白鬼の影恋

 別邸の一角にコトンと軽快な靴音が響く。
 琴の部屋の大鏡には編上靴(ブーツ)を履いた澄の姿があった。
 一歩踏み出すたびに床板が小気味よい音を立てる。
 攫われた事件から半月が経った日、矢萩から澄宛に荷物が届いた。あければ高価な靴で、戸惑う澄だったが、それを知った琴がせっかくなんだから履いてみなさいよ、と半ば強引に勧めたのだった。
 澄は着物の裾を上げ、鏡に映る姿と足元を何度も見比べる。
 軽い。履物が違うだけでこんなに動きやすいのだから不思議だ。
 これまでは思ってさえいなかった。
 普通に外を歩いたり、ほかにもいろんなことがしたいと思いながらもそれは無理だと願うことさえしなかった。
 でも今は矢萩がいる。
 同じ白鬼でありながら人に紛れて生きる矢萩の存在は澄にとって希望だった。ちょっと自惚れている気がするけれど、でもあなたも歩いていいのだと、そう言葉をかけられた気がした。
――これを履いて外を歩きたい あなたのくれた履物で、自分の力で歩いてみたい
 希望を持つことは悪いことじゃないと今はそう思える。
 靴に夢中な澄は、後から部屋に入ってきた矢萩に気づかない。
「様子はどうだ?」
 大鏡の前の澄を眺める妹に、矢萩は声をかける。
「もう松葉杖なしで歩いているわ」
 うらやましい限りよ、と琴はフッと鼻を鳴らす。
 矢萩は何も言わない。
 不安になった琴が見上げると、矢萩の視線は澄にあった。その眼差しはじっと離れず、ほかをうつしてはいない。
――澄だけを見ている。
 誰が見てもそう見えるだろうと、琴はくすりと笑う。
「お兄ちゃんもそんな顔するんだ」



 澄が大鏡から目を離すと、仲の良い兄妹(きょうだい)が言葉を交わしあっていた。
 仲の良い家族だ。
 できることなら、許されるのなら、もうすこしだけここにいたい。
 白鬼ではなく澄として扱ってくれた、矢萩のそばにいたい。
 ――え
 ふいに耳元がかっ、と熱くなる。
 胸の内に芽生えた願いに澄は戸惑う。
 この感情が何と呼ばれるものか、見当はつく。
 慌てて打ち消そうとして、やめた。
 心の中くらい、自由であっていい。