視(みる)

《凝視》
 見失いかねないような獣道じみた細い道に1歩踏み出すたび、小枝が折れる軽い感触と音がする。まだ日が沈む時間でもないのに、鬱蒼と生い茂った木々のせいで薄暗い森の中を、目的地を求めて歩き続ける。夜遅くなる可能性を考えてウインドブレーカーと懐中電灯を持ってきてよかった。すでに丸山書房に行った格好では肌寒いどころの騒ぎではなかったことだろう。
 山の場所がわかったのはいいが、肝心の神社の場所がわからないことに気がついたのは山についてからだった。周辺を歩いてみたが、それらしい場所が見つからない。たしか井上は「某神社があった場所の裏山、と聞いています」と言っていた。つまり某神社はもうないということなのか? だが、山﨑が2回目に赤いアルバムと遭遇した際に見たという木に囲まれた寺か神社の参道みたいな場所に俺は呼ばれているような気がした。封書に入っていた道幅いっぱいの古びた石畳と灯籠も間違いなくそこにある。根拠なく確信した。俺は行かなくてはならない。そしてその記事を書くんだ。中川も相沢恭子もレイコも、俺が背負わなくてはならない。そう考えて、森に足を踏み入れた。
 森の中は風景が変わらないようだった。どこかで鳥が鳴き声がしたり木々のざわめきが聞こえたりもするがただ不思議なほど静かで、空気は冴え渡っている。俺の足音だけが響いて、強い孤独に苛まれた。それでもそんなことを気にしている場合ではない。ただひたすら歩みを進める。
 どれくらい歩いたんだろうか。ここはどこだろうか。急に開けた場所に出た。真ん中に廃屋がある。物置くらいにしかなりそうにない大きさのトタン小屋で、全体に錆が浮いている。赤茶けた壁に生命力の塊のような若草色のツル性の植物が這っていて、小屋の傾き具合も相まって退廃的な美しさすら感じられた。俺は吸い寄せられるかのように、軋んで隙間のできた扉に手をかけた。土で固まっているのかうまく開けることはできなかったが、どうにかずらして俺が通れるだけの隙間を開け、2畳程度に見える中を懐中電灯で照らしてみる。
 あった。中川のメールに添付されていた赤いアルバムと、井上が送ってきたA4コピー用紙数枚の資料に出てきた古い姿見。入り口から向かって右奥のひっくり返した木箱の上で、アルバムは開かれている。その横に立てかけられた姿見は埃っぽく、ぼんやりとしか映らない。扉の隙間に体を捩じ込んで、小屋に入ってアルバムを手に取った。なるほど、たしかに写真が貼り付けられていたような跡とメモ書きは残っているが、数々のインタビューのとおり写真は1枚も残っていない。最後のページにも写真はなかった。ページの全てを何度確認しても集合写真は出てこない。
 だが、代わりに見つけた。表紙の真っ赤な布と同じ色の効き紙に、子どもの字で小さくうっすら、「れいこ」と書いてあった。やはりこれはレイコのものだ。おそらく姿見も彼女のものだろう。それを踏まえて考えると、山﨑が見た集合写真の最前列の真ん中に座っていた美少女は、レイコで間違いないと思う。俺の仮説は正しかった。
 アルバムを木箱の上に戻して、姿見を調べることにした。高さは身長170センチちょっとの俺のみぞおちほどで、幅はだいたい40センチくらいだろうか。木製のふちは想像していたよりも細くて薄い茶色だった
 レイコはどんな少女だったんだろう。容姿は山﨑から聞いているが、俺が見たわけではない。どのくらいの身長で、どんな声で、どんな性格だったんだろう。なぜ自殺なんてしたんだろう。遺書なんかもあったんだろうか。インタビューの証言から考えると、まだ10代後半だったはずだ。彼女に何があったのか俺にはわからないし、たぶんもう確かめようがない。軍手を持って来なかったから、素手で積もった埃と絡みつくクモの巣を払いながらそんなことを考えていると、無性に悲しくなってきた。そういえば、中川と恭子にも何が起きて死に至ったのかわからない。警察の捜査が入ったところで、何もかもが白日の下に晒されるわけではないだろう。レイコも彼らも、そんなに早く死ぬつもりはなかったはずだ。なぜ、こんなことになったんだろうか。
 リュックに入れっぱなしになっていたウエットティッシュで姿見全体を拭いてみたが、大してきれいにはならなかった。そもそも鏡自体が劣化して白く濁っているのかもしれない。しかし日本中で目撃されていた赤いアルバムと古い姿見が、なぜ今ここに打ち捨てられているのか。またここからどこかに移動するんだろうか。地べたに体育座りをして、ぼうっと室内と呼ぶには粗末な小屋の中を眺める。トタンでできた壁と天井にはひび割れや穴が無数にあって、案外光が差し込んでいる。空中を漂う埃が光を受けてきらきらと光っては影に消えていく。何とはなしに心が凪いだ。湿った土と草の匂い、狭い小屋、虫の鳴き声。なんだか子どものころに憧れた秘密基地を思い出す。赤いアルバムや古い姿見、台の代わりの木箱が、子どもが喜ぶ秘密基地を再現するための舞台装置のように思えてくる。
 だいぶ長いことぼんやりして、ふと気がついた。壁のひび割れの隙間から人工的な朱色が見える。ひび割れににじり寄ってよく見ると、それはかつて神社を守っていたであろう鳥居の成れの果てだった。朽ちて崩れたそれがそこにあるということは、その先には道幅いっぱいに敷き詰められた石畳の参道と脇に立ち並ぶ灯籠があるはずだ。それからその先に、レイコが最期の場に選んだ神社がある。俺は行かなくてはならない。
ぐっと力を入れて立ち上がると腰と背中が鈍く痛んだ。膝もぱきりと鳴る。もう歳かなと苦笑しながらリュックを拾い上げたのと同時に、真左にある姿見に一瞬、外の何かが映った。黒い何かだった。まさかクマでも出たんじゃないか。なんだかんだ生きているもののほうが怖い。派手な動きをしたらまずいと思い、そっと視線だけそちらに向けた。
 俺の予想に反してそこには何もいなかった。立ち去ったような音もせず、来たときと何も変わらない膝丈ほどの雑草が繁茂しているだけだった。なんだ、俺の見間違いか。だいぶ疲れてるな。首を回しながら再び視線を姿見に戻したところで腰を抜かしそうになった。
 女の姿が映っていた。顔はぼんやりしていてよく見えないが、長い黒髪と白い肌と、赤い唇は見てとれた。それから黒地に白い襟のセーラー服を着ているように見える。目を逸らしたいのに、視線が縫いつけられたかのように逸らせない。それどころか体も動かない。声も出ない。そういえばノスタルジーを感じていた土と草の匂いも虫の鳴き声もしなくなった。ついさっきまで穏やかだった小屋の雰囲気は、冷や汗が出るほど張り詰めたものに一変している。徐々に女の姿が鮮明になってきた。鏡の中からこちらに近づいてきているように見える。無理やり足を動かそうとしたが、やはりぴくりとも動かない。やばい。今すぐこの場から逃げたい。逃げなくては。怖い。助けて。頭の中を濁流のように言葉が巡っている。そうこうしている間にもどんどん女の姿がはっきりとわかるものになっている。とにかく逃げなくては。全身をめちゃくちゃに動かすつもりで力を入れても動かない。何かに強く押さえつけられているような圧迫感が離れていかない。
女の顔が、わかった。
 ああ、なんてきれいな人なんだ。ふいに頭の中をそれだけが支配した。同時に、甘い花のような香りが鼻をかすめ、空気が動き、姿見の中にいた女がいなくなった。
「行こう」
 真右から、子どもが遊びにでも誘う調子で話しかけられた。澄み切った無邪気な声だった。
 レイコって、こんな声だったんだ。