数日後の昼下がり。香純は自分の局で古い書物をめくっていた。
読んでいたのは、香りについてありとあらゆることが書かれた、橘家に代々伝わる例の品である。香純が自宅から持ってきた数少ない荷のうちの一つがこれだ。
先日、急病を得た同僚に代わって仕事をこなした香純だが、今日ようやく、その日の分の休みをもらえた。朝から思う存分書物を読み込めて、なかなか気分がいい。
しばらくすると微かな物音がした。あれ、と顔を上げると、何やら真っ白い物体が目に飛び込んでくる。
「くるるるる!」
「あ、雪丸!」
御簾を自力で潜って、白いもふもふが突進してきた。
香純はそれを胸で受け止める。
「雪丸、また来てくれたのね。嬉しい! ああ、もふもふ」
何日かぶりの感触をまずはしっかりと確かめた。雪丸も香純の頬に鼻を寄せ、くるると喉を鳴らす。
ピンと立った耳の間を香純が撫でると、雪丸は気持ちよくなったのかとろんと目を閉じて、ますます擦り寄ってきた。
「可愛い。それに、すごく甘えん坊」
あまりのいじらしさに胸がきゅっとなり、思わずもふもふした身体をぎゅっと抱きしめる。
――ああ、和む。
身体から次第に力が抜け、心の中のささくれがぽろぽろとはがれていく。
香純は他の女官たちから孤立気味だった。有雪の件が理由ではない。参内したその日から、なんとなく居心地の悪さを感じている。
そもそも、宮中で何より大事なのは後ろ盾――つまり身分の高い誰かの支えだ。香純は叔母の貴和子に頼み込んでなんとか宮仕えがかなったが、中臈の貴和子は後ろ盾になるほどの立場ではないし、香純としてもこれ以上迷惑はかけられない。
後ろ盾がなく、衣装一つ満足に揃えられない『残りかす』と、誰が仲よくしたいと思うだろう。
ふぅと息を吐いて、香純は雪丸を抱き直す。
後ろ盾がないことなど初めから分かっていた。それで重たくなった心は、溜息一つで少しは軽くなる。
今、香純の胸にくすぶっているのは別の気持ちだった。
――私、有雪さまのこと誤解してた。
太政官の頂すら見える道を歩む有雪は、下の方で這いつくばっている香純と正反対だ。だから勝手に、気楽なのだと思った。
だが実際には有雪なりの苦労がある。おそらく、香純には想像すらできぬほどの。
「なんで『毎日楽しいでしょうね』なんて言っちゃったんだろう。有雪さまもきっと、大変だよね。なのに……」
気付くと、もふもふの毛玉を抱き締めたままそう呟いていた。すると、それまでじっとしていた雪丸が、香純の腕の中でぴくりと耳を動かす。
香純は雪丸の胴体を持ち上げて向かい合った。
「有雪さまの事情を何一つ考えず、お気楽扱いするなんて……駄目だよね、私」
「くるるるるる……」
「慰めてくれるの? ありがとう。……あら、今気づいたけど、雪丸って左の耳の方が少しだけ大きいのね」
新たな特徴を見つけた。それが何だか嬉しくなって、香純はまたもふもふの身体を抱き締める。
「天気がいいし、少し外を歩きましょうか、雪丸。私が抱っこしていてあげる」
「くるるるる!」
どうやら雪丸も賛成してくれたようだ。香純は暖かなもふもふをしっかり抱いて外に出る。
なんとなく歩いているうちに山茶花の木を見つけた。先日、貴和子の局に行くときに嗅いだのはこの花の香りだろう。あのときはどこに咲いているか分からなかったが、答えに無事辿り着いた。
「綺麗。いい香り」
みずみずしい花の香りを思い切り吸い込む。腕の中の雪丸も鼻をひくひくさせていた。
だが、香りに酔いしれたのはつかの間だった。
「どうしてくれるのよ、待宵!」
聞き覚えのある声が、知っている名を叫んでいる。
何やらかなりの緊迫感を帯びていた。香純は腕の中の雪丸と一度目を合わせてから怒声のした方へ向かって駆け出す。
ほどなくしてどこかの建物の廂が見えてきた。そこには御簾がかかった女房たちの局が並んでいて、手前には通路となる簀子が走っている。
簀子には何人かの女房が集まっていたが、香純はそのうち二人の顔に覚えがあった。
一人は出羽の君。もう一人は待宵である。
――ということは、ここは登華殿、かな。
出羽の君も待宵も、登華殿の女御こと凪子付きの女房である。后に仕える女房は、后の住まいである殿舎の廂に局を構えていることが多いのだ。
その出羽の君と待宵の間に漂う気配は、傍から眺めている香純にも分かるほど張り詰めている。……というより、出羽の君が一方的に待宵に詰め寄っている形だった。二人の周りには他の女房たちもいるが、皆一様に待宵を睨んでるように見える。
「待宵。あなた、わたくしの大事なおたま……じゃなかった、凪子さまがお飼になっている猫さまに、なんてことをしてくれたのよ! このまま猫さまが――おたまが死んでしまったら、あなたのせいよ!!」
香純は少し離れたところで一旦足を止めていたが、死、という物々しい言葉を耳にして思わず簀子の近くまで寄った。
やってきた香純を見て、出羽の君と向かい合っていた待宵が悲痛な面持ちで声を発する。
「藤袴の君……」
それ以上何も言わなかったが、小柄な女房は明らかに助けを求めていた。香純は近くにあった階から簀子の上に上がり、待宵のもとへ駆けつける。
そこで初めて気が付いた。待宵と出羽の君の間に、三毛猫が一匹横たわっているのだ。
初めは死んでいるのかと思ってぎょっとしたが、腹のあたりが微かに動いていた。辛うじて息はあるようだ。
毛並みのつややかさからして、おそらくこの猫が、女御に飼われている命婦のおたまだろう。
――猫の身体から、なんだか妙な匂いが。
何の匂いか確かめるため、香純は猫の傍に跪こうとした。しかし出羽の君が大声でそれを制する。
「気安くおたまに近寄らないでちょうだい。それに、何よその小汚い犬! ここは帝の后妃が住まう場。命婦の身分を賜っているおたまならともかく、野良犬なんて入れないで」
そう指摘されて、雪丸を抱いたままだったことを思い出す。出羽の君の声に驚いたのか、雪丸は香純の腕から飛び出して簀子の端に寄った。完全に外に出たわけではないが、出羽の君はそれでいいと思ったらしく、再び待宵に目を向ける。
「待宵。おたまはあなたのせいで『こう』なったのよ。どうするつもり!?」
出羽の君の肉付きのいい指が、ぐったりと横たわっている猫を示す。
待宵はふるふると頭を振った。
「わたしは、何もしておりません!」
「嘘おっしゃい。おたまがこうなる前、あなたがおたまを追いかけ回しているところを別の女房が見ているのよ。もしかして、おたまを蹴ったりぶったりしたんじゃないでしょうね」
「わたしは猫をいじめたりしていません。ただ、おたまが紙をびりびりに破いてしまって、細かい屑が身体にいっぱいついていたので、取ってあげただけです」
「取り切れていない紙屑がまだこの猫の身体についています。ほら」
香純はすぐに猫を確認し、お腹のあたりにくっついていた紙を取って出羽の君に見せる。おそらく命婦のおたまは紙で爪とぎでもしたのだろう。
出羽の君は「むー」と口を尖らせた。
「じゃあ。なぜおたまはこんなに苦しそうなの。わたくしが先ほど抱き上げたら、二、三回頬をぺろぺろしてくれたのよ。それからすぐ倒れてしまったの。そのあたりのことは、あなたも見ていたわね、弁の君」
弁の君と呼ばれた女房はすぐに首肯した。
「はい、おたまさまは出羽の君とじゃれあって幾許もしないうちにこうなりました。出羽の君は何もしていません」
「でしょう? となると、すぐ前におたまと接していた待宵のせいとしか考えられないわ」
出羽の君は待宵を再びぎろりと睨む。
「わたしは、本当に何も……」
「待宵ったらまだしらを切るつもりなの!? おたまをこんな目に遭わせたと凪子さまがお知りになったらどうなるかしら。あなた、後宮にいられなくなるわよ!」
「そ、そんなっ……」
出羽の君に扇の先を向けられて、待宵はその場に頽れてしまった。香純はその細い背中にそっと手を当てる。
「わたし、凪子さまにお仕えするのがずっと夢で……そのために和歌や書の鍛錬を積んで……なのに……」
待宵の目には涙が浮かんでいる。
絶対にこんなひどいことをする人じゃない。香純はそう思った。
待宵は香純を助けてくれた。恩返しがしたい。待宵が何もしていないという証を立てたい。……でも、何もできない。自分のあまりの無力さに、胸が詰まる。
――本当にもう、何もできないの?
諦めて俯く寸前、頬に何か温かいものが触れた。
「雪丸……」
簀子の端にいた雪丸がいつの間にか寄ってきて、香純の頬をぺろぺろと優しく舐める。
慰めてくれているのかな……と僅かに肩の力が抜けたとき、香純ははっと気づいた。
――そう、これだ。
先ほどまで雪丸が舐めてくれたところに軽く触れながら、さっと立ち上がる。
「出羽の君。猫が倒れたのは、待宵さんのせい――ではありません!」
香純の言葉に、出羽の君は眉を吊り上げた。
「なら誰のせいだっていうの?」
「それは――あなたです。出羽の君」
香純は袖の先で、出羽の君をまっすぐ指し示した。途端に、出羽の君の頬がかーっと赤くなる。
「何ですって! まさかこのわたくしが、おたまをいじめたとでもいうの!? いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあるわよ」
「いじめたとは言っていません。原因が出羽の君だと言ったんです。より正確には――出羽の君が使っている『白粉』が原因です」
「白粉、ですって」
「はい。香りからして、出羽の君は唐製の白粉を使っていますね」
香純の指摘に、出羽の君はにいっと笑う。
「ええ。とても高級な品よ。米粉でできた安物より、ずっと肌が綺麗に見えるわ」
「……唐製の白粉には『辰砂』が含まれているんです」
辰砂は鉱石だ。これを粉にしてまぜた白粉は粒子が細かく、肌をよりきめ細やかに見せてくれる。
「で、その辰砂がどうしたのよ」
「辰砂は、実は毒なんです。人が皮膚につけても命が尽きることはないけれど、小さい子や猫の身体の中に入ってしまったら危ない」
辰砂については、橘家に代々伝わる例の書物に記載がある。辰砂そのものを香原として使うことはないが、香炉を作る際に釉薬として用いることがある。ゆえに書物でも取り上げられているのだ。
「じゃあ、その毒の白粉を、誰かがおたまに食べさせたというの?」
出羽の君がずいっと身を前に乗り出した。
香純はその刹那、きっぱりと言い放った。
「食べさせたのではありません。猫は自ら、ぺろぺろ舐めたのです。毎日毎日――あなたの顔に塗られた白粉を」
「えっ……」
出羽の君は白粉が厚く塗られた頬に手を当ててその場で凍り付いてしまった。香純は横たわっている猫にそっと近寄り「ごめんね」と言いながら口を僅かに開く。
「猫の身体から、出羽の君が縫っている白粉と同じ匂いがします。それからご覧の通り、舌が真っ白。さっき、出羽の君の顔を舐めたのですね。たとえ口にしたのが少しだけだったとしても辰砂の毒はしばらく消えず、身体の奥に溜まり続けます。それが一定の量を越えてしまうと、こうやって悪さをする。この猫の前足を触ってもぴくりとも反応しません。このあたりに痺れがあって、感覚が鈍っているんだと思います。それから、ずっと震えてる。……辰砂の毒に中てられたときは、こんな風に痺れや細かなふるえが出てしまうそうです」
出羽の君はにわかに悲痛な面持ちになった。
「じゃあ……じゃあ、おたまはわたくしのせいで……?」
「出羽の君のせいではありません。あなたは白粉の毒について知らなかっ……」
「ねぇ、ねぇっ! どうしたらいいの!? わたくしの大事なおたまは、どうすれば助かるのかしら!?」
香純の声を遮って、出羽の君が縋り付いてくる。
今までさんざん待宵のことを疑っていたくせに――と、責めることなどできなかった。
出羽の君は今にも泣いてしまいそうなほど切羽詰まっていて、眼差しはとてもまっすぐだ。命婦のおたまを……小さな命を、とても大事にしているのがひしひしと伝わってくる。
「毒は身体の外に出してしまうのが一番です。お水をたくさん、飲ませてみましょう」
香純は出羽の君の手を、一度強く握った。
「分かったわ。お水をもらってきます」
出羽の君はきりりと顔つきを引き締めて身を翻す。
「わたしも手伝います」
待宵もあとに続いた。その場にいた他の女房たちも「温かい場所に寝かしましょう」とか「柔らかい寝床を作りましょう」と言って、散っていく。
香純は懸命に生きようとしている命婦馬おたまの身体を片手でそっと撫で続けた。
「くるるるる」
雪丸も小さな三毛猫の傍にとてとて歩み寄る。
「いっしょに応援しようね、雪丸」
香純は開いた方の手で雪丸も撫で、もふもふの毛並みを感じながら一心に祈っていた。
どうか、命婦のおたまが助かりますように、と。
女房たちの懸命な看病のお陰か、やがて命婦のおたまは落ち着いた。
小さな猫が、か細いながらも「にゃあ」と鳴き声を発したとき、皆で手を取り合って喜んだ。
香純ももちろん嬉しかった。ずっと傍で寄り添っていた雪丸をぎゅっと抱きしめ、嬉しさを噛み締める。
そして、腕の中のもふもふに向かってそっと囁いた。
「雪丸も、応援してくれてありがとうね。今日は、一緒に寝よっか」
「くるるるる!」
雪丸は、まるで香純の言葉が分かっているかのようにひと声鳴いて、ふさふさの尻尾をわさわさと振った。
読んでいたのは、香りについてありとあらゆることが書かれた、橘家に代々伝わる例の品である。香純が自宅から持ってきた数少ない荷のうちの一つがこれだ。
先日、急病を得た同僚に代わって仕事をこなした香純だが、今日ようやく、その日の分の休みをもらえた。朝から思う存分書物を読み込めて、なかなか気分がいい。
しばらくすると微かな物音がした。あれ、と顔を上げると、何やら真っ白い物体が目に飛び込んでくる。
「くるるるる!」
「あ、雪丸!」
御簾を自力で潜って、白いもふもふが突進してきた。
香純はそれを胸で受け止める。
「雪丸、また来てくれたのね。嬉しい! ああ、もふもふ」
何日かぶりの感触をまずはしっかりと確かめた。雪丸も香純の頬に鼻を寄せ、くるると喉を鳴らす。
ピンと立った耳の間を香純が撫でると、雪丸は気持ちよくなったのかとろんと目を閉じて、ますます擦り寄ってきた。
「可愛い。それに、すごく甘えん坊」
あまりのいじらしさに胸がきゅっとなり、思わずもふもふした身体をぎゅっと抱きしめる。
――ああ、和む。
身体から次第に力が抜け、心の中のささくれがぽろぽろとはがれていく。
香純は他の女官たちから孤立気味だった。有雪の件が理由ではない。参内したその日から、なんとなく居心地の悪さを感じている。
そもそも、宮中で何より大事なのは後ろ盾――つまり身分の高い誰かの支えだ。香純は叔母の貴和子に頼み込んでなんとか宮仕えがかなったが、中臈の貴和子は後ろ盾になるほどの立場ではないし、香純としてもこれ以上迷惑はかけられない。
後ろ盾がなく、衣装一つ満足に揃えられない『残りかす』と、誰が仲よくしたいと思うだろう。
ふぅと息を吐いて、香純は雪丸を抱き直す。
後ろ盾がないことなど初めから分かっていた。それで重たくなった心は、溜息一つで少しは軽くなる。
今、香純の胸にくすぶっているのは別の気持ちだった。
――私、有雪さまのこと誤解してた。
太政官の頂すら見える道を歩む有雪は、下の方で這いつくばっている香純と正反対だ。だから勝手に、気楽なのだと思った。
だが実際には有雪なりの苦労がある。おそらく、香純には想像すらできぬほどの。
「なんで『毎日楽しいでしょうね』なんて言っちゃったんだろう。有雪さまもきっと、大変だよね。なのに……」
気付くと、もふもふの毛玉を抱き締めたままそう呟いていた。すると、それまでじっとしていた雪丸が、香純の腕の中でぴくりと耳を動かす。
香純は雪丸の胴体を持ち上げて向かい合った。
「有雪さまの事情を何一つ考えず、お気楽扱いするなんて……駄目だよね、私」
「くるるるるる……」
「慰めてくれるの? ありがとう。……あら、今気づいたけど、雪丸って左の耳の方が少しだけ大きいのね」
新たな特徴を見つけた。それが何だか嬉しくなって、香純はまたもふもふの身体を抱き締める。
「天気がいいし、少し外を歩きましょうか、雪丸。私が抱っこしていてあげる」
「くるるるる!」
どうやら雪丸も賛成してくれたようだ。香純は暖かなもふもふをしっかり抱いて外に出る。
なんとなく歩いているうちに山茶花の木を見つけた。先日、貴和子の局に行くときに嗅いだのはこの花の香りだろう。あのときはどこに咲いているか分からなかったが、答えに無事辿り着いた。
「綺麗。いい香り」
みずみずしい花の香りを思い切り吸い込む。腕の中の雪丸も鼻をひくひくさせていた。
だが、香りに酔いしれたのはつかの間だった。
「どうしてくれるのよ、待宵!」
聞き覚えのある声が、知っている名を叫んでいる。
何やらかなりの緊迫感を帯びていた。香純は腕の中の雪丸と一度目を合わせてから怒声のした方へ向かって駆け出す。
ほどなくしてどこかの建物の廂が見えてきた。そこには御簾がかかった女房たちの局が並んでいて、手前には通路となる簀子が走っている。
簀子には何人かの女房が集まっていたが、香純はそのうち二人の顔に覚えがあった。
一人は出羽の君。もう一人は待宵である。
――ということは、ここは登華殿、かな。
出羽の君も待宵も、登華殿の女御こと凪子付きの女房である。后に仕える女房は、后の住まいである殿舎の廂に局を構えていることが多いのだ。
その出羽の君と待宵の間に漂う気配は、傍から眺めている香純にも分かるほど張り詰めている。……というより、出羽の君が一方的に待宵に詰め寄っている形だった。二人の周りには他の女房たちもいるが、皆一様に待宵を睨んでるように見える。
「待宵。あなた、わたくしの大事なおたま……じゃなかった、凪子さまがお飼になっている猫さまに、なんてことをしてくれたのよ! このまま猫さまが――おたまが死んでしまったら、あなたのせいよ!!」
香純は少し離れたところで一旦足を止めていたが、死、という物々しい言葉を耳にして思わず簀子の近くまで寄った。
やってきた香純を見て、出羽の君と向かい合っていた待宵が悲痛な面持ちで声を発する。
「藤袴の君……」
それ以上何も言わなかったが、小柄な女房は明らかに助けを求めていた。香純は近くにあった階から簀子の上に上がり、待宵のもとへ駆けつける。
そこで初めて気が付いた。待宵と出羽の君の間に、三毛猫が一匹横たわっているのだ。
初めは死んでいるのかと思ってぎょっとしたが、腹のあたりが微かに動いていた。辛うじて息はあるようだ。
毛並みのつややかさからして、おそらくこの猫が、女御に飼われている命婦のおたまだろう。
――猫の身体から、なんだか妙な匂いが。
何の匂いか確かめるため、香純は猫の傍に跪こうとした。しかし出羽の君が大声でそれを制する。
「気安くおたまに近寄らないでちょうだい。それに、何よその小汚い犬! ここは帝の后妃が住まう場。命婦の身分を賜っているおたまならともかく、野良犬なんて入れないで」
そう指摘されて、雪丸を抱いたままだったことを思い出す。出羽の君の声に驚いたのか、雪丸は香純の腕から飛び出して簀子の端に寄った。完全に外に出たわけではないが、出羽の君はそれでいいと思ったらしく、再び待宵に目を向ける。
「待宵。おたまはあなたのせいで『こう』なったのよ。どうするつもり!?」
出羽の君の肉付きのいい指が、ぐったりと横たわっている猫を示す。
待宵はふるふると頭を振った。
「わたしは、何もしておりません!」
「嘘おっしゃい。おたまがこうなる前、あなたがおたまを追いかけ回しているところを別の女房が見ているのよ。もしかして、おたまを蹴ったりぶったりしたんじゃないでしょうね」
「わたしは猫をいじめたりしていません。ただ、おたまが紙をびりびりに破いてしまって、細かい屑が身体にいっぱいついていたので、取ってあげただけです」
「取り切れていない紙屑がまだこの猫の身体についています。ほら」
香純はすぐに猫を確認し、お腹のあたりにくっついていた紙を取って出羽の君に見せる。おそらく命婦のおたまは紙で爪とぎでもしたのだろう。
出羽の君は「むー」と口を尖らせた。
「じゃあ。なぜおたまはこんなに苦しそうなの。わたくしが先ほど抱き上げたら、二、三回頬をぺろぺろしてくれたのよ。それからすぐ倒れてしまったの。そのあたりのことは、あなたも見ていたわね、弁の君」
弁の君と呼ばれた女房はすぐに首肯した。
「はい、おたまさまは出羽の君とじゃれあって幾許もしないうちにこうなりました。出羽の君は何もしていません」
「でしょう? となると、すぐ前におたまと接していた待宵のせいとしか考えられないわ」
出羽の君は待宵を再びぎろりと睨む。
「わたしは、本当に何も……」
「待宵ったらまだしらを切るつもりなの!? おたまをこんな目に遭わせたと凪子さまがお知りになったらどうなるかしら。あなた、後宮にいられなくなるわよ!」
「そ、そんなっ……」
出羽の君に扇の先を向けられて、待宵はその場に頽れてしまった。香純はその細い背中にそっと手を当てる。
「わたし、凪子さまにお仕えするのがずっと夢で……そのために和歌や書の鍛錬を積んで……なのに……」
待宵の目には涙が浮かんでいる。
絶対にこんなひどいことをする人じゃない。香純はそう思った。
待宵は香純を助けてくれた。恩返しがしたい。待宵が何もしていないという証を立てたい。……でも、何もできない。自分のあまりの無力さに、胸が詰まる。
――本当にもう、何もできないの?
諦めて俯く寸前、頬に何か温かいものが触れた。
「雪丸……」
簀子の端にいた雪丸がいつの間にか寄ってきて、香純の頬をぺろぺろと優しく舐める。
慰めてくれているのかな……と僅かに肩の力が抜けたとき、香純ははっと気づいた。
――そう、これだ。
先ほどまで雪丸が舐めてくれたところに軽く触れながら、さっと立ち上がる。
「出羽の君。猫が倒れたのは、待宵さんのせい――ではありません!」
香純の言葉に、出羽の君は眉を吊り上げた。
「なら誰のせいだっていうの?」
「それは――あなたです。出羽の君」
香純は袖の先で、出羽の君をまっすぐ指し示した。途端に、出羽の君の頬がかーっと赤くなる。
「何ですって! まさかこのわたくしが、おたまをいじめたとでもいうの!? いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあるわよ」
「いじめたとは言っていません。原因が出羽の君だと言ったんです。より正確には――出羽の君が使っている『白粉』が原因です」
「白粉、ですって」
「はい。香りからして、出羽の君は唐製の白粉を使っていますね」
香純の指摘に、出羽の君はにいっと笑う。
「ええ。とても高級な品よ。米粉でできた安物より、ずっと肌が綺麗に見えるわ」
「……唐製の白粉には『辰砂』が含まれているんです」
辰砂は鉱石だ。これを粉にしてまぜた白粉は粒子が細かく、肌をよりきめ細やかに見せてくれる。
「で、その辰砂がどうしたのよ」
「辰砂は、実は毒なんです。人が皮膚につけても命が尽きることはないけれど、小さい子や猫の身体の中に入ってしまったら危ない」
辰砂については、橘家に代々伝わる例の書物に記載がある。辰砂そのものを香原として使うことはないが、香炉を作る際に釉薬として用いることがある。ゆえに書物でも取り上げられているのだ。
「じゃあ、その毒の白粉を、誰かがおたまに食べさせたというの?」
出羽の君がずいっと身を前に乗り出した。
香純はその刹那、きっぱりと言い放った。
「食べさせたのではありません。猫は自ら、ぺろぺろ舐めたのです。毎日毎日――あなたの顔に塗られた白粉を」
「えっ……」
出羽の君は白粉が厚く塗られた頬に手を当ててその場で凍り付いてしまった。香純は横たわっている猫にそっと近寄り「ごめんね」と言いながら口を僅かに開く。
「猫の身体から、出羽の君が縫っている白粉と同じ匂いがします。それからご覧の通り、舌が真っ白。さっき、出羽の君の顔を舐めたのですね。たとえ口にしたのが少しだけだったとしても辰砂の毒はしばらく消えず、身体の奥に溜まり続けます。それが一定の量を越えてしまうと、こうやって悪さをする。この猫の前足を触ってもぴくりとも反応しません。このあたりに痺れがあって、感覚が鈍っているんだと思います。それから、ずっと震えてる。……辰砂の毒に中てられたときは、こんな風に痺れや細かなふるえが出てしまうそうです」
出羽の君はにわかに悲痛な面持ちになった。
「じゃあ……じゃあ、おたまはわたくしのせいで……?」
「出羽の君のせいではありません。あなたは白粉の毒について知らなかっ……」
「ねぇ、ねぇっ! どうしたらいいの!? わたくしの大事なおたまは、どうすれば助かるのかしら!?」
香純の声を遮って、出羽の君が縋り付いてくる。
今までさんざん待宵のことを疑っていたくせに――と、責めることなどできなかった。
出羽の君は今にも泣いてしまいそうなほど切羽詰まっていて、眼差しはとてもまっすぐだ。命婦のおたまを……小さな命を、とても大事にしているのがひしひしと伝わってくる。
「毒は身体の外に出してしまうのが一番です。お水をたくさん、飲ませてみましょう」
香純は出羽の君の手を、一度強く握った。
「分かったわ。お水をもらってきます」
出羽の君はきりりと顔つきを引き締めて身を翻す。
「わたしも手伝います」
待宵もあとに続いた。その場にいた他の女房たちも「温かい場所に寝かしましょう」とか「柔らかい寝床を作りましょう」と言って、散っていく。
香純は懸命に生きようとしている命婦馬おたまの身体を片手でそっと撫で続けた。
「くるるるる」
雪丸も小さな三毛猫の傍にとてとて歩み寄る。
「いっしょに応援しようね、雪丸」
香純は開いた方の手で雪丸も撫で、もふもふの毛並みを感じながら一心に祈っていた。
どうか、命婦のおたまが助かりますように、と。
女房たちの懸命な看病のお陰か、やがて命婦のおたまは落ち着いた。
小さな猫が、か細いながらも「にゃあ」と鳴き声を発したとき、皆で手を取り合って喜んだ。
香純ももちろん嬉しかった。ずっと傍で寄り添っていた雪丸をぎゅっと抱きしめ、嬉しさを噛み締める。
そして、腕の中のもふもふに向かってそっと囁いた。
「雪丸も、応援してくれてありがとうね。今日は、一緒に寝よっか」
「くるるるる!」
雪丸は、まるで香純の言葉が分かっているかのようにひと声鳴いて、ふさふさの尻尾をわさわさと振った。

