 結局夕食は親子丼だった。丼まではあってたのに。惜しい。でも、久しく、料理の味を感じれた気がした。いつもは、少し気持ちが落ち込んでしまって、あまり食事を楽しめない。だから、今日は久しいのだ。
 私は今、風呂を済ませ、課題を済ませ、机に向かっている。目の前には私好みの夜空を思わせるデザインの落ち着いた紺色の封筒と手紙の便箋。私は川谷君のアドバイス通り正体の知らないKさんに返事を書くのだ。面倒臭さと緊張と裏腹にワクワクする気持ちもあった。手紙なんて滅多に書けないし、レターセットは可愛くて早く使いたかった。こんな形で使えるとは思わなかった。だから今は手紙を書ける事に喜びを感じている。さっそく書こうとペンを握った。Kさんに聞きたいことは沢山あった。一体どんな人なのか、どんな性格なのか、どうして私を好きになったのか。Kさんについて考えると止まらない。それは当然だ。こんな私に告白するやつなんていないから。逆にどんな勘違い屋なのか気になってしまう。私でさえ私が好きではないのに。顔が可愛いわけでも、性格がいいわけでも、愛想がいいわけでもない。中学の頃は浮いてしまっていたのを自分でもよく分かってる。こんな私のどこに惚れるのか全くわからない。でも、手紙をもらって喜んでるのも確かで。私は現に浮かれて返事を書いている。単純。
 ペンを走らせる。綺麗で可愛らしい便箋には私の世辞にも上手いとは言えない歪な文字が並んだ。それらをそっと指の腹で撫でる。今思えば、Kさんの文字は丸みがあって綺麗だった。もしかしたら送り主は女性なのかもしれない。綺麗な字のKさんに手紙を渡すのにあまり綺麗な字ではないのは恥ずかしく感じた。直すべきか考えた。でも私なりに綺麗に書いたつもりだったし、読めないわけではなかったのでこのままにすることにした。私は文を読み返した。

『Kさんへ
 
 手紙ありがとうございます。滅多にもらうことがないので嬉しかったです。告白の返事なのですが、まだ答えることができません。何故なら私は貴方を知らないからです。
 一つ知ってるとすれば、食レポがお上手だってことです。貴方の書く手紙を読んでるとお腹が空いてきます。そして、少し嫌いな家が恋しく感じます。貴方のおかげです。
 私も甘党で、駅前のパンケーキ屋さん、すごく気になっています。よかったら食べに行きませんか? 
 
                                                     日比谷 夏樹 』

 正体もわからない人を食事に誘う私の勇気を讃えてほしい。これで、相手から正体を明かしてくれるかもしれないと考えた。手紙を二つに折って封筒に入れて封をする。明日、私は少しの勇気を見せる。そう意気込んで布団に入った。爪と肉の間は、微かに血が滲んでいた。


 いつもより早足で学校に向かう。景色が流れていく。入道雲が太陽の光を反射して空の色に薄っすら染まる。駆け足で道路を駆け抜けると大きな向日葵がこちらを見ていた。その太陽みたいな黄色が眩しくて目を逸す。学校が見えてより一層胸が強く鳴った。
 私は少し肌寒い靴箱の目の前で紺色の封筒を握って立ち止まった。やけに胸が痛い。部活をする生徒の声でなんとか気を紛らわす。くるなら早く来て。はたから期待はしてないみたいなことを考えたが嘘だ。期待してる。今日も空色の手紙を持った貴方が来てくれることを。だから早く来て。手足が震えて止まらない。理由は寒さか、それとも緊張か。また別のものか。そんなのわからなかったし、わかりたくもなかった。自分を奮い立たせようと必死に脳を停止させる。考えないように。嫌な予感を。来ないなんて、嫌な予感を。ただ私は一人で時間の流れを感じる。一人は嫌いだ。哀れに周りに思われているように感じるから。怖い。だから早く来て。
 
「日比谷?」
 男子の声で顔を上げる。そこにいたのは驚いたような顔した川谷君だった。
「川谷君」
「あ〜、、、ごめん。俺のせいだよな。失敗した?レター返し」
 川谷君を責めたいわけではない。だから俯いて首を横に振る。私が打ちのめされているのは、自分の惨めさにだ。期待しすぎな自分に。自惚れていたのだ。また手紙がもらえるなんて。圧倒的な羞恥に身を捩った。
「失敗しちゃった」
 頑張って笑って川谷君に言う。まるでなんにも食らってません。私は娯楽の一環として楽しんでいますと言わんばかりにおちゃらけて笑って。川谷君は申し訳なさそうに視線を落として私の頭に大きな手を置いた。ぽんっと効果音がつきそうだった。私は顔を上げた。
「悪かったな」
 川谷君の太陽みたいな笑顔が萎んでるのを見ると、目が潤んでしまいそうだった。こんなことで。情けない。だから私は笑った。
「いいよ!大丈夫。いくらなんでも3日連続じゃあ来ないよ。いくらなんでもさ」
 それより教室に行こうと私は手を引いた。紺色の手紙はカバンの奥に突っ込んだ。
「そういえば、前友達と牛丼食べに行ったんだけど、日比谷も行ってみろよ。美味かった」
まるで誤魔化してくれるみたいに私にそう言い、話を変えた川谷君に私は息を吐いた。安堵から。
「ちょうど、食べたいと思ってたの」

 千花の顔がまた近い。そして相変わらずニヤついている。
「なになに〜?今度は川谷君?」
 今度はも何もない。私は「違うよ」と否定した。
「一緒に教室まで来ちゃって」
「靴箱で会ったの」
「へぇ〜?」
 千花は話を聞かない。全く。これだから。
「それより、今日は来なかったんだね。手紙」
 そんな言葉にズキンと胸が痛む。
「そんな毎日来るわけないでしょ。2日連続で来たのがすごいくらいだよ」
 私が次の授業の準備をしながらそう言うと千花は「確かに」と声を上げた。そう、2日連続で来たのがおかしいのだ。なんで期待なんてしてしまったのだろう。わかりきったことを。
 私は気持ちを切り替えようと炭酸の抜けたサイダーを一口飲んだ。


 下校のチャイムが鳴り響く午後の学校。私は家に帰るのが嫌だった。かといって他に行くところなんてないし、私の居場所はどこにもなかった。仕方なく靴をとる。するとカサっと何かが落ちた。視線を下に向けると胸が高鳴った。青色の封筒が目に入った。私はゆっくり拾い上げ恐る恐る宛名を読んだ。あの丸っこい字で書かれた私の名前と青色の付箋。昨日見たリンドウの花を連想させる青色の付箋。

『今日手紙を持ってきたら靴箱に貴方がいました。
すみません。顔バレはもう少し待ってください。』

 私は思わず息を吐いた。今、ようやく息が吸えた気がした。私の手にあるのはKさんからの手紙だ。素直に喜んでしまう。彼は、ちゃんと存在していて、私に手紙を渡そうとしている。その事実だけが私の心を軽くする。私は少し曲がった紺色の手紙をカバンから取り出した。そして私の空になった靴箱に入れておいた。明日こそきてくれるかわからないがもしきてくれるのならこの手紙に気づいて欲しい。そう思いを込めて『Kさんへ』という文字を上にしておいた。早く手紙が読みたくて早歩きで家に向かった。
 
【とんこつ醤油ラーメン1-3】


 夏めいた私の好きな季節。浮き足で家を出る。駆け足で学校に向かった。化け物のような雲が空に現れる。風鈴の音が風に流れている。私の黒い髪が溶けているように揺れる。
 駆け足で学校に入って靴箱を見る。今日もあった。青色の手紙。それを見ると喜びが溢れてきてしまう。私の手紙は無くなっていて無事受け取ってくれたことに期待する。
 いつもより遅く登校したためかクラスにはたくさん人がいて、賑やかだった。このクラスってこんなに明るかったんだ。なんて思ってしまった。「今日の放課後カラオケ行かね?」「最高。行こ行こ」「昨日の動画見た?」「見たよー!もうすごくよかった。また見たいな〜」そんなふうにたくさんの会話が広がっていた。いつもとは違う景色に思わず息を飲む。
 女子がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。まさか私に用?いやいやそんなわけ。接点ないし。同じクラスだけど話したことない。でもまっすぐこっちにくる。そしてついに、私の前で止まったのだ。
「日比谷さん、だよね?」
 眼鏡をした前髪の長いいかにも文学少女のような女の子が一生懸命私に話しかけてる。それを物珍しいように見てくる生徒もいた。私は文学少女ちゃんの方を見た。どことなく親近感が湧く。それくらいには、人付き合いの不自由さを感じた。
「そうだけど。どうかした?」
 私がそう答えると文学少女ちゃんはビクッと肩を揺らして両手を擦り合わせた。
「私、松野 響です……。あの、あのね?お願いがあって。」
 こんな私に文学少女ちゃんがお願い?
「何?」
「日比谷さん、よく図書室で小説を書いてるでしょう?」
 見られてたんだ。それに一瞬居心地の悪さを覚えた。自分の独りよがりの行為を他人に見られてると言うだけで、恥ずかしい気がした。
「だから、よければ図書委員になってくれないかなって。……い、いるだけでいいの。」
 黒い髪の先を撫でながらそう言う。視線は落ちていて頬はほんのり赤い。やはり私のイメージ通り本好きなのだろうか。私は少し考える。悪い提案ではない。正直家にいたくないし。ただ、新しくものを覚えなくてはならないのが少し厄介。そして面倒臭い。私が考えてるのを松野さんは不安げに見つめていた。
「わかりました」
「え、本当?」
 松野さんは声を張りすぎて裏返っていた。
「うん。私はどうしたらいいですか?」
「今日の放課後図書室に来て!説明するから」
「わかりました」
「本当によかった。人手不足で困ってたんだ〜」
 松野さんは安堵して胸を撫で下ろした。私は笑って言う。
「役に立てるように頑張ります」
 そんなこと微塵も思ってないけど。松野さんが笑ってくれるから思わず口が滑る。
 この感覚、懐かしい。小学生だった頃のあの感じ。頼られることが大好きだった頃のこの感じ。私は少し昔の記憶を辿った。


 私が小学生だった頃。親が離婚した。正直スッキリした。毎晩毎晩喧嘩喧嘩で私まで苦しかった。だからそれから解放されると思うと嬉しかった。父の姿を思い出して泣くこともあったけれど、それは一時的なもの。苗字が変わって、実感した。もう父とは会えないと。母は私と妹を支えていくために仕事ばっかりでほぼ祖母に育ててもらった。その時私は思った。私がしっかりしなくてはと。私はキャラクターを作るのが好きだったから、自分の理想のキャラを作って自分をキャラに似せて着飾った。明るくて、しっかりしてて、面白くて、頼れる日比谷 夏樹。だから誰もやりたがらないリーダーをやったし、みんなを引っ張った。だから当時は私は本当に明るくて、しっかりしてて、面白くて、頼れていたと思う。なのに。なのに。お母さんは再婚を決めた。お母さんのことを考えれば確かに再婚が一番いい。だけど、私にも思いがあった。何が嬉しくて知らない男と住まないといけないんだ。でもそんなこと言えない。笑顔が増えたお母さんに言えない。言ってはいけないのだ。壊してはいけない。この幸せを。私は堪えた。本音を漏らさないように。私は今、この家で望まれていない。明るくて、しっかりしてて、面白くて、頼れる私はもういらない。今度は本音を漏らさない、利口な私が求められているのだと小さい私ながらにわかっていた。というか、わからざるを得ない環境だった。それが苦しくて、時々幼馴染に相談した。吐き出す場所が必要だった。でも私は泣けなくなっていた。本音で話ができる幼馴染にも作り笑いをしてしまうようになっていた。それは、ほとんど癖で全然苦ではないのだ。ただ、友達からは一線引かれるようになってしまった。ただ、それだけのこと。

「起立。」
 日直の声にハッとして席を立つ。「礼」と言う声に合わせて頭を下げる。「着席」と聞いて私は席につき手紙を撫でた。そしてホームルームが終わった。


 休みの時間になって私は手紙を開いた。

『日比谷 夏樹さんへ
 
 しつこいでしょうが今日も手紙を書かせてもらいました。理由は、美味しいものを食べると貴方にも共有したくなるからです。伝わるでしょうか…?迷惑ですかね…?
 今日はですね、とんこつ醤油ラーメンを食べました。学校の行きにあるラーメン屋さんです。少し汚いですが、店もまあまあ広かったです。
 味の方は完璧でした。こってりとしたとんこつがコクがあって、細麺に絡みついて天才的でした。スープはこってりしていてもクセがなくごくごく飲めました。僕はあっという間に完食してしまいました。ぜひ食べてみて欲しいです。近いですし。
 日比谷さんはラーメン好きですか?僕は大好きで毎日でも食べれます。最近は担々麺にもハマってます。辛いけどそれが癖になるんです。日比谷さんのおすすめラーメンが知りたいです。 
                                                           K 』

 私は満たされたような気持ちで手紙を読み終えた。やっぱりKさんの書く食レポは私の食欲を唆り立てる。二つに折って青の封筒にしまうと後ろから声がした。
「また来たの?すごいね〜。」
 千花は私の手元を覗き込んで言った。私はそれを隠すようにカバンに突っ込んだ。
「渡せた?」
 今度は川谷君だった。千花は「渡す?何を?」と川谷君に聞いていた。川谷君は千花に伝えていいかと尋ねるように私を見た。だから私は千花にレター返しのことを伝えた。すると千花は目を丸くして私の肩を掴んで揺らした。
「何?やっぱり気になってるんじゃん!スカしちゃってさ〜」
「そうですね〜」
 私は揺られながら棒読みでそう言う。
「俺が提案したんだよ」
 川谷君は揺さぶられてる私を横目に千花にそう言った。千花は川谷君の二の腕を肘で突いた。
「やるじゃーん。夏樹は自分からじゃ何もしないから」
 棘が刺さるように胸が痛む。何もしない私がいけないが。千花は興味を川谷君から私にうつして言った。
「それで?正体はわかったの?」
 私は首を横にゆっくり振る。
「わからない。でも手紙は受け取ってもらえたかも。」
 いつかわかったら。なんて。


 放課後、私は図書室にいた。根暗な松野さんに手を引かれて。一通り貸し出しシステムなどの説明を受けた頃には日が傾いていた。誰もいない図書室には二人の影が伸びていた。 松野さんは説明を終えると「帰るね」と嬉しそうに弾んだ声で言った。可愛いとこもあるんだなって思いながら手を振るとやっぱり嬉しそうに手を振りかえす。私も帰る準備をしてるとカバンから青がひらひら落ちた。その青に見惚れてるとハッとして拾い上げた。今や無意識に宝物にしてる手紙。

 家の目の前で思わず立ち止まる。そうして一生懸命口角を上げる。上手く笑えてるだろうか。ぎこちなくないだろうか。震える足を前に出す。
「ただいまー!」
 お母さんがリビングに繋がる階段から顔を出す。笑っている。
「おかえり。」
 私も笑う。
「今日のご飯何ー?」
「今日はカレーだよ。」
「いいね!」
 ぎこちなくないだろうか。笑えてるだろうか。私の不安はただそれだけだった。理想のよく笑う、間抜けで馬鹿な可愛い娘になれているかどうか。
 お母さんは娘のことならなんでもわかると言うがわかってない。確かに妹のことはよくわかってる。でも私のことはわかってない。私の辛さを。苦しみを。まあ、知ってほしくもないが。離婚を乗り越えて幸せをようやく手に入れた母をこれ以上苦しめるのは酷い話だ。だから私が我慢するしかないのだ。ゆるりゆるり首を絞めるように私が殺されていく。


 今回も手紙の返事を書いた。前と同じ紺色の封筒。Kさんがラーメンの話題を振ってくれたから、醤油ラーメンが好きだとか、どこのラーメン屋が好きだとかを綴った。告白の返事はまだ書けないでいる。私はもっとKさんを知りたい。こんな私を好きになったKさんを。だから私からも質問をさせてもらった。自惚れてるみたいで嫌だけど大切な質問。どうして私を好きになったのか。やっぱり自惚れてると手紙を破り捨てたくなったがなんとか堪えた。そして今日も放課後手紙を靴箱に置く。図書委員会の仕事が朝からあるから早歩きで学校に向かう。靴箱には相変わらずの青の封筒。私は無意識に口角を上げてノートに挟み込んだ。そして図書室に急いだ。
 朝の図書室は、午前を思わせる爽やかな少しひんやりとした空気が埃と共に漂っていた。光がカーテンみたいに広がって差し込んでいる。利用者は今のところゼロ。私は貸し出しシステムの導入されているパソコンの前に座ってノートを開いた。小説を書こうと思った。でも手紙が挟まっていることに気がついて、手紙を引き出した。読もうと手紙を封筒から引き出したとき、人が来た。思わずさっと手紙をノートに挟む。そしてノートをカバンにしまった。
 男子生徒だった。少し威圧感のある、猫背気味の。髪は襟足を刈り上げていて、光をよく通す茶髪だった。見た目で判断するのはいけないが、あまり本を読むタイプとは思えない。どちらかと言うと、不良っぽい容姿だった。一体どんな本を読むのか気になって目で追った。男子生徒は漫画コーナーで立ち止まった。はーん、なるほど。漫画か。なんて脳内で考える。男子生徒はシリーズ化されている漫画の途中を引き抜いた。そして私の方を振り返って見た。ばちっと目が合う。男子生徒は目を丸くした。初めは面識があったっけと考えたが、すぐにいつもは貸し出ししてくれる図書委員は松野さんだからかと気がついた。男子生徒はすぐに目を逸らした。だから私も目を逸らした。漫画は貸し出し禁止だからこの男子生徒とはもう顔を合わせないだろう。私は適当に手元に積まれた本を一冊とって読んだ。


 教室に戻って手紙を読む。

『日比谷 夏樹さんへ

 手紙ありがとうございました!K宛だったので、僕であってますよね?本当に嬉しかったです。泣きそうになりました。あの手紙は家宝として保管しておきます。
 今日はですね、カレーを食べました。カレーはうちの母親が作ったものなんですけど、美味しいんですよ!食べさせたいです…。ただのカレールウですがうちのは隠し味に蜂蜜を入れるんですが、それでか甘くてなのにスパイシーで美味しいんです。スパイスが効いててほっかほかの白米とよく合うんです。本当に美味しい……。
 日比谷さんの家のカレーはどんなですか?隠し味とかありますか?
 手紙本当にありがとうございました。

                                                           K 』

「もうほとんど毎日じゃん」
 千花の声がする。どうせ揶揄われるのだ。腹が立つ。
「うるさい」
 私がそう言うと千花は身を引いて大袈裟に「うわっ、可愛げな」と声を上げた。
「レター返しは続いてるの?」
「うん。今日もするつもり」
「あ、やってんだ?」
 川谷君が身を乗り出して話に参加する。
「おはよう川谷君」
「おはよう。で、正体は?分かった?」
 私は首を横に振る。
「わからない。でも、いいかな。もう」
 小さな声でそう言った。それでも千花はその言葉を拾った。
「え、せっかく告白してくれたのに!」
「でも、付き合ってって、言われてないし。本人も正体を明かすのは嫌なんだよ」
 それに、私の性格じゃあ会ってしまったらきっと嫌いになる。私はいつもそうだ。人が根本的に好きじゃない。いつも人の嫌いなところをすぐ見つけてしまう。千花だって例外じゃない。千花相手にもすごく腹が立つことがある。そして時々いなくなればいいのにと思ってしまう。本当にこんな自分嫌いだ。
「いつか、本人から明かしてくれる日が来るまで待つよ。私は」
 私はそう言って千花に笑いかけた。

 放課後になって私は手紙を靴箱に入れて下校する。明日の手紙が楽しみだ。私は手紙によってされた質問を思い出した。そういえば、うちのカレーって何か入ってるのかな。私は少しの勇気を起こした。そして母親に言った。
「うちのカレーって何か隠し味とかあるの?」
「どうしたのいきなり。カレー食べたかった?」
 余計なこと聞かないでほしい。イライラする。
「いや、普通に気になって。」
「そうね、ソースを入れてる。コクを出すために。」
「ふーん。ありがと」
 お母さんはまだ話したそうだったが、私はこれ以上話したくなくて話を切り上げて部屋に戻った。そして、便箋を前にペンを握った。

【明太クリームパスタ1-4】

 図書委員会はそんなにきつい仕事ではなかった。慣れてしまえば心地のいいもので、松野さんも可愛らしくて優しい人だし、何より人が来ないので静かで疲れない。それだけが最近の深呼吸のような時間で、心が落ち着いた。
 朝の光で満ち満ちた図書室は本の匂いがしていて、蝉時雨が鮮明に聞こえる。その裏で風鈴の音が響いていた。蝉時雨の音を聞くと余計に暑さが増す気がする。額に垂れる汗を拭う。服の胸元あたりを軽くパタパタと引っ張り風を体に送る。汗が止まらない。暑い。思わず顔を顰める。
 目を伏せる。今日も来た手紙を読む。よくこうも毎日食レポが思いつくものだ。文字を紡ぐ者同士として尊敬する。私は小説のネタがすぐに尽きてしまう。一時期はそれで悩んでいた。彼の文は食事を美しく見せてくれる。昨日の夜、家で食べた明太クリームパスタもとても美味しく食べられた。これは、彼だけが持つ、特別な力。
 毎日同じことの繰り返し。図書委員会の仕事のために早く登校して、それよりも早く登校するKさんが私の靴箱に入れてくれる手紙を読んで、教室に戻って千花達と話をしてホームルームを終える。授業を受けて、授業が終わって、千花と話をして。同じことの繰り返し。そんなモノクロの日々にいつも色をつけてしまうのはKさんからの手紙。毎日欠かさず手紙をくれるKさん。一体どんな人なのだろうかとだんだん気になり始めるのは必然だろう。だから私も質問をした。返してくれる質問もあれば返してくれないこともあった。例えば、なぜ私が好きなのか。自惚れた質問をしてしまったのは重々自覚してる。でも質問に答えてくれないとそれはそれで自己嫌悪に陥る。結局こんな私を好きだなんて言えるのは私を知らないからだと実感してしまう。手紙ではいつか、直接会って伝えると返ってきた。いつか、ねえ。果たしてこんな私にその資格はあるのか?考えては頭がこんがらがるのがわかる。結局、私はどうしたいのか、わからなくなってしまった。
「……」
 大体、私が手紙を返すなんてそんな資格があった?それも随分な自惚れなんじゃないか?
「……樹!」
 相手が私から手紙をもらいたいかなんてわからない。偉そうに質問して、自分語りをして。
「夏樹!」
「!」
 よく見れば目の前に千花がいた。千花は心配そうに瞳を揺らして私を見ていた。そしてようやく私と目が合うと安心したように苦笑を浮かべた。
「どうした?考え事?」
 千花の前だと自分はちっぽけで惨めで馬鹿馬鹿しく思えて苦しい。私は千花から顔を逸らす。自分の顔にフっと影が入る。口角を上げて喉を広げてわざと明るく振る舞った。
「夏の暑さでやられたかも。」


 吹奏楽部の演奏が放課後の赤く染まった校舎に響き渡る。蝉時雨も相まって音に熱が乗る。その演奏を背景に小説を書く。珍しく今日は図書室に人がいない。よって図書委員会も仕事もない。だから久しぶりに自分の時間ができた。ノートを開いてペンを握った。すらすら白いノートに文字が紡がれていくのが気持ちがいい。この感覚、本当に好き。大好きな感覚。私がここ長年虜にされてる感覚。文字の前では私が私でいられる。私の本音、本性全て表現できる。やっぱり私にはこの時間が必要。ないと、きっと私はいつか爆発してしまう。我慢ができなくなってしまう。小説の前では嫌なこと全部曝け出して、正直でいていい。だから私は今日も我慢できる。こんな生きづらい人生を生き抜くことができる。
 はあ、と息を吐く。呼吸がいつもよりしやすい気がする。いつもこうならいいのに。
「あの〜…」
「はい!?」
 私は思わず声を上げる。誰もいないはずの図書室は静まり返っていて余計に私の声が響いてしまう。意外と大きかった自分の声と、誰かにかけられた声によって驚いてしまった。私はガバッと前を向く。正面にはいつかの朝、図書室に来た男子生徒がいた。申し訳なさそうに眉をハの字にしてるが不良感は否めない。そのつり目の中にある、鋭い黒曜石みたいな瞳が私を映す。ちょっぴり怖いが私は勇気を振り絞る。
「私に言いました?」
 男子生徒は頷く。
「どうしました?」
「あの!」
 それから黙ってしまう。そしてだんだん男子生徒の眉間に皺がよって顔が曇っていく。怖い。
「……の本って…か」
 男子生徒は小声で何か呟く。小さくて聞き取れなかった。なぜか不機嫌な男子生徒に聞き返すのは怖いが仕方ない。
「すみません、もう一回お願いします」
「おっおすすめの本ってありますか!!」
 男子生徒は食い気味に声を張る。それに、びくっと肩を震わせるも、攻撃的ではないことをすぐさま感じ取って彼の言葉を飲み込んだ。
 えっとなに、おすすめの本?私は脳を回す。そして席を立つ。読みやすくてでも話が深い本、一冊思い当たる。本棚の名前順になってる中で私が思い浮かべる作者名の頭文字を探す。そして見つけた。それを引き抜いて表紙を確認する。後ろを振り向くと男子生徒も一緒に私の手元を覗き込んでいたことに気がついた。あまりの近さに身を引く。
「これ。これ好きなんだ。読んでみて」
 太宰治の「斜陽」を男子生徒に差し出す。男子生徒は本を一回見て両手で受け取った。そして胸に抱いた。大きな体に文庫本のサイズは小さくて、どこか可笑しかった。
「ありがとうございます」
  男子生徒は照れくさそうにそう言った。私はぴっと音を立てて本のバーコードを読み込む。そして貸し出し中にする。もう一度男子生徒に本を渡す。男子生徒は俯いて「っす」と空気を吐いて駆け足で図書室を出た。私はその後ろ姿を目で追った。


「な〜つ〜き〜?」
 千花は相変わらず顔を近づけて言う。
 授業と授業の間、千花に止められた。
「何」
「いつから図書委員会やってるの!」
 声を荒げる。
「ついこの間」
 そういえば千花には伝えていなかったな。私は目を逸らす。
「な〜つ〜き〜?なんで言わないのよ〜?」
 そう言って千花に頭をガシガシと撫でられる。隣の席の川谷君は笑っていた。
「言う必要ないと思って」
「はあ〜」
 千花は息を吐く。そして眉を寄せて言った。
「今度、図書室行くからね」
 私は心底めんどくさそうにため息を吐いた。


 今日の手紙には、思わず息を飲んだ。言葉が出ない。私はもう一度文を見る。『僕は勇気を起こしました。今日放課後、屋上に来てくれませんか。』ついに。ついに、来てしまった。この時が。私が、一番恐れてた時が。
 勝手に手紙を心の拠り所にしていた。疲れた時に、辛い時に手紙を読んで気を紛らわせていた。読んでると、気持ちが穏やかになって、少しだけ、嫌いな自分を好きになれるから。だけど。
「ついに来たか〜……」
 誰もいない教室で呟く。背もたれにもたれかかって、天井を見上げる。部活をしてる生徒の声が今や少しうるさい。
 私の性格上、きっと会ったら嫌いになる。ようやくできた居場所を失う。私というわがままな生き物は、私を見ている人間をきらいになる傾向がある。それは、自己肯定感の低さ故か。そもそも、私がKさんを嫌いになる前に私がKさんに嫌われるかもしれない。こんな性格だ。嫌われてもおかしくない。顔にも性格の悪さが、捻くれているのが表れている。私を前にしたらKさんは私を好きではなくなるかもしれない。それが怖い。酷い話だ。Kさんからの好意には答えないのに勝手に居場所と言って、嫌われるのを恐れている。私は、どこまでも嫌なやつだ。
 でもこうなってしまえば、屋上に行かないなんて選択肢は私にはない。行かなくてはならない。彼に応えなくてはならない。
 私は前を向く。視界いっぱいに光が入ってくる。図書室の独特な本の匂いが鼻いっぱいに広がる。午前の青白い光。それが眩しい。こんなに世界が広いのかと驚いた。ずっと俯いていたから気がつかなかった。窓の外から見える空は深く強い青。それが清々しく感じた。
Kさんの手紙の青。
 私は、今日の放課後、彼と同じように勇気を起こす。彼にしっかり向き合おうと思う。このくだらない世界に彩りをくれた彼に感謝を述べようと思う。そのために少しの勇気を彼からもらった手紙からもらって。


 千花に伝えると千花は、私よりずっと嬉しそうに笑っていた。
「ようやくだね」
「うん」
 私的には全く嬉しくないが、千花は自分のことのように喜んでいた。それは隣の席の川谷君も同じだった。
「ようやくか〜。レター返しが役に立ったな」
 そういえば、私がKさんと文通を始めたのは川谷君のアドバイスのおかげだ。そう考えるとありがたい。
 私たちがこういう会話をしていることは私たち以外は知らなかった。こんなに人がいるのにKさんの存在を知っているのは私たちだけなのだ。そう思うと妙な気持ちになる。こんなに人が教室にはいて、こんなにたくさんの会話が飛び交っているのに。
 二人は「ようやく」「ようやく」と頷き合っていた。私はその光景を見て呆れた。こんなことで大袈裟な。
「もしだよ?」
「うん?」
 千花はもしもの話を始めた。
「もしもね?告白されたら、夏樹はなんて答えるの?」
「え……」
 そんなこと、私が一番危惧してる。そうなったら、私はどうすればいいのだろうか。
「考えさせてください?かな」
「ふーん。そっか」
 声は明るいのに千花の目は冷ややかだった。それに思わずに肩を揺らしてしまう。
 私は、どうするのが正解なのだろうか。そもそもこんな私に悩む資格があるのだろうか。


 悩んでいればあっと言う間に放課後。ひぐらしの鳴き声が響き渡る午後、私は薄暗い階段を駆ける。埃っぽくて、ダニの死骸の匂いがする。くぐもった空気。屋上の扉が見える。白い扉。白い扉の前で立ち止まる。そして一回息を吐く。大丈夫。そう言い聞かせてドアノブに触れた。ひんやりとする金属特有の冷気が指先を通る。ドアノブをひねる。開ければ空気抵抗で思いっきり開いてしまった。爽やかな心地のいい風が私を包み込む。開放感。なんだ、案外気持ちいい。
 髪が、青いスカートが、赤いリボンが、服の袖が、風に合わせて揺れていく。急に集まった光に目が眩む。腕を額あたりに翳し、影を作る。日光が間近に感じられる。そのため体が熱い。それを風が冷やす。いい場所だと思った。気持ちも晴れるようだった。
 腕をどかして、少し視界をずらすと誰かいて思わず息を飲む。あぁ、あの人が。ずっと私に手紙をくれていた
「Kさん?」
 気づいた頃には声が漏れていた。こうなれば仕方ないと体をKさんらしき人に向ける。Kさんらしき人は振り向く。思わず私は目を丸くした。
「来てくれたんですね」
 そう安心したように微笑むのは前図書室で会った、男子生徒だった。光をよく通す茶髪に、刈り上げた襟足、猫背気味の姿勢。あの時、私におすすめの本を聞いてきた不良っぽい男子生徒。相変わらず、ハの字の眉が情けない。私は声が出ない。まさか、もうすでに会っていたなんて。男子生徒ことKさんは照れくさそうに髪を手でいじって目を伏せる。
「よかった」
 なんて呟くから、私も何かを言わないとと焦ってしまった。
「い、いつも!……手紙、ありがとうございます」
 声が裏返ってしまった。
 Kさんは顔を上げる。そして目を丸くした。
「いえ、いつも返事ありがとうございました。初めもらった時嬉しすぎて、幻かと思いました」
その話し方に、確かにKさんなんだと自覚が生まれる。
「そんな……」
 そんな喜んでもらえてたなんて。私は満たされた気持ちでいっぱいだった。
「今日は呼んですみません。昨日、俺、僕は勇気を起こして日比谷さんに話かけることができたので、ちゃんと挨拶しておこうと思ったんです。改めて、Kです。本名はその……千代田 蛍斗です。別に覚えなくて……いいんすけど」
 だんだん声が小さくなるKさんこと蛍さん。蛍さんは俯いてしまう。蛍さんを見てると心が穏やかなような、癒されるような気がする。なんか、ほわほわするような。上手く言葉に表せない。蛍さんは俯いて何かゴニョゴニョ言っているが聞き取れなかった。ようやく顔を上げたかと思えば顔は真っ赤で。
「と、とりあえず!今日は来てくれてありがとうございました!!」
 それだけ言い捨てると思いっきり走って蛍さんは屋上を出ていった。残された私は天を仰ぐ。心が暖かいのは一体なぜなの。