耳年齢テスト 20kHz

「いやっ! うるさ!」
 同僚の久保さんが、耳を押さえて顔をしかめる。身体を前かがみにし、今にもその場にしゃがみこんでしまいそうな勢いだ。河合聡子は、思わずびっくりして立ち止った。
「なんか耳がキンとするよね」
 聡子の左側を歩いていたもう一人の同僚・林さんも、こめかみを押さえて久保さんに同調する。いったい何がそんなに辛いのだと、聡子は呆気に取られた。

 神保町のすずらん通りから脇に入った細い通り。午後十時を回り、道行くひとはかなり少ない。人通りが少ないのをいいことに三人横並びで歩いていたら、二人が突然辛そうに耳を押さえだした。
 二人は歩調を早め、小走りでコンビニ前の広場を抜けた。道路を渡り、細い路地に入ると二人はようやく耳から手を外した。
「最近、多くない? あの音流してるとこ」
「多い。うちの最寄り駅の前でも流し始めた。毎回通るたんびに耳痛い」

 どうやら、さっき通りかかった場所で耳障りな音が流れていたらしい。聡子には彼女らのいう「あの音」がわからない。耳が痛くなるどころか、町の雑踏以外、何も音が聞こえなかった。
「大丈夫? そんなに大きく鳴ってた?」
 ようやく二人が落ち着いてきたところでたずねると、二人が同時にえっ、と声を上げた。
「聡子さん、あれ聞こえないんですか?」
「かなり大きな音で鳴ってますよ?」
 二人にぎゃあぎゃあと騒がれ、そんなに大きな音だったのかとびっくりする。そんな音、いつ鳴っていたのだろう? 周囲の歩行者の話し声と、視覚障碍者用の音響式信号の音しか聞こえなかったが。

「さっきのコンビニの前で! キーンって音鳴ってたじゃないですか!」
「なんかこう、奥歯が痛くなってくるような音!」
「……歯医者さんが歯を削る音みたいな?」
「あんな騒音じゃなくて!」
 何言ってるんですか、と二人が笑い出す。
 聡子としてはいたって真面目に答えていたのに、どうしても話が嚙み合わない。教えてもらっても「あの音」を聞かなかった聡子には、どんなに耳障りな音なのかさっぱりわからなかった。
 
 ひとしきり笑った後で、次のお店はどこにしようかと二人は地図を見始めた。
 さっきまでベトナム料理でさんざん飲み食いし、おなかはすでにはち切れそうだ。正直、デザートが入る余裕などない。けれど若い二人は、ミニストップのアイスにしようか、ロイホのパフェにしようかと真剣に話し合っている。
 
 二人と仲良くなったのはおよそ一年前。
 林さんは営業部、久保さんは広報部。同じ職場と言えど、三人とも部署が違うので顔を合わせることはほとんどなかった。けれど一昨年の忘年会で同じテーブルになり、その時にはまっているドラマの話で盛り上がった。一回り以上も年下の彼女らと、同じ話題で盛り上がれたのが嬉しかった。
 
 でもさ、と再び林さんが「あの音」に話題を戻す。
「あんな音流してたらさ、そのうち健康被害が出るよ。本当に頭痛くなるもん」
 わかる! と、久保さんがきゅっと顔を顰める。もともと久保さんは頭痛持ちで、常に痛み止めを持ち歩いている。
「何のために流してるの?」
 久保さんが弱った顔で訊くと、林さんが一重の目をすっと細めた。林さんはエキゾチックな顔立ちの美人なので、そんな表情をされると少し怖い。
「若者が立ち止まらないように流しているらしいよ。だから夜によく聞こえるじゃん」
「えーそうなの?」
「駅前の広場とか、商業施設のベンチのあるところとかで流してるんだって。もうモスキート音が聞こえなくなったじじいたちが設置しようって言ったんだよ。ほんと自分たちのことしか考えていないんだから。これだから老害は」
(……老害)
 二人の話をまとめると、どうやら大きな商業施設の出入り口や駅周辺で、モスキート音と呼ばれる高周波音が流れているらしい。そのモスキート音は若者の聴力でしか聞き取ることができないようだ。
「……困るよね、そういうの」
 当たり障りなく調子を合わせていると、林さんが「いいなー」と声を高めた。
「聡子さん、もうモスキート音聞こえないんだ。いいなー」
 いいな、と言いつつ、心から羨ましがっているようには見えなかった。まるで世代の線引きをされたような気がした。
「――聞こえないっていうか、さっきは気づかなかっただけ。結構がやがやしてたし」
 思わず、まったく聞こえないわけではないような口ぶりになってしまった。よせばいいのに「あのキーンっていう音でしょ?」などと、まるで少しは聞こえていたようなことまで付け足した。
「たしかに。結構ひといましたもんね」
 久保さんが穏やかな笑顔で首肯する後ろで、林さんはもうスマホに視線を戻している。
「あっ、また!」
 物音や他人の動作に敏感な久保さんが再び耳をふさぐ。――今度はどこから流れているのだろう。