もれ聞こえた声に、澄は目をあけた。
起き上がろうと手を付いて、布団ではなく床板の上で横になっていたことを思い出す。
そういえば仕事を終えたのは今朝だったか。
遠くの窓から差し込む日はなく、夕焼けの残り火と思しき茜色の光が弱々しくあるのみ。明かりのない部屋はすでに暗闇に近い。
「つぅ……」
起き上がらねば、と身を捩ったら、予想通り節々が痛んだ。動くことを諦めて、仰向けになったまま、闇に包まれて見えない天井に目を向ける。
ようやく寝られると安堵したのがいけなかった。
せめて布団のあるところまで歩こうと思ったのに、気が抜けてしまって、少しだけならと作業場で腰を下ろして――そこで記憶は途切れている。
そういえばいつから寝ていなかったのだろうか。
思い返して、軽く首を横に振る。
――考えないほうがいい
ふふっ、と外からまた、今度はわらい声が聞こえてくる。
楽しそう。
見えない糸に引かれるように腕を伸ばし、壁を伝ってゆっくりと体を起こす。雨戸をあけると十六、十七あたりか。数人の少女たちがしゃべりながら、外の通りを歩いてゆくところだった。
どこかの屋敷で使用人をしているのだろう。少女たちの着物は決して高価なものではないが、小ざっぱりとして品がある。それぞれの髪に結われているのは巷で流行りのレヱスだろうか。物によっては一切れくらいならば使用人の小遣いでも手に入れられる、ときいたことがある。
――ああ、そうか
黒髪の彼女たちに、よく映える白いレヱスを見て取って、澄は今日が一年で唯一の華労祭とされる日だと思い至る。普段は屋敷で働いている使用人も、この日ばかりは労働を免除される。さすがに丸一日、というわけにはいかないが少しばかりの暇と主人から小遣いやお古の着物がもらえるのが通例だった。
ここからは、少女たちの後ろ姿しか見えない。だが、せわしなく唇を瞬かせて、時折くすくすと肩を揺らす――楽しそうなのが手に取るようだった。
「……」
他人さまの会話を盗み聞くなんて、と思いながらも窓枠から手が離せない。
大通りにできた新しいカフェー、隣のお屋敷に美男子な書生がいる、あの子はぜんぶしゃべってしまうから相談事はしないほうがいい、親が紹介した結婚相手が年下なうえに幼馴染で弟としか見れない――少女たちが話すのはそんな他愛のない話ばかりである。
ぎゅ、と窓枠を握る手に力がこもる。
―― 白鬼でなければ
無意識に、首をまた横に振る。
――そんなことを思っても、どうにかなるわけじゃない。
少女たちの背中から、わかってはいても澄は視線を逸らすことができなかった。
もし、白鬼でなかったのなら普通の人間のように生きることができたのだろうか。
決して楽ではないけれど、仕事仲間と励まし合って働いて、友人の恋路の話に胸を膨らませたり、あるいは誰かを好きになったりしたのだろうか。
恵まれていなくとも、休みの日を楽しみに給金を少しずつ貯めて、友人たちとささやかな買い物をしたり、好いた人に文を送ったりしたのだろうか。
楽しい一日を過ごしたのだろう。少女たちのおしゃべりは止まらない。
その背中は遠ざかり、すでに拳ほどの大きさである。
もう、この距離では何を話しているのかもわからない。
澄は視線を落とし、雨戸を閉めた。
――いいえ
白鬼であっても決して悪いことばかりじゃなかった。
自分が選んだことだ、と胸の内で繰り返す。
ふいに遠くで、チりん、と音が鳴った。
はい、と返事をして戸口へ小走りで向かえば土間の上に夕飯が乗せられた膳があった。
戸はすでに閉まっており、運んできた者の姿はない。
勢いあまって、汁物の蓋が外れて膳の上にこぼれ、湯気が立ち上っている。
ほかに膳の上にあるものと言えば、茶碗でだけで、まるで釜から鷲掴みにして投げ入れたようにご飯がよそわれている。
ふふっ、とわざとわらってみる。
こうすると、少しばかり気分が明るくなるのを澄はよく知っていた。
温かい食事にありつけるだけでも、十分ありがたい。
白鬼に対しては破格すぎる待遇だ。おいしそうな匂いを嗅ぎつけた体がぐぅ、と唸りを上げる。
澄は下駄をつっかけ、土間に降りて膳に手を伸ばした。
起き上がろうと手を付いて、布団ではなく床板の上で横になっていたことを思い出す。
そういえば仕事を終えたのは今朝だったか。
遠くの窓から差し込む日はなく、夕焼けの残り火と思しき茜色の光が弱々しくあるのみ。明かりのない部屋はすでに暗闇に近い。
「つぅ……」
起き上がらねば、と身を捩ったら、予想通り節々が痛んだ。動くことを諦めて、仰向けになったまま、闇に包まれて見えない天井に目を向ける。
ようやく寝られると安堵したのがいけなかった。
せめて布団のあるところまで歩こうと思ったのに、気が抜けてしまって、少しだけならと作業場で腰を下ろして――そこで記憶は途切れている。
そういえばいつから寝ていなかったのだろうか。
思い返して、軽く首を横に振る。
――考えないほうがいい
ふふっ、と外からまた、今度はわらい声が聞こえてくる。
楽しそう。
見えない糸に引かれるように腕を伸ばし、壁を伝ってゆっくりと体を起こす。雨戸をあけると十六、十七あたりか。数人の少女たちがしゃべりながら、外の通りを歩いてゆくところだった。
どこかの屋敷で使用人をしているのだろう。少女たちの着物は決して高価なものではないが、小ざっぱりとして品がある。それぞれの髪に結われているのは巷で流行りのレヱスだろうか。物によっては一切れくらいならば使用人の小遣いでも手に入れられる、ときいたことがある。
――ああ、そうか
黒髪の彼女たちに、よく映える白いレヱスを見て取って、澄は今日が一年で唯一の華労祭とされる日だと思い至る。普段は屋敷で働いている使用人も、この日ばかりは労働を免除される。さすがに丸一日、というわけにはいかないが少しばかりの暇と主人から小遣いやお古の着物がもらえるのが通例だった。
ここからは、少女たちの後ろ姿しか見えない。だが、せわしなく唇を瞬かせて、時折くすくすと肩を揺らす――楽しそうなのが手に取るようだった。
「……」
他人さまの会話を盗み聞くなんて、と思いながらも窓枠から手が離せない。
大通りにできた新しいカフェー、隣のお屋敷に美男子な書生がいる、あの子はぜんぶしゃべってしまうから相談事はしないほうがいい、親が紹介した結婚相手が年下なうえに幼馴染で弟としか見れない――少女たちが話すのはそんな他愛のない話ばかりである。
ぎゅ、と窓枠を握る手に力がこもる。
―― 白鬼でなければ
無意識に、首をまた横に振る。
――そんなことを思っても、どうにかなるわけじゃない。
少女たちの背中から、わかってはいても澄は視線を逸らすことができなかった。
もし、白鬼でなかったのなら普通の人間のように生きることができたのだろうか。
決して楽ではないけれど、仕事仲間と励まし合って働いて、友人の恋路の話に胸を膨らませたり、あるいは誰かを好きになったりしたのだろうか。
恵まれていなくとも、休みの日を楽しみに給金を少しずつ貯めて、友人たちとささやかな買い物をしたり、好いた人に文を送ったりしたのだろうか。
楽しい一日を過ごしたのだろう。少女たちのおしゃべりは止まらない。
その背中は遠ざかり、すでに拳ほどの大きさである。
もう、この距離では何を話しているのかもわからない。
澄は視線を落とし、雨戸を閉めた。
――いいえ
白鬼であっても決して悪いことばかりじゃなかった。
自分が選んだことだ、と胸の内で繰り返す。
ふいに遠くで、チりん、と音が鳴った。
はい、と返事をして戸口へ小走りで向かえば土間の上に夕飯が乗せられた膳があった。
戸はすでに閉まっており、運んできた者の姿はない。
勢いあまって、汁物の蓋が外れて膳の上にこぼれ、湯気が立ち上っている。
ほかに膳の上にあるものと言えば、茶碗でだけで、まるで釜から鷲掴みにして投げ入れたようにご飯がよそわれている。
ふふっ、とわざとわらってみる。
こうすると、少しばかり気分が明るくなるのを澄はよく知っていた。
温かい食事にありつけるだけでも、十分ありがたい。
白鬼に対しては破格すぎる待遇だ。おいしそうな匂いを嗅ぎつけた体がぐぅ、と唸りを上げる。
澄は下駄をつっかけ、土間に降りて膳に手を伸ばした。
