「疲れた……」
主殿寮の同僚が急遽体調不良となり、今日は休みだったはずの香純が駆り出されてしまった。仕事が終わったのは夜になってから。香純は今、自室に戻るべく重たい足を引きずって渡殿を進んでいる。
身体以上に、心が疲れていた。なにせ有雪が去ったあと、周りの局から飛び出してきた女房たちにあれこれ言われまくったのだ。
『白檀の君の手を払いのけるなんて、無礼すぎます!』
『有雪さまに触れてもらえるなんてずるいですわ。それをわたくしたちに見せつけて!』
『白檀の君から直々に女官名を賜るなんて贔屓よ! 悔しいぃっ!』
……と、この調子で、とにかく女房たちから怒りをぶつけられた。香純は何一つ、悪いことなどしていないのに。
悪いのは、あの若者――白檀の君の方だ。
いきなり触ってきて、名前まで付けて、一体どういう了見なのだろう。
考えてみれば、有雪は渡殿を進むだけであれだけちやほやされるのだ。あのとき香純の髪に触れたのはただの気まぐれ。もてる貴公子のほんのお遊びだろう。そうに決まっている。要するに、からかわれたのだ。
『つい触れてみたくなったんだ。お前から――いい香りがしたから』
有雪はそう言っていた。
だが嘘だ。なぜなら、いい香りなどするはずがない。
香純は渡殿を進みながら五つ衣の合わせ目に手を入れる。そのまま、指先に触れたものをそっと引っぱり出した。
香原を詰めた匂い袋。中に入っているのは――藤袴。
秋の七草の一つであり、蘭とも呼ばれる香り高い花だ。ただし性質上煉香にするのは難しく、たいていは匂い袋にして香りを楽しむ。
香純が身に着けている香りは、基本的にこれだけだ。あとは室内によく風を通し、それを衣装にも当てて匂いを取ったり、髪はまめに洗ったりして、どちらかというと消臭の方に気を遣っている。
煉香を作るのは嫌いではないが、香純はそれよりもあるがままの自然な香りを楽しむ方が好きだった。自ら積極的に纏うのは本当に、この小さな匂い袋が放つ藤袴の香りのみ。
だから、香純から漂ってくる香りなどごく僅か。鼻が利く香純自身ならともかく、他人が気付くはずがない。
だが有雪は気付いた。そして言い当てた。『お前から――藤袴のいい香りがする』と。
そのことを改めて思い出し、香純は何だか気恥ずかしくなってきた。
貴族にとって香りは衣装と同じ。香純が唯一纏っていた香りを言い当てられるなんて、まるで素肌の上に身に着けていた衣をそっと外されたような……。
「いいえ。考えすぎ、考えすぎ!」
頬をぴしゃりと叩き、香純はくすぶっていた気恥ずかしさを頭から追い出す。
ひとまず、これ以上女房たちから恨みを買いたくない。『藤袴の君』という女官名は返上した方がよさそうだ。
なら、この先は何と呼ばれるのだろう。
『何が藤袴の君よ。あなたなんて――残りかす君、で十分だわ』
有雪が去ったあと、誰かが叫んだこの言葉に参道の嵐が起こった。
残りかす――皆、香純を指さしてそう言った。急病で倒れた同僚の代わりを捜していた主殿寮の女孺が通りかからなければ、あのまましばらく怒声が響いていただろう。
貴和子はそれを止められなかった。いや……止める気などなかったのかもしれない。
だって、当たっている。己は残りかすだ。細くしぶとく生き続けて……一体この先、何ができる?
心の奥底にある暗い部分に踏み込みそうになり、香純はそこで頭を振った。
あたりはすっかり夜の帳が降りているが、宮中は釣り灯籠がたくさん設置されていてぼんやりと明るい。これ以上重いことを考えぬよう、香純灯りの数を数えながら自己の局を目指す。
香純の局は内裏の北東、桐壺の異名を持つ淑景舎の廂に置かれていた。
そこに局があるのは香純だけだ。香純を除く主殿寮の女房たちは、内侍所の女房たちと同じく温明殿の周りに局を賜っている。香純の局も本来ならその一角に設けられるはずだったのだが、女房の数や局自体の手入れの問題で、一人だけぽつんと離れたところになってしまった。
淑景舎は帝の后となる女御が居住する場だが、今は誰も使っていない。簀子に足を踏み入れた途端、うら寂しさが漂う。節約のためか灯りのともった釣り灯籠の数も絞られていて暗かった。寂しさと暗さが初冬の寒さをいっそうかき立てる。
一人でいるのが好きな香純でも、侘しさに参ってしまいそうだった。日中の疲れも相まって身体がますます重くなる。
こんな日は早く寝てしまおう。香純は自分の局にさっと潜り込み、寝る仕度を整えた。この局は貴和子のものより狭く、さらに火鉢がないので冷え切っている。
でも、夜具をしっかりかけて眠ってしまえば一緒……そう思って目を閉じたとき、微かな物音が聞こえてきた。
くるるるるる……くるる……
物音にまじって、何か鳴き声のようなものも聞き取れる。
――犬か、猫?
弱々しい声だった。少し甲高く、犬にせよ猫にせよ、さほど大きな生き物ではなさそうだ。
そのまま寝てしまおうと思ったが、耳に届く泣き声が妙に苦しそうだ。どうしても気になって、香純は寝具から身を起こす。
寝巻にしていた単衣の上に袿だけを引っかけ、簀子に出た。泣き声の聞こえる方へ向かって、目を凝らす。
「くるるるっ……くるるっ」
やがて見つけた『それ』は、真っ白でふわふわしていた。綿のような毛で覆われた獣は、くるるる……と、か細い声で泣きながら桐壺の庭にうずくまっている。
香純は裸足で庭に下り立った。思った通りさほど大きくない……というより、思っていた以上に小さい。
ピンと立った耳に、黒々とした鼻。少し太めでふさふさの尻尾。まさに、生まれて半年くらいの子犬そのものだった。香純は白い生き物にゆっくりと手を伸ばした。ふわふわの体毛に触れた途端、小さな身体がびくっと震える。
「大丈夫よ。傷つけたり追い立てたりしないから」
子犬に人の言葉など分かるはずがないが、香純はとりあえず話しかけてみた。敵意がないことを示すため身体をゆっくり撫でてみると、全体的にとても冷たい。
「あなた、もしかして寒いの? よかったら、私の局に来る? 暖を取るものはないけれど、一緒に夜具にくるまれば寒さはしのげる」
しばらく撫で続けたあと、香純はふわふわの小さな身体をそっと抱き上げた。白い子犬は抵抗することなく、腕の中でじっとしている。
そのまま一緒に局の中に戻り、夜具の上に横たえてやった。
しばらくすると、子犬は真っ白な毛に包まれた身体を擦り寄せてきた。完全に甘えている。香純のことを母犬だとでも思っているのだろうか。
何はともあれ、可愛いと思わずにはいられない。
それに、やはり触り心地がよかった。
――ふわふわ、ふかふか……もふもふ?
そう、もふもふ。この表現がぴったり合う。
香純はだんだんと暖かくなってきた子犬を撫でながら、もふもふ、もふもふ、と心の中で繰り返した。
不思議なことに、そうしているだけでささくれ立っていた心が少しずつ落ち着いていく。
もしかしたら『もふもふ』は、人の癒しになってくれるのかもしれない。大好きな香りと同じくらい。
桐壺には香純の他に誰もいない。だが、真っ白な毛玉のお陰で寂しくはなかった。すっかり心がほぐれたせいで、奥にあった本音がぽろぽろと零れてくる。
「私、あの人に――有雪さまに名を付けてもらったこと、とても嬉しかったの」
子犬の身体がぴくりと動いた。香純はほわほわの頭を撫でながら、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「あの人は私のこと、残りかすって呼ばなかった。それが何よりも嬉しかった。でも、このままだと何を言われるか分からないから、せっかくつけてもらった名は返上しないと駄目だよね……。それに、藤袴の君、なんて。そんな素敵な名、私には似合わないしね」
「……くるるる」
香純の胸に抱かれたまま、子犬が細く鳴き声を上げる。
なんだか慰めてくれているような気がして、心がほわんと暖かくなった。
「そうだ。あなたにも名を付けていい? ええと、雪みたいに真っ白いから雪丸というのはどう?」
「くるるる!」
どうやら喜んでくれたらしい。
香純はたった今名付けたばかりの雪丸をもう一度抱き直し、そのまま目を閉じた。
何か、とても幸せな夢を見た気がした。
翌朝、目を覚ますとあのもふもふがいなくなっていた。先に起きて、どこかから外へ出て行ったのだろう。
――挨拶くらいしてほしかった……なんて。子犬には無理か。
暖かで心地よいもふもふの感触が少し恋しい。だが、名残を惜しんでいる暇はさほどなかった。昨日は結局途中で休みを返上することになったが、今日も普通に、朝から仕事が立て込んでいるのである。
まずはやんごとなき方々のお住まいの掃除。それから火鉢用の炭を配って、渡殿も磨き上げなければならない。
一人で全てをこなすわけではないのだが、逆に言えば一人でもさぼっていたら他にしわ寄せが行ってしまう。
「おはようございます」
女官たちの詰所となっている温明殿へ赴いて挨拶をした途端、血走った目が一斉に香純を捉えた。場にぴりりと緊張感が走る。
何やらひどく剣呑な気配に香純が面食らっていると、一人の女房がすっと近づいてきた。
やや幅のある身体に纏っているのは濃淡のある山吹色の五つ衣。その上に海老色の表着と萌黄色の唐衣を重ねている。
宮中の女房たちには身分によって纏ってはならない色や模様があるが、貴和子も目の前にいる相手とよく似た衣装を身に着けていることが多い。ということは、今香純を睨みつけている人物も、貴和子と同じ中臈の女房だろう。
その萌黄の唐衣の女房から、かなり強い香りがした。薫物のそれではない。
――白粉の香りね、きっと。
よく見ると、萌黄の唐衣の女房はかなりの厚化粧だった。元の皮膚が全く分からないほど白粉がべったり塗られている。
よく出回っているのは米粉を使った白粉だが、それとは違うようだ。もっといろいろまぜこまれているように感じる。唐製の品だろうか。
厚化粧の女房は、香純に食って掛かるような勢いで口を開いた。
「あなたが昨日、白檀の君にちょっかいをかけた方ね」
「……は?」
思わず低い声が出てしまった。どちらかというと逆……手を伸ばしてきたのは有雪の方である。
だが反論する前に、萌黄の唐衣の女房が香純の髪をぎゅっと掴んだ。
「白檀の君は、ここに触れたのですってね。まぁ、なんて貧弱な髪なのかしら」
萌黄の唐衣の女房はそのまま香純の髪をぐいぐいと引っ張る。力が強く、このままでは髪が千切れてしまいそうだ。
やめてください、そう言おうとしたとき、横合いから誰かが声をかけてきた。
「で、出羽の君さまっ。あの、あのっ……」
萌黄の唐衣の女房は声のした方をぎろりと振り返る。どうやらこの女房は出羽の君と呼ばれているらしい。
一方、ふいに声をかけてきたのは小柄で可愛らしい人物だった。恰好からしてやはり中臈の女房だろう。衣装や髪から漂ってくるのは、桃と春の花の香りがまざった甘い香り。出羽の君が怖いのか、顔を引きつらせている。
「わたくしに何か用なの、待宵。それともまさか、止めにでも入るつもりかしら」
可愛らしい女房こと待宵は、ますます顔をこわばらせながらもその場から逃げ出そうとはしなかった。焦った様子で曖昧な方角を指し示しながら言う。
「出羽の君さまに、お、お尋ねしたいことがあると、清涼殿の方から使者がいらっしゃっていますっ!」
「わたくしに使者……?」
「はっ、はい。使者は、えーと、登華殿の西廂でお待ちでらっしゃいます。急いで来てほしい、とのことで」
「……っ。仕方ないわね」
出羽の君は香純の髪から手を放すと、くるりと踵を返した。萌黄の唐衣が温明殿の外へ出て行くのをじっと見送ったあと、待宵は香純の方を振り返る。
「あの、髪、大丈夫でしたか!」
「……はい。平気です」
待宵は、香純のことを案じてくれていたようだ。声をかけてきたのは、香純を助けるためだったのだろう。
ということは……。
「出羽の君のところに使者が来たというのは、もしかして私から離すための嘘?」
香純が囁くと、待宵も小声で返してきた。
「はい。あの、差し出がましいことをして申し訳ありません」
「いいえ、助かりました。だけど、嘘を吐いただなんて出羽の君に知れたら、あとであなたが怒られてしまうんじゃ……」
待宵はなんとも控えめな性分のようだった。それに比べて、出羽の君はかなり気が強そうだ。歯向かったことが露見すれば、何を言われるか分からない。
そんな香純の懸念が伝わったのだろう。待宵はふっと笑みを見せる。
「出羽の君には、勘違いだった、で押し通します。……って、ああ、髪が乱れておりますね。直した方がいいと思います」
先ほど出羽の君に掴まれたところはぐちゃぐちゃに絡まっている。確かに少し見苦しい。
「わたし、櫛を持ち歩いておりますので、よかったらお使いになりますか?」
待宵は懐から櫛を取り出した。木だけで作られた素朴な品だが、手入れが行き届いているのか櫛目が綺麗でぴかぴかしている。
「大事な櫛のようですが、私が使っていいんですか?」
香純の問いに、待宵は「もちろんです」と返した。
「ここでは他の方の邪魔になりますから、別のところへ参りましょう」
待宵の案内で、温明殿を出る。渡殿を進んで北側に回り、さらにその奥にある建物……昭陽舎の手前で立ち止まった。
「ここ……梨壺は今、どなたも使っておりませんから、人が来ることはないはずです。どうぞごゆっくり櫛をお使いください」
昭陽舎のまたの名が梨壺である。別名の由来は、南の庭にある梨の木だ。その木は目と鼻の先にあった。誰もいない渡殿は、風がよく通って気持ちがいい。
香純に櫛を手渡しながら、待宵が軽く会釈をした。
「申し遅れました。わたしは待宵と申します。登華殿の女御さま……源凪子さま付きの女房です」
内裏女房は大きく二つに分けられる。帝に仕える『上の女房』と、帝の后が実家から連れてくる『后の女房』だ。主殿寮に属する香純は帝に仕えていることになる。
上の女房と后の女房は指示を出す元が異なるが、内裏に身を置いているのでこうして関わることも多い。
「あなたのことは藤袴の君とお呼びしていいかしら」
そう尋ねられ、香純は僅かに戸惑った。
だが結局頷いた。考えてみれば、この名はまだ有雪に返上していない。身分の高い近衛少将が付けた名を、下臈女房の香純が勝手になかったことにはできないだろう。
「では、藤袴の君。改めて、先ほどは大変でしたね。出羽の君もわたしと同じ、凪子さま付きの女房なのです。あの方は人一倍、気がお強いですから……」
待宵と出羽の君は同僚ということになる。二人の歳は同じくらいで、香純よりいくつか上だろう。
待宵はやや肩を落とした。
「出羽の君は有雪さまをたいそうご熱心に応援されていて、同志の女房たちと親衛隊のようなものを築かれているのです。隊には厳しい掟があるのだとか。例えば、抜け駆けは許すまじ、とか……。だから、有雪さまが藤袴の君にお声がけをして、しかも触れたと聞いて、かなりお怒りでした」
「そうでしたか。いくら白檀の君が見目麗しいからって親衛隊まで作るなんて……出羽の君って厄介な方なんですね」
あたりに人気がないのをいいことに香純が思ったことをそのまま口にすると、待宵は「ええ……」と頷きかけた。だがすぐ、取り繕うように言った。
「で、でも、ああ見えて出羽の君にもお優しいところがあるのですよ。たとえば……そう、凪子さまがお飼いになっている猫のお世話を、率先してやっているのです」
「猫?」
「ええ。凪子さまがご実家からお連れになった猫で、『命婦のおたま』と呼んでおります」
待宵の話によれば、おたまは実際に命婦の地位を帝から授かっているらしい。猫とはいえ、后の前に出るならある程度の身分が必要だからだ。
出羽の君はその命婦のおたまを、まさに猫かわいがりしているとのこと。
「それはそれはもう、たいそう愛でております。出羽の君曰く、ふわふわの毛並みがたまらず、思わず抱きしめたくなるのだとか」
「……ああ、それは分かります」
香純はすかさず同意していた。なにせ、ゆうべは香純も、もふもふで癒されまくったばかりなのだ。
待宵も猫が嫌いではないようで、笑みを浮かべる。
「小さな生き物は本当に、何をしても許せてしまうほど愛らしいですね。出羽の君も、命婦のおたまの悪戯には一切文句を言いません。顔を舐められて化粧がほとんど落ちてしまっても、仕方ないわねぇ、って……。そのせいで、出羽の君がお使いになっている白粉がどんどん減っております」
出羽の君はかなりの厚化粧だった。高価な白粉を塗り直すとなると懐も痛むし手間もかかる。それでも猫のしたことなら許してしまうとは。やはり香純が感じた通り、ふわふわもふもふしたものには人を和ませて丸くする何らかの力があるのだろう。
髪を整え終わったので、香純は待宵に櫛を返した。何も持っていない手に、ゆうべのもふもふの感触が蘇る。
そのとき、誰かがどすどすと派手な音を立てて渡殿を進んできた。
「待宵、こんなところにいたのね。ちょっと、どういうことなの!?」
今しがた話題になっていた出羽の君だ。かなり勢い込んでここに来たようで、息が乱れている。眉が吊り上がり、先ほど以上に顔立ちが恐ろしい。
「登華殿に行ったけど、使者なんていなかったわよ。無駄に手間を取らせたわね!」
やはりばれてしまった。しかも、相当怒っている。
待宵はすぐさま、肩を縮めて頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ。わたし、何か勘違いを、していたようで……」
「勘違いですって? 違うわ。あなた、わたくしをそこの女蔵人から引き剥がそうとしたのよね。だから嘘を吐いたんでしょう!?」
「あ……あ、あのっ」
あわあわしている待宵のもとに、出羽の君が詰め寄る。待宵は咄嗟に腕を前に出して出羽の君を押し留めようとした。その待宵の手には、先ほど香純が返したばかりの櫛がある。
「何よこの櫛。邪魔だわ!」
出羽の君は待宵の手から櫛を奪うと、遠くに放り投げてしまった。木でできた素朴な櫛は弧を描いて空を舞い、昭陽舎の庭に生えていた梨の木に引っかかる。
「あっ……大事な櫛が!」
待宵は手を伸ばしたが、櫛は木の上の方……相当高いところにあった。もとより、渡殿からでは庭の木に届くはずがない。
「どうしよう……亡くなった姉さまがくれた櫛なのに。だから肌身離さず持ち歩いていたのに……」
へたり込む待宵の傍らに、香純も跪いた。
もはや肩身の櫛はとうてい手が届かないところにある。その事実を改めて確かめると、待宵は顔を覆って泣き始めた。
「ふ、ふんっ。わたくしのせいじゃない。白檀の君とこれ見よがしにべたべたしていたそこの女蔵人が悪いのよっ」
さすがにやりすぎたと思ったのか出羽の君はきまり悪そうな顔つきになり、もごもごと言い訳をしてその場から逃げてしまった。
渡殿に残されたのは待宵と香純だけだ。
むせび泣く小柄な女房を見ているだけで胸が苦しくなり、香純はいてもたってもいられなくなった。そのまま庭に下りて、背の高い梨の木のもとへ駆け寄る。
「藤袴の君、何をなさるおつもりですか?」
渡殿から待宵が身を乗り出した。
「私がなんとかします。待宵さんはそこで待っていてください」
香純は片手を上げて小柄な女房を制した。待宵は裳まできっちり付けた女房装束姿なので、地面に下りるのは無理だ。
梨の木の高さは殿舎の屋根を越えている。ひとまず幹に手をついて揺さぶってみたが、下の方の枝が微かに揺れるだけで、てっぺん近くにある櫛はしっかり引っかかったままだ。
――どうしよう。
背の高い木と悲しそうな待宵の顔、そしてよく手入れされた櫛が交互に香純の脳裡を過る。
そのときふいに、白檀の香りがした。
「こんなところで何をしている。藤袴の君」
「あっ……あなたは」
柔かな日の光を浴びてこちらに歩いてくるのは、白檀の香りのみを纏った麗しき貴公子だった。今日は矢を収めた平胡簶を背負い、手に弓を携えている。
一部の隙も無い武官の出で立ちが凛々しさを引き立てていて、香純は思わず見惚れてしまった。すぐに身分の差を思い出し、姿勢を低くしようとしたが、有雪はそれを押し留めて事情を尋ねる。
香純は、ちょっとした行き違いで櫛が人の手で投げられ、木に引っかかってしまったと説明した。出羽の君が怒っていた理由などは有雪自身にも関わることだったので、あえて伏せる。
有雪は、先ほど香純がしたように木を少し揺らしたあと、顎の下に指を添えた。
「揺らしても無駄か。かと言って、木を登るには枝ぶりが心許ないな」
梨の木は立派だが、一本一本の枝はさほど太くなく、人の重みに耐えられそうにない。
しかし有雪はめげる様子もなく口角を引き上げた。
「何か長い棒のようなもので上の枝を揺らせば取れるだろう。下働きの者にやってもらおう。俺が声をかけてくる」
確かに、それならなんとかなりそうだ。
「まあ、少将さまが自らお声がけまで……いいのですか?」
渡殿で話を聞いていた待宵が、涙を拭いながら言う。
「ああ。すぐに誰か読んでくる」
有雪はすぐさま踵を返そうとした。
その刹那。黒い塊が、香純たちの目の前をものすごい速さで通り抜けた。それはいったん遠ざかったが、急旋回してまた戻ってくる。
黒いものの正体は鳥だった。烏か、鳶か……。滑るようにして空を飛び、まっすぐ梨の木のてっぺんに突っ込む。
「あ、鳥が、わたしの櫛を……!」
待宵が悲鳴を上げた。鳥が一度梨の木のてっぺんに降り、引っかかっていた櫛をがっちりと咥え込んだのだ。
ほどなくして鳥は再び羽を広げ、木から飛び立った。
「待って、いかないで。櫛を返して!」
縋るように声を張り上げる待宵をまるで無視して、鳥はどんどん離れていく。
このままだと大事な櫛は完全に失われてしまうだろう。どうしよう、でも、何もできない……。
香純は飛び去って行く鳥を見ていたくなくて、ぎゅっと目を閉じた。
そのとき、有雪が声を発した。
「逃がすものか!」
微かに目を開けた香純の前で、有雪は流れるように弓に矢をつがえ、空に向かって放った。一本の矢は空を飛ぶ鳥めがけて寸分の狂いもなく飛んでいき、僅かに左の羽を掠める。
ふいに飛んできた矢に驚いた鳥は、その場でばたばたと羽を動かし、甲高く鳴いた。その拍子に、咥えていた櫛が落ちる。
「待宵さんの櫛!」
香純は地面に落ちたそれを拾い上げ、土埃を払って丹念に眺めた。幸い傷はついていないようだ。
鳥はしばらくばたばたしていたが、そのまま飛び去った。
大事なものを渡された待宵は、再び涙に暮れて有雪に何度も頭を下げる。
「少将さま、本当にありがとうございます。藤袴の君もありがとう」
感極まったのか盛大に泣き始めてしまった待宵を気にしつつ、香純は有雪の顔をちらちらと見た。
ろくに身構える暇はなく、しかもだんだんと遠ざかっていく鳥に、有雪は一発で矢を当てた。仕留めず羽を掠めただけだったのは、おそらくわざと。殺生ではなく、咥えていた櫛を離すのが目的だったのだろう。身体を射抜くより、傷を負わせず掠める方が何倍も難しいはずである。
矢を放つ瞬間の有雪の顔は、今までで一番凛々しかった。香純が息を止めて、見入ってしまったほどに。
今、その顔には、先ほどの見事な行射など何でもないというような涼しげな笑みが浮かんでいる。
有雪はそのまま身を翻そうとしたが、何かを思い出したようにはた、と香純の方を振り返った。
「俺が付けた名を、お前は返上しようとしているだろう。そんなことは不要だ。そのまま使え。お前には藤袴の君という呼び名が、よく合っている」
「えっ……」
名を返上しようとしていたことは、誰にも言っていない。なのになぜ……。
面食らう香純をよそに、有雪は今度こそ去っていった。
白檀の残り香が消えるころ、待宵が頬に手を当てて熱い溜息を吐く。
「やはり少将さまは素敵な方ですね。弓の腕前もお見事でした。出羽の君がたいそう憧れる気持ちが少し分かります。あの、優美な微笑みがもう……っ!」
有雪を手放しで褒める待宵を目の当たりにして、香純は逆に冷めてきてしまった。
「そりゃ、女官たちにあれだけちやほやされていたら笑いたくもなるでしょう。渡殿に姿を見せるだけで歓声が上がるんですもの。きっと毎日楽しいでしょうね」
「いいえ、多分……少将さまもそれなりに大変だと思いますよ」
そこで待宵はやや声の調子を落とした。
首を傾げた香純に、ぽつぽつと語り出す。
「宮中に出入りする殿方のほとんどは出世を望んでおります。少しでも上の立場に行けるよう、時には他の方の足を引っばることさえある……。ここは帝が住まうところ。最も神聖でなければならないのに、実はこの世で一番、欲望が渦巻いているのかもしれません」
宮仕えを始めてまだ一月余りだが、香純はすでに待宵の言ったことがじわりと身に染みてきていた。
待宵は控えめな声で先を続ける。
「少将さまが摂家の出ではないことはご存じですか? 朝廷の主なお役目は今、摂家の方々で埋まっています。お役目の数には限りがありますから、摂家といえど上に行けない方もいらっしゃる。そんな中、摂家の出ではない少将さまが出世している……これがどういうことかお分かりですか。藤袴の君」
「お役目にあぶれてしまった摂家の方々は、面白くないでしょうね」
出る杭は打たれる。有雪はそれでなくとも見目の麗しさから宮中の女性たちに騒がれているのだ。嫉妬する殿方も多いだろう。
香純の返事を聞いた待宵は僅かに目を伏せた。
「宮中には、少将さまを引きずり降ろそうとする方々がいると聞きました。はっきり誰とは分からないのですが、たとえば、少将さまより出世の遅い摂家の方々とか……」
「それは……さもありなん、という感じですね」
香純の脳裡に、先ほど見た有雪の顔が浮かんでくる。
あの笑みの裏には何が……そう考えて少し、胸が痛んだ。
主殿寮の同僚が急遽体調不良となり、今日は休みだったはずの香純が駆り出されてしまった。仕事が終わったのは夜になってから。香純は今、自室に戻るべく重たい足を引きずって渡殿を進んでいる。
身体以上に、心が疲れていた。なにせ有雪が去ったあと、周りの局から飛び出してきた女房たちにあれこれ言われまくったのだ。
『白檀の君の手を払いのけるなんて、無礼すぎます!』
『有雪さまに触れてもらえるなんてずるいですわ。それをわたくしたちに見せつけて!』
『白檀の君から直々に女官名を賜るなんて贔屓よ! 悔しいぃっ!』
……と、この調子で、とにかく女房たちから怒りをぶつけられた。香純は何一つ、悪いことなどしていないのに。
悪いのは、あの若者――白檀の君の方だ。
いきなり触ってきて、名前まで付けて、一体どういう了見なのだろう。
考えてみれば、有雪は渡殿を進むだけであれだけちやほやされるのだ。あのとき香純の髪に触れたのはただの気まぐれ。もてる貴公子のほんのお遊びだろう。そうに決まっている。要するに、からかわれたのだ。
『つい触れてみたくなったんだ。お前から――いい香りがしたから』
有雪はそう言っていた。
だが嘘だ。なぜなら、いい香りなどするはずがない。
香純は渡殿を進みながら五つ衣の合わせ目に手を入れる。そのまま、指先に触れたものをそっと引っぱり出した。
香原を詰めた匂い袋。中に入っているのは――藤袴。
秋の七草の一つであり、蘭とも呼ばれる香り高い花だ。ただし性質上煉香にするのは難しく、たいていは匂い袋にして香りを楽しむ。
香純が身に着けている香りは、基本的にこれだけだ。あとは室内によく風を通し、それを衣装にも当てて匂いを取ったり、髪はまめに洗ったりして、どちらかというと消臭の方に気を遣っている。
煉香を作るのは嫌いではないが、香純はそれよりもあるがままの自然な香りを楽しむ方が好きだった。自ら積極的に纏うのは本当に、この小さな匂い袋が放つ藤袴の香りのみ。
だから、香純から漂ってくる香りなどごく僅か。鼻が利く香純自身ならともかく、他人が気付くはずがない。
だが有雪は気付いた。そして言い当てた。『お前から――藤袴のいい香りがする』と。
そのことを改めて思い出し、香純は何だか気恥ずかしくなってきた。
貴族にとって香りは衣装と同じ。香純が唯一纏っていた香りを言い当てられるなんて、まるで素肌の上に身に着けていた衣をそっと外されたような……。
「いいえ。考えすぎ、考えすぎ!」
頬をぴしゃりと叩き、香純はくすぶっていた気恥ずかしさを頭から追い出す。
ひとまず、これ以上女房たちから恨みを買いたくない。『藤袴の君』という女官名は返上した方がよさそうだ。
なら、この先は何と呼ばれるのだろう。
『何が藤袴の君よ。あなたなんて――残りかす君、で十分だわ』
有雪が去ったあと、誰かが叫んだこの言葉に参道の嵐が起こった。
残りかす――皆、香純を指さしてそう言った。急病で倒れた同僚の代わりを捜していた主殿寮の女孺が通りかからなければ、あのまましばらく怒声が響いていただろう。
貴和子はそれを止められなかった。いや……止める気などなかったのかもしれない。
だって、当たっている。己は残りかすだ。細くしぶとく生き続けて……一体この先、何ができる?
心の奥底にある暗い部分に踏み込みそうになり、香純はそこで頭を振った。
あたりはすっかり夜の帳が降りているが、宮中は釣り灯籠がたくさん設置されていてぼんやりと明るい。これ以上重いことを考えぬよう、香純灯りの数を数えながら自己の局を目指す。
香純の局は内裏の北東、桐壺の異名を持つ淑景舎の廂に置かれていた。
そこに局があるのは香純だけだ。香純を除く主殿寮の女房たちは、内侍所の女房たちと同じく温明殿の周りに局を賜っている。香純の局も本来ならその一角に設けられるはずだったのだが、女房の数や局自体の手入れの問題で、一人だけぽつんと離れたところになってしまった。
淑景舎は帝の后となる女御が居住する場だが、今は誰も使っていない。簀子に足を踏み入れた途端、うら寂しさが漂う。節約のためか灯りのともった釣り灯籠の数も絞られていて暗かった。寂しさと暗さが初冬の寒さをいっそうかき立てる。
一人でいるのが好きな香純でも、侘しさに参ってしまいそうだった。日中の疲れも相まって身体がますます重くなる。
こんな日は早く寝てしまおう。香純は自分の局にさっと潜り込み、寝る仕度を整えた。この局は貴和子のものより狭く、さらに火鉢がないので冷え切っている。
でも、夜具をしっかりかけて眠ってしまえば一緒……そう思って目を閉じたとき、微かな物音が聞こえてきた。
くるるるるる……くるる……
物音にまじって、何か鳴き声のようなものも聞き取れる。
――犬か、猫?
弱々しい声だった。少し甲高く、犬にせよ猫にせよ、さほど大きな生き物ではなさそうだ。
そのまま寝てしまおうと思ったが、耳に届く泣き声が妙に苦しそうだ。どうしても気になって、香純は寝具から身を起こす。
寝巻にしていた単衣の上に袿だけを引っかけ、簀子に出た。泣き声の聞こえる方へ向かって、目を凝らす。
「くるるるっ……くるるっ」
やがて見つけた『それ』は、真っ白でふわふわしていた。綿のような毛で覆われた獣は、くるるる……と、か細い声で泣きながら桐壺の庭にうずくまっている。
香純は裸足で庭に下り立った。思った通りさほど大きくない……というより、思っていた以上に小さい。
ピンと立った耳に、黒々とした鼻。少し太めでふさふさの尻尾。まさに、生まれて半年くらいの子犬そのものだった。香純は白い生き物にゆっくりと手を伸ばした。ふわふわの体毛に触れた途端、小さな身体がびくっと震える。
「大丈夫よ。傷つけたり追い立てたりしないから」
子犬に人の言葉など分かるはずがないが、香純はとりあえず話しかけてみた。敵意がないことを示すため身体をゆっくり撫でてみると、全体的にとても冷たい。
「あなた、もしかして寒いの? よかったら、私の局に来る? 暖を取るものはないけれど、一緒に夜具にくるまれば寒さはしのげる」
しばらく撫で続けたあと、香純はふわふわの小さな身体をそっと抱き上げた。白い子犬は抵抗することなく、腕の中でじっとしている。
そのまま一緒に局の中に戻り、夜具の上に横たえてやった。
しばらくすると、子犬は真っ白な毛に包まれた身体を擦り寄せてきた。完全に甘えている。香純のことを母犬だとでも思っているのだろうか。
何はともあれ、可愛いと思わずにはいられない。
それに、やはり触り心地がよかった。
――ふわふわ、ふかふか……もふもふ?
そう、もふもふ。この表現がぴったり合う。
香純はだんだんと暖かくなってきた子犬を撫でながら、もふもふ、もふもふ、と心の中で繰り返した。
不思議なことに、そうしているだけでささくれ立っていた心が少しずつ落ち着いていく。
もしかしたら『もふもふ』は、人の癒しになってくれるのかもしれない。大好きな香りと同じくらい。
桐壺には香純の他に誰もいない。だが、真っ白な毛玉のお陰で寂しくはなかった。すっかり心がほぐれたせいで、奥にあった本音がぽろぽろと零れてくる。
「私、あの人に――有雪さまに名を付けてもらったこと、とても嬉しかったの」
子犬の身体がぴくりと動いた。香純はほわほわの頭を撫でながら、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「あの人は私のこと、残りかすって呼ばなかった。それが何よりも嬉しかった。でも、このままだと何を言われるか分からないから、せっかくつけてもらった名は返上しないと駄目だよね……。それに、藤袴の君、なんて。そんな素敵な名、私には似合わないしね」
「……くるるる」
香純の胸に抱かれたまま、子犬が細く鳴き声を上げる。
なんだか慰めてくれているような気がして、心がほわんと暖かくなった。
「そうだ。あなたにも名を付けていい? ええと、雪みたいに真っ白いから雪丸というのはどう?」
「くるるる!」
どうやら喜んでくれたらしい。
香純はたった今名付けたばかりの雪丸をもう一度抱き直し、そのまま目を閉じた。
何か、とても幸せな夢を見た気がした。
翌朝、目を覚ますとあのもふもふがいなくなっていた。先に起きて、どこかから外へ出て行ったのだろう。
――挨拶くらいしてほしかった……なんて。子犬には無理か。
暖かで心地よいもふもふの感触が少し恋しい。だが、名残を惜しんでいる暇はさほどなかった。昨日は結局途中で休みを返上することになったが、今日も普通に、朝から仕事が立て込んでいるのである。
まずはやんごとなき方々のお住まいの掃除。それから火鉢用の炭を配って、渡殿も磨き上げなければならない。
一人で全てをこなすわけではないのだが、逆に言えば一人でもさぼっていたら他にしわ寄せが行ってしまう。
「おはようございます」
女官たちの詰所となっている温明殿へ赴いて挨拶をした途端、血走った目が一斉に香純を捉えた。場にぴりりと緊張感が走る。
何やらひどく剣呑な気配に香純が面食らっていると、一人の女房がすっと近づいてきた。
やや幅のある身体に纏っているのは濃淡のある山吹色の五つ衣。その上に海老色の表着と萌黄色の唐衣を重ねている。
宮中の女房たちには身分によって纏ってはならない色や模様があるが、貴和子も目の前にいる相手とよく似た衣装を身に着けていることが多い。ということは、今香純を睨みつけている人物も、貴和子と同じ中臈の女房だろう。
その萌黄の唐衣の女房から、かなり強い香りがした。薫物のそれではない。
――白粉の香りね、きっと。
よく見ると、萌黄の唐衣の女房はかなりの厚化粧だった。元の皮膚が全く分からないほど白粉がべったり塗られている。
よく出回っているのは米粉を使った白粉だが、それとは違うようだ。もっといろいろまぜこまれているように感じる。唐製の品だろうか。
厚化粧の女房は、香純に食って掛かるような勢いで口を開いた。
「あなたが昨日、白檀の君にちょっかいをかけた方ね」
「……は?」
思わず低い声が出てしまった。どちらかというと逆……手を伸ばしてきたのは有雪の方である。
だが反論する前に、萌黄の唐衣の女房が香純の髪をぎゅっと掴んだ。
「白檀の君は、ここに触れたのですってね。まぁ、なんて貧弱な髪なのかしら」
萌黄の唐衣の女房はそのまま香純の髪をぐいぐいと引っ張る。力が強く、このままでは髪が千切れてしまいそうだ。
やめてください、そう言おうとしたとき、横合いから誰かが声をかけてきた。
「で、出羽の君さまっ。あの、あのっ……」
萌黄の唐衣の女房は声のした方をぎろりと振り返る。どうやらこの女房は出羽の君と呼ばれているらしい。
一方、ふいに声をかけてきたのは小柄で可愛らしい人物だった。恰好からしてやはり中臈の女房だろう。衣装や髪から漂ってくるのは、桃と春の花の香りがまざった甘い香り。出羽の君が怖いのか、顔を引きつらせている。
「わたくしに何か用なの、待宵。それともまさか、止めにでも入るつもりかしら」
可愛らしい女房こと待宵は、ますます顔をこわばらせながらもその場から逃げ出そうとはしなかった。焦った様子で曖昧な方角を指し示しながら言う。
「出羽の君さまに、お、お尋ねしたいことがあると、清涼殿の方から使者がいらっしゃっていますっ!」
「わたくしに使者……?」
「はっ、はい。使者は、えーと、登華殿の西廂でお待ちでらっしゃいます。急いで来てほしい、とのことで」
「……っ。仕方ないわね」
出羽の君は香純の髪から手を放すと、くるりと踵を返した。萌黄の唐衣が温明殿の外へ出て行くのをじっと見送ったあと、待宵は香純の方を振り返る。
「あの、髪、大丈夫でしたか!」
「……はい。平気です」
待宵は、香純のことを案じてくれていたようだ。声をかけてきたのは、香純を助けるためだったのだろう。
ということは……。
「出羽の君のところに使者が来たというのは、もしかして私から離すための嘘?」
香純が囁くと、待宵も小声で返してきた。
「はい。あの、差し出がましいことをして申し訳ありません」
「いいえ、助かりました。だけど、嘘を吐いただなんて出羽の君に知れたら、あとであなたが怒られてしまうんじゃ……」
待宵はなんとも控えめな性分のようだった。それに比べて、出羽の君はかなり気が強そうだ。歯向かったことが露見すれば、何を言われるか分からない。
そんな香純の懸念が伝わったのだろう。待宵はふっと笑みを見せる。
「出羽の君には、勘違いだった、で押し通します。……って、ああ、髪が乱れておりますね。直した方がいいと思います」
先ほど出羽の君に掴まれたところはぐちゃぐちゃに絡まっている。確かに少し見苦しい。
「わたし、櫛を持ち歩いておりますので、よかったらお使いになりますか?」
待宵は懐から櫛を取り出した。木だけで作られた素朴な品だが、手入れが行き届いているのか櫛目が綺麗でぴかぴかしている。
「大事な櫛のようですが、私が使っていいんですか?」
香純の問いに、待宵は「もちろんです」と返した。
「ここでは他の方の邪魔になりますから、別のところへ参りましょう」
待宵の案内で、温明殿を出る。渡殿を進んで北側に回り、さらにその奥にある建物……昭陽舎の手前で立ち止まった。
「ここ……梨壺は今、どなたも使っておりませんから、人が来ることはないはずです。どうぞごゆっくり櫛をお使いください」
昭陽舎のまたの名が梨壺である。別名の由来は、南の庭にある梨の木だ。その木は目と鼻の先にあった。誰もいない渡殿は、風がよく通って気持ちがいい。
香純に櫛を手渡しながら、待宵が軽く会釈をした。
「申し遅れました。わたしは待宵と申します。登華殿の女御さま……源凪子さま付きの女房です」
内裏女房は大きく二つに分けられる。帝に仕える『上の女房』と、帝の后が実家から連れてくる『后の女房』だ。主殿寮に属する香純は帝に仕えていることになる。
上の女房と后の女房は指示を出す元が異なるが、内裏に身を置いているのでこうして関わることも多い。
「あなたのことは藤袴の君とお呼びしていいかしら」
そう尋ねられ、香純は僅かに戸惑った。
だが結局頷いた。考えてみれば、この名はまだ有雪に返上していない。身分の高い近衛少将が付けた名を、下臈女房の香純が勝手になかったことにはできないだろう。
「では、藤袴の君。改めて、先ほどは大変でしたね。出羽の君もわたしと同じ、凪子さま付きの女房なのです。あの方は人一倍、気がお強いですから……」
待宵と出羽の君は同僚ということになる。二人の歳は同じくらいで、香純よりいくつか上だろう。
待宵はやや肩を落とした。
「出羽の君は有雪さまをたいそうご熱心に応援されていて、同志の女房たちと親衛隊のようなものを築かれているのです。隊には厳しい掟があるのだとか。例えば、抜け駆けは許すまじ、とか……。だから、有雪さまが藤袴の君にお声がけをして、しかも触れたと聞いて、かなりお怒りでした」
「そうでしたか。いくら白檀の君が見目麗しいからって親衛隊まで作るなんて……出羽の君って厄介な方なんですね」
あたりに人気がないのをいいことに香純が思ったことをそのまま口にすると、待宵は「ええ……」と頷きかけた。だがすぐ、取り繕うように言った。
「で、でも、ああ見えて出羽の君にもお優しいところがあるのですよ。たとえば……そう、凪子さまがお飼いになっている猫のお世話を、率先してやっているのです」
「猫?」
「ええ。凪子さまがご実家からお連れになった猫で、『命婦のおたま』と呼んでおります」
待宵の話によれば、おたまは実際に命婦の地位を帝から授かっているらしい。猫とはいえ、后の前に出るならある程度の身分が必要だからだ。
出羽の君はその命婦のおたまを、まさに猫かわいがりしているとのこと。
「それはそれはもう、たいそう愛でております。出羽の君曰く、ふわふわの毛並みがたまらず、思わず抱きしめたくなるのだとか」
「……ああ、それは分かります」
香純はすかさず同意していた。なにせ、ゆうべは香純も、もふもふで癒されまくったばかりなのだ。
待宵も猫が嫌いではないようで、笑みを浮かべる。
「小さな生き物は本当に、何をしても許せてしまうほど愛らしいですね。出羽の君も、命婦のおたまの悪戯には一切文句を言いません。顔を舐められて化粧がほとんど落ちてしまっても、仕方ないわねぇ、って……。そのせいで、出羽の君がお使いになっている白粉がどんどん減っております」
出羽の君はかなりの厚化粧だった。高価な白粉を塗り直すとなると懐も痛むし手間もかかる。それでも猫のしたことなら許してしまうとは。やはり香純が感じた通り、ふわふわもふもふしたものには人を和ませて丸くする何らかの力があるのだろう。
髪を整え終わったので、香純は待宵に櫛を返した。何も持っていない手に、ゆうべのもふもふの感触が蘇る。
そのとき、誰かがどすどすと派手な音を立てて渡殿を進んできた。
「待宵、こんなところにいたのね。ちょっと、どういうことなの!?」
今しがた話題になっていた出羽の君だ。かなり勢い込んでここに来たようで、息が乱れている。眉が吊り上がり、先ほど以上に顔立ちが恐ろしい。
「登華殿に行ったけど、使者なんていなかったわよ。無駄に手間を取らせたわね!」
やはりばれてしまった。しかも、相当怒っている。
待宵はすぐさま、肩を縮めて頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ。わたし、何か勘違いを、していたようで……」
「勘違いですって? 違うわ。あなた、わたくしをそこの女蔵人から引き剥がそうとしたのよね。だから嘘を吐いたんでしょう!?」
「あ……あ、あのっ」
あわあわしている待宵のもとに、出羽の君が詰め寄る。待宵は咄嗟に腕を前に出して出羽の君を押し留めようとした。その待宵の手には、先ほど香純が返したばかりの櫛がある。
「何よこの櫛。邪魔だわ!」
出羽の君は待宵の手から櫛を奪うと、遠くに放り投げてしまった。木でできた素朴な櫛は弧を描いて空を舞い、昭陽舎の庭に生えていた梨の木に引っかかる。
「あっ……大事な櫛が!」
待宵は手を伸ばしたが、櫛は木の上の方……相当高いところにあった。もとより、渡殿からでは庭の木に届くはずがない。
「どうしよう……亡くなった姉さまがくれた櫛なのに。だから肌身離さず持ち歩いていたのに……」
へたり込む待宵の傍らに、香純も跪いた。
もはや肩身の櫛はとうてい手が届かないところにある。その事実を改めて確かめると、待宵は顔を覆って泣き始めた。
「ふ、ふんっ。わたくしのせいじゃない。白檀の君とこれ見よがしにべたべたしていたそこの女蔵人が悪いのよっ」
さすがにやりすぎたと思ったのか出羽の君はきまり悪そうな顔つきになり、もごもごと言い訳をしてその場から逃げてしまった。
渡殿に残されたのは待宵と香純だけだ。
むせび泣く小柄な女房を見ているだけで胸が苦しくなり、香純はいてもたってもいられなくなった。そのまま庭に下りて、背の高い梨の木のもとへ駆け寄る。
「藤袴の君、何をなさるおつもりですか?」
渡殿から待宵が身を乗り出した。
「私がなんとかします。待宵さんはそこで待っていてください」
香純は片手を上げて小柄な女房を制した。待宵は裳まできっちり付けた女房装束姿なので、地面に下りるのは無理だ。
梨の木の高さは殿舎の屋根を越えている。ひとまず幹に手をついて揺さぶってみたが、下の方の枝が微かに揺れるだけで、てっぺん近くにある櫛はしっかり引っかかったままだ。
――どうしよう。
背の高い木と悲しそうな待宵の顔、そしてよく手入れされた櫛が交互に香純の脳裡を過る。
そのときふいに、白檀の香りがした。
「こんなところで何をしている。藤袴の君」
「あっ……あなたは」
柔かな日の光を浴びてこちらに歩いてくるのは、白檀の香りのみを纏った麗しき貴公子だった。今日は矢を収めた平胡簶を背負い、手に弓を携えている。
一部の隙も無い武官の出で立ちが凛々しさを引き立てていて、香純は思わず見惚れてしまった。すぐに身分の差を思い出し、姿勢を低くしようとしたが、有雪はそれを押し留めて事情を尋ねる。
香純は、ちょっとした行き違いで櫛が人の手で投げられ、木に引っかかってしまったと説明した。出羽の君が怒っていた理由などは有雪自身にも関わることだったので、あえて伏せる。
有雪は、先ほど香純がしたように木を少し揺らしたあと、顎の下に指を添えた。
「揺らしても無駄か。かと言って、木を登るには枝ぶりが心許ないな」
梨の木は立派だが、一本一本の枝はさほど太くなく、人の重みに耐えられそうにない。
しかし有雪はめげる様子もなく口角を引き上げた。
「何か長い棒のようなもので上の枝を揺らせば取れるだろう。下働きの者にやってもらおう。俺が声をかけてくる」
確かに、それならなんとかなりそうだ。
「まあ、少将さまが自らお声がけまで……いいのですか?」
渡殿で話を聞いていた待宵が、涙を拭いながら言う。
「ああ。すぐに誰か読んでくる」
有雪はすぐさま踵を返そうとした。
その刹那。黒い塊が、香純たちの目の前をものすごい速さで通り抜けた。それはいったん遠ざかったが、急旋回してまた戻ってくる。
黒いものの正体は鳥だった。烏か、鳶か……。滑るようにして空を飛び、まっすぐ梨の木のてっぺんに突っ込む。
「あ、鳥が、わたしの櫛を……!」
待宵が悲鳴を上げた。鳥が一度梨の木のてっぺんに降り、引っかかっていた櫛をがっちりと咥え込んだのだ。
ほどなくして鳥は再び羽を広げ、木から飛び立った。
「待って、いかないで。櫛を返して!」
縋るように声を張り上げる待宵をまるで無視して、鳥はどんどん離れていく。
このままだと大事な櫛は完全に失われてしまうだろう。どうしよう、でも、何もできない……。
香純は飛び去って行く鳥を見ていたくなくて、ぎゅっと目を閉じた。
そのとき、有雪が声を発した。
「逃がすものか!」
微かに目を開けた香純の前で、有雪は流れるように弓に矢をつがえ、空に向かって放った。一本の矢は空を飛ぶ鳥めがけて寸分の狂いもなく飛んでいき、僅かに左の羽を掠める。
ふいに飛んできた矢に驚いた鳥は、その場でばたばたと羽を動かし、甲高く鳴いた。その拍子に、咥えていた櫛が落ちる。
「待宵さんの櫛!」
香純は地面に落ちたそれを拾い上げ、土埃を払って丹念に眺めた。幸い傷はついていないようだ。
鳥はしばらくばたばたしていたが、そのまま飛び去った。
大事なものを渡された待宵は、再び涙に暮れて有雪に何度も頭を下げる。
「少将さま、本当にありがとうございます。藤袴の君もありがとう」
感極まったのか盛大に泣き始めてしまった待宵を気にしつつ、香純は有雪の顔をちらちらと見た。
ろくに身構える暇はなく、しかもだんだんと遠ざかっていく鳥に、有雪は一発で矢を当てた。仕留めず羽を掠めただけだったのは、おそらくわざと。殺生ではなく、咥えていた櫛を離すのが目的だったのだろう。身体を射抜くより、傷を負わせず掠める方が何倍も難しいはずである。
矢を放つ瞬間の有雪の顔は、今までで一番凛々しかった。香純が息を止めて、見入ってしまったほどに。
今、その顔には、先ほどの見事な行射など何でもないというような涼しげな笑みが浮かんでいる。
有雪はそのまま身を翻そうとしたが、何かを思い出したようにはた、と香純の方を振り返った。
「俺が付けた名を、お前は返上しようとしているだろう。そんなことは不要だ。そのまま使え。お前には藤袴の君という呼び名が、よく合っている」
「えっ……」
名を返上しようとしていたことは、誰にも言っていない。なのになぜ……。
面食らう香純をよそに、有雪は今度こそ去っていった。
白檀の残り香が消えるころ、待宵が頬に手を当てて熱い溜息を吐く。
「やはり少将さまは素敵な方ですね。弓の腕前もお見事でした。出羽の君がたいそう憧れる気持ちが少し分かります。あの、優美な微笑みがもう……っ!」
有雪を手放しで褒める待宵を目の当たりにして、香純は逆に冷めてきてしまった。
「そりゃ、女官たちにあれだけちやほやされていたら笑いたくもなるでしょう。渡殿に姿を見せるだけで歓声が上がるんですもの。きっと毎日楽しいでしょうね」
「いいえ、多分……少将さまもそれなりに大変だと思いますよ」
そこで待宵はやや声の調子を落とした。
首を傾げた香純に、ぽつぽつと語り出す。
「宮中に出入りする殿方のほとんどは出世を望んでおります。少しでも上の立場に行けるよう、時には他の方の足を引っばることさえある……。ここは帝が住まうところ。最も神聖でなければならないのに、実はこの世で一番、欲望が渦巻いているのかもしれません」
宮仕えを始めてまだ一月余りだが、香純はすでに待宵の言ったことがじわりと身に染みてきていた。
待宵は控えめな声で先を続ける。
「少将さまが摂家の出ではないことはご存じですか? 朝廷の主なお役目は今、摂家の方々で埋まっています。お役目の数には限りがありますから、摂家といえど上に行けない方もいらっしゃる。そんな中、摂家の出ではない少将さまが出世している……これがどういうことかお分かりですか。藤袴の君」
「お役目にあぶれてしまった摂家の方々は、面白くないでしょうね」
出る杭は打たれる。有雪はそれでなくとも見目の麗しさから宮中の女性たちに騒がれているのだ。嫉妬する殿方も多いだろう。
香純の返事を聞いた待宵は僅かに目を伏せた。
「宮中には、少将さまを引きずり降ろそうとする方々がいると聞きました。はっきり誰とは分からないのですが、たとえば、少将さまより出世の遅い摂家の方々とか……」
「それは……さもありなん、という感じですね」
香純の脳裡に、先ほど見た有雪の顔が浮かんでくる。
あの笑みの裏には何が……そう考えて少し、胸が痛んだ。

