白鬼の影恋

 にやりと矢萩は口元を緩ませた。
 それだけの何気ないしぐさなのに、どこからか乙女の黄色い悲鳴が聞こえた気がして、静は胸の内でため息をついた。
 警霊隊の本部。与えられた執務室の一角。
 矢萩は片肘をついて、静から受け取った新聞を机上に広げていた。
 紙面には“三度目の放火。またしても鬼か?”と仰々しい見出しが躍る。下の詳細には里森呉服店から出火したこと、原因は鬼である可能性が高いこと、従業員の一人が鬼であり、逃げ出したために警察が探していること、などが書き連ねられている。
「……」
 矢萩は笑みを深くした。
“情報求む。齢十八。背丈百五十(センチメートル)、やせ型の女。逃走に際し抵抗、右頬に刀創あり。”
 警察が血眼になって探す、人と偽っていた鬼の情報である。
 最後の一文を加えたのは矢萩だ。里森呉服店の主人は大金を渡すからどうか鬼を働かせていたことを隠ぺいしてほしいと足元に縋りついてきた。もちろん、矢萩は是と答えた。ついでに受け取った金はそのまま、澄が育った尼寺に送ってある。
「別邸の様子はどうだ?」
「琴お嬢様は相変わらずです。お医者様も、良くも悪くもなっていないと。澄はよく働きます」
 静は口だけを動かす。
 すでに、澄が別邸に来てから七日が経っていた。諸々の処理で忙しく、矢萩は別邸による暇がなかった。
「なにかつかめたか?」
「澄はなにもいいません。旦那様がお調べなさったように、長い間閉じ込められていたのなら、例の鬼の件についてはなにも知らないのではないでしょうか」
「……そうか。ところで澄の髪を切ったのはお前か」
「さようでございます。……僭越ながら、やはり澄は警察にお引き渡しになったほうがよろしいかと」
 すっ、と矢萩は机を挟んで、向かいに立つ静を見上げる。
「物覚えもよく、女中としては申し分ございません。ですが鬼でございます。もし明るみになればあなた様は――」
 まるで他人事のように矢萩は苦笑を浮かべるのみであった。
「同胞を裏切る気はない。くれぐれも頼むよ」



 澄は額にかかった髪をかき上げ、空を見上げた。秋だというのに空は雲一つない晴れ空だ。おまけに程よく風もある。洗濯にはうってつけだ。
 よし、と洗濯物の入った籠を抱えて、裏口から外の水場へ向かう。これまでずっと雨だったからようやく溜まっていた洗濯物が片付けられる。
 水場へ向かう澄の足取りは自然と弾む。歩みに合わせて肩と、そして短い髪が楽し気に揺れる。
 澄の髪は、今や肩にも届かない長さに切られていた。
 ばさりと切り落とされてしまったときは、すこしだけ惜しいとも思ったが、慣れてしまえば軽く、手入れもしやすい。俗にいうおかっぱ頭だが、最近の流行りではもだんがーる、とも言うらしいと古新聞に書いてあるのを見つけてから、一層この髪形が好きになった。
「琴さま?」
 水場に洗濯籠を置いた澄は、振り返る。
 自然と足と建物のほうへと駆け出す。
 矢萩の妹・琴はこちらの姿を見るたびに睨みつけてくるので、ほとんど会話らしい会話はない。それでも食事の用意や、熱が出て看病したときには礼を言ってくれるので澄にとっては十分だった。
 ガタリともう一度、音が鳴る。
 澄の足は速くなる。胸騒ぎがする。
「なぁ、こいつも連れてゆくか」
 頭上で声がした――と思った時には肩に、野太い男の手が置かれていた。
 振り払おうとするが、羽交い絞めにされる。
 ――いや
 それでも男の腕を振り払い、距離をとる。見上げた先にいたのは粗野な身なりの男だ。似たような風体の男がほかにも数人。澄でもわかる。およそお天道様の下を歩けるような人間たちではない。
 逃げようとする澄を手慣れた様子で男の一人が捕まえて、動きを封じる。別の男が「おとなしくしろよぉ」と言いながらふらふらと澄の前に包丁をちらつかせた。
「……」
 男らにとってそれは脅しだが澄にとっては武器を差し出してくれたに等しい。白鬼の自分なら、力づくで奪うこともできる。腕に力を込めた。しかし。
 ふいに浮かんだのは矢萩の顔。
 はじめて会った時の、手から血を流しながら微笑んだあの表情。
――血
 澄は動けなくなった。あれは自分の手によって、他人を傷つけてしまった紛うことなき証であり、恐怖だ。
 ためらって、意識を逸らした一瞬。ドスンと頭に衝撃があって、澄の意識は闇に落ちた。



「おい、矢萩! 大変だ」
 どたどたと騒がしい音がしたと思えば、声と同時に執務室のドアが開いた。
 許しもなしに、と静は眉根を寄せて振り返る。
 ドアを開けたのは矢萩の幼馴染で腐れ縁でもある太一だ。
 矢萩は無意識に椅子から立ち上がっていた。
 なんでも顔に出やすい性質(たち)の太一であるが、それは表情や言葉のみで取り乱すことはめったにない。むしろ冷静沈着なほうだった。
「賊が…… お前んちの別邸に。琴ちゃんと女中が攫われた」



 冷たい床の上で目覚めたとき、澄ははじめ、夢を見ていたのだと思った。
 あまりにも長く、鮮明な感覚を帯びた夢。
 あたりは薄暗く、見上げても天井は闇に包まれている。
 戸口に食事が届いているだろうから、取りに行かないと。
 起き上がろうと手をついた澄は、床にある何かに触れた。じんわりとぬくもりを帯びた何か。しばらく触れていると、それはモゾりと動き、闇に慣れた目が輪郭をとらえた。
「琴さま……」
 琴は返事をする代わりにケホケホと体をくの字にしてせき込み、うるんだ目で澄を見上げる。
 その目が、否応なしに澄の意識を掴んで現に引き戻した。
 失礼いたします、と琴の額に触れるとひどく熱い。一度ひっこめて、指先を自分の首筋にあてるがそこまで冷たくはなかった。自分の手が冷えているのではない。
 琴の熱が高すぎるのだ。
 澄はあたりみまわす。
 どこかの屋敷の、部屋の一角だろうか。
 窓は天井高くにある明り取りのみで、三方は壁に囲まれ、残りの一方は全面に格子がはめられている。
 何かを観察するような、一目で部屋の全体を見渡せる悪趣味な造りに澄は顔をしかめる。
「座敷牢よ……」
 苦しげに息をしながら、そんなことも知らないの?と琴は小ばかにする。
 その態度が、澄をすこし安堵させた。
「飯なんてやらなくてもいいだろう」
 野太い男の声がした。琴は横になったままこぶしを握り締める。
 足音が近づいてくる。
 澄は琴を隠すように格子の前へと動いた。
 足音は一つではない。だけど多くもない。
「どうせ死ぬんだからさ」
「主人が飯やれって言ってんだから、やりゃいいんだよ」
「矢萩ってやつをおびき寄せる駒なんだろう? だったら死体もいいじゃねえか」
「そんなに殺してぇのか」
 乱暴に戸が開いて。格子の向こうにあらわれた男は二人。そのうちの一人が、格子の隙間から食事を差し入れた。
「ほら、たべろよ」と男が嗤う。
 暗闇で顔は見えないが表情は手に取るようだった。
「……すみません。熱があるのです、薬をいただけませんか」
「“薬をいただけませんか”だとよ」
 男の一人が、裏声で澄の口調をまねてケタケタと大口をあける。
 ――どうすればいい
 背後で琴が苦し気に咳き込みはじめた。澄は背中をさすりながら唇を噛む。
 なかなか、おさまらない。
「おぃ」「なあ、本当に大丈夫か」
 狼狽する男たち。
 澄は思う。
 男たちは“どうせ死ぬのだから”と話しながらも、食事を持ってきた。つまり、今死なれては男たちにとっては“失態”となる。
「薬をいただけませんか」
 とどめを刺すがごとく澄が言い放つと、男たちは主人に訊いてくるから待っていろと、言って足早に去ってゆく。
「琴さま……」
 普段こうしていると、手を払いのけられたりもするのだが今はその余裕もないらしい。
 それでも琴はかすれた声で澄に言う。
「……ねえ、逃げられそう? あんたなら」
 白鬼なら。
 琴のうるんだ瞳が闇にひかる。
 澄は立ち上がった。
 格子戸の木は太い。錠前も何度か叩いてみるがびくともしない。
 高い位置にある窓は人が通るには狭すぎて、そしてものものしい物音と男たちの声が聞こえる。
 おそらく、ここを出られたとしても逃げられない。並の人間より力はあると自覚しているが、数にはかなわない。
 琴がまた咳込む。
 澄は帯を解いて、自分の着物を琴にかけた。
 戻ってくるであろう男たちに襦袢姿を晒すのは恥ずかしい。でも、どうせ暗闇だと言い聞かせる。
 何かを言おうとした琴だったが、咳に阻まれて顔を伏せる。
 はやく、早くおさまれ、と澄は念じた。



「これが屋敷の見取り図だ」
 都からやや離れた郊外の、山中だった。
 矢萩は木々の開けた場所で、集まった警官らを前に、懐中電灯を手にしていた。
 車座になる彼らの視線は地面の上に広げられた屋敷の見取り図にある。
「まずは人質の身の安全が第一だ。閉じ込めておくとしたらこの場所だろう」
 矢萩は見取り図に数か所、丸印をつける。そして部下の名を呼び、この場所にゆけと指示を出す。
「残りは俺に続け。人質を発見してもすぐに動くな。必ず報告を」
 頷いて、警官らは立ち上がった。
 冬のにおいをはらんだ冷たい風が通り過ぎてゆく。
「……」
 矢萩と、そして警官らがいるのは切り立った崖の上だった。
 目下にはかやぶき屋根の屋敷がある。ぽつぽつと灯る明かりと手元の見取り図で間取りは把握できる。



 また、足音が聞こえた。
 今度は話し声がしない。様子が違う。足音の数が多く、足運びも単調だ。
 澄は琴のそばを離れ、格子のほうへと寄る。
 ゆっくりと引き戸が開き、男たちが入ってきた。数は四。おおよそ大柄な男たちの中に、一人だけ平凡な体つきの男がいた。
 男、とするより青年だ。大人とするには彼はまだ幼く見えた。
「気分はどうだい?」
 彼は澄と、そして奥でうずくまっている琴をまるで味わうように眺めて目を細め、にたりと歯を見せた。
「もっと、苦しんでくれ」
 彼は甘く、囁く。
「……」
「あぁ。自己紹介がまだだったね。僕は和也(かずや)。君たちと同じく、卯木崎矢萩に恨みを抱く仲間だよ。かわいそうに。琴ちゃん、あいつが片目を差しださないばかりに病に苦しめられて」
 澄にはなんのことだかわからない。表情に出ていたのだろう、にっこりと和也が笑みを作る。
「この子の病は呪いなんだよ。呪いを解くには、矢萩が目を差し出せばいい。そうすれば病は治る。だがそれを矢萩はしない。実の兄なのにあまりにも冷徹で残酷だ」
「……」
 どう言葉を返せばいいか澄が思案する間に、和也は勝手にしゃべりだす。
「君も哀れだ。病気のお嬢様の世話をさせられたんだよね。そばにいるとどんどん弱ってゆくのに。あいつになんて脅された? 何を奪われたんだ?」
 言いながら和也は澄のそばまで歩み寄った。
 ぎぃ、と床板が軋む。
 誰一人、この場でその音に気を留める者はいなかった。
 しかし――


――当たり、か
 矢萩はほくそ笑んだ。
 数名の部下を引き連れた矢萩は、澄と琴が捕らわれた建物の床下で息を殺していた。
 人質が隠されている場所の候補はほかにもあった。まさか自分が当たりを引くとは。
「……」
 部下の一人が、目配せする。
 矢萩は口元に指を立てて「待て」と命じた。
 頭上からの声に耳を澄ませる。


 とろんと陶酔した、慈悲に満ちた瞳でこちらを見下ろす和也を澄は見上げた。
 この態度はこちらへの嘲りか、それとも本心なのか。判別がつかない。
「君はあいつの…… あいつのあの(つら)に騙されたのか? それともあいつの女か? 女なのか? もしかして、あいつの妻にでもなれると本気で思っているのか!」
 ひとりでに声を荒げる和也。
 どうすれば、と考える澄の脳裏をよぎったのは、矢萩の微笑みだった。
 ――なんでこんなときに。
 そう思ったのは束の間。初めて別邸に連れてこられた時、車の中から覗き見た女学生たちに囲まれる矢萩の姿が鮮明によみがえる。
 やわらかく微笑む顔。品のいい形の唇から紡がれる言葉に頬を染める女学生たち。
 確かに顔はいいと思う。でもそれだけで、あれほど女子たちに好かれるだろうか、――というのが澄の持論だ。あのときの会話から女学生と矢萩は初対面でも、いわゆる一目惚れでもなさそうだった。
――こんなに寒いのに待っていてくれたのかい?
 さざ波のような声。ほどよく掠れた、心地よい音。
――ちがう。そうじゃない。
 言葉だ。まず相手に寄り添うんだ。
「……あなたも矢萩が憎いの?」
 初めて澄は口を開いた。
 本人は無自覚だったが、長い間、離れの窓から道行く人を眺めていた澄には人の言動を観察し、推察する癖がついていた。
「……きみもなのか」
 和也は目を見開いた。
「僕の恋人もあいつにやられたんだ。親同士が五年も前に決めて準備していた婚約を破棄して、あいつのところに行きやがったんだ。君も騙されたんだね。かわいそうに」
 ハナシが見えてきた。要は逆恨みというやつだ。
「まあ、それは……」
 言葉を探して、澄は視線を伏せる。頭の中に浮かんだ言葉はどれも不相応な気がして、時間だけが過ぎてゆく。しまった、と思った澄だが、和也には言葉を失っているように見えたようだ。
 ケホケホと琴がせき込む。
「……なにか羽織るものをもらえませんか」
 極めてめんどくさそうに、ちらりと背後に視線を投げて言う。
「だめだよ。あいつの妹には苦しんでも笑わないとね」
「そうですわね、でも病をうつされたくありません」
「できないよ。君も一度はあいつに惚れたんだろう」と和也は笑う。子供じみた無垢な瞳に、寒気がする。
「……過去の話です」
 我ながら芝居じみたセリフで恥ずかしかったが、和也は疑わない。
「では、私はどうなるのです」
 口調をできるだけ変えないよう努めた。
「琴ちゃんには死んでもらうよ。そうだな君は、火傷くらいで許してあげる! 琴ちゃんの死体と一緒にあいつのもとにちゃんと送り届けてあげるよ!」
 格子の隙間から二本の腕が伸びてきた。
 ぎゅっ、と格子ごしに澄は抱きしめられる。
 瞬間、ぶっ飛ばしてやりたいのを精一杯の笑みを作って耐える。
 香水(コロン)なのか、甘ったるいにおいに吐き気がした。
「食事、ちゃんとたべてね」と和也は言い残し、男たちを引き連れて去ってゆく。
「ずいぶん言ってくれるじゃない」
 琴が口を開いたのは戸が閉まり、男たちの足音が消えてからだった。
「琴さまほどではありませんわ」と言いながら、澄は自身の着ている襦袢の袖を嗅いだ。
「……」
 見事に匂い移りしている。
 最悪だ。
 今すぐ脱ぎ捨てて風呂に入りたい。もういっそ、そこらの川でもいい。
 眉根を寄せる澄。琴がクスりと笑って、――そして咳き込んだ。
 暦の上ではまだ秋だが、夜は冷える。
 背中をさすろうと、澄が伸ばした腕をつかんで琴は引き寄せた。
「くっついたほうがあったかいわ。私、熱あるし」
 上半身を起こして背中を壁にあずけ、二人は並んでぴたりと肩を寄せる。
 じんわりと胸の奥に温かいものがひろがってゆく。
「あのね……。あいつが言っていたこと……全部嘘だから」
「信じてなどおりません」
 にやりと澄は歯を見せる。
「はぁ、金が払えないだと!」
 突如響いた怒声に、二人はそろって肩を震わせた。澄は琴を引き寄せる。
「ふざけるな! 前金で全部か」
 すさまじい剣幕の怒声。
「話が違うだろう」
「なんで! 君たちこそ、僕のためを思って働いてくれているんじゃないのか」
 半ば叫ぶような和也の声。
「こいつ、おかしいぜ」
 あたりが騒がしくなる。
 どたどたと足音が迫る。複数人。
「あの女中はおれのもんだ」「何言ってんだ。傷物にしちゃ遊里に売れねえだろ」
 澄は起き上がった。
「琴さま」と短く言って、背中に琴を背負う。
 一拍おいて男たちが入ってきた。
 錠前を開けて我先にとこちらへ入ろうとしてくる。
 琴の震えが、背中を通して伝わってきた。
「走ります。しっかりつかまっていてください」
 折り重なるように入ってくる男たちは三。澄は足裏で床板を蹴り、琴を背負ったまま正面から体当たりする。
 まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。一人が態勢をくずし、咄嗟に仲間の袖をつかみ、もう一人の男を道ずれに倒れる。
 残りの一人が澄の裾をつかもうと手を伸ばすが、指先をかすめた。
 澄は格子を抜け、開けっ放しになっている戸へから外へと走り出た。
 夜なのに明るいのは賊と思われる男たちが建物に火を放っているからだ。
「警察……」と琴がつぶやいた。
 怒声と叫びが入り混じる。
 男たちと警察が交戦していた。だが数の少ない警察が圧倒的に不利だ。
――逃げなければ
 澄は建物の間の、暗い場所を選んで敷地を走る。足元は闇に紛れて見えず、幾度もつまずくうちに、裸足の足裏が痛みはじめた。
 しばらくすると塀が崩れている場所を見つけて外に出た。
 そこで澄はようやくこの場所が街ではないと気が付く。
 人里まではどれくらいの距離があるのか。 早く琴を医者に連れていきたい。
 うなじにかかる琴の吐息が熱い。できればあまりも移動はしたくない。
 やきもきしながらも、今は隠れなければと暗い獣道に澄は足を踏み入れた。
 その時だ。
「よう、また会ったな」
 しわがれた声がしたと思った時には肩を捕まれていた。
 そのまま突き飛ばされ、背中の琴も地面へ転がる。
 倒れた澄は咄嗟に体の上に覆いかぶさった男を両手で突き飛ばした。
 だがほかにも男たちはいる。
 彼らがひるんだのは束の間、次の瞬間には下卑た笑みを浮かべていた。
「こりゃいい。こいつ、あの指名手配の鬼じゃねえか」
「懸賞金もたんまりだな」
 澄は立ち上がり、身構える。
 直後、ズドンと銃声が響いた。
 ちらりとみやれば澄の足元の地がえぐれて弾丸が刺さっている。
「動くんじゃねえ。おとなしく手を挙げな」
 男の一人が銃口を向ける。
 澄は動かない。恐怖ではない。従ったところで助かるとは思えない。足元には琴がいる。
 銃を構えた男の、ニヤリとわらうその目は言外に告げている。
 ――病気のヤツはいらねぇ
 向けられた銃口がわずかに足元へ向く。
 澄の思考を読んだかのように男はわらって引き金を引いた。
 銃声が鳴るまでの刹那、澄は琴に覆いかぶさった。そして次の瞬間、澄の体は宙を舞っていた。ふわりとたわんだ時の中で、こちらを見上げる琴と視線が交わる。
 その目は見開かれ、何かを叫ぶように口が大きく開いている。
――怖いもの、みせちゃったな
 大丈夫、私は白鬼だから。
 無理やり頬をあげて笑いかけようとした。その前に地面にたたきつけられた。
 体のどこに弾があたったのかわからなかった。全身がこわばって動かない。
 右肩を下に倒れた澄の目は、近づいてくる男たちを映していた。
 そして、彼らの背後に音もなくあらわれた人影を、ただ見上げていた。
 人影は澄がよく知る姿をしていた。だが、そのかんばせは全くの別物だった。
――あんな顔するんだ
 いつも面をつけたみたいに微笑んでいるのに。
 めらめらと屋敷を焼く橙色の光に揺れて、まるで炎そのものだった。
 ふつふつと紅く沸く憤怒。人の顔というのはここまで歪むのかと、他人事のように澄は感心してしまう。
――なんだか鬼みたい 私よりも
 心の奥でくすりとわらってしまったときだ。
 矢萩と目があった。
 澄の心を読んだかのように、口元を緩めた柔らかく微笑み、いつもの顔にもどる。
 とん、と軽やかに矢萩は地面を蹴り上げた。幼子の戯れのように空中でくるりと体を回転させる。
 滑るように、軽やかに舞い落ちる桜のごとく――。
 一度背を向け、ふわりとまわって再び矢萩がこちらに顔を向ける。風にそよぐ髪の間からのぞいた瞳は、むせ返るほど濃密で、好戦的な色香を匂い立たせていた。理性を易々と奪うであろう、獣めいた嘲笑。
 見てはならぬものを目にしてしまった気がして、澄が視線を逸らそうとした矢先、そばにいた男の一人が唐突に吹っ飛んだ。
 何が起こったのか。理解できない表情のままの男は緩やかに弧を描き、そばにあった樹木に激突して地面に伸びる。
 間髪を入れず、もう一人、別の男が宙を飛ぶ。
「やっちまえ」
 ひるむな、と誰かが叫んで引き金を引く。
 弾丸は矢萩の耳元を通り過ぎた。
 微笑んだまま、ひざを折って誰かが落としたのであろう刺又(さすまた)を拾い上げ、地を蹴る。
 その間も銃声が次々に鳴るが矢萩には届かない。
 飛び上がった矢萩はゆっくりと落ちるに任せて、男らをひとり、またひとりと()してゆく。逃げようとする者には伸した男をそのままお見舞いする。
 人を制す行為をしているはずなのに、まるで演舞と錯覚してしまうよな、艶やかな身のこなしだった。
 矢萩の靴先が地面についた時には、立っている者はもういない。
「……」
 澄は彼から目が逸らせなかった。
――この人は
 人とは思えない。人間離れした、そう、まるで鬼のような。
 言いたいのに声にならない。ただ唇を震わせるばかりの澄はケホッ、とかわいた咳の音で我に返った。
――医者に 早く
 訴えようと口を開いて、全身に痛みがはしった。見やれば右足のふくらはぎあたりが赤黒く染まっている。
 撃たれたんだっけ。
 自覚した途端、体が重くなった。起き上がろうとしても力が入らない。
 そればかりか、あたりの物の輪郭がぼやけ、やがて色を失ってゆく。
 いけない。気絶してはいけない。警察が来る。隠れないと。そうしないと――
 こぶしに力を入れようとするがうまくできない。――と思ったのを最後に澄の視界は真っ暗になった。



 とてもいい匂いがする。
 食べ物や花の類ではない。人が纏う特有の、独特の体温の匂い。
 かすかに混じる、ツンと鼻につく薬のような――そう、薬、琴――医者。
 焦燥が押し寄せ、意識が一気に浮上する。
 澄は目を開けた。起き上がろうとしたが体を抑えられ、身をよじって抵抗する。
「動くな」
 聞き覚えのある心地の良い声。
 横になったままの澄が見上げた先には、こちらをのぞき込む矢萩の顔があった。
 なぜか医者のような白衣を着て――いや、そういえばこの人医者だったんだとかなりの時間をかけて思い出す。
 落ち着いたのを見て取って、矢萩はようやく澄の肩から手を放した。
 横になったまま視線を巡らせる。自分が寝かされている寝台(ベッド)や名前のわからない道具や什器が並んでいる。
「あと少しで終わる。……ここは病院だ」
 矢萩は澄の足に包帯を巻いていた。
 その横顔をしばらくみていると恥ずかしさがこみあげる。
 ほんの一瞬だけ、こっちは白鬼なんだから放っておいてくれてもいいのにと思った。痛いけれど。
 手当てをしてもらっているんだと、澄は天井を凝視しながら感情を抑えた。
「……琴さまはご無事でしょうか」
 使用人の分際で主人に質問をするなど過ぎた振る舞いだ。しかし、気になった。
「もう熱も下がった。お前のことを心配していた。目覚めたら知らせるから会ってやってくれ」
 作業を終えた矢萩が澄の足から手をはなす。
「申し訳ございません」
 寝台を滑るように降りて、澄は床に手をついた。
「私の落ち度でございます。いかようにも処分はお受けいたします」
 男たちがやってきたとき、矢萩の手を剃刀で傷つけたことが頭によぎり、抵抗できなかった。あの時動けていたのなら、こんなことにはならなかったのではないかと座敷牢の中で何度も考えた。
 矢萩は小さく息を吐く。
「この件は私の落ち度だ。もうすこし周りに気を配るべきだった」
 矢萩もまた床の上に膝を下ろす。
「顔をあげてくれ」
 まるい二つの黒い目が、矢萩へと向く。
 なぜ自分をこんな風に扱うのだと驚いた表情。特別なことをしているつもりはない。だが、こちらが何かをするたびに、彼女は決まってこの顔をする。これまでいかに過ごし、扱われてきたか手に取るようだ。
「もっとはやく動くべきだった」
 矢萩は改めて自身に憤った。
 警察に届け出があるより先に矢萩は、里森家に澄がいることを突き止めていた。ひそかに調べれば尼寺で育ち、仕事ぶりは誠実で従順。尼寺(・・)があるので、裏切る可能性は低い。粗悪な環境から助け出す傍ら、次の居場所が見つかるまで妹の世話を頼むつもりでいた。問題は里森家うぎさき交渉するか。警霊隊の自分がいきなり交渉を持ち掛ければ、かえって澄の立場を悪くすることになる。
――同じような失敗を繰り返したくはない
 考えあぐねているうちに火事が起き、そして今に至る。
「君が体を張って琴を守ってくれたことは知っている」
 また、遅かった。責められるべきは己だ。
「ありがとう。君にはここにいてほしい。どうか」
「ですが、私は……」
 澄は途中で、言葉に詰まる。
 大勢の人間に鬼だと知られてしまった。なのになぜ捕まっていないのだろう。それに――
 無意識に澄は口を開けたまま矢萩を見ていた。対に矢萩の意地の悪い笑みは次第にどんどん露骨になり、やがて耐え切れず破顔した。
「それなら俺も今頃、捕まっていないといけないだろう。同じ白鬼だから」
「……」
 澄の、ひび割れた唇がかすかに震える。
 矢萩は澄の床についた手を取り、抱き上げるようにして寝台へと座らせた。
「まずは休んだほうがいい。ひどい顔色だ」
 なぜだかわからない。
 こぼれそうになって、見せたくなくて、澄は唇を引き結び、はいと頷いた。