――あ、いい香り!
渡殿を一人進んでいた橘香純は、鼻腔を掠める甘い香りに目を細めた。
すでに冬の走り。ここ――平安京の中で最もやんごとなき場である内裏を巡る渡殿の一角にも、冷たい風が時折吹き抜ける。
香純はしばし足を止め、芳香を思い切り吸い込んだ。甘さの中に爽やかな余韻がある。これはおそらく……。
「――山茶花の香り!」
山茶花は冬の初めに開花し、春まで次々と咲いて人の目を楽しませてくれる。
ただしその香りは、よほど近寄らないと感じ取れない。見渡す限り、どこにも山茶花の花など見当たらなかった。
だがたとえ離れていても、香純は甘く爽やかな香りを確実に感じ取れる。
橘家には時折、特別な嗅覚を持つ子が生まれるのだ。その橘家の次女であり、今十七歳の香純は、とりわけ能力に長けていた。だから、微かな花の匂いにもすぐ気付く。
冬の始まりを告げる花の芳香を思う存分楽しんでから、香純はまた歩き出した。
内裏はとにかく、広い。いくつもの建物が並んでいるが、まず一つ一つが大きかった。それを繋ぐ渡殿は延々と続いており、進んでも進んでも終わりが見えない。
――橘家とは大違いね……。
香純は生まれ育った家を思い浮かべて溜息を吐いた。
この地に都が移ってから二百二十年余。橘家の長は遷都以降四代に渡って大納言や中納言の地位についていたが、今やすっかり没落している。
香純の父の広保はなんとか下級文官の役を得ていたが、二年前、とうとう無役……つまり職なしとなってしまった。
禄が途絶えてしまった橘家は貧しさにあえいだ。香純には姉と兄が一人ずついる。父母と合わせて家族五人、入ってくるものがなければ腹は満たせない。
にっちもさっちもいかなくなったところに飛び込んできたのが、香純の姉の縁談だ。
姉・董子は輝くような美貌の持ち主。その評判を聞きつけた貴族が求婚し、話はすぐにまとまった。
董子を娶った貴族は大国の国司を務める裕福な人物で、橘家にも、その富の『おこぼれ』が転がり込んだ。董子の夫の伝手で、香純の父・広保はお役目を得たのだ。
ついでに、香純の兄にも端役が命じられた。若く美しい姫をもらうのだからと、董子の婚家が気を遣った結果である。
国司は国の数だけいるが、お役目の重さはピンからキリまである。董子の夫は近江という大国の国司で、この役は出世の足掛かりとなる一方、広保が就いた淡路守という役職はは小国ゆえ領地からの実入りがよくなく、出世もまるで期待できない。
それでも無役よりは何倍もましだった。しかも、父だけでなく香純の兄まで面倒を見てもらえたのだ。
『橘家は美しい大君のお陰で助かった』
大君は貴族の家の姉姫を指す。妹である香純は中君と呼ばれる。
香純の父と母、そして兄は、姉の董子を拝み倒す勢いで喜んだ。中君である香純のことは、振り返りもせずに……。
喜びの声は、橘家の外でも響いていた。
『さすがはいと麗しき橘家の大君だ。それに比べて中君は……』
昔から、褒められるのは姉の董子ばかりだった。
まず、姿かたちに関しては香純が逆立ちしたってかなわない。愛嬌のよさでも香純は完全に負けていた。普段からよく声をかけられるのは董子の方だったから、たまに親しみを向けられると香純は困ってしまうのだ。咄嗟に笑い顔が出てこない。それを見て、周囲はますます呆れる。
董子が嫁いだあと、家に残った中君を指して皆口々にこう言った。
『橘家の中君はきっと、一生嫁げない〝残りかす〟姫だ』
真の名である香純と残り『かす』を引っかけているのだろう。
その綽名を口には出さぬものの、家の中でも香純の扱いは変わらなかった。皆、香純のことが邪魔なのだ。何の役にも立たぬ残りかすなど、厄介者でしかない。
その証に、董子のお陰で淡路行きが決まったあと、父の広保がおずおずと言ってきた。
『香純。お前も淡路に来るのか?』
父の後ろには、同じようにきまり悪そうな顔をした母と兄がいた。淡路守は実入りが少ない。香純も一緒に父たちについてけば、大きな負担となる。
父と母と兄が要するに何を望んでいるのかすぐに分かった。
だから香純はその望みを叶えることにした。都に残って、一人で生きていこうと決めたのである。
ある意味、諦めだった。だが、悲しみに暮れていたわけではない。
残りかすは残りかすらしく、細々と、だがしぶとく暮らす――これが己の生き様だ。
齢十七にして歩み方を決めた香純が頼ったのは、母方の叔母・貴和子だった。
叔母といっても貴和子は香純の母と歳が離れているのでまだ二十九歳だ。夫と子供のある身だが見目も若々しい。
この貴和子は、七年ほど宮仕えをしている。属しているのは内侍所という部署だ。
内侍所は帝および后を始めとするやんごとなき女性たちの世話を管轄しており、また、三種の神器の一つである神鏡を守るという役目も担っている。
この貴和子に口を聞いてもらい、香純も宮中でなんとか仕事を得た。女蔵人といってほぼ下働きに近い役目だが、一人で食べていくだけの禄はもらえる。
こうして宮仕えを始めてから一月。最近ようやく、内裏のどこに何があるのか分かってきた。
香純が記憶を頼りに渡殿を進んでいると、角を曲がったところで二人連れの女官と出くわした。軽く会釈をしながらすれ違おうとした刹那、二人の会話が聞こえてしまった。
「ねぇ、ご存じ。この方、一月前に来た新入りよ」
「あ、もしかして橘家の中君? ということはこの方が――残りかす姫」
くすくす笑う声が耳に残る。
一月前に初めて参内したとき、香純は着の身着のままだった。手にしていたのは簡単な日用品などを入れた包みだけだ。
宮中に足を踏み入れるのだから身なりに気を遣う必要があるのは分かっていた。だが、仕方なかった。まともな衣装は、身に付けている『それ』しかなかったのだ。
今にもすり切れそうな袿を纏って現れた娘の噂はあっという間に広がり、香純が何も言っていないのに、あくる日にはだいたいの女官が『残りかす姫』について口にしていた。
宮中は政の中心であり、帝が暮らす場でもある。要するに権力が集まるところなのだ。だからこそ、ろくでもない噂が飛び交う。
そのことは、下級貴族の娘である香純の耳にも届いていた。
残りかす姫――あっという間に広がった己の綽名。女官たちのくすくすという笑い声と相まって、ここがどういう場なのか、嫌というほど思い知らされる。
溜息を吐きつつ渡殿を進むと、ようやく目的の場に辿り着いた。
「お待たせいたしました。貴和……いえ、尚書の命婦さま」
やってきたのは温明殿という建物だ。ここは内侍所に勤めている女官たちの詰所になっており、建物の周りに設けられた廂には、その女官たちの一部が住まいとしたり仕事をしたりする私室……局がある。
局を賜った女官のことを女房と呼び、貴和子もその女房のうちの一人だった。局の出入り口は建物の通路となる簀子で、そこに面して御簾がかけられている。
香純が御簾の前で待っていると、ほどなくしてそれがくるくると巻き上げられた。
「勝手に開けて入ってきていいのよ、香純。それに『命婦さま』なんて堅苦しい呼び方しないでちょうだい。今日は仕事が休みなんだから」
局の中に香純を招き入れ、上げた御簾を元に戻しながら、貴和子はぺらぺらとよく喋る。
香純が先ほど口にした『尚書の命婦』とは、貴和子の宮中での呼び名だ。女官たちは真の名ではなく、このような仕事用の名を付けられる。頭についている『尚書』というのは、貴和子の夫の役職である。女官の呼び名にはたいてい、夫か父親、および縁者の肩書が使われる。
ちなみに尚書というのは、太政官における三等の官を指す。朝廷にはそれぞれ違う役目を担う二官八省の機関が置かれており、その最高位にあたるのが太政官だ。三等の官にはほどほどの身分の貴族が任命されることが多く、貴和子の夫も正一位から始まる貴族の位階でいうと従五位の身分の中級貴族である。
一方、『命婦』の方は貴和子自身の内侍所での肩書だった。内侍所の命婦は、尚侍、典侍、掌侍に次ぐ立場で、やはり中級貴族の女性が務めることが多い。
どんなときでも、宮中では仕事用の名で呼び合うのが通例だ。香純がそのことを指摘すると、貴和子は首を左右に振った。
「だから、今日は仕事じゃないからいいのよ。だいたい、わたしには女官名があるけど、あなたにはまだないじゃない、香純」
女官名は上官からつけてもらうことが多いそうだが、貴和子の言う通り、香純のそれはまだ決まっていなかった。残りかす姫という綽名なら、すでにあるが……。
「いっそのことこの場で女官名をつけてあげられたらいいんだけど、わたし、香純の上官じゃないしねぇ」
貴和子は火鉢に長い髪がかからないようばさりと払いつつ、ぼやくように言う。
年若い叔母は内侍所の命婦だが、香純は内侍所ではなく主殿寮というところに属する女蔵人だ。主殿寮というのは宮中の掃除や灯りおよび炭火などの管理を担う部署で、そこから内侍所に派遣される形になっている。女蔵人は命婦の下に位置していて、香純のような下級貴族がこの役目をあてがわれる。
決して高い地位ではないが、女蔵人である香純にも一応、居住用の局が与えられていた。なので貴和子同様、香純も内裏女房の一人と言える。
しかし己の局と比べると、貴和子のそれは随分と広々していた。文机もあるし、かかっている御簾も立派だ。
局を賜っている女房のうち、身分の高い者から順に上臈、中臈、下臈と呼ばれる。命婦の貴和子は中臈で、女蔵人の香純は下臈だった。身分の差は、与えられる局にもろに反映される。もちろん、身に着けるものにも差が出る。上臈はある程度豪華な衣装を纏えるが、下位に行くにつれて質素なものしか許されなくなる。
もっとも、掃除などの実務の担う香純にごたいそうな衣装は不要である。宮中で女房たちが纏うものといえば、長袴に五つ衣、さらに表着と唐衣を重ね、長く引き摺る裳をつけた十二単がよく知られているが、女蔵人のように身体を動かす役を担う者は小袿に切袴を合わせただけの軽装だ。
擦り切れそうな衣装で参内した香純はそれすら持ち合わせておらず、貴和子のお下がりをもらい受けた。今身に着けているのもそのうちの一着である。
「ところで尚書の命……いえ、貴和子叔母さま。叔母さまが私を呼んでいると女の童に言われたからここに来たけれど、今日は一体どんなご用があるの?」
香純を呼びにきた女の童は遣いの途中に貴和子から伝言を頼まれただけで、何も聞いていないとのことだった。姪の問いに、貴和子は少し唇を尖らせる。
「あら。ただお喋りがしたいというだけで呼んだら駄目? あなただって今日は休みでしょう。一人で局に籠もっていてもつまらないだろうと思って、声をかけたのに」
「駄目、ということはないけど……」
香純は一人でもつまらなくない。むしろ、その方が落ち着ける。
誰とも、比べられないから。
「――とはいえ、お喋りのついでに、ちょっと頼みたいことがあるのよ」
貴和子は胸元あたりを片手で軽く押さえ、やや困り顔で香純に身を寄せた。
仕事が休みなので今日は貴和子も宮仕え用の衣装ではなく、唐衣と裳を省略し、五衣の上から丈の短い袿を羽織っただけの軽装だ。その五つ衣の襟合わせのあたりを、貴和子はしきりにさすっている。
「最近この辺が苦しくて、咳が止まらなくなるのよ。今はまだ大丈夫だけど、夜になると特に……。それで、よく眠れなくて」
「喉から胸のあたりに、不快感があるの?」
香純が尋ねると、貴和子はうんうんと首を縦に振った。
「息の通り道っていうのかしらね。そこがきゅっと狭くなっている感じがするのよ。でも医師に診てもらうのも大袈裟でしょ。宮中には夫もいるから、わたしが具合を悪くしたなんて聞いたら心配するわ」
「それはまぁ、そうでしょうね……」
香純は貴和子の夫を知っている。貴族はたいてい複数の妻を持つが、貴和子の夫はそうしないほど妻一筋なのだ。ゆえに、貴和子の身を案じすぎてしまうきらいがある。なんでも以前、貴和子の食欲が少し落ちただけで加持祈祷をさせたそうだ。食欲不振の原因が、前日唐果物を食べすぎただけだったにもかかわらず。
「ねぇ香純、この不調をなんとかしてちょうだい。あなたの得意な――薫物の調合で!」
薫物とは香を炊くこと。使うのは、香りの原料となるものをいろいろ合わせて作った煉香である。
橘家は、代々この煉香作りを得意としていた。煉香だけではなく香り全般の知識をまとめた書物が脈々と受け継がれている。鼻が並外れて利く人物を輩出することも多く、香純もその一人だ。
橘家は嗅覚と知識を活かすことで薫物名人と呼ばれてきた。独自の煉香を生み出し、薫物で人々を魅了してきたのだ。
その力を今、最も受け継いでいるのは香純だろう。……というより、もう香純しかいない。ふた親も兄も姉も、香純ほどの嗅覚を持っていなかた。そのせいか、代々伝わる香りについての書物を読み込んだのは香純だけである。
香純は知っている。香りが人の身体と心にどんな効果をもたらすか。どれほど寄り添ってくれるか……。
代々伝わる書物の内容は頭に叩き込んであった。脳裡には様々な香りの記憶が次々と湧き上がる。
しばらく考えてから、香純は口を開いた。
「分かったわ、貴和子叔母さま。おばさまの困り事、きっと、香りでなんとかできる」
「本当!? さすが香純だわ。それで、どうするの?」
胸を押さえたまま問う貴和子に、香純は告げた。
「貴和子叔母さま。薫物を――しては駄目」
しばらくして、貴和子は素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ、薫物は駄目って、どうして!? あなた、香りでなんとかできるって言ったでしょう。香りをなくすことなんてできないわよ」
貴和子の局には爽やかな香りが漂っている。片隅に隅の入った香炉が置かれていて、そこから細く煙が上がっていた。香炉の隅で煉香を温める空薫をして、あたりを香りで満たしているのだ。
貴和子に限らず、貴族は皆、こうして住まいや衣装に香を炊きしめる。
逆に言えば、香りを纏わないなどありえないのだ。
しかし、香純はきっぱりと言った。
「しばらく薫物をするのは控えて。それから、その火鉢もなるべく使わない方がいいわ。貴和子叔母さまの咳の原因は多分――煙、だと思う」
「煙、ですって!?」
「ええ。いくら香りがよくても煙は煙。火事のときに出るそれと同じよ。貴和子おばさまは香炉の煙と火鉢の煙を吸い込みすぎていたから、咳が止まらなくなったの」
ゆっくり噛み含めるように説明すると、貴和子は納得したように頷いた。しかし、すぐに困り顔になる。
「でも、薫物ができないのは困るわよ。香を炊きしめないまま過ごすなんて、裸も同然なんだから」
そう。貴族にとって香りは衣装の一部でもある。纏わないと、恥ずかしい。
香純にも貴和子のそんな気持ちが痛いほど分かった。だから、また少し考えて言った。
「なら、この局で空薫をしている間……煉香が香炉で燃え尽きるまで、叔母さまはどこか別のところにいたらいいわ。香炉の管理は、女の童や女孺に頼んで」
要するに、煙を吸い込まなければいいのだ。煉香がなくなり、香炉から煙が立たなくなっても、香りはしばらくあたりに残る。
「じゃあ、薫衣香も誰かに頼んだ方がいいってことかしら」
貴和子に聞かれ、香純は「その通り」と返した。
薫衣香とは、香炉の上に竹などで作られた伏籠を置き、その上に衣装をかけて香りを移すことである。空薫と同じように、煙が出る。
「薫衣香も他の人にやってもらって。そのとき、何か別の大きな布にも香りを移して。その布で髪をしばらくくるんでおけば、髪にも香りがつくはず」
女性の場合は髪にも香りを纏う。普通は衣装と同じく香炉に伏籠を被せ、髪をその上に置く形で行うが、香純が今言った通りにすれば煙を吸わずにできるはずだ。
「なるほど! それなら、わたしが香炉に近寄らなくても香りを纏えそうね。あとは火鉢の件だけど……しばらくはお湯を入れた角盥で暖を取ろうかしら」
「それがいいわ、貴和子叔母さま」
よかった。これで、煙を吸い込んでしまうのは防げそうだ。
だが、ここで終わりにしては勿体ない。
「ねぇ叔母さま。今『乳香』は手に入る?」
乳香とは、煉香を作る材料の一つだ。
「夫に言えばすぐ手に入るわよ。あの人、わたしが欲しいものなら何でも買ってくれるから。その乳香が、どうかしたの?」
「誰かに頼んで空薫や薫衣香をするなら、使う煉香は乳香を多めに配合して。乳香の香りには、息の通り道を広げる効果があるの。咳がより止まりやすくなるはず。あと、よく眠れるようになるのよ。だから使うのは乳香だけでもいいくらいだけど、貝香をいい具合にまぜると香りがとても長持ちする。乳香や貝香をまとめるのに使うのは、甘葛を煮詰めた汁がいいわ。蜂蜜や梅肉で練り上げてもいいのだけど、甘葛が一番、香りを邪魔しないの。乳香の効き目を十分に引き出したいなら甘葛で仕上げるのがおすすめよ」
乳香をはじめとする香りの原料……香原の多くは、そもそも薬としての効き目もある。
代々伝わる書物で得た知識が、香純の脳裡を駆け抜けた。時を同じくして乳香の濃厚な香りが思い出され、香純はうっとりと目を閉じる。
そんな香純をうつつに引き戻したのは、貴和子の声だった。
「乳香はすぐ手に入れるわ。煉香作りは任せていいかしら、香純」
「もちろんよ。私がいないときに咳が出てしまっても煉香をすぐ作れるように、配合の具合も書き留めておいて一緒に渡すわ」
すると、貴和子は笑いつつも少し呆れたような顔をした。
「いつも思うんだけど……そうやってすぐ煉香の配合を他人に話してしまうの、すごく勿体ないわ。各家に伝わる煉香の作り方なんて、普通は隠しておくものよ。それに、配合を知りたがっている貴族がいたら、有償で教えてやればいいのよ。十分儲けになるわ」
薫物や煉香に関して、おそらく橘家の右に出る貴族はいないだろう。貴族にとって、香りはなくてはならないもの。貴和子の言う通り、優れた煉香やそれを作り出せる知識と腕前は、売れば相当な儲けになる。
しかし、橘家の技法を受け継いだ者たちは、香純を含め、香りを独り占めにはしない。
なぜなら、代々伝わる書物にこう書いてあるからだ。
『医香同源。香りによりもたらされる恩恵は、すべからく平等なり』
香りは拡散して、やがてあたりに溶け込んでいく。どんな器に閉じ込めても、針の先ほどの隙間があれば広がる。
香りについて学べば学ふぼどそのことが分かっていく。だから、もとより独り占めなどできない。皆と分かち合う方が理に適っているのだ。
そのことを香純はつらつら話したが貴和子はつまらなそうに「ふーん」と言っただけで、気を取り直したようにぽんと手を打った。
「じゃあ早速、乳香の手配をしようかしらね。あと、火鉢代わりのお湯ももらってこないと。女の童か女孺に声をかけて言伝を頼みましょう」
貴和子は閉じられていた御簾を上げようとそちらへ近づいた。
そのとき、女性たちの甲高い歓声が聞こえた。
「きゃあっ、少将さま……近衛少将さまよ!」
「白檀の君さまがいらっしゃったわ! なんて見目麗しい……!」
ふわりと、白檀の神聖な香りがする。
そうこうしているうちに、簀子を颯爽と進んでくる武官姿の若者が目に留まった。
御簾越しでまだ少し離れたところにいるのに、姿かたちが素晴らしく整っているのが嫌でも分かる。
先ほどから漂ってくる香りは、その若者が纏っているものだろう。香純はそれをしばらく感じたあと、密かに首を傾げた。
――白檀、だけ……?
普通、貴族はいろいろな香原をまぜ合わせて独自の香りを纏っている。二つとない香りを目指して複雑な配合を試し、互いに競うのだ。
だが若者が纏っているのはどう考えても白檀のみ……。
――なんて潔い人なの。
宮中に来て一月。貴族たちが身に着けているややこしい香りを嗅ぎすぎて、香純は正直なところ若干辟易していた。簀子を進んでくる若者の単純明快な香りは、却って心地いい。
そんなことを考えているうちに、白檀の香りがますます濃くなってきた。若者が進むたび、廂に並んだ御簾の中から女房たちの黄色い声が飛び交う。
ふと隣を見ると、貴和子までうっとりと目を輝かせていた。香純は若い叔母の袿をちょいちょいと引っ張る。
「貴和子叔母さま。向こうからやってくる殿方は、一体誰なの?」
貴和子は相変わらずうっとりした眼差しのまま勢いよく話出した。
「やだ、宮中に来て一月も経っているのに、香純ったら知らなかったの!? あの方は一条有雪さま。大納言・一条常勝さまの次男で、有雪さま自身は今、右近衛の少将を務められているのよ。でも武芸に秀でていらっしゃるから、すぐ出世するんじゃないかしら」
興奮気味に説明する貴和子の話によれば、有雪は二十五歳。四年前に参内し、随所で武の腕前を発揮して順調に出世しているそうだ。
今は近衛少将だが、近いうちに中将になると言われている。さらに、そのときは蔵人頭という役目も賜ると噂されているとのこと。
蔵人は帝の側近中の側近。それを束ねる蔵人頭と近衛中将を兼任する場合は『頭中将』と呼ばれる。頭中将となれば、いずれは公卿……上達部とも呼ばれる一部の選び抜かれた上級貴族の仲間入りは確実で、場合によっては太政官の最高位さえ見えてくる。
若くして近衛少将を務めているということは、あの若者――白檀の君こと一条有雪は、輝かしい道をまっしぐらに進んでいるのだ。
「有雪さまのすごいところは、摂家の出ではないところよ。一条家もそれなりに名家ではあるけれど、主流ではないの。でも有雪さまは出世なさっている。それだけ武官として優れているということよ」
分かる香純、と貴和子は姪の袿をぐいぐい引っ張った。
摂家とは、最高職である摂政と関白を独占しているごく限られた公家のことだ。太政官の重要な地位は、たいていその摂家出身の貴族にあてがわれる。
貴和子に袿をぐいぐいされなくても、摂家の出ではない者が出世するのがどれだけ難しいか、香純だって理解はしていた。
袿を引っ張られ続けているうちに、有雪が香純たちのいる局に近づいてきた。御簾の内側からでも顔がはっきりと見える。
貴和子は「白檀の君をこんなに近くで見られるなんて!」とますます興奮していたが、香純は別のことを考えていた。
――遠くにいる人なのね。
実際、有雪がどこにいるかなど関係ない。やっとのことで下臈女房になった香純と、いずれは宮中を掌握するかもしれない白檀の君。立場には天と地ほどの開きがある。
そうこうしているうちに有雪が御簾のすぐ前まで来た。
そのまま通り過ぎるだろだろうと思っていたのだが……。
「悪いが、御簾を上げてくれ」
有雪がふいに立ち止まり、声をかけてきた。
「え、御簾って、ここの御簾のこと、よね?」
貴和子は己の局の前で白檀の君が立ち止まったのが信じられないのか、目歩見開いて香純の方を振り返る。
「そうみたいよ、叔母さま。早く御簾を上げた方がいいわ」
「ええっ、どうしよう。わたし、夫と子供がいるのに……!」
訳の分からぬことを言いながら貴和子は御簾を僅かに巻き上げ、すぐに扇で顔を隠した。ついでに香純をずいっと前に押し出し、陰に隠れる。貴族の女性は、殿方に無暗に姿を見せてはいけないのだ。それでも有雪の麗しい姿を見たいのか、時折ちらちらと御簾の外を窺っている。
貴和子の盾にされてしまった香純は扇を持っていなかったので、袿の袖で顔を半分覆った。
その刹那、つ、と手が伸びてきた。
最初は驚いて声も出なかった。何が起こったのか把握したのは、有雪が香純の髪を手に載せたまま顔に近づけてからだ。
「あ、有雪さまが、若い女房に触れているわっ!」
「きゃああっ、ずるいっ、羨ましいっ!」
おのおのの局から様子を見ていた女房たちが一斉に悲鳴を上げる。
そこに来てようやく香純は息を飲んだ。慌てて有雪の手を払いのけて、後ろに下がる。
「なっ、何するんですかっ!」
思わず怒声を浴びせるような勢いで言ってしまった。男女が用もないのに公衆の面前で触れ合うなど、あってはならないことだ。あまりのことで、払いのけるとき少々力が入りすぎてしまったのかもしれない。
有雪は香純の髪に触れていた手をしばらく眺めたあと、御簾の奥をまっすぐ見た。
「いきなり手を伸ばして悪かった。つい触れてみたくなったんだ。お前から――いい香りがしたから」
「は?」
香純は袖で顔を隠すのも忘れて思い切り首を傾げた。
有雪は香純のあからさまな疑問符をまるっきり無視して、綺麗な唇の端をくいっと持ち上げる。
「お前は一月前に来たという女蔵人だな。名は?」
すると、香純が何か言う前に後ろから貴和子が口を挟んだ。
「近衛少将さま。こちらの娘はわたくし……この尚書の命婦の縁者でございます。わたくしともどもよろしくお願いいたします! この者の女官名のことでしたら、まだ決まっておりません」
有雪は「ふむ」と顎に指を当てたあと、再び口角を上げた。
「そうか。なら、お前の女官名は俺がつけてやろう。――藤袴の君。これでどうだ」
「えっ……」
香純は僅かに息を飲んだ。
時を同じくしてまた、有雪の手が香純の髪に触れる。
「この名では駄目か。お前から――藤袴のいい香りがする」
近くの局から一斉に、女房たちの悲鳴が上がる。
何も言えなくなっている香純を見て『是』の返事と受け取ったのか、有雪は髪から手を放してそのまま去っていった。
白檀の香りだけを残して。

