とある冬の寒い夕暮れ時。桜子は日桜帝国の帝都にある純和風の大きな門の前で立ち尽くしていた。
「え……?」
表札には確かに『佐竹』と書かれている。桜子の嫁いだ先で間違いない。しかし、鍵がかかっていた。
桜子は戸惑いながらも門を叩く。
「あの、桜子です! 開けてください!」
門の向こう側にも聞こえるよう、桜子は細い声を頑張って張り上げた。
しかし、門の向こうからは何も返事がない。
「あの、開けてください!」
桜子は更に声を張り上げた。
何度か声をかけてようやく返事があったと思えば、桜子にとっと耳を疑うような言葉が聞かされた。
「旦那様はあんたが出て行ってる間離婚届を出したよ! だからあんたはこの家の人間じゃない。とっとと実家に帰りな!」
意地の悪そうな声の使用人だった。
「え……!?」
桜子は目の前が真っ暗になるような感覚になった。
◇◇◇◇
桜子は伯爵位を持つ中院家の令嬢として生まれた。両親や使用人から愛されて育った桜子だが、去年、桜子が十八歳になった年に悲劇が襲う。世の中がどんどん変化しているので、桜子の父は新しいことを始めようと事業に挑戦していた。しかしそれが失敗し、中院家は多額の借金を負うことになったのだ。このままでは没落しか道はなかった中院家だが、そこへ助け舟を出したのが侯爵位を持つ佐竹家だった。佐竹家は長男の利男と桜子の結婚を条件に、中院家の借金を全て返済してくれたのだ。桜子よりも二つ年上の佐竹家の長男、利男は女癖が悪く全く良い噂を聞かないので、佐竹家に嫁入りしたがる令嬢はいなかったのだ。そんな時、没落寸前まで陥った中院家を見つけたので、どうにか利男の結婚相手が欲しかった佐竹夫妻は桜子と利男の結婚を条件に中院家の借金問題を解決してくれたようなのだ。それにより、桜子が利男の妻になることが確定してしまった。中院家の両親は桜子に謝ってくれたが、桜子も両親や中院家を守りたかったので、この結婚を受け入れることにしたのだ。
桜子が佐竹家に嫁いで、利男から冷遇されることは覚悟していた。
「お前が俺の妻か。地味で女として見られないな」
利男は桜子を見た瞬間、そう鼻で笑ったのである。
桜子は中院家の為に黙って耐えるだけだった。
利男の両親が生きていた頃は彼らが桜子を気にかけてくれたので佐竹家での生活はそこまで辛くなかった。
しかし、利男の両親は体が弱かった為、桜子が嫁いですぐに立て続けに亡くなってしまった。
その際、利男からは「疫病神」と罵られたのである。
利男の両親が亡くなって以降、桜子はあからさまに利男からも佐竹家の使用人達からも冷遇されるようになった。
食事を用意してもらえないのは当たり前。身支度も自分でしなければならない。
更に、夏には熱いお湯をかけられたり、冬には冷たい水をかけられたりもした。
もちろんわざとである。
桜子が抵抗すると、「中院家を陥れることも出来るんだぞ」と利男や使用人から脅され、桜子は黙って耐えるしかなかった。
そんな桜子の唯一の心の癒しは刺繍である。
無心で刺繍をすると、心が穏やかになるのだ。
しかし、その刺繍も利男の愛人、鈴江に踏み躙られてしまう。鈴江は男爵位を持つ生駒家の令嬢で、桜子と同い年で、今年十九歳である。
「まあ、何この刺繍。本当に役に立たないお飾り妻ね。本来なら私が利男様の妻になるはずだったのに」
鈴江は桜子の刺繍を目の前で奪って破り捨ててしまう。
意地の悪いキンキン声だった。
鈴江に文句を言ってもまた利男に生家である中院家を盾に取られて、黙って耐えるしかなくなる桜子であった。
そんなある冬の寒い日、刺繍の糸がなくなったので桜子は街まで買いに行った。
一応桜子は侯爵位を持つ佐竹家の妻であるが、使用人は信用出来ないので買い物など絶対に頼めない。よって桜子は自ら買い物に行くことにしたのだ。
街で気に入った刺繍糸を購入し、佐竹家の立派な純和風の屋敷に戻ったところ、出入り口の門全てに鍵をかけられて締め出されてしまったのだ。
更に、利男は勝手に離婚届を出してしまったらしい。
◇◇◇◇
「どうしよう……」
桜子は途方に暮れた。
両親には心配かけたくないので中院家に戻るわけにはいかない。
日が暮れて気温はどんどん低くなる中、桜子は凍えながら人通りの少ない路地を歩いていた。
寒さと空腹でどんどん体力が奪われていく桜子。
遂に限界が来たかと思ったその時、体が暖かい何かに包まれた。
「見つけた。俺の運命の番」
桜子の視界の目の前にいたのは、誰もが目を奪われるような美しさを持つ男性だった。まるでこの世の美しいものを全て集めたような感じである。
漆黒の艶やかな髪に、紅に光る目。更に、口から零れ出る鋭い歯。
意識は朧げだが、桜子は目の前の男性が人間ではないことを察知した。
「吸血鬼……」
桜子はポツリと呟いた。
日桜帝国は人間、妖狐、人狼、鬼、吸血鬼、天狗などが共存している国である。
桜子はこんな話を聞いたことがあった。
人狼、鬼、吸血鬼に目を付けられた人間は、連れ去られてその後姿を見ることはないという。
「ああ、その通り。俺は吸血鬼だよ。そして君は俺の運命の番だ」
蜂蜜のようにねっとりと、とろけるような声だった。まるで甘い毒のようである。
桜子は吸血鬼の男性に抱きしめられていたのだ。
桜子は男性の美しさと声に魅入られそうになっていた。
(このお方は吸血鬼……。私は、どうなってしまうのかしら……?)
限界が来たようで、桜子の意識はそこで暗闇に途切れた。
◇◇◇◇
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が目に飛び込んで来た。
中院家でも佐竹家でも見たことがない、植物が精巧に掘り込まれた高い天井と煌びやかな洋風のシャンデリア。その輝きは眩く、まるで光の海にいるかのような感覚になる。
「ここは……?」
「おや、目が覚めたようだね。俺の唯一。ここは邑楽家の屋敷だよ」
目の前に、先程桜子を抱きしめていた美しい男性がいた。
「邑楽家は、あの公爵位を持つ吸血鬼一族の……!」
桜子は邑楽家という家名に聞き覚えがあったのだ。
邑楽家は、吸血鬼一族の名家である。
吸血鬼は人間よりも遥かに長い時を生きると言われているので、目の前の男性は桜子と同じくらいの年齢に見えるが、実際は何年生きているのか想像がつかない。
「知っているようだね。初めまして。俺は邑楽迅。邑楽家の長男で次期当主だ。ああ、ようやく出会えた俺の唯一。是非とも名前を教えて欲しい」
迅はそっと優しく桜子の手を握った。
吸血鬼だから体温が低いのか、迅の手はほんのりと冷たかった。
桜子はゆっくりと体を起こす。
「えっと……佐竹桜子……いえ、離縁されたので、中院桜子と名乗った方が良いのでしょうか……」
桜子は現在の宙ぶらりんな状況で、どう名乗って良いのか分からなかった。
しかし、佐竹姓を名乗りたくないことは確かである。
「離縁……! ならば丁度良い。桜子さん、是非とも俺の妻になって欲しい」
「ええ……!?」
迅からの突然の求婚に、桜子は戸惑いを隠せない。
迅の吸血鬼の特徴とも言える紅の双眸は、これでもかと言うかの如く甘く真っ直ぐ桜子に向けられていた。
「ああ、いきなりで困っているか。申し訳ない。とにかく君が欲しいという気持ちが先走っていた」
先程から『俺の唯一』など、恥ずかしげもなく迅の口からキザな言葉が零れるので、逆に桜子の方が赤面してしまう。
「えっと……邑楽様はどうし」
「迅。どうかそう呼んでくれ」
どうして自分を連れて来たのかと聞こうとした桜子だが、迅に言葉を遮られた。苗字で呼ばれることが不満なようだ。
「迅様は……どうして私をここに連れて来たのですか? 私は……このままどうなってしまうのです? 人狼、鬼、吸血鬼に連れ去られた人間は、二度と姿を見せることはないと言われているのですが……」
桜子は恐る恐る聞いてみた。
先程の様子から、迅が自分に危害を加えるような様子は感じられない。しかし、初対面の相手をいきなり信じられるかと言えば、そうではないのだ。
「人間の間ではそう言われているのか……! これは驚いた……!」
まるで初耳だと言うかのような表情の迅。紅の目は、意外そうに丸く見開かれていた。
「俺達吸血鬼、それから、人狼と鬼には運命の番が存在するんだ」
「運命の番……。そういえば、仰っておりましたね」
「ああ。生涯を添い遂げる相手さ。まあ、俺達吸血鬼は人間よりも寿命が長いから、運命の番である相手の方が先に天に召されてしまうのだが……」
迅は甘く刹那げな視線を桜子に向けている。そのまま言葉を続けた。
「運命の番に出会うと、本能的に相手を欲して連れ去ってしまうこともあるんだ。だが、乱暴されたり、酷いことは絶対にされない。。番は何よりも大切な存在だからね。そういうわけだから、安心して欲しい」
「……それで、人狼、鬼、吸血鬼に目を付けられたらその後二度と姿を見ることはないと言われていたのですね」
「ああ。誤解は解けたかい?」
「ええ」
桜子は少しだけ安心し、胸を撫で下ろした。
「さて、桜子さん。君は今、体が弱っている状態だ。回復してからゆっくりと俺との結婚のことを考えて欲しい。俺の両親も運命の番同士での結婚だから、きっと桜子さんのことを喜んで受け入れてくれるだろう」
迅は甘くとろけるような笑みを桜子に向けていた。紅の目はどこかねっとりとして、まるで桜子を離さないとでも言うかのようである。
「……はい」
頬を赤らめた桜子は、そう頷くのが精一杯だった。
◇◇◇◇
その後桜子は、邑楽家の屋敷で過ごすことになった。
邑楽家の屋敷は生家の中院家や嫁いだ佐竹家とは違い、立派な洋館である。
窓のステンドグラスは煌びやかで、外からの太陽光で色とりどりの光が部屋に入って来る。
ビロード張りの重厚なソファ、アール・ヌーヴォー調のテーブルなど、あまり見たことのない家具も新鮮だった。
「迅様、素敵なワンピースをありがとうございます」
桜子は長春色のワンピースを身にまとっていた。迅から贈られたものである。
「桜子さん、とてもよく似合っている。急ぎだったから既製品なのは申し訳ないけれど」
「いえ、そんな」
「桜子さん、近々仕立て屋を呼ぼう。君と街をデヱトもしたいところだけど、吸血鬼は太陽光が少し苦手だから不便をかけてしまう」
「そんな。ただ迅様が気遣ってくださるだけで十分ですから」
至れり尽くせりの生活に、桜子は恐縮してしまう。
「そう思ってくれるのなら俺も嬉しい。さて桜子さん、今日は君のことを聞かせてくれ。西洋から輸入した紅茶やお菓子もたっぷり用意してある」
「ありがとうございます」
桜子は迅に勧められるがまま、ビロード張りのソファに座った。
柔らかく、いつまでも座っていたくなるような座り心地である。
「中院家に生まれた私は……」
桜子は中院家のこと、そして嫁いだ佐竹家のことなど、全てを話した。
すると佐竹家での生活を聞いた迅は、まるで自分のことであるかのように怒ってくれた。
「何と言うことだ! 佐竹利男と使用人共、そして生駒鈴江……! 許せないな……! 八つ裂きにしてやらないと気が済まない……!」
初めて聞いた迅の低く冷たい声。仄暗くなる紅の目。
「迅様……」
桜子は少しだけゾクリとした。
「ああ、済まない。怖がらせてしまったようだ。でも……正直俺は桜子さんが誰かから虐げられてとなったら……そいつを殺さないと気が済まない……!」
「迅様、お気持ちだけで十分ですから。それに、迅様が手を汚す方が、私は嫌です」
桜子は向かい側に座る迅の手をそっと握った。少し冷たく優しい手は、桜子にとって心地が良い。
迅と共に暮らしていくうちに、桜子も迅に好意を寄せるようになっていた。
「桜子さん……!」
迅の紅の目に輝きが戻る。甘くとろけるような視線は、桜子の体温を上昇させたが、心地の良いものであった。
「迅様、求婚の件、お受けいたします。私も、貴方のことを好きになりました。是非、私の隣にいて欲しいです」
気が付くと、自然とその言葉が出ていた。
「本当に……!?」
迅はまるで世界一の幸せ者であるかのような表情である。
桜子は「はい」と頷いた。
「ありがとう、桜子さん! じゃあ早速祝言の段取りだ!」
迅はそう浮かれており、桜子はふふっと笑うのであった。
◇◇◇◇
迅との婚約が決まった桜子は、祝言の準備や邑楽家のことを学ぶなど、忙しくも充実した日々を過ごしていた。
更に、桜子は好きな刺繍で才能が開花していた。
桜子の刺繍は職人並みで、売り物として出しても良い質であった。
迅は試しに桜子の許可を取り、自身の人脈を使って桜子の刺繍を販売してみると、ものの見事に売れたのである。
それ以降、桜子は自分の刺繍が誰かに必要とされていることが嬉しくていくつも作品を作るのであった。
桜子の刺繍は現在帝都で大人気なのである。
「桜子さん、本当に凄いよ!」
「いえいえ、迅様の人脈があってこそですから」
桜子は迅から溺愛されながら、満たされた日々を送っていた。
◇◇◇◇
一方、桜子が去った佐竹家は現在雲行きが怪しくなっていた。
利男にとって桜子は両親から無理やり娶らされたお飾りの妻。不満だらけだがいてもいなくても問題ない存在だった。
しかし桜子と一方的に離縁したことを邑楽家から悪いように噂されて、佐竹家の評判は下がっていたのだ。
実は迅がせめてもの復讐として、佐竹家の悪評を流していたのである。
「ええい!? どうしてこうなった!? 邪魔な桜子と離縁しただけだぞ!」
利男は目の前にあった本を投げつけた。すると、襖に勢いよく当たり襖が倒れてしまう。
「あの……利男様、大変申し上げにくいのですが、そのように暴れるのはおやめいただきたく存じます。いかんせん佐竹家の資産は目減りする一方でして……」
「煩い!」
利男は使用人に対してそう怒鳴りつけた。
「ちょっと利男様、聞いてちょうだい!」
そこへ、利男の愛人、鈴江がやって来る。もう利男は桜子と離縁したので、恋人と言った方が正しくはあるが。
鈴江は苛立ちを露わにした様子である。
「ん? 鈴江、どうした?」
利男は苛立ちを抑えて鈴江に優しげな声を出す。
「今帝都で流行りの刺繍作品があるの!」
「どれ? 俺が買ってやろう」
「そうじゃなくて!」
「欲しいわけじゃないのか?」
では一体どういうことかと利男は首を傾げる。
「その刺繍、あいつの刺繍なのよ! 桜子の!」
「桜子だと……!?」
佐竹家の評判下落の原因となっている名前を聞き、利男は忌々しげに眉を顰めた。
「そう! あの桜子、利男様と離縁してから刺繍で膨大な額を稼いでいるらしいわ! 利男様と離縁されたあいつはもっと惨めな生活を送るべきなのに! おまけに邑楽家の世話になって! 吸血鬼一族に連れ去られたら殺されるんじゃないの!? 桜子なんて、そのまま殺されたら良かったのに!」
キンキン声で怒りを露わにする鈴江である。
「莫大な額……!」
先程佐竹家の資産が目減りしている話を聞いた利男は桜子への怒りが沸々と湧き上がった。
しかし、次の瞬間ある案を思いつく。
「いや、無理やりにでも桜子を連れ戻して、無給で働かせるのはどうだ? 刺繍で莫大な額を稼いでいるのだろう? その額は全て佐竹家のものだ! そしてその金で俺と鈴江は贅沢し放題! どうだ!?」
すると、先程まで怒りを露わにしていた鈴江はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「あら、素敵じゃない。さっきまで桜子が許せなかったけど、最初から利男様の言う通りにしたら良かったわ。無給でボロボロになるまで働く桜子、滑稽ね」
「ああ。そうと決まれば、桜子を連れ去るぞ。桜子が邑楽家にいるのは分かっているしな」
利男と鈴江。二人は既に勝ち誇ったような嫌な笑みを浮かべていた。
◇◇◇◇
数日後、邑楽家の屋敷に不審人物が現れたという話を聞いた。
「まあ、不審人物……。怖いですね」
桜子は少しだけ表情を曇らせた。
「でも桜子さん、大丈夫。邑楽家の使用人が不審人物達を撃退したからね」
迅は桜子を安心せさるべく、優しく微笑んだ。
その裏でほくそ笑む。
(不審人物の正体は分かっている。佐竹利男と生駒鈴江だ。大方、桜子さんを連れ去ろうとしたんだろう。どうせ桜子さんをこき使おうという目論見だろう。だが、そうはいかない)
迅は利男と鈴江がどう動くか予測していたのだ。
(それに、邑楽家の吸血鬼の新人使用人が人間相手への力加減が分からず、二人の手足を折ってしまったようだしね)
使用人からその報告を聞いた迅は、力加減に呆れつつも内心「良くやった」と思っていた。
(それに、その後俺が奴らを治療もせず治安の悪い地域に捨てておくように指示したら、奴らは通りかかった悪漢に殺された。ざまぁ見ろだ。桜子さんを虐げた当然の報いだ。それに、佐竹家も利男が死んだ後、厳格な当主が現れて、桜子さんを虐げた使用人は全員解雇。これも当然の報いだね)
迅は利男と鈴江、佐竹家の使用人の末路を聞いた時、憐れむふりをして内心爆笑していたのである。
(桜子さんは俺が手を汚すことは望んでいない。でも俺は桜子さんを虐げる存在が許せない。だから、折衷案かな。まあ、桜子さんには黙っておくけどね。桜子さんは余計なことを知る必要はないのだから)
迅は桜子に優しい目を向けた。
紅の目は、どこかねっとりと甘く、少しの仄暗さがあった。
「迅様、どうかなさいました?」
桜子はきょとんと首を傾げている。
「いいや、何でもないよ」
迅は桜子限定の甘く優しい笑みを向けるのであった。
佐竹家で虐げられていた桜子は、迅の妻となり邑楽家でこれでもかと言う程に愛されて生涯を過ごすのであった。
「え……?」
表札には確かに『佐竹』と書かれている。桜子の嫁いだ先で間違いない。しかし、鍵がかかっていた。
桜子は戸惑いながらも門を叩く。
「あの、桜子です! 開けてください!」
門の向こう側にも聞こえるよう、桜子は細い声を頑張って張り上げた。
しかし、門の向こうからは何も返事がない。
「あの、開けてください!」
桜子は更に声を張り上げた。
何度か声をかけてようやく返事があったと思えば、桜子にとっと耳を疑うような言葉が聞かされた。
「旦那様はあんたが出て行ってる間離婚届を出したよ! だからあんたはこの家の人間じゃない。とっとと実家に帰りな!」
意地の悪そうな声の使用人だった。
「え……!?」
桜子は目の前が真っ暗になるような感覚になった。
◇◇◇◇
桜子は伯爵位を持つ中院家の令嬢として生まれた。両親や使用人から愛されて育った桜子だが、去年、桜子が十八歳になった年に悲劇が襲う。世の中がどんどん変化しているので、桜子の父は新しいことを始めようと事業に挑戦していた。しかしそれが失敗し、中院家は多額の借金を負うことになったのだ。このままでは没落しか道はなかった中院家だが、そこへ助け舟を出したのが侯爵位を持つ佐竹家だった。佐竹家は長男の利男と桜子の結婚を条件に、中院家の借金を全て返済してくれたのだ。桜子よりも二つ年上の佐竹家の長男、利男は女癖が悪く全く良い噂を聞かないので、佐竹家に嫁入りしたがる令嬢はいなかったのだ。そんな時、没落寸前まで陥った中院家を見つけたので、どうにか利男の結婚相手が欲しかった佐竹夫妻は桜子と利男の結婚を条件に中院家の借金問題を解決してくれたようなのだ。それにより、桜子が利男の妻になることが確定してしまった。中院家の両親は桜子に謝ってくれたが、桜子も両親や中院家を守りたかったので、この結婚を受け入れることにしたのだ。
桜子が佐竹家に嫁いで、利男から冷遇されることは覚悟していた。
「お前が俺の妻か。地味で女として見られないな」
利男は桜子を見た瞬間、そう鼻で笑ったのである。
桜子は中院家の為に黙って耐えるだけだった。
利男の両親が生きていた頃は彼らが桜子を気にかけてくれたので佐竹家での生活はそこまで辛くなかった。
しかし、利男の両親は体が弱かった為、桜子が嫁いですぐに立て続けに亡くなってしまった。
その際、利男からは「疫病神」と罵られたのである。
利男の両親が亡くなって以降、桜子はあからさまに利男からも佐竹家の使用人達からも冷遇されるようになった。
食事を用意してもらえないのは当たり前。身支度も自分でしなければならない。
更に、夏には熱いお湯をかけられたり、冬には冷たい水をかけられたりもした。
もちろんわざとである。
桜子が抵抗すると、「中院家を陥れることも出来るんだぞ」と利男や使用人から脅され、桜子は黙って耐えるしかなかった。
そんな桜子の唯一の心の癒しは刺繍である。
無心で刺繍をすると、心が穏やかになるのだ。
しかし、その刺繍も利男の愛人、鈴江に踏み躙られてしまう。鈴江は男爵位を持つ生駒家の令嬢で、桜子と同い年で、今年十九歳である。
「まあ、何この刺繍。本当に役に立たないお飾り妻ね。本来なら私が利男様の妻になるはずだったのに」
鈴江は桜子の刺繍を目の前で奪って破り捨ててしまう。
意地の悪いキンキン声だった。
鈴江に文句を言ってもまた利男に生家である中院家を盾に取られて、黙って耐えるしかなくなる桜子であった。
そんなある冬の寒い日、刺繍の糸がなくなったので桜子は街まで買いに行った。
一応桜子は侯爵位を持つ佐竹家の妻であるが、使用人は信用出来ないので買い物など絶対に頼めない。よって桜子は自ら買い物に行くことにしたのだ。
街で気に入った刺繍糸を購入し、佐竹家の立派な純和風の屋敷に戻ったところ、出入り口の門全てに鍵をかけられて締め出されてしまったのだ。
更に、利男は勝手に離婚届を出してしまったらしい。
◇◇◇◇
「どうしよう……」
桜子は途方に暮れた。
両親には心配かけたくないので中院家に戻るわけにはいかない。
日が暮れて気温はどんどん低くなる中、桜子は凍えながら人通りの少ない路地を歩いていた。
寒さと空腹でどんどん体力が奪われていく桜子。
遂に限界が来たかと思ったその時、体が暖かい何かに包まれた。
「見つけた。俺の運命の番」
桜子の視界の目の前にいたのは、誰もが目を奪われるような美しさを持つ男性だった。まるでこの世の美しいものを全て集めたような感じである。
漆黒の艶やかな髪に、紅に光る目。更に、口から零れ出る鋭い歯。
意識は朧げだが、桜子は目の前の男性が人間ではないことを察知した。
「吸血鬼……」
桜子はポツリと呟いた。
日桜帝国は人間、妖狐、人狼、鬼、吸血鬼、天狗などが共存している国である。
桜子はこんな話を聞いたことがあった。
人狼、鬼、吸血鬼に目を付けられた人間は、連れ去られてその後姿を見ることはないという。
「ああ、その通り。俺は吸血鬼だよ。そして君は俺の運命の番だ」
蜂蜜のようにねっとりと、とろけるような声だった。まるで甘い毒のようである。
桜子は吸血鬼の男性に抱きしめられていたのだ。
桜子は男性の美しさと声に魅入られそうになっていた。
(このお方は吸血鬼……。私は、どうなってしまうのかしら……?)
限界が来たようで、桜子の意識はそこで暗闇に途切れた。
◇◇◇◇
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が目に飛び込んで来た。
中院家でも佐竹家でも見たことがない、植物が精巧に掘り込まれた高い天井と煌びやかな洋風のシャンデリア。その輝きは眩く、まるで光の海にいるかのような感覚になる。
「ここは……?」
「おや、目が覚めたようだね。俺の唯一。ここは邑楽家の屋敷だよ」
目の前に、先程桜子を抱きしめていた美しい男性がいた。
「邑楽家は、あの公爵位を持つ吸血鬼一族の……!」
桜子は邑楽家という家名に聞き覚えがあったのだ。
邑楽家は、吸血鬼一族の名家である。
吸血鬼は人間よりも遥かに長い時を生きると言われているので、目の前の男性は桜子と同じくらいの年齢に見えるが、実際は何年生きているのか想像がつかない。
「知っているようだね。初めまして。俺は邑楽迅。邑楽家の長男で次期当主だ。ああ、ようやく出会えた俺の唯一。是非とも名前を教えて欲しい」
迅はそっと優しく桜子の手を握った。
吸血鬼だから体温が低いのか、迅の手はほんのりと冷たかった。
桜子はゆっくりと体を起こす。
「えっと……佐竹桜子……いえ、離縁されたので、中院桜子と名乗った方が良いのでしょうか……」
桜子は現在の宙ぶらりんな状況で、どう名乗って良いのか分からなかった。
しかし、佐竹姓を名乗りたくないことは確かである。
「離縁……! ならば丁度良い。桜子さん、是非とも俺の妻になって欲しい」
「ええ……!?」
迅からの突然の求婚に、桜子は戸惑いを隠せない。
迅の吸血鬼の特徴とも言える紅の双眸は、これでもかと言うかの如く甘く真っ直ぐ桜子に向けられていた。
「ああ、いきなりで困っているか。申し訳ない。とにかく君が欲しいという気持ちが先走っていた」
先程から『俺の唯一』など、恥ずかしげもなく迅の口からキザな言葉が零れるので、逆に桜子の方が赤面してしまう。
「えっと……邑楽様はどうし」
「迅。どうかそう呼んでくれ」
どうして自分を連れて来たのかと聞こうとした桜子だが、迅に言葉を遮られた。苗字で呼ばれることが不満なようだ。
「迅様は……どうして私をここに連れて来たのですか? 私は……このままどうなってしまうのです? 人狼、鬼、吸血鬼に連れ去られた人間は、二度と姿を見せることはないと言われているのですが……」
桜子は恐る恐る聞いてみた。
先程の様子から、迅が自分に危害を加えるような様子は感じられない。しかし、初対面の相手をいきなり信じられるかと言えば、そうではないのだ。
「人間の間ではそう言われているのか……! これは驚いた……!」
まるで初耳だと言うかのような表情の迅。紅の目は、意外そうに丸く見開かれていた。
「俺達吸血鬼、それから、人狼と鬼には運命の番が存在するんだ」
「運命の番……。そういえば、仰っておりましたね」
「ああ。生涯を添い遂げる相手さ。まあ、俺達吸血鬼は人間よりも寿命が長いから、運命の番である相手の方が先に天に召されてしまうのだが……」
迅は甘く刹那げな視線を桜子に向けている。そのまま言葉を続けた。
「運命の番に出会うと、本能的に相手を欲して連れ去ってしまうこともあるんだ。だが、乱暴されたり、酷いことは絶対にされない。。番は何よりも大切な存在だからね。そういうわけだから、安心して欲しい」
「……それで、人狼、鬼、吸血鬼に目を付けられたらその後二度と姿を見ることはないと言われていたのですね」
「ああ。誤解は解けたかい?」
「ええ」
桜子は少しだけ安心し、胸を撫で下ろした。
「さて、桜子さん。君は今、体が弱っている状態だ。回復してからゆっくりと俺との結婚のことを考えて欲しい。俺の両親も運命の番同士での結婚だから、きっと桜子さんのことを喜んで受け入れてくれるだろう」
迅は甘くとろけるような笑みを桜子に向けていた。紅の目はどこかねっとりとして、まるで桜子を離さないとでも言うかのようである。
「……はい」
頬を赤らめた桜子は、そう頷くのが精一杯だった。
◇◇◇◇
その後桜子は、邑楽家の屋敷で過ごすことになった。
邑楽家の屋敷は生家の中院家や嫁いだ佐竹家とは違い、立派な洋館である。
窓のステンドグラスは煌びやかで、外からの太陽光で色とりどりの光が部屋に入って来る。
ビロード張りの重厚なソファ、アール・ヌーヴォー調のテーブルなど、あまり見たことのない家具も新鮮だった。
「迅様、素敵なワンピースをありがとうございます」
桜子は長春色のワンピースを身にまとっていた。迅から贈られたものである。
「桜子さん、とてもよく似合っている。急ぎだったから既製品なのは申し訳ないけれど」
「いえ、そんな」
「桜子さん、近々仕立て屋を呼ぼう。君と街をデヱトもしたいところだけど、吸血鬼は太陽光が少し苦手だから不便をかけてしまう」
「そんな。ただ迅様が気遣ってくださるだけで十分ですから」
至れり尽くせりの生活に、桜子は恐縮してしまう。
「そう思ってくれるのなら俺も嬉しい。さて桜子さん、今日は君のことを聞かせてくれ。西洋から輸入した紅茶やお菓子もたっぷり用意してある」
「ありがとうございます」
桜子は迅に勧められるがまま、ビロード張りのソファに座った。
柔らかく、いつまでも座っていたくなるような座り心地である。
「中院家に生まれた私は……」
桜子は中院家のこと、そして嫁いだ佐竹家のことなど、全てを話した。
すると佐竹家での生活を聞いた迅は、まるで自分のことであるかのように怒ってくれた。
「何と言うことだ! 佐竹利男と使用人共、そして生駒鈴江……! 許せないな……! 八つ裂きにしてやらないと気が済まない……!」
初めて聞いた迅の低く冷たい声。仄暗くなる紅の目。
「迅様……」
桜子は少しだけゾクリとした。
「ああ、済まない。怖がらせてしまったようだ。でも……正直俺は桜子さんが誰かから虐げられてとなったら……そいつを殺さないと気が済まない……!」
「迅様、お気持ちだけで十分ですから。それに、迅様が手を汚す方が、私は嫌です」
桜子は向かい側に座る迅の手をそっと握った。少し冷たく優しい手は、桜子にとって心地が良い。
迅と共に暮らしていくうちに、桜子も迅に好意を寄せるようになっていた。
「桜子さん……!」
迅の紅の目に輝きが戻る。甘くとろけるような視線は、桜子の体温を上昇させたが、心地の良いものであった。
「迅様、求婚の件、お受けいたします。私も、貴方のことを好きになりました。是非、私の隣にいて欲しいです」
気が付くと、自然とその言葉が出ていた。
「本当に……!?」
迅はまるで世界一の幸せ者であるかのような表情である。
桜子は「はい」と頷いた。
「ありがとう、桜子さん! じゃあ早速祝言の段取りだ!」
迅はそう浮かれており、桜子はふふっと笑うのであった。
◇◇◇◇
迅との婚約が決まった桜子は、祝言の準備や邑楽家のことを学ぶなど、忙しくも充実した日々を過ごしていた。
更に、桜子は好きな刺繍で才能が開花していた。
桜子の刺繍は職人並みで、売り物として出しても良い質であった。
迅は試しに桜子の許可を取り、自身の人脈を使って桜子の刺繍を販売してみると、ものの見事に売れたのである。
それ以降、桜子は自分の刺繍が誰かに必要とされていることが嬉しくていくつも作品を作るのであった。
桜子の刺繍は現在帝都で大人気なのである。
「桜子さん、本当に凄いよ!」
「いえいえ、迅様の人脈があってこそですから」
桜子は迅から溺愛されながら、満たされた日々を送っていた。
◇◇◇◇
一方、桜子が去った佐竹家は現在雲行きが怪しくなっていた。
利男にとって桜子は両親から無理やり娶らされたお飾りの妻。不満だらけだがいてもいなくても問題ない存在だった。
しかし桜子と一方的に離縁したことを邑楽家から悪いように噂されて、佐竹家の評判は下がっていたのだ。
実は迅がせめてもの復讐として、佐竹家の悪評を流していたのである。
「ええい!? どうしてこうなった!? 邪魔な桜子と離縁しただけだぞ!」
利男は目の前にあった本を投げつけた。すると、襖に勢いよく当たり襖が倒れてしまう。
「あの……利男様、大変申し上げにくいのですが、そのように暴れるのはおやめいただきたく存じます。いかんせん佐竹家の資産は目減りする一方でして……」
「煩い!」
利男は使用人に対してそう怒鳴りつけた。
「ちょっと利男様、聞いてちょうだい!」
そこへ、利男の愛人、鈴江がやって来る。もう利男は桜子と離縁したので、恋人と言った方が正しくはあるが。
鈴江は苛立ちを露わにした様子である。
「ん? 鈴江、どうした?」
利男は苛立ちを抑えて鈴江に優しげな声を出す。
「今帝都で流行りの刺繍作品があるの!」
「どれ? 俺が買ってやろう」
「そうじゃなくて!」
「欲しいわけじゃないのか?」
では一体どういうことかと利男は首を傾げる。
「その刺繍、あいつの刺繍なのよ! 桜子の!」
「桜子だと……!?」
佐竹家の評判下落の原因となっている名前を聞き、利男は忌々しげに眉を顰めた。
「そう! あの桜子、利男様と離縁してから刺繍で膨大な額を稼いでいるらしいわ! 利男様と離縁されたあいつはもっと惨めな生活を送るべきなのに! おまけに邑楽家の世話になって! 吸血鬼一族に連れ去られたら殺されるんじゃないの!? 桜子なんて、そのまま殺されたら良かったのに!」
キンキン声で怒りを露わにする鈴江である。
「莫大な額……!」
先程佐竹家の資産が目減りしている話を聞いた利男は桜子への怒りが沸々と湧き上がった。
しかし、次の瞬間ある案を思いつく。
「いや、無理やりにでも桜子を連れ戻して、無給で働かせるのはどうだ? 刺繍で莫大な額を稼いでいるのだろう? その額は全て佐竹家のものだ! そしてその金で俺と鈴江は贅沢し放題! どうだ!?」
すると、先程まで怒りを露わにしていた鈴江はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「あら、素敵じゃない。さっきまで桜子が許せなかったけど、最初から利男様の言う通りにしたら良かったわ。無給でボロボロになるまで働く桜子、滑稽ね」
「ああ。そうと決まれば、桜子を連れ去るぞ。桜子が邑楽家にいるのは分かっているしな」
利男と鈴江。二人は既に勝ち誇ったような嫌な笑みを浮かべていた。
◇◇◇◇
数日後、邑楽家の屋敷に不審人物が現れたという話を聞いた。
「まあ、不審人物……。怖いですね」
桜子は少しだけ表情を曇らせた。
「でも桜子さん、大丈夫。邑楽家の使用人が不審人物達を撃退したからね」
迅は桜子を安心せさるべく、優しく微笑んだ。
その裏でほくそ笑む。
(不審人物の正体は分かっている。佐竹利男と生駒鈴江だ。大方、桜子さんを連れ去ろうとしたんだろう。どうせ桜子さんをこき使おうという目論見だろう。だが、そうはいかない)
迅は利男と鈴江がどう動くか予測していたのだ。
(それに、邑楽家の吸血鬼の新人使用人が人間相手への力加減が分からず、二人の手足を折ってしまったようだしね)
使用人からその報告を聞いた迅は、力加減に呆れつつも内心「良くやった」と思っていた。
(それに、その後俺が奴らを治療もせず治安の悪い地域に捨てておくように指示したら、奴らは通りかかった悪漢に殺された。ざまぁ見ろだ。桜子さんを虐げた当然の報いだ。それに、佐竹家も利男が死んだ後、厳格な当主が現れて、桜子さんを虐げた使用人は全員解雇。これも当然の報いだね)
迅は利男と鈴江、佐竹家の使用人の末路を聞いた時、憐れむふりをして内心爆笑していたのである。
(桜子さんは俺が手を汚すことは望んでいない。でも俺は桜子さんを虐げる存在が許せない。だから、折衷案かな。まあ、桜子さんには黙っておくけどね。桜子さんは余計なことを知る必要はないのだから)
迅は桜子に優しい目を向けた。
紅の目は、どこかねっとりと甘く、少しの仄暗さがあった。
「迅様、どうかなさいました?」
桜子はきょとんと首を傾げている。
「いいや、何でもないよ」
迅は桜子限定の甘く優しい笑みを向けるのであった。
佐竹家で虐げられていた桜子は、迅の妻となり邑楽家でこれでもかと言う程に愛されて生涯を過ごすのであった。



