白鬼の影恋

 女人の叫び声にも似た音が秋晴れの空を(つんざ)いた。
 音の根源(・・)は里森家の屋敷の、その門前。
 一台の車が、道に濃いブレーキ跡を引きながら門の前に停車した。
 控えていた使用人の門番たちが門番の使用人たちは突っ込む勢いで道脇に停まった車を前に、握っていた刺又(さすまた)を構えた。
 初めに車から現れたのはすらりと背の高い男である。
 何事かと横目に見ていた通行人の何人かが足を止め、はっと息を呑む。
 彼は足早に歩きながら、慣れた様子で上衣の(ポケット)にしまっていた白手袋を取り出し手に()めると、すっと顔を上げ、前を見据える。
 たったそれだけの所作なのに、ひどく惹きつけられるのは、その男の顔が整いすぎているからだろう。
 通行人の中には、騒ぎをよそに夢見心地で彼を見つめている者もある。
 彼の背後で、助手席から四つん這いで、文字通り這う這うの体で転がるように降りたのは、同じ年恰好の男だ。
 深い灰色の詰襟の上衣(じょうい)に、同じ色の脚衣(ズボン)
「警霊隊だ……。警霊隊が来たぞ!」
 車から降りた男たちの姿を見て誰かが言った。
 旦那様に知らせてくる、と門番のひとりが中へと駆けてゆく。そして別の門番が彼らのもとへと駆け寄った。
「あの……」
「警霊隊山國(やまぐに)所属、警務医の卯木崎矢萩だ。この家の主人にお取次ぎ願いたい」



「まだ、鬼は見つからんのか」
 怒りがにじんだ声に澄はひとり、身を縮めた。
 都の中心部からやや離れた、民家の庭にある納屋の中だった。
 中には肥料や農具が押し込まれている。澄はその奥にあった(わら)の上に膝を抱えていた。他人(よそ)さまの敷地に無断で立ち入ることに抵抗はあったものの、追われる恐怖が勝った。
 外からは怒声や乱暴な足音が絶えない。
 おそらく警察官たちで、そしてかなり人数が動いているのだろう。
 ふっ、と澄は苦笑する。
 妖は、国にいてはいけないと法により決まっている。血眼になって探すのは当然か。
「……」
 梅乃を助けたあと、主人の妻・朝子に鬼だと叫ばれたとき澄ははじめ、ただ驚いた。
 澄が鬼であり、繰糸をさせていることは里森家の一部の人間しか知らない。澄の正体が露見することはつまり、白鬼を匿っていたとして、里森家にも累が及ぶことになる。
 しかし、落ち着いて考えてみれば朝子の行動は理にかなっている。
 人並外れた動きをする澄を大勢の人間が目にした。この時点で隠すのは無理だ。
 ならば、あえて驚いたようなふりをして、今まで知らなかった(てい)を装うほうが賢いというものだ。
 澄はじんじんと痛む足を見た。指の間は血がにじんでいる。足裏はひどいことになっているだろうが、確かめる気力はなかった。
 これまでほとんど外出しなかったから足裏の皮はすっかりやわらかくなってしまっている。
 子どものころは、尼寺にいたころは、どれだけ裸足で走っても平気だったのに。
 ぎゅっ、と自身の膝を抱える澄の腕に力がこもる。
 ――尼寺も巻き添えになる
 澄は寺で尼僧たちによって育てられた。
 早朝に門を開けると、赤子がいた。おくるみに挟まれていた文には、自分の母親は鬼であるが、自分自身はその()が無く、鬼の血を引く事すら大人になるまで知らなかった。しかし、生まれた子には鬼の()があり、家の恥だと殺されてしまうかもしれないので育て欲しいという旨が書かれていた――らしい。らしい、とするのは肝心の文が寺の火事により燃えてしまって手元にないからだ。
 七歳のときに偶然来ていた里森家の主人に正体が知られ、繰糸の仕事をすすめられた。尼寺は決して豊かとはいえない。白鬼の自分でもできる仕事があるのだとうれしかった。断る理由はなく、八歳を迎えたのを機に澄は尼寺を出た。
 人ならざるモノだと正体が明るみになれば、警察の――妖や悪霊を取り締まる専門部隊・警霊隊により捕らえられ、どこかへ連れてゆかれる、と巷ではもっぱらの噂だ。
 澄はさらに強く、こぶしを握る。
 鬼だとバレてしまえば、当然これまでのことも調べ上げられ、育ててくれた尼寺のことも公になるだろう。
考えたくはないが、里森家が『鬼だとは知らされていなかった』と責任を尼寺に押し付けるのは自然なことのように思えた。
 今からでも自分から捕まりにいけば、尼寺は追及を免れるだろうか。
 ――だめだ
 そんな証はない。もしかしたら自分が捕まることで、それが動かぬ証拠となり、尼寺の罪が重くなるかもしれない。
 ガタリ、と納屋の戸が動いて、澄の意識は一気に引き戻された。
 ガタガタと何度も外から力が加わり、戸が震える。
「……ぁ」
 もう、いっそのこと、捕まってしまおうか 
 ――いいえ。
 澄は立ち上がり、戸のそばへと移動する。
 戸は内側へと開く押戸だ。ひらくと同時に飛び出せば、意表をついて、おそらく外にいるであろう警察官を押しのけられるのではないかと思った。
 澄は奥歯を食いしばり、あけられないよう戸にかけていた(くわ)の柄に手をかけてはずす。
 しかし予想に反して、戸はじれったいほどにゆっくりと時間をかけてひらいてゆく。
 澄は一気に内側へ引いて開けようと、戸の端に手をかけた。
 びくともしない。
 反射的に手を放し、納屋の奥へと走る。
 否――納屋の広さは約二畳。逃げおおせるはずもない。火の手があがったのが朝だ。いまはまだ日が高い。
 すらりと背の高い影がゆっくりと歩み寄り、澄の上へ覆いかぶさる。あとずさりする澄だが、すぐに背中が納屋の壁に行き当たる。
 もう、逃げ場はない。
 異国風の、詰襟の服に身を包んだ男がこちらを見下ろしていた。
「……白枝澄(しらえだすみ)か」
 さざ波かと思った。
 唐突に、こんな状況だというのに、そんなことを思ってしまった自分に澄は驚いた。あまりにもいろんなことが起こりすぎて、何かが振り切れてしまったのかもしれない。
「……」
 澄は懐の前でこぶしを握りしめ、唇を引き結ぶ。
「君が、白枝澄か?」
 さざ波のようなわずかに掠れた、心地のよい音声(おんじょう)
 ただ問いかけるのみ。 冷徹さとも、甘々しい(ささや)きとも異なる。
 言葉以外の感情(もの)は一切含まれていないように感じた。
 澄は、男をじっと見上げる。
 彼の着ている制服が警霊隊のものだとは澄でも知っている。
 どういうわけか、害意は感じられず、物腰はやわらかい。
 だが、こちらを見下ろす瞳の奥には鋭利な刃のごとく、苛烈な静けさを湛えていた。
「……」
「おい、矢萩! なにか見つかったのか!」
 男の背後――納屋の戸口に、同じ制服の男が立っていた。
 驚いて、びくりと体を震わせた澄の、その肩を男――矢萩はとっさにつかんで抱きしめる。
 慣れない、他人特有のにおいが鼻の奥に広がって澄は背筋を固くした。
「すまない、お嬢さん。いまは仕事中なんだ」
 混乱する澄の耳元で、矢萩はやや大きな声で囁く。
「……おいおい、こんなところで油売るなよ」
「わかっている。すぐにもどる」
 矢萩は振り返らずに答える。
 はぁ、声をかけた男はため息をついて、くるりと踵を返す。
 一拍おいて、矢萩は口を開いた。
「君は白鬼だな」
 矢萩は、腕の中の澄を見下ろす。
 澄は身をよじった。両肩をつかんでいた矢萩の手を振り払い、自身の懐に手を入れる。
 なぜ庇ってくれたのかは知らないが、この男は警霊隊だ。
 薄暗い納屋の中で、白くひらめいたのは剃刀(かみそり)の刃。澄は柄を両手で握りしめ、刃の切っ先を矢萩に向けるが、敵うはずもない。
 矢萩は剃刀の刃を鷲掴みにする。
「っ……」
 力づくで矢萩の手から剃刀を引き抜こうともがくと、白手袋に血がにじんだ。
 ゆっくりと赤い部分が広がってゆく。
 はた、と視線を上げれば、眉一つ動かさずこちらを見下ろす男と目が合った。
 澄は慄いた。
 刃を向けたのは自分自身だと承知の上だ。だが、人を傷つけている事実は恐怖でしかない。
 おもわず剃刀から手を離した――はなしてしまった。
 ふっ、と矢萩は微笑む。
 そんな彼を見開いたままの目で見つめる。心臓が、耳の奥でばくばくとうるさく脈打つ。逃げなければ。何とか方法を探さなければ。
 そうわかっているのに、彼から視線を外すことができない。
「君を傷つけるつもりはない」
 矢萩は腕を下ろし、つかんだ剃刀をそのまま澄へと返す。
 しかし、しばらく経っても澄が受け取らなかったので足元に投げ置いた。
 無意識にそれを追う澄の目は、その刃が血濡れているのを確かに()る。
「時間がないので手短に言う。私は警霊隊山國(やまぐに)所属、警務医の卯木崎矢萩だ。君のことは調べさせてもらった。どんな経緯で里森呉服店にいたのかも知っている。……今は君を突き出す気はない。そのかわり、私と取引をしてほしい」
 深い色の瞳が澄を映す。
 だが、澄は動かない。
 言葉は聞き取れるのに、まるで表面をすべり落ちるようで意味が頭に入ってこない。
「おい、矢萩! 何をしている!」
 背後でまた男が呼ぶ声がする。
「すぐにいく」と矢萩は澄から目を放さず、涼しげに言って続ける。
「やってもらいたいことがある。君にしかできないことだ。その代わり相応の報酬と生活の安全は保障しよう。尼寺にも累が及ばぬように――」
「矢萩、隊長が呼んでいるぞ!」
 また声がして、矢萩の言葉を遮った。
 尼寺――。
 澄の頭の中で、その一言が反響する。
「なんでもいたします」
 気が付いたら、身を乗り出していた。
 ついさっき相手を傷つけておいて、我ながら虫が良すぎると思いながらも、こうする以外になにも思い浮かばなかった。それに――
「尼寺が追及されぬよう、お取り計らいいただけるのなら、なにも望みません。なんでもいたします」
「……裏切れば相応の応酬を覚悟してもらう」
 澄は頷いた。
 矢萩は視線をめぐらせ、そばにあった古びた長持(ながもち)(横長の大きな木箱)に目をとめた。
 蓋をあければ、中には色あせた衣類などが無造作に数枚投げ入れられているだけだ。
 澄は促されて、ひざを折って長持の中に体を押し込む。
「しばらく待て。落ち着いたら迎えに来る」
 そう短くいって、矢萩は蓋を下ろした。ガタン、と同時に澄の視界は黒一色に落ちる。
 ややあってから足音が遠ざかり、納屋の戸が閉まる音がする。
「……」
 長持の中はかび臭い。
 澄は暗闇の中で腕を交差させて自分自身を抱きしめる。なぜ警霊隊が白鬼である自分を匿うのか。何をさせる気なのか。
 様々な疑問が浮かんだが、考えたところでわかるはずもないと、澄は唇を引き結んだ。
 次にこの長持の蓋をあけるのが、あの矢萩という男であってほしい。そう、祈りながら息を殺し、時が過ぎるのをただ、待った。



「待たせた」
 トントン、と二度叩く音が頭上でしてから、さざ波のような声がした。
 その声がまだ耳に残っているうちに蓋がゆっくりと持ち上がり、澄は返事をするのを忘れてしまったことに気が付いた。
 矢萩は気にするふうもなく、男物の外套(がいとう)を澄に向かって差し出す。
「これを着ろ。術がかかっているから、着ている間は君の姿は警察にしか見えない」
「……はい」
 長持の中で立ち上がった澄は外套を背中にまわして袖を通しながらあたりを見回した。
 どうやらあまり時間は経っていなかったらしい。
 納屋の高窓から差し込む光は強く、澄はまぶしさに目を細めた。
 昼下がり、といったところか。
「声を出すと術は解けてしまうから注意しろ。履物はそこだ」
 矢萩が視線で示す先――長持のすぐそばには足袋と下駄が揃えておかれていた。
「あ、ありがとうございます」
 人並みに扱われないのが当然だった。いちいち、気にして悲しむ段階を澄はとっくに終えている。
 連れ出すにしても怪しまれないためならば、下駄だけ用意すればいい。
 だから、足袋までそろえてくれるこの男の行動に対して澄は感謝より先に戸惑ってしまう。
 それでも胸の奥にほわりと温かさが広がってゆく。
 ――喜ぶな
 澄は奥歯を噛む。この男は警霊隊で自分のことなど、どうとでもできる存在だ。
 うつむいて、着物の裾を抑えながら長持の外に出て、手早く支度を整える。
「私の部下という体で後ろをついて来てくれ」
 澄が頷いたのを確認すると、矢萩は納屋の戸口を開けた。
 後に従って、外に出る。
 路地にはまだぽつぽつと警察官たちの姿がある。
 彼らは一様に、矢萩の姿を認めると背筋を伸ばして敬礼をした。
 うつむき加減で後ろを歩く澄はそれを上目遣いに見つつ、前を行く矢萩の背中を見上げた。
 ――この人は何者なんだろう
 ほとんどの時間を離れで過ごしたから、世間知らずの自覚はある。けれど、これほど大勢の人に敬われるには、彼は若すぎる気がする。
 しばらく大通りを歩いてから、道脇にあった車のドアを矢萩があけた。
 戸惑いながら澄が助手席に乗り込み、ドアが閉まったのを確認すると矢萩は運転席に座り、エンジンをかける。
「……ぃ」
 車は予想以上に揺れた。動き出してからも澄はドアのふち(・・)をから手が離せない。
「これから向かうのは私の家だ」
 しばらくして、矢萩が口を開いた。
 澄は矢萩を見るが、ハンドルを握る彼の視線は窓の外にある。
「君には私の妹の世話を頼みたい」
「世話でございますか」
 思わず聞き返してしまい、澄はしまったと口をつぐんだ。
 何かをたずねられるまで口を開いてはならないのが使用人である。聞き返すなどもってのほかだ。
 しかし矢萩は勘違い(・・・)をして「もう術は解けても大丈夫だ」と薄く笑った。
「……生まれつき病がちの妹でね。先日、風邪をこじらせて仲のいい女中に感染(うつ)してしまったのを気にして、別邸で一人暮らしをすると言い出して困っている」
「……」
 澄は言葉を探す。
 白鬼は、人間より体は丈夫だ。病にかかることはなく、怪我の治りも異常に早い。
 病人の世話をさせるには適任だろう。
 しかし――
「なぜ、鬼である自分に大切な身内の世話をさせるのか、といった顔だな」
 手慣れたしぐさで、矢萩はハンドルを切って角を曲がる。
「……いえ、ちがいます」
 それも、ある。
 心配なのはもっと別のことだ。
 八つの時に尼寺を出て、以降はずっと里森家の離れで繭から糸をとる繰糸(そうし)をしていた。
 蚕の繭は極めて繊細だ。指先のささくれやひび割れに少しでも引っかかれば、節ができたり、太さが乱れてムラになる。
 ゆえに里森家では澄だけでなく、繰糸をする者は基本的に水仕事をすることはなかった。澄は特例で、肌着は自分で洗うことを許されてはいたが、かなり気を使った。
 だから世間並みの女中のように、着物の洗い張りや炊事などもやったことがなく、知識もない。尼寺ではそれなりに炊事はしていたが、すでに遠い過去のことだ。
「……」
 澄はこぶしを握り締める。
 誰もが当たり前に知っていることを、自分は知らない。なんでもやります、と言った手前、たまらなく恥ずかしかった。
「君がずっと繰糸をさせられていたことは知っている。信を置くものを一人つけるから、諸々教わるといい。ついでに気難しい妹と仲良くなってくれると助かる」
「……かしこまりました」
 できるだけ早く仕事を覚えよう。使い物(・・・)にならなくては――澄はちいさく頷いた。
 彼の妹とはどんな人なのだろう。仲良くしてほしい、ということはもしかして自分と歳が近いのだろうかなどと、矢萩の横顔を見上げながら考える。
 危険を冒してまで鬼である自分を雇い看病させるくらいだから家族として大切にされていることは確かだ。
 里森家の離れの窓から、道行く人々をよく眺めていた。
 仲良く会話しながら歩いてゆく家族連れは、とても眩しかった。
「一応言っておくが、君がもし妹に危害を加えたり、私を裏切るようなことがあれば、その時は尼寺も君と運命を共にすることになることを覚えておいてほしい」
 物騒な内容ながら、矢萩の口調は軽快だ。
「承知いたしました」
 その言葉はかえって澄を安堵させた。
 脅しであるが、やらねばならぬことははっきりしている。――含みのない明瞭な取引だ。
 ふと、警霊隊に捕らえられた妖はどうなるのだろうか、と尋ねてみたくなったが、言葉をひっこめて窓の外に目を向ける。
 矢萩は外を眺める澄を横目に見た。
 隣に座る少女の横顔は、怯えよりも淡々とした納得の色が濃い。“尼寺”を盾に脅しをかけたこちらに対して嫌悪を向けるでも情をせがむでもない。あまり、予想していなかった反応だ。
 はじめて相対したときも尼寺といった途端、取引の内容も訊かず、従う姿勢を見せた。
――……強いな
 揺らぐことのない芯。
 矢萩の口角がわずかに緩む。
 守るべきものがある者は、やはり強い。
 車はしばらく走り、やがて邸宅街へと入っていった。
 立ち並ぶ屋敷の門はどれも意趣を凝らしたものばかりだ。そのうちの一つ。レンガ造りの異国風の門の前に矢萩は車をつけた。
「ここで待て」と矢萩は道脇に車を止めて、外へと降りる。
 助手席にいた澄は顔を伏せた。
 門の前には、色とりどりの着物に行燈袴をつけた十六、七あたりの少女――女学生が五人、待ち構えていた。やや離れたところには乗ってきたのであろう、人力俥(くるま)があり、そばには俥夫たちが岩のように身を縮めて、主の用事が終わるのを待っている。
 矢萩が車を降りた途端、きゃぁ、と女学生たちの甲高い声がいくつも重なった。
 窓からこっそり外を覗き見ると、小股で袴の裾を翻しながら、急ぎ足で矢萩のもとへ向かう女学生たちの姿がある。
「こんなに寒いのに待っていてくれたのかい?」
 ふっ、と矢萩は甘く微笑むと、また女学生たちが黄色い声をあげる。
「もちろんですわ」「お会いしたかったです」「こちら頼まれた調べものですわ」
 口々に女学生は言い、各々、手紙のようなものを矢萩に手渡す。
「助かる。でも、こんなに冷えるのに外で待つものではないよ」
 それらを受け取り、言葉を交わす矢萩の所作は折り目が付いていて丁寧だ。やわらかく緩んだ横顔は、ひどいほどに整っている。
 まるで、造り物のように。
 つい数時間前の、剃刀の刃をつかんだときの矢萩が澄の脳裏によぎる。手から血を流しながらも、眉一つ動かさず、微笑んで見せた表情。あのときと寸分変わらない笑みがまたすぐそばにある。
 彼の見目は美しい。だが。
――どれが、彼の本物なのだろう
 ふと、澄は思う。
 整いすぎているがゆえに彼の顔は、本当に仮面をつけているようだった。
 女学生たちと二言三言交わし終えた後、戻ってきた矢萩はまたエンジンをかける。待ち構えていたかのように屋敷の門が開き、車を中へと受け入れた。
「うちの別邸だ」
 外から見た門と塀はレンガ造りの異国風だったが、中にある建物は昔ながらのそれだった。
 小さいながらも白い玉砂利が敷き詰められ、松や鯉の泳ぐ池などが品よく配された庭。それを抱くように、木造の平屋がコの字型に建っている。
「おかえりなさいませ。旦那様」
 使用人が運転席のドアを開けた。
 二十にも、四十あたりにも思える容貌だ。肌はつややかで陶器のようであるが、目じりの皺は痛々しく深い。異国風の立ち襟に、手首までの長い袖、前は首元から腰まで並ぶボタンを留め、下はふわりと広がったスカートのつなぎ(・・・)に――これをドレスと呼んだりもする――身を包んでいる。
 厳格な性格なのだろう、頭髪はきっちりと後ろで一つに結われ首筋に、おくれ毛ひとつ、見当たらない。
「遅くなってすまない。前に話していた白枝澄だ。――澄、うちで何かと世話を焼いてくれる(しづ)だ。君の正体についても知っている。諸々のことは静に尋ねるといい」
 よろしくおねがいいたします、と澄が頭を下げると、使用人・静は口を開かず、ただ頷いた。
「お兄さま! これはどういうことですの!」
 澄が車を降りてドアを閉めた時だ。
 甲高い声に振り返れば、玄関先の開いた引き戸に寄りかかるようにして、少女が一人立っていた。
「ぜんぶ自分でできると言っているでしょう? お兄さまは警霊隊なのよ。白鬼を雇うなんて、見つかったらどうするの?! 職を失うくらいでは済まないわ。いますぐ警察に突き出すべきよ! 女中なんていらないわ」
 少女はきっ、と澄を睨みつける。
 澄はその視線をただ受け止めた。
 これまでもそうだったから、今さら白鬼と睨まれても、さして心は動かない。
 それよりも気になったのは少女の容貌だった。
 齢は十三かそこら。小動物のようなくりりとした目元に、すっと通った鼻筋。どことなく異国めいた顔立ちに、ゆるやかに波打つ髪が良く似合っている。
 誰もがはた、と振り返る見目である。しかしそのすべてを青白い顔色が台無しにしていた。
「あんたなんていらないわ」
 少女は玄関先に置かれていたのだろう、一輪挿しを片手につかんだ。澄に向かって投げようと振り上げるが、体勢を崩してよろける。
 矢萩が抱きかかえると少女の手から一輪挿しが離れるのはほぼ同時だった。
 一拍おいて、矢萩が少女を抱きとめる背後で、ごん、と鈍い音が鳴る。矢萩の腕の中で少女は身を縮めた。
 澄は避けようとしたが間に合わず、とっさに頭にやった手の甲に衝撃があった。
 バシャッンと音を立てて、一輪挿しの中から生けてあった花が飛び出し、後からちょろちょろと水がこぼれる。足元に転がったそれを、澄は拾い上げ、見回した。
「ご無事ですか」
 静が駆け寄る。
「割れてはおりません。大丈夫です」
 濡れてはいるが、どこもひび割れてはいなさそうだ。
 言いながら、静へ一輪挿しを差し出す澄。額からは水がぽたりと垂れる。
 そのやり取りに矢萩は吹き出しそうになったのは寸の間。振り返って、笑みを消した。
 澄の目にはただ、安堵の色があった。こちらをからかうような笑みも、皮肉も、そして怒りさえない。
「……静、澄の手当てを頼む」と言ってから、矢萩は腕の中の妹を見下ろした。
(こと)、この家の主はだれだ?」
 口調は変わらず穏やかだ。それが一層、恐ろしい。
 矢萩の妹・琴の唇が震える。何かを言おうとしたからなのか、感情ゆえなのかは本人にしかわからない。
「こたえろ」
「……お兄さまの命令には従いますわ」
 琴は転がるように矢萩の腕から抜けでて立ち上がり、建物の中へと入ってゆく。
 強気な口調ながら、足取りはおぼつかない。
 矢萩は声をかけるでもなく、背中をしばらく見つめていた。
 しかし思い浮かぶのは、投げつけられた一輪挿しを拾上げた時の澄の表情である。


 建物の奥へと通された澄は静の手によって身を整えられた。
 静は有無を言わさぬ手つきで、澄の足裏に軟膏を塗り、丁寧に包帯を巻いてゆく。そして顔や頭の砂埃を手拭いでふき取り、着替えを渡され、それで終わりかと思えば今度は丁寧に、髪に櫛を入れる。
 使用人である自分には過分な扱いと思いながらも黙ってされるがままに従っていた。相応の程度に身支度ができる自信がなかった。
「あなたは追われている身です。近いうちにあなたの容姿は新聞などで多くの方々に知れ渡ることになるでしょう。露見すれば警霊隊に属する矢萩様もわたくしたちもただでは済みません。ゆめゆめ、お忘れなきよう」
 静の口調は平坦だ。澄は目の前の鏡越しに静を見るが、視線は手元にある。
「かしこまりました」
「万が一のために姿もすこし変えたほうがいいでしょう。この髪、切らせていただいても」
「お願いします」
 自身の顔をみつめたまま、澄は返した。
 身支度を終え、部屋から出ると矢萩が待っていた。
 澄の変わり様に矢萩は目を見開いたものの、すぐに表情を引き結ぶ。
「妹がすまなかった。体は無事か」
「……」
 しばらく詰まってしまう澄である。
「……もっ、問題ございません。お心遣い感謝いたします」とあわてて我に返る。
 白鬼だと知っていながら、矢萩は身を按じる言葉をかける。ありがたさよりも先に驚きが立ち、ついで戸惑いが押し寄せる。この言葉をどう受け取ればよいのか、澄にはまだわからない。
「妹には言っておいた。君に危害を加えることはないから安心してほしい」
「……」
 白鬼なので多少傷つけられても問題ございません、と浮かんだ言葉を澄は飲み込んだ。場合によっては嫌味ととられかねない。
 さきほどの、一輪挿しを拾い上げた時に場の空気がおかしくなったのは自分の言動のせいだろうと澄は考えていた。
 よろしく頼む、と矢萩は言い残して去ってゆく。
「いってらっしゃいませ」
 その背中を静ともに澄は見送る。
 ――誠実な人だ
 尼寺を引き出されて縋りついたのは事実だが、この人のためにも役割をきっちりこなそうと澄は袖の中でこぶしを握った。
 矢萩を見送ってから、「こちらへ、仕事を教えます」と静が口を開いた。