イヤホンから流れるテンションの上がる音楽を聴きながら、聡子はあくびをかみ殺した。繁忙期な上にトラブルが重なり、いつもよりも一時間早い出社を余儀なくされていた。
トラブルの原因は、今年で入社二年目になる高橋だ。
彼女は最後の確認が甘く、数字が合わないまま請求書を作ったり、宛先を間違えたままメールを送ったりしてしまう。仕事はスピードが命と考えているらしく、何度確認しろと言っても聞かない。
片側三車線の交差点で赤信号に捕まり、社用携帯をチェックする。
経理部のグループLINEに、昨夜のミスについて高橋からの報告が入っていた。
最終チェックをしたが、目がすべってしまって見逃した、周囲にダブルチェックを頼もうと思ったがみんな忙しそうだった……等々。読んでいるうちにイライラとしてきて、イヤホンから流れるお気に入りの音楽も聞こえなくなっていた。
(他責がひどすぎる……)
部署内で孤立してしまう前に、個人LINEでこっそりと嗜めようか。本人のプライドを傷つけない程度に、気持ちはわかるけどまずは謝罪の言葉から始めよう、と。
文章を打っては消し打っては消ししていると、「 あ お だよ 」と耳元で囁かれた。
反射的に歩き出し、けたたましいクラクションを浴びた。
「っ……!」
ほんの数メートル先を、大型車両が走り抜けてゆく。クラクションを鳴らしてはいたものの、とてもブレーキを踏んだとは思えない勢いだ。
(びっくり、した……)
信号は、まだ赤だった。
慌てて歩道に戻ると、信号待ちをしている数人が「何をやっているんだ」という冷たい視線を向けてくる。歩きスマホなんかしているから、と視線が語っていて、思わずスマホをコートのポケットに突っ込んだ。
今、青って言われたから……。
誰? 悪質すぎる。一歩間違えば車に轢かれるところだった。
顔を伏せたままなんとなく周囲を観察する。少し高い、子どものような声だった。少年、小学生くらいの。でもそんな子はいない。背後にいるのはスーツ姿の社会人ばかり。
パールのピアスがこつりと当たり、ぞっと背筋が凍る。
(私、ずっと、イヤホンをしたままだ)
――耳元で聞こえた。まるで内緒話をするような距離で、私にだけ教えてくれるような声で。
恥ずかしさも忘れ、顔を上げて周囲を見回す。子供なんて見当たらない。もう歩み去った後かと遠くまで見てみたが、親子連れさえいなかった。そもそも、このあたりは通学路じゃない。
幻聴……? でもたしかに、人の声だった――
きょろきょろしていると、今度こそ本当に青になった。信号待ちをしていた人たちが白い目を向けながら脇を通り過ぎてゆく。
会社にいると気が紛れる。
数字に集中していると、余計なことを考えなくて済む。朝の出来事はすっかり「気のせい」で片付いていた。
気づけば周囲は雑多な音で溢れている。ここでも、タイピングの音や隅のブースで打ち合わせをする話し声、誰かの電話の着信音やオフィスチェアの軋みなど、普段は意識すらしない雑音で溢れている。今朝の子供のような声も、何か雑多な音がそれっぽく聞こえただけなのだ。
没頭しすぎて目の前に人が立っているのに気づかなかった。
「すみません、今ちょっといいですか?」
「わ!」
顔を上げると、高橋が立っていた。「びっくりした……」
「すみません。今朝いただいたLINEの件なんですけど――」
高橋は、こちらがいいも悪いも言わないうちに話し出した。
「私ももっとちゃんと確認すればよかったなとは思っていたんです。でも、変なところで相談したら、まだそこまでしか終わってないの? て思われるかなとか。本当にすみませんでした」
高橋は謝罪の言葉の間に言い訳を挟みながら、長々と喋り続けた。あまり「すみませんでした」を連呼されると、こちらが許していないみたいで外聞が悪い。何度も「もういいから」と止めたが、早口にまくしたてるばかりだ。
「高橋さん、もうわかったから。みんなもそんなに怒ってないから」
「じゃあどうして今朝、あんなメッセージを送ってきたんですか? 私、河合さんからのメッセージ見て凄いショックで」
「ごめん、そんなつもりで送ったんじゃないんだけど……」
だんだんと風向きが変わってきた。謝罪から言い訳、こちらを責める口調へと変わってきている。周囲の人間も、素知らぬ顔で手を動かしているが、耳を澄ましてこちらの会話を聞いているのがなんとなくわかる。
あとどれくらい言い訳が続くだろう。この仕事を今日中に片付けてしまいたい……。途中からこちらも疲れてきて、彼女の声が二重になって聞こえてくる。
「だだ かか ら、ほほん ととう に ももうしわけ ない と、 おもって」
「……ん、……え?」
やばい。疲労がピークで物の聞こえ方がおかしくなってきている。今日はこのへんで切り上げて早く帰ろう。
「だだ から、 ほほん とと トうに し シ、 しし 死ね ね と、おお、おおおお おもっ て てて」
「……え? …………え⁉」
今、死ねと言わなかったか?
重複する声の中で、こちらに「死ね」と唱えなかったか⁉
ミスをしたのは自分なのに。謝罪しに来たと見せかけて……。部署の、年上の人間に対して死ねというなんて考えられない――
「――ちょっとあなたねぇ! どういう意味?」
声を荒げて立ち上がると、一斉に周囲の視線がこちらを向いた。
――どうして。視線を向けるのならば、さっき彼女が私に「死ね」と言った時に向けるべきではないか。
ぐす、と洟を啜る音がして、高橋が泣き出す。さっきまで素知らぬふりをしていた同僚たちが「ちょっと河合さん」と咎める声を出す。
どうして!
暴言を吐いてきたのは高橋なのに。どうして私が咎められるの――――
これ以上ここにいると、ますます分が悪くなる。私は一ミリも悪くないのに。とりあえず長年の習性で非もないのに口だけで「ごめんなさい」と謝り、高橋を押しのけるようにしてその場を去った。
疲れている。心も身体も。
帰り道は珍しく、イヤホンをせずにゆっくりと歩いた。
思えばこのところ、ずっとイヤホンをしっぱなしだった。仕事の生き帰りは音楽やニュースを聴き、業務中はweb会議、お昼休みも一人だとネトフリを見たりしていた。耳も目も、酷使して神経が過敏になっていたのだ。高橋がいくら暴言を吐いたとは言え、自分も熱くなり過ぎた。
明日謝ろう。……いや、今から謝罪のLINEを送るべきか。
交差点で信号待ちをしながら、今のうちにとスマホを取り出す。
メッセージを書いては消し書いては消しする。そういえば今朝もこんな風に……と思っていると、耳元で「 あ お だよ 」と再び聞こえた。
また一歩を踏み出しかけ、軸足で踏みとどまる。信号を確かめると、まだ赤だった。
「誰っ⁉」
勢いよく背後を振り返り、後ろにいた初老の男性を脅かしてしまった。――やはり子供の声だった。少し高い少女のような、少年のような。
当然子供などいない。ここは通学路でもないし、近くに学習塾があるわけでもない。時刻は午後九時だ。
初老の男が怯えたように距離を取り、きた道を戻っていった。いよいよ背後に人はいなくなった。シャッターを下ろした小売店と、少し先にコンビニの明かりが見えるだけ。声を発するものが何もない。
やっぱり、……幻聴?
周囲を見渡していると、視界の隅に黄色が掠めた。目で追うと萎れた菊の花だった。白と黄色の菊の花が、半分に切ったペットボトルの花瓶に生けられていた。――交通事故だろうか。
(子供の、声……)
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、もう一度献花を見る。すっかり萎れた菊の花と、パック飲料のイチゴオレ。それと小学生が好きそうな玩具付きのお菓子。
……嘘でしょう? 私は心霊現象なんて今まで一度も――
もも う すこ シ だっ たた タ のに
また耳元で囁かれ、思わず悲鳴を上げる。激しく頭を振って周囲を見たが、誰も、何もいなかった。
いたずらなら、やめて。私は霊感なんてない。
し シ、 しし 死ね ね
トラブルの原因は、今年で入社二年目になる高橋だ。
彼女は最後の確認が甘く、数字が合わないまま請求書を作ったり、宛先を間違えたままメールを送ったりしてしまう。仕事はスピードが命と考えているらしく、何度確認しろと言っても聞かない。
片側三車線の交差点で赤信号に捕まり、社用携帯をチェックする。
経理部のグループLINEに、昨夜のミスについて高橋からの報告が入っていた。
最終チェックをしたが、目がすべってしまって見逃した、周囲にダブルチェックを頼もうと思ったがみんな忙しそうだった……等々。読んでいるうちにイライラとしてきて、イヤホンから流れるお気に入りの音楽も聞こえなくなっていた。
(他責がひどすぎる……)
部署内で孤立してしまう前に、個人LINEでこっそりと嗜めようか。本人のプライドを傷つけない程度に、気持ちはわかるけどまずは謝罪の言葉から始めよう、と。
文章を打っては消し打っては消ししていると、「 あ お だよ 」と耳元で囁かれた。
反射的に歩き出し、けたたましいクラクションを浴びた。
「っ……!」
ほんの数メートル先を、大型車両が走り抜けてゆく。クラクションを鳴らしてはいたものの、とてもブレーキを踏んだとは思えない勢いだ。
(びっくり、した……)
信号は、まだ赤だった。
慌てて歩道に戻ると、信号待ちをしている数人が「何をやっているんだ」という冷たい視線を向けてくる。歩きスマホなんかしているから、と視線が語っていて、思わずスマホをコートのポケットに突っ込んだ。
今、青って言われたから……。
誰? 悪質すぎる。一歩間違えば車に轢かれるところだった。
顔を伏せたままなんとなく周囲を観察する。少し高い、子どものような声だった。少年、小学生くらいの。でもそんな子はいない。背後にいるのはスーツ姿の社会人ばかり。
パールのピアスがこつりと当たり、ぞっと背筋が凍る。
(私、ずっと、イヤホンをしたままだ)
――耳元で聞こえた。まるで内緒話をするような距離で、私にだけ教えてくれるような声で。
恥ずかしさも忘れ、顔を上げて周囲を見回す。子供なんて見当たらない。もう歩み去った後かと遠くまで見てみたが、親子連れさえいなかった。そもそも、このあたりは通学路じゃない。
幻聴……? でもたしかに、人の声だった――
きょろきょろしていると、今度こそ本当に青になった。信号待ちをしていた人たちが白い目を向けながら脇を通り過ぎてゆく。
会社にいると気が紛れる。
数字に集中していると、余計なことを考えなくて済む。朝の出来事はすっかり「気のせい」で片付いていた。
気づけば周囲は雑多な音で溢れている。ここでも、タイピングの音や隅のブースで打ち合わせをする話し声、誰かの電話の着信音やオフィスチェアの軋みなど、普段は意識すらしない雑音で溢れている。今朝の子供のような声も、何か雑多な音がそれっぽく聞こえただけなのだ。
没頭しすぎて目の前に人が立っているのに気づかなかった。
「すみません、今ちょっといいですか?」
「わ!」
顔を上げると、高橋が立っていた。「びっくりした……」
「すみません。今朝いただいたLINEの件なんですけど――」
高橋は、こちらがいいも悪いも言わないうちに話し出した。
「私ももっとちゃんと確認すればよかったなとは思っていたんです。でも、変なところで相談したら、まだそこまでしか終わってないの? て思われるかなとか。本当にすみませんでした」
高橋は謝罪の言葉の間に言い訳を挟みながら、長々と喋り続けた。あまり「すみませんでした」を連呼されると、こちらが許していないみたいで外聞が悪い。何度も「もういいから」と止めたが、早口にまくしたてるばかりだ。
「高橋さん、もうわかったから。みんなもそんなに怒ってないから」
「じゃあどうして今朝、あんなメッセージを送ってきたんですか? 私、河合さんからのメッセージ見て凄いショックで」
「ごめん、そんなつもりで送ったんじゃないんだけど……」
だんだんと風向きが変わってきた。謝罪から言い訳、こちらを責める口調へと変わってきている。周囲の人間も、素知らぬ顔で手を動かしているが、耳を澄ましてこちらの会話を聞いているのがなんとなくわかる。
あとどれくらい言い訳が続くだろう。この仕事を今日中に片付けてしまいたい……。途中からこちらも疲れてきて、彼女の声が二重になって聞こえてくる。
「だだ かか ら、ほほん ととう に ももうしわけ ない と、 おもって」
「……ん、……え?」
やばい。疲労がピークで物の聞こえ方がおかしくなってきている。今日はこのへんで切り上げて早く帰ろう。
「だだ から、 ほほん とと トうに し シ、 しし 死ね ね と、おお、おおおお おもっ て てて」
「……え? …………え⁉」
今、死ねと言わなかったか?
重複する声の中で、こちらに「死ね」と唱えなかったか⁉
ミスをしたのは自分なのに。謝罪しに来たと見せかけて……。部署の、年上の人間に対して死ねというなんて考えられない――
「――ちょっとあなたねぇ! どういう意味?」
声を荒げて立ち上がると、一斉に周囲の視線がこちらを向いた。
――どうして。視線を向けるのならば、さっき彼女が私に「死ね」と言った時に向けるべきではないか。
ぐす、と洟を啜る音がして、高橋が泣き出す。さっきまで素知らぬふりをしていた同僚たちが「ちょっと河合さん」と咎める声を出す。
どうして!
暴言を吐いてきたのは高橋なのに。どうして私が咎められるの――――
これ以上ここにいると、ますます分が悪くなる。私は一ミリも悪くないのに。とりあえず長年の習性で非もないのに口だけで「ごめんなさい」と謝り、高橋を押しのけるようにしてその場を去った。
疲れている。心も身体も。
帰り道は珍しく、イヤホンをせずにゆっくりと歩いた。
思えばこのところ、ずっとイヤホンをしっぱなしだった。仕事の生き帰りは音楽やニュースを聴き、業務中はweb会議、お昼休みも一人だとネトフリを見たりしていた。耳も目も、酷使して神経が過敏になっていたのだ。高橋がいくら暴言を吐いたとは言え、自分も熱くなり過ぎた。
明日謝ろう。……いや、今から謝罪のLINEを送るべきか。
交差点で信号待ちをしながら、今のうちにとスマホを取り出す。
メッセージを書いては消し書いては消しする。そういえば今朝もこんな風に……と思っていると、耳元で「 あ お だよ 」と再び聞こえた。
また一歩を踏み出しかけ、軸足で踏みとどまる。信号を確かめると、まだ赤だった。
「誰っ⁉」
勢いよく背後を振り返り、後ろにいた初老の男性を脅かしてしまった。――やはり子供の声だった。少し高い少女のような、少年のような。
当然子供などいない。ここは通学路でもないし、近くに学習塾があるわけでもない。時刻は午後九時だ。
初老の男が怯えたように距離を取り、きた道を戻っていった。いよいよ背後に人はいなくなった。シャッターを下ろした小売店と、少し先にコンビニの明かりが見えるだけ。声を発するものが何もない。
やっぱり、……幻聴?
周囲を見渡していると、視界の隅に黄色が掠めた。目で追うと萎れた菊の花だった。白と黄色の菊の花が、半分に切ったペットボトルの花瓶に生けられていた。――交通事故だろうか。
(子供の、声……)
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、もう一度献花を見る。すっかり萎れた菊の花と、パック飲料のイチゴオレ。それと小学生が好きそうな玩具付きのお菓子。
……嘘でしょう? 私は心霊現象なんて今まで一度も――
もも う すこ シ だっ たた タ のに
また耳元で囁かれ、思わず悲鳴を上げる。激しく頭を振って周囲を見たが、誰も、何もいなかった。
いたずらなら、やめて。私は霊感なんてない。
し シ、 しし 死ね ね
