白鬼の影恋

「これ、お父様がお願いって」
 早朝。
 チりん、と音が鳴って澄が戸口に急ぐと、着物に行灯袴姿の少女がそこに立っていた。
「かしこまりました、お嬢様」
 少女に向かい、澄は頭を下げる。
 彼女の名は里森鶴子(さともりつるこ)。この里森呉服店の三人いる娘のうちの長女である。齢は澄と同じ十八。澄にとっては数少ない見慣れた人物だ。これから女学校なのだろう。
 鶴子は暖簾のような前髪で目元を隠して俯き、目も合わせず、そして敷居さえも跨がず、開いた戸から腕だけを澄のほうへと伸ばしていた。差し出された手には重箱ほどの大きさの風呂敷包みが持たれている。
 初対面の者ならば、眉をひそめるだろう態度だがいつものことだ。
 澄が土間へと降り腕を伸ばすと、鶴子は半ば投げやるように包みを押し付ける。
 そしてそのまま、袴の裾を翻して踵を返し、ぴしゃりと戸を閉めた。
 一拍おいて、外から鍵をかける音がカタリと鳴り、足早に靴音が遠ざかってゆく。
「……」
 カタリ、と響くはずのない鍵をかける音がいまだに耳の奥でこだましている気がした。
 八つの時から、もう十年になる。何度も聞いてきたはず音なのに、いまだに慣れない。
 押し付けられた風呂敷包みを持つ、澄の腕に力が入る。
 ――逃げる気なんてないわ



 近代化の波が押し寄せる、極東の島国。
 街を行き交う人々の服装はありふれた伝統的なそれと、異国風のものが混ざり合った、まさに過渡期。
 俥夫(しゃふ)が引く人力俥(じんりきしゃ)の横を、けたたましいエンジン音を鳴らしながら乗用自動車が追い越してゆく。
「……」
 鶴子から渡された包みを胸に抱えた澄は、ふと窓の外に視線をやった。
 空は雲一つない秋晴れだ。庭木と、塀を挟んだ向こうでは、人々が絶え間なく行き交う通りがよく見える。澄のいる場所は静かで、外の喧噪がよく響いた。
――ぼんやりしている場合じゃない。
 炊事場の棚から小ぶりな鍋を取り出し、流しに置いて、蛇口をひねる。
 鍋に水がたまるまでの間、作業台の上で風呂敷の結び目を解く。
 現れたのは丹念な造りの竹籠。中には淡く青みがかった光を放つ蚕の繭が収められていた。
「……」
 清蚕(せいさん)と呼ばれる、特別な霊力を持つ繭だ。
 この繭から採れる絹糸を、織り交ぜて造られた着物は破魔の力を持つとされ、国では最上とされる。
 一方で、繭から糸にする作業――長い間触れていると、ほとんどの人間は皮膚が爛れるなどの障りを負う。
 白鬼である澄にはその耐性があった。
 澄は呉服店を営む里森家の屋敷の離れでひとり、繭から糸を()る――繰糸(そうし)をしている。
 八つの頃から十年もの間、毎日。文字通り休む暇もなく。
 もちろん、外出を許されたことも――澄から()うたこともない。
 だが、不満はなかった。
 何事も異国風が是とされる気風が漂い、古風なものに対する風当たりが強まるご時世。
 その嵐は、人間ばかりでなく、人ならざるモノにまで及んだ。
 各地ではそれらを排除しようとする動きが高まり、ついには国が“人ならざる(モノ)はわが国に住まうことを禁ず”、とを法を定めるにまで至った。
 ここにいることが明るみになれば、法に反したとして澄自身も里森呉服店も、そして澄を育てた尼寺もただでは済まない。
 厳重な離れは、澄にとっては檻ではなく、身を包み隠してくれる、見た目に反して強い蚕の繭そのものだった。
 もちろん、外へのあこがれや、同じ年ごろの少女たちの暮らしに興味がないわけではない。
 気兼ねなく街を歩いてみたいと、憧れたことは数知れず。
 窓から外の世界を見るのは楽しくて、そして辛くもあった。
 ジャアジャバ、と水があふれる音で我に返った。急いで蛇口を締めようと足を踏み出したところで、しかし、ふわりと全身が浮くような感覚に包まれた。
 ――いつもの目眩だ
 流しの縁に手をやって体を支え、もう片方の腕を伸ばして蛇口をひねる。
 白鬼であるがゆえに、人間では到底こなせない量の仕事を命じられ、月のほとんどを寝ずに過ごすのは珍しいことではない。
 初めは主人も心配していたものの、かなりの量をこなせることがわかると、次第に仕事は増えていった。
 時に、逃げてしまいたい考えがよぎったが、白鬼だとばらされてしまえば、育ててくれた尼寺もただではすまないだろうと歯を食いしばった。
 そして仕事を終えた後、満面の笑みで褒め言葉を言う主人を前に、こんな量をこなせてしまう自分は人ではないのだと思い知らされて、胸の奥が鈍く痛んだ。
 ――さすがは、鬼だな
 流しに中途半端な体勢でよりかかったまま、ふと自身の着物の袖口がほつれているのを見つけて、ため息がもれた。
 白鬼だと正体を知るのは、主人の正治(まさはる)と妻の朝子(あさこ)、そして長女の鶴子だけである。
 必要なものは朝子に頼めば与えてもらえるが、彼女はいい顔をしない。なぜ自分が鬼の世話をしなければならないのかと不満げで、「図々しい」「汚らわしい」とものを頼むたびに、そんな言葉が飛んでくる。
 最初のころ、正治に頼んだこともあったが、後になって朝子からチクチクと(なじ)られたので、できるだけ避けたい。鶴子に至ってはいつもすぐに逃げていくので、言葉を交わすどころではない。
 べつに悲しいとは思わない。
 ただ、いい顔をしないとわかっている相手に頼みごとをするのは、気が重かった。
――とりあえず、仕事だ、仕事。
 気を取り直し、澄が流しのへりに両手をついて体を起こそうとしたときだ。
 轟音が、地を揺るがした。
 なに?と疑問に思う()さえなく、誰かの怒声が届く。
「火事だー!」
 ああそうか。はねた思考の隅で、なぜか安堵してしまったのは一瞬。
 ひらいた窓の隙間から異様な匂いが流れ込んできて、弾かれるように立ち上がった。
 窓を開ければ、見慣れた屋敷の屋根の間から太い煙の柱がいくつも空へと長く延びている。
 澄は視線を巡らせ、台の上に置かれた繭を包んでいた風呂敷を片手につかんで、私室へ走った。
 炊事場の隣の、いつも寝起きしている部屋へ駆け込む。
 三畳ほどの部屋にあるのは布団と、その脇に置かれた小さな行李でそれ以外はなにもない。
 澄は手に持っていた風呂敷を床板の上に広げ、行李を丸ごと包み、背負い込む。
 行李の中身は衣類や、身なりを整えるための道具が少々。どれも古びているものばかりで、傍目には取るに足らないものだろうが、澄の立場では失ってもすぐに得られるものではない。
 ものが燃える特有の、異様な匂いが濃くなる。
 行李を背負い込んだ澄は、戸口の土間にあった下駄をつっかけた。
 ぴしりと閉められたままの戸を、見上げる。離れの窓にはすべて格子がはめられ、戸口には鍵がかけられているが、白鬼にとっては無いも同じ。
 白鬼は見た目とは裏腹に人並み以上の体力とそして怪力を持つ。
 何度か、勢いをつけて肩をぶつけると、戸はガタリと外れて外側に倒れた。
「……」
 ひとつ息を吐いて、敷居を飛び越える。
 不安を奥へと押しやって、逃げる使用人たちの流れに加わって屋敷の敷地を走った。



「お嬢さん、お怪我はありませんか?」
「……は、はい」
 まるで活動写真(映画)の一幕である。
 その様子を脇で見ていた矢早原太一(やさはらたいち)は、内心ため息をついた。
 普通のヤツが口にすれば滑稽な台詞(せりふ)も、こいつが言うとまるで違和感がない。
 数年前に通ったばかりの、真新しい鉄道駅の乗り場だった。
 深い灰色の詰襟の上衣(じょうい)に、同じ色の脚衣(ズボン)。揃いの制服に身を包んだ太一を含む男六人が、駅に降り立ったのはほんの数拍前。
 きっちり制服を着こんだ男たちはものものしくただでさえ、周囲の目をひいた。
 やっと着いたとばかりに、伸びをしたり、腰をさする乗客らとは対照的に、男たちは目元に触れる素振りさえしない。彼らの周りには自然と、空間(すきま)ができていた。
 だから通れるとおもったのだろう。
 乗り場を急いでいた少女が、制服姿の男の一人に脇からぶつかり、尻餅をついた。
 齢十五に届かない、まだあどけなさが残る少女である。
「……あのっ」
 尻餅をついたまま、顔を上げた少女にははっきりと恐怖の色が張り付いている。薄い色の唇が小刻みに震えて痛々しい。
 だが、一拍後に別の意味で少女は追い込まれることになるだろう、と――少女がぶつかった男の隣にいた太一は腕を組む。
 案の定、太一の隣の男が振り返ると少女は目を見開いた。
 彼は流れるように膝をついて、少女の手を取って起き上がらせる。
「……も、もも、もうしわけござません」
 やっとの思いで息を吸った少女は、叩きつける勢いで頭を下げ、風呂敷をわきに抱えて、逃げるように走り去ってゆく。その後ろ姿を、彼は心配げに見送る。
 そんな彼とは対照的に、太一は周囲に視線を滑らせた。
 せわしなく行き交う雑踏。その中で、このあたりにだけ向く視線の種類が違う。
 制服姿の男らがたむろしているからでもあるだろうが、それが理由の大半でないことは誰の目にも明らかだった。
 すぅ、と太一は視線を彼に戻す。
 小さな少女の背中を見送る、慈悲深い横顔がそこにあった。
 彼の名は卯木崎矢萩(うぎさきやはぎ)。妖や悪霊を取り締まり、治安を守る警察組織・警霊隊(けいりょうたい)で医師を務める、平民の生まれでありながら、この国の最高学府を次席で卒業したヱリート。華々しい経歴でありながら少しも気取ったところがないと周囲からの評判は概ね良い。
 だが、特筆すべきはその(つら)だ。
 銀幕のスタァどころか、性別の垣根を越え、絶世の美女と謳われた女でさえも嫉妬するであろう、かんばせ。
 おれだって、似たようなものなんだけどな。
 矢萩に向く周囲の視線を眺めながら、太一は思う。
 矢萩と同じく、平民ながら最高学府を卒業し――なんなら主席だった――医師ではないが警霊隊をやっている。
 歳も同じ二十五で、面構えも負けず劣らずではないか――と、太一はいちいち茶化したりはしない。
 容姿とは残酷だ、と矢萩の隣の家に生まれ、どういうわけか大学までともにすることになってしまった太一は矢萩の苦労をそれなりに知っている。大学寮の寝床に見知らぬご婦人が全裸で横になっていた、などとは軽いほうだ。
「里森呉服店までは、車か」
 矢萩が男たちを振り返る。
「はい、ご案内いたします」
 同じ制服姿の、男の一人が答えた。
 これをきっかけに、制服姿の一行は駅の構内を歩き始める。
 矢萩の横を歩く太一ははぁ、と息を吐く。面倒だ、と内心を隠そうともしていない。
「なぁ、矢萩。いちいち調べる必要あると思うか?」
 太一は矢萩を見上げる。
「上の指示だ」
 短く答えるのみである。矢萩は前を向いたまま、視線は合わせない。
 でもよぅ、と言いかけて太一は口を閉じた。
 ――購入した反物からかすかに妖気が匂う。
 とある貴族から警霊隊に相談があったのは今からひと月ほど前。
 矢萩が調べ、確かにごく微細な気配はあったものの害を与えるものではなく、近くに猫又でも昼寝していただろうと結論づいた。
 しかし相談してきた貴族が急病で床に伏したために、事態は終わらなかった。
 反物を調べたところ、里森呉服店なるところから、仕入れた絹糸が織り込まれていることわかり、念のため現地調査をすることになったのだ。
「ご貴族様のことだ。どうせ、誰かから恨まれて呪いでも受けたんだろう」
 というのが太一の考えである。
 矢萩は前を向いたまま答えない。
 太一は気にするふうもない。いつものことだ。
 ふいに、響いた。
 ドン、と大地が割れるような低い轟音。
 次の瞬間、矢萩と太一の二人は人々を押しのけて駅の外へと走り出る。
 騒然とする、大通りを行き交う人々。
 肌が粟立つ。矢萩と太一はそろって歯を食いしばる。
 とてつもなく濃い妖気が一気に膨れ上がってゆくのを二人は、視た。
 妖気の根源と思しき建物から煙が上がっている。
 矢萩はその煙を睨む。油断したら吐いてしまいそうなほど濃い。
「あそこが、里森呉服店です! いま、車を――」
 制服姿の男の一人が背後で叫ぶ。しかし、彼が言い終わる前に二人は動いていた。
 阿吽の呼吸で、ちょうど目の前を通りかかった乗用自動車を矢萩が呼び止め、太一が乗っていた若い夫婦を引っ張り出し、ふたりそろって中に体を滑り込ませる。
 もちろん、奪うのではない。
 どうかしばし御拝借、であるが、傍目には盗人(ぬすっと)のそれである。
 助手席の太一がドアを閉めるより先に、矢萩はアクセルを踏みこんだ。
 


 澄は使用人の女たちがつくる列に混じって屋敷の門をくぐり、すぐそばの、丘の上にある神社へと身を寄せた。
 小高い丘からは屋敷全体が一望でき、残った男の使用人たちが、走り回って消火にあたっているのがわかる。
 里森家の屋敷は広い。
 使用人たちが寝起きする長屋だけでも三棟。
 同業者や親戚をあつめて行事をする、武家風の畳の広間が二つ。
 だが、その財力をもっとも如実に語るのは、異国風の装いをした三階建ての館である。
 ――と、肩を寄せ合う女たちが言っているのを、神社の石段の隅に身を縮める澄は耳にした。
「あ」
 澄のすぐそば、石段に腰掛けていた使用人の女が顎を落とした。まわりの女たちが眉をひそめて彼女を見やったその直後、今度は別の女が叫んだ。
「ねえ! ああ、あれ、お嬢さまじゃない? お嬢さまよ!」
 数人の息を呑む音が重なり、ざわめきが広がる。
 異国風の館の、最上階に小さな人影があるのが見て取れた。
 どういうわけか、建物の一階部分は大きな岩をぶつけたようにひしゃげ、上の部分が傾きつつある。
 小さな人影は助けを求めて窓から身を乗り出すが、人々は下から見上げるのみである。澄の記憶が正しければ、数えで五歳になる里森家の三女・梅乃(うめの)だ。
「なんで助けに行かないのよ」「男らはなにしてるの」
 口々に言う使用人たちだが、別の女が放った一言で押し黙る。
「きっと梯子(はしご)がないのだわ」
「……」
 澄はその会話を聞くともなしに聞いていた。
 他より大きく造られた建物だ。十分な長さの梯子がないのだろう。
 ああっ、と神社の境内に固まる女たちの悲鳴が重なった。何人かは目をそらして身を縮める。
 館の足元に、猿に似た黒い妖がいた。もがくように手足をばたつかせ、建物の壁をよじ登ろうとしている。
 梅乃を狙っているのだろう。
 しかしうまく登れず、黒い妖は館の壁を削るのみである。
 建物の、根元のレンガが崩れ落ちてゆく。
 再び、女たちの悲鳴が波立つ。
 館が大きく傾いだ。
 小さな人影は今にも窓からこぼれ落ちそうだ。上半身が、窓から外へとはみ出している。
 気が付いたら澄は立ち上がっていた。
 ――落ちる
 このままだと。でも。届くだろうか。
 ――いいえ
 もう持たない。
 瞬間、澄は走り出していた。
 使用人の女たちの間をすり抜け、屋敷の方へ戻る。
 呼び止める声が遠くであがった気がしたが、澄は振り返らない。
 背中に何かがまとわりついて、煩わしい。
 それは離れから出る時に持ち出した行李であったが、走りながら風呂敷の結び目を解いて、無意識に投げ捨てていた。
 足の大きさに合わない下駄も邪魔で、けっ、と後ろに蹴って脱ぎ捨てる。
 里森家はぐるりと、高い塀に囲まれている。
 丘を駆け下り、勢いそのままに足裏で地面を噛んで塀の上へと飛び、それを足場に今度は屋根へと降り立った。
 使用人たちが寝起きする二階建ての長屋の上である。
 屋根から屋根へと走り、勢いをつけて一気に館へと飛び移った。
 皮肉にも、崩れかけていたのがよかった。
 ずれたレンガは、足をかけるのにちょうどいい。
 真下で猿に似た妖がもがいているのが気になったが、登ってくる様子はないのでとりあえず無視だ。
 澄は壁をよじのぼり、窓枠へとたどり着く。
「梅乃ちゃん」
 澄は歯を出して、わらってみせる。澄は八歳まで、尼寺で育った。幼い子どもを預かることは少なくなかったから、それなりに心得ているつもりだ。
「……」
 窓枠にへばりついていた梅乃は潤んだ目で、こちらを見上げる。
 瞳には、見知らぬ者に対する怯えが色濃い。
「梅乃お嬢さま、お迎えに上がりました。さあ、お母さまがお待ちですよ」
 努めて、澄は明るく言う。
 さあ、と片腕を伸ばすと、梅乃は素直に腕の中へと潜り込んだ。
 ぎゅっと小さな手のひらを握りしめている。
 もう片方の腕で窓枠を掴んだまま、澄は背後を振り返る。
 どこに降りればいい。逡巡する澄をあざ笑うかのように、建物がゆっくりとまた、傾いだ。
 建物は澄がへばりつく窓側を下にして傾いている。このまま、真下の屋根の上に降りれば下敷きだ。
 視線を巡らせる澄の目に留まったのは、そばにのびている銀杏の木だった。
 木登りをして遊んだ覚えがある。だから枝も丈夫なはずだ。
 澄はレンガを蹴って、銀木へと飛び移った。
 バキバキと枝が折れる嫌な音。薄い着物の生地を突き破って、折れた枝が肌に刺さる。
 直後、澄の背後で唸り声と土煙をあげて館が崩れた。
 地面が揺れ、銀杏の枝が大きくしなった。
 澄はしがみつく梅乃をさらに強く、引き寄せる。
 振り落とされまいと枝を掴んで、澄は周囲がおさまるのを待つ。
 砂埃に、目もあけられない。
「おーい、大丈夫か!」
 どれくらい経っただろうか。
 身を縮めていた澄は、下から聞こえた男の声に瞼をひらいた。
 見下ろせば、庭木の根元には大勢の男たちが集まり、見上げる人の中には里森家の主人の妻・朝子の姿もある。
 男たちが木の幹に梯子をかけて、降りるのを手伝ってくれた。
 梯子を使い、手を伸ばせば届くくらいの高さまで来ると、男の一人が腕を伸ばしたので澄は梅乃を渡す。
 転がるように駆け寄った朝子が、その男から梅乃を奪うように抱きとったのと、澄が梯子から地面に降り立ったのは、ほぼ同時だった。
 ほっ、と肩を落とした澄を、朝子の叫び声が叩きつけた。
「はやく! 警察は? 警霊隊(けいりょうたい)はどこ? 鬼よ! この鬼を捕まえて」
 ――鬼。
 鬼とはたいてい、額に角のある流々とした体躯の妖をいう。唯一例外なのが、白鬼だ。鬼としての力は薄く、見た目は普通の人間と変わらない。
 それでも人並み以上の体力と怪力を持ち、傷の治りも異様に早い――妖には変わりない。
 しかし、この娘は子どもを助けたのではないか。
 誰もがそのはざまで、判断に迷った。
 一瞬の(いとま)
 先に動いたのは澄だった。
――逃げなきゃ
 髪についた砂埃も払う間もなく、澄は背を向ける。
 「追え」「何をしている」「逃がすな」「捕まえろ」と、後ろから怒声が追う。
 しかし、白鬼に追いつけるはずもない。
 背中にあった男たちの気配はすぐに消え失せ、代わりに石が飛んできた。
 人々の視線が肌を刺すようで、澄は息をつめた・
 着物の裾が乱れて、太腿が露わだ。
 わかってはいても、直すこともできない。
 痛い。はだしの足裏よりも、木に飛び移った時に折れた枝があたった肌よりも。
 胸の奥がひしゃげて、痛い。
 なにも、望んでなどいない。
 褒美がほしくてやったわけではない。
 何かを得ようなどとは考えたこともなかった。
 ましてや幼子を助けなければ、という崇高な志もない。
 あのままでは落ちる。
 それだけだった。
 ――なんで
 視界が滲む。
 投げられた石のひとつが、後頭部をかすめた。すでに緩んでいた――まとめ結っていた髪がほどけて、風に乱れる。
 白鬼だから仕方がない。人同等に扱ってほしいと思ってはいても、それは無理なことだとすでに諦めている。ただ、どうして。
 感傷に浸るのは嫌いだった。だから何度も、ずっと押し込めていたのに、今はそれができない。
 白鬼だから……?
 ――なにも、悪いことはしていないのに
 走りながら、澄は乱暴に袖口で目元をぬぐう。
 その背後ではまだ、もくもくと煙柱がのびる。