視(みる)

《実見》
 結局一睡もできなかった。妙な緊張と高揚を感じ、まるで遠足が楽しみで眠れない子どものごとく眠れなかった。どんよりと曇っている朝9時に丸山書房で井上と合流し、社用の軽自動車に乗り込む。井上の運転は彼の申告よりも安定していて、俺がうとうとしている間に同意書に記載してあった相沢恭子の住所に到着した。
「……更地ですね」
「僕がカーナビに入力する住所を間違えたのかと思ったんですが、ここなんですよ。さすがにこの同意書に書いてある住所が間違ってるか嘘ということはないでしょうし」
「引っ越したってことですかね」
 車を降りて周辺を探索しながらひそひそ話す。特に何の変哲もない閑静な東京の住宅街だ。相沢家の跡地と思われる更地の周りは、新築のような家や昭和の雰囲気を残す家など、さまざまな家が立ち並んでいる。
「たしか土地の登記簿ってどこかで見られますよね? 俺そっち方面詳しくないんですけど」
「ネットでも見られたはずですけど、やっぱり法務局に行くのが確実ですかね。それで相沢さんと連絡がつくかどうかはまたわかりませんが」
 2人で周辺をぶらついてみたが街の様子くらいしかわからず、肝心の相沢家や恭子に関する情報が都合よく落ちているわけでもない。更地の前とはいえあまり長時間路上駐車するのもよくないだろうということで、車に戻って近場のコインパーキングでも探し、形勢を立て直す策を練ろうかと作戦会議をしていると、突然ピンクのエプロンをつけて掃き掃除をしていた中年の女性に声をかけられた。
「あの……、もしかして相沢さんのお宅に取材にいらした方ですか?」
「あっ、はい、そうです。相沢さんってお引越しされたんでしょうか?」
 相沢家の隣人だというその女性は、俺の言葉に何とも微妙な反応をした。言いにくいことがあるかのように視線をそらし、どこから話すか考えているようだ。なんでもいいから教えてくれ。そう心の中で祈っていると彼女は口を開いた。
「だってねぇ、記者さんたちもご存知だろうけど、お嬢さんが精神的におかしくなっちゃって引きこもりになったかと思えば、今度は行方不明でしょう? 立て続けにお母さんまでおかしくなって遠くの病院に入院することになるだなんて、本当に気の毒よね。お父さんはお母さんに付き添うために病院の近くでアパート住まいをしているそうよ」
「えっ、娘さん行方不明なんですか?」
「あら? その事件のことで取材に来たんでしょ? 何が原因か知らないけど家から出られなくなっちゃって、半年くらい前に忽然と姿を消してしまった事件。ここのところ都内で若い女の子の行方不明事件が多いし、その話かと思ったわ。私、余計なこと喋っちゃったかしら」
「いえ、その件で間違いありません。もう少しお話し伺えますか?」
 俺の失言をカバーするように、井上が冷静に名刺を差し出した。こういうときに大手出版社の名前は強い。がっつり「ホラーウェブメディア」と書いてあっても丸山書房の名前のほうが目立つ。女性も子どもが幼いころに気に入って何度も読み聞かせた絵本が丸山書房のものだったと喜んでいる。この隙に俺はボイスレコーダーをオンにした。
「私が知ってることはさっき言ったくらいで、そんなに多くはないんだけどね。相沢さんのお母さんとは町内会とかゴミ捨て場のお掃除でちょこちょこ話す機会があったのよ。お嬢さん……恭子ちゃんは相沢さん家のひとり娘で、礼儀正しくて優しい子でね、会うと必ず明るく挨拶してくれる子だったわ。ただお母さんが言うには昔からかなり繊細な子だそうで……きっと嫌なことでもあったのね。引きこもりになっちゃった。お母さんがかなり気にしていらしたから、元気になるまで休ませてあげたらいいわって、私、言ったのよ」
「そうでしたか。それから行方不明に?」
 井上が記者になりきったように問いかける。こういうときに仲間がいるって頼もしいな、と俺がぼんやり思っている間にも、女性は話を続けた。
「そうなのよ。ここからはお母さんじゃなくてお父さんに聞いたんだけど、本当に前触れもなくいなくなっちゃったんだって。携帯とかお財布とか、定期なんかもそのままで。行き先の予測ができるようなものも何もなかったので、もし見かけたら連絡をくださいってことだったわ。心配よね。今ごろどこでどうしているんだか。お母さんもそれから急にうわ言を叫んだり夜中に裸足で外に飛び出して行こうとしたりするものだから管理がしっかりしていて安心できる病院に入院させるって決めたんですって。それでそこの土地ごと売って引っ越したみたいね。恭子ちゃんはいつ見つかるかわからないし、お母さんの病院も遠方だそうで……お父さんも大丈夫かしらね。本当に気の毒で仕方ないわ」
「なるほど……わかりました。ありがとうございます。記事にする際は絶対に個人情報が出ないようにしますのでご安心ください」
 人好きする笑顔まで完璧だった。どうやら井上には演技の才能があるらしい。
 相沢一家に起きた出来事はよくわかったが、レイコに関する情報をこれ以上得るのは難しそうだ。ほとんど振り出しに戻ったようなものだが、まだ諦めない。何らかの手立てはあるだろう。
 とはいえ今できることはもうないので、女性に礼を言って別れて丸山書房に帰ることにした。車のドアを閉めて発進した途端、車内に何とも言えない安堵感が広がった。
「いやー、不幸中の幸いでしたね。せっかく来たのに収穫ナシは残念ですし」
「井上さんの演技最高でしたよ。さすがにあの場でオカルト・ホラー系を主に扱ってるフリーランスライターです、なんて白状したら聞けるものも聞けないところでした」
「ものすごくドキドキしました! お役に立ててよかったです!」
 テンションが上がっているのか、行き道よりも運転が荒いように感じた。運転免許を持っていない俺が言うのも何だが、できるだけ安全運転でいってほしい。
 その後は他愛のない話ばかりしていた。異動前はエンタメ誌制作の部署にいて、そのときに石井と仕事をしたことがあること。大学時代、井上は写真部で俺はオカルト研究会に入っていたこと。知り合って日も浅く、仕事に関する話以外はほとんどしたことがなかったが、歳が近いのもあってなかなか打ち解けることができたと思う。これからもこの人と仕事ができたら楽しそうだ。
 ふと、車窓に目をやった。カーナビが混雑を予想している道を避け、示されるとおりの裏通りを走ってきたため、まだ大通りには出ずに住宅街の中だった。古そうな小さい商店街もいくつか見かけたし、下町風情の残る大型車両は入れなさそうな狭い道も多々ある。こんな道を使うとなると、土地勘がないと大変だろう。まだ車で走りやすそうな道をピックアップしてくれるカーナビに感謝だ。
 小さな工場らしき建物をぐるりと囲う古びたコンクリート塀の角、路地に入る目立たない場所にポツンと汚れた黄色いスーツケースが落ちていた。あまり見かけないような派手なステッカーが数枚貼られているようだが、その上からそこにスーツケースをその場に捨てたことを咎める張り紙が見える。
「たまに道端に放置されてるスーツケースを見かけますけど、あれってどうしてなんでしょうね」
「海外からの旅行客がお土産が入りきらないから大きいものに買い替えたけど、荷物規定で持ち帰れないので空港や路上に放置している例があると聞いたことがあります。インバウンドの増加っていいことももちろん多いですけど、そういうオーバーツーリズムによる問題が増えるのも厄介な話ですよね」
「なるほど。粗大ゴミで処分するにしても、結構手間かかりますもんね。俺も申し込みがめんどくさくて家に置きっぱなしのスノーボードがあるんですよね。ヒビ入っちゃったやつ」
 たしかに今しがた見かけたスーツケースも、ギリギリ飛行機内に持ち込めるかどうかといった大きさだった。日本人だろうが外国人だろうが、置いていくやつは置いていくんだろう。迷惑な話だ。いつかはこんな社会問題なんかも扱えるようなライターになりたい。今のジャンルも好きだが、ルポルタージュが書けるようなジャーナリズムも身につけたい。経験は積めるだけ積んで、今回の出来事も笑い話にしたいものだ。