生ぬるい風が、闇に包まれた木々を舐めていた。
風とともにどこからか甘ったるい臭いが漂ってくる。車内の粟田君はぼんやりと辺りに視線をさまよわせていた。その目は周囲を確認しているように見えるが、実際には何も見ていないに違いない。私が運転している間、声を掛けてもずっと上の空だった。
私がどうにかしないと。
今夜も金縛りの二人が亡くなったことを調べたいと言った粟田君に乗っかり、焚きつけてしまった。さらには不要なことを調べて、粟田君を一人で行動させたのは私だ。何かに没頭している方が彼にとっていい方向に働くと思っていたのだ。それに正直、興味を惹かれていた。昔からオカルトは嫌いじゃない。何か面白い話が出てくれば、と思ってしまった。それがいけなかった。
構成作家の橘さんが亡くなったと聞いた時、背中に冷や汗が伝った。この件は触れちゃいけなかった。そう思った時にはすでに遅く、顔を合わせた粟田君はひどくやつれて見えた。数日前は落ち込んでいたとはいえ、これほどではなかったのに。
それに先日の彼は、自分から道路に飛び込んで死のうとしていた。何かよくないものに取り憑かれているのだろうか。そいつが先の三人も呪い殺したのだろうか。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、もう私にはそう考えるしかなかった。
「粟田君、行こう」
助手席で呆けていた彼を半ば強制的に連れだす。この廃寺で合っているはずだ。合っていなくちゃ困る。時刻は深夜二時。準備に手間取ってしまった。本当は昼間に来たかったが、事は一刻を争う。
お願いします、助けてくれませんか。
伝手を頼り、知り合いの知り合い、そのまた知り合いである民俗学者にそう連絡を取った。寺に詳しく、関連する論文をいくつも書いている、その道の著名な学者だ。こういう時、自分が今の職業でよかったと思う。
私はその学者……高倉恒一教授に今夜も金縛りの廃寺探索動画を送った。彼らを含む三名が次々と死亡していること、友人の様子がおかしいこと、この動画が発端ではないかと睨んでいること。もしそうであれば、何か解決方法はないか。そのような趣旨のことも書いた。
三日経って返事が来た。呪いについては門外漢なので分からないが、そこは××寺で間違いないと思う、ということだった。
××寺の周辺には小さな村があったが、人がいなくなってしまい、寺はそのまま放置されているらしい。記録によると即身仏のある珍しい寺だったが、村とともにその仏も忽然と消えてしまったそうだ。
動画に映っているのがその寺であれば、本堂にあるはずの鏡がない。数年前フィールドワークに赴いた時は丸鏡が置いてあったはずだから、もしかしたらそれが原因かもしれない。鏡はあの寺にとって重要なアイテムで、村の記録にもそのことが書かれている。元々置いてあった鏡を見つけ出すか、新しいものを置いてみると効果があるのではないだろうか。そんなことが書いてあった。
私は……私たちは、これに縋るしかない。
元あった鏡を見つけるのが一番だとは思うが、探して時間を浪費するのは避けたい。見つからずに粟田君が呪い殺されるなんてことになってしまったら、私は一生自分を許せないだろう。だから新しい丸鏡を買った。霊験あらたかな寺で清めてもらい、埃一つつけないよう、清潔な布に何重にもくるんで持ってきた。人の頭ほどの大きさのそれを脇に抱え、左手に懐中電灯、右手で粟田君を引っ張りながら、階段下から寺を見上げる。ここを上れば本堂に辿り着くはずだ。
「粟田君、もう少しだけ頑張って」
「……はい」
小さな返事が聞こえる。反応があるとほっとした。
気合いを入れて一歩を踏み出した。頭上に広がる空には厚く雲がかかり、月の光も星明かりも見えない。果物を腐らせたような臭いが、一段と濃くなった気がした。
苔むした階段を一段一段上る。
声が聞こえた。
笑い声だ。
一人のものじゃない。大勢の人たちの笑い声。男も女も、子どもも老人も一緒になって笑っている。階段を上るごとに大きくなる。
私は教授から送られてきた村の文献を思い出した。この村は一人の僧を犠牲にし、束の間の安寧を手に入れた。その代償が呪いだったのだろうか。この笑い声は、死んだ村人たちのものだろうか。
足が竦みそうになる。この声は、決して幸福や喜びから来ているものではない。怒りと悲しみ、狂気からくるものだ。
「あははっはははは」
ふと、すぐ後ろから声がした。
粟田君が笑っている。どこも見ていない目で、口だけを三日月のように吊り上げて。
「あははははははははははははははははは」
早く上りきらなくては。あはは耳を塞ぎたくなるけど、両手は塞がっているははは。耳をあはは傾けてはいけはははない。はははは聞いてはいけはははないははと思っはははているのにはははそう思えば思うははははほど笑い声が脳にあはははははは響くははは。だめははははははだはははははははしっかりあっははははははははしないとははははははは。もうははは少しはははははあはははもう少しはははははははなんだからははははは。
「……ついた」
ようやく本堂まで辿り着いた。笑い声のせいで自分の声さえ聞こえない。後ろを振り向けば粟田君は大きく口を開けて笑っていた。笑っているのだと思う。他の声が大きくて、彼の声が埋もれてしまっていた。
「粟田君、ここで待ってて!」
置いて行くのは不安だが、ここから先は両手を使わなければならない。
抱えていた鏡を本堂の傍に置く。中を見ると動画と同様、荒れ果てていた。建付けの悪くなった扉をなんとかこじ開ける。鏡は空になっている台座の上にあったはずだ、と高倉教授はメールに書いていた。布から鏡を取り出す。両手で抱え、扉を潜った。
低い笑い声が、遠くから聞こえた。
気付けば周囲の笑い声はぴたりとやんでいた。
村のために犠牲になったお坊さんが頭をよぎる。いや、考えるのはよそう。不安を大きくするだけだ。
意を決して進む。この鏡を安置すれば、きっと粟田君は元通りになる。声も聞こえなくなる。何もかも大丈夫。
ははははは。
耳元で、笑い声がした。
同時に、つう、と、何かが私の頬に触れた。
体が固まる。視線だけでそれを追う。
からからに干からびて変色し、ひび割れた手だった。異様な腐臭が濃くなる。ひび割れた肌から、緑の液体が少しずつ溢れていた。
中身が腐っているんだ。全身が粟立った。この手は、村の犠牲になった即身仏の手だ。
ははははは。
足がふるえていた。叫び声を上げたくなった。
歯を食いしばって、一歩踏み出す。声を聞くな、臭いを嗅ぐな。ただ台座だけを見つめる。とにかく鏡を。粟田君を。
なりふり構っていられなかった。叩きつけるように丸鏡を台座に置く。まるで最初からそこにあったかのように、鏡は台座の上に鎮座した。
声がやんだ。腐臭もしなくなった。
助かったのだろうか。元通りになったのだろうか?
「沢木さん!」
後ろから声がした。粟田君のものだった。
「粟田君……!」
振り返る。目に意志の戻った粟田君がそこにいた。
「よかった、本当に良かった!」
彼の元に駆け寄る。危うく抱き着きそうになったけど、すんでのところで思い留まった。いくらただの先輩後輩と言えど、ただのセクハラだ。こんな状況でもそんな配慮を考えている自分が少しおかしかった。
「元に戻らなかったらどうしようかと思った……もう変な声、聞こえてないよね? 変なものも見えてないよね?」
「そんなに慌てないでください、沢木さん」
「だって最近の粟田君、本当におかしかったんだよ」
「大丈夫ですよ。僕はずっと僕です」
のんびりと言う粟田君は、私の知る彼だった。気付けば涙がこぼれていた。
「凄く怖かった。ずっと嫌な気配に追いかけられるし、挙句の果てにはミイラみたいなのは出てくるし」
「ミイラ?」
粟田君は笑って首を傾げる。
それから、私の背後を指を差した。
「ミイラって、あれですよね」
笑い声と、腐臭がした。
風とともにどこからか甘ったるい臭いが漂ってくる。車内の粟田君はぼんやりと辺りに視線をさまよわせていた。その目は周囲を確認しているように見えるが、実際には何も見ていないに違いない。私が運転している間、声を掛けてもずっと上の空だった。
私がどうにかしないと。
今夜も金縛りの二人が亡くなったことを調べたいと言った粟田君に乗っかり、焚きつけてしまった。さらには不要なことを調べて、粟田君を一人で行動させたのは私だ。何かに没頭している方が彼にとっていい方向に働くと思っていたのだ。それに正直、興味を惹かれていた。昔からオカルトは嫌いじゃない。何か面白い話が出てくれば、と思ってしまった。それがいけなかった。
構成作家の橘さんが亡くなったと聞いた時、背中に冷や汗が伝った。この件は触れちゃいけなかった。そう思った時にはすでに遅く、顔を合わせた粟田君はひどくやつれて見えた。数日前は落ち込んでいたとはいえ、これほどではなかったのに。
それに先日の彼は、自分から道路に飛び込んで死のうとしていた。何かよくないものに取り憑かれているのだろうか。そいつが先の三人も呪い殺したのだろうか。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、もう私にはそう考えるしかなかった。
「粟田君、行こう」
助手席で呆けていた彼を半ば強制的に連れだす。この廃寺で合っているはずだ。合っていなくちゃ困る。時刻は深夜二時。準備に手間取ってしまった。本当は昼間に来たかったが、事は一刻を争う。
お願いします、助けてくれませんか。
伝手を頼り、知り合いの知り合い、そのまた知り合いである民俗学者にそう連絡を取った。寺に詳しく、関連する論文をいくつも書いている、その道の著名な学者だ。こういう時、自分が今の職業でよかったと思う。
私はその学者……高倉恒一教授に今夜も金縛りの廃寺探索動画を送った。彼らを含む三名が次々と死亡していること、友人の様子がおかしいこと、この動画が発端ではないかと睨んでいること。もしそうであれば、何か解決方法はないか。そのような趣旨のことも書いた。
三日経って返事が来た。呪いについては門外漢なので分からないが、そこは××寺で間違いないと思う、ということだった。
××寺の周辺には小さな村があったが、人がいなくなってしまい、寺はそのまま放置されているらしい。記録によると即身仏のある珍しい寺だったが、村とともにその仏も忽然と消えてしまったそうだ。
動画に映っているのがその寺であれば、本堂にあるはずの鏡がない。数年前フィールドワークに赴いた時は丸鏡が置いてあったはずだから、もしかしたらそれが原因かもしれない。鏡はあの寺にとって重要なアイテムで、村の記録にもそのことが書かれている。元々置いてあった鏡を見つけ出すか、新しいものを置いてみると効果があるのではないだろうか。そんなことが書いてあった。
私は……私たちは、これに縋るしかない。
元あった鏡を見つけるのが一番だとは思うが、探して時間を浪費するのは避けたい。見つからずに粟田君が呪い殺されるなんてことになってしまったら、私は一生自分を許せないだろう。だから新しい丸鏡を買った。霊験あらたかな寺で清めてもらい、埃一つつけないよう、清潔な布に何重にもくるんで持ってきた。人の頭ほどの大きさのそれを脇に抱え、左手に懐中電灯、右手で粟田君を引っ張りながら、階段下から寺を見上げる。ここを上れば本堂に辿り着くはずだ。
「粟田君、もう少しだけ頑張って」
「……はい」
小さな返事が聞こえる。反応があるとほっとした。
気合いを入れて一歩を踏み出した。頭上に広がる空には厚く雲がかかり、月の光も星明かりも見えない。果物を腐らせたような臭いが、一段と濃くなった気がした。
苔むした階段を一段一段上る。
声が聞こえた。
笑い声だ。
一人のものじゃない。大勢の人たちの笑い声。男も女も、子どもも老人も一緒になって笑っている。階段を上るごとに大きくなる。
私は教授から送られてきた村の文献を思い出した。この村は一人の僧を犠牲にし、束の間の安寧を手に入れた。その代償が呪いだったのだろうか。この笑い声は、死んだ村人たちのものだろうか。
足が竦みそうになる。この声は、決して幸福や喜びから来ているものではない。怒りと悲しみ、狂気からくるものだ。
「あははっはははは」
ふと、すぐ後ろから声がした。
粟田君が笑っている。どこも見ていない目で、口だけを三日月のように吊り上げて。
「あははははははははははははははははは」
早く上りきらなくては。あはは耳を塞ぎたくなるけど、両手は塞がっているははは。耳をあはは傾けてはいけはははない。はははは聞いてはいけはははないははと思っはははているのにはははそう思えば思うははははほど笑い声が脳にあはははははは響くははは。だめははははははだはははははははしっかりあっははははははははしないとははははははは。もうははは少しはははははあはははもう少しはははははははなんだからははははは。
「……ついた」
ようやく本堂まで辿り着いた。笑い声のせいで自分の声さえ聞こえない。後ろを振り向けば粟田君は大きく口を開けて笑っていた。笑っているのだと思う。他の声が大きくて、彼の声が埋もれてしまっていた。
「粟田君、ここで待ってて!」
置いて行くのは不安だが、ここから先は両手を使わなければならない。
抱えていた鏡を本堂の傍に置く。中を見ると動画と同様、荒れ果てていた。建付けの悪くなった扉をなんとかこじ開ける。鏡は空になっている台座の上にあったはずだ、と高倉教授はメールに書いていた。布から鏡を取り出す。両手で抱え、扉を潜った。
低い笑い声が、遠くから聞こえた。
気付けば周囲の笑い声はぴたりとやんでいた。
村のために犠牲になったお坊さんが頭をよぎる。いや、考えるのはよそう。不安を大きくするだけだ。
意を決して進む。この鏡を安置すれば、きっと粟田君は元通りになる。声も聞こえなくなる。何もかも大丈夫。
ははははは。
耳元で、笑い声がした。
同時に、つう、と、何かが私の頬に触れた。
体が固まる。視線だけでそれを追う。
からからに干からびて変色し、ひび割れた手だった。異様な腐臭が濃くなる。ひび割れた肌から、緑の液体が少しずつ溢れていた。
中身が腐っているんだ。全身が粟立った。この手は、村の犠牲になった即身仏の手だ。
ははははは。
足がふるえていた。叫び声を上げたくなった。
歯を食いしばって、一歩踏み出す。声を聞くな、臭いを嗅ぐな。ただ台座だけを見つめる。とにかく鏡を。粟田君を。
なりふり構っていられなかった。叩きつけるように丸鏡を台座に置く。まるで最初からそこにあったかのように、鏡は台座の上に鎮座した。
声がやんだ。腐臭もしなくなった。
助かったのだろうか。元通りになったのだろうか?
「沢木さん!」
後ろから声がした。粟田君のものだった。
「粟田君……!」
振り返る。目に意志の戻った粟田君がそこにいた。
「よかった、本当に良かった!」
彼の元に駆け寄る。危うく抱き着きそうになったけど、すんでのところで思い留まった。いくらただの先輩後輩と言えど、ただのセクハラだ。こんな状況でもそんな配慮を考えている自分が少しおかしかった。
「元に戻らなかったらどうしようかと思った……もう変な声、聞こえてないよね? 変なものも見えてないよね?」
「そんなに慌てないでください、沢木さん」
「だって最近の粟田君、本当におかしかったんだよ」
「大丈夫ですよ。僕はずっと僕です」
のんびりと言う粟田君は、私の知る彼だった。気付けば涙がこぼれていた。
「凄く怖かった。ずっと嫌な気配に追いかけられるし、挙句の果てにはミイラみたいなのは出てくるし」
「ミイラ?」
粟田君は笑って首を傾げる。
それから、私の背後を指を差した。
「ミイラって、あれですよね」
笑い声と、腐臭がした。
