名前だけでも忘れてください

「……粟田君、大丈夫?」
 沢木さんの声で僕は顔を上げた。いつの間にかテーブルの一点を凝視し俯いていた。いつからこんなに呆けていたのか覚えていない。呼吸も瞬きもできていたのか分からない。店内の雑音が遅れて耳に届いた。
「大丈夫なわけないよね。色々大変だったんでしょう?」
 沢木さんは気づかわしげに僕を見る。僕はなんとか頷き、温かいカフェラテを啜った。先週の橘さんの一件以来、こうして心あらずになってしまっていることが多い。
「ショックを受けて心が不安定になっているのよ。ゆっくり休んだ方がいいわ」
「……そうかもしれません」
 今夜も金縛りの二人に続き、その構成作家まで亡くなってしまった。この事件で今やSNSは持ちきりだ。呪いだと騒ぎ立てる声は日に日に増し、他にも「彼らは知ってはならないことを知って政府に消された」という陰謀論めいたものや「三人は新興宗教にハマっていて、生け贄として自らを捧げたのだ」という出どころの分からない噂も湧いて出る始末だった。人々はより真新しく過激な論を展開することに夢中で、単純に彼らの死を悼む者は三割もいないように思える。
「ごめんね。君を一人で行かせちゃったからこんなことに……」
「いいえ、そんな。橘さんと連絡を取りたいって言い出したのはこっちですし」
 沢木さんには感謝こそすれ、怒りや責める気持ちはまったくなかった。もし止められていても行っていたに違いない。
「それに、沢木さんがあれを見なくて良かったですよ」
 あの時の橘さんの表情を、今でも夢に見る。真っ暗な僕の自室に、耳のない橘さんが佇んでいる、そんな悪夢を。起きていても気を抜けば瞼の裏にすぐ浮かんでくるほどだ。
 それにあの笑い声、血の臭い、腐った肉片……すべてをまざまざと思い出してしまう。端的に言って気分は最悪だった。
「そんなに酷かったの?」
「ええ、本当に生きた心地がしなかったです」
「……そうなの……もう忘れた方がいいわ。楽しいことだけ考えて」
 気遣ってくれるのはありがたいが、そう言われると逆に考えてしまうのだか。僕は心の中だけで苦笑した。
 ふと、沢木さんの口が吊り上がったように見えた。あの日橘さんが見せた、満面の笑みのような。
「どうかした?」
「いいえ、すみません」
 瞬きすると沢木さんの顔は気づかわしげなものに戻っていた。僕は何度か強く目を瞑る。疲れているのだ、と自分に言い聞かせる。
「とにかく、この件からは一旦手を引きましょう。顔色、すごく悪いもの」
「でもネットの憶測は酷くなっていくばかりです。皆、適当なことばかり並べ立てている。それが嫌なんです」
「……きついことを言うようだけど、粟田君には何も関係ないじゃない。体を壊したら元も子もないわよ」
 沢木さんの言うことはまったくの正論だった。言葉は厳しいが、それほど僕のことを考えてくれているということだ。
「もう少しだけ。もう少しだけ、調べたいんです」
 僕は頭を下げ、沢木さんの返答を聞く前にテーブル上の伝票を掴んだ。

 カフェを出る。これから家に戻って仕事をする気にもなれない。適当にぶらついてこれからどうするべきか考えようと思った。三人の死の真相を探るにせよ、どこを当たるべきか。
 一つは今夜も金縛りが出演していた劇場だろう。亡くなる直前までの彼らの様子を事細かに聞くならあそこだ。
 それとあの廃寺。実際に訪れてみたら発見があるかもしれない。ただ危険な予感がする。
 あてどなく歩いていると大きな交差点に差し掛かった。渡ろうとしたが、ちょうど青信号が点滅して赤に移り変わる。走って渡る学生たちを横目に、僕は道路前で立ち止まった。ほどなくして車が動き出す。周囲には信号待ちの人がちらほらといた。
 スマホに目を落とす。沢木さんからメッセージが届いていた。
『気を悪くさせてごめん。でも本当に心配なの』
 分かってます、ありがとうございます。と返信する。すぐに『よければ私もまだ手伝いたい』。
 本当に優しい人だ。僕に付き合ってもいいことなど何もないのに。
 スマホがふるえる。沢木さんから追いメッセージだ。
『どこにいるの? 今後のことをもう一度話し合いましょう』
 なんだかカップルの痴話喧嘩のようだ。誓って僕らの間にそんな感情はないのだが。沢木さんの伴侶の写真を見たことがあるが、男の僕から見ても見目がよく、仕事もしっかりできる人らしい。沢木さんは彼にゾッコンだった。
 しかし、どこって、どこだろう。適当に歩いてきたから分からない。
 周囲を見渡す。何かめぼしいものはないか。気付けば信号待ちの人は皆いなくなっていた。いつの間にか信号が変わって全員歩き出してしまったのだろうか。
 いや、違う。車は音を立て道路を走っている。僕だけが一人、信号が変わるのを待っている。皆、どこに行ってしまったのだろう。
 ふと、自分のすぐ横で動くものがあった。人だ。よかった。僕以外の人がいたことに安心する。長い髪で顔は見えないが、薄汚れたワンピースを着た、おそらく女性だった。
 顔を見たい、と思った。
 笑い声がする。何がそんなに面白いのか、その女性はけたたましく笑っていた。
 女性はおもむろに歩き出す。車が行き交う、その交差点の中に。
「……危ない!」
 僕は思わず一歩踏み出し、その女性の腕を引っ張った。引っ張ろうとした。
 クラクションとブレーキが耳をつんざく。振り向くと、目の前でトラックが急停止した。運転手が降りてきて、僕に何事かを怒鳴りつけている。よく聞こえない。不思議だ。その代わり、僕の耳に絶えずあの笑い声が響いている。
 周囲を見渡してもあの女性はいない。いつの間にか信号待ちの人々が元通りいて、全員が奇特なものを見るような目で僕を見ている。
「……粟田君!」
 肩を揺さぶられた。沢木さんが涙を浮かべて僕を見ていた。音は何食わぬ顔で戻ってきていた。
「粟田君、何してるの! 心配になって追いかけてきたら、急に飛び出して……」
「女の人がいたんです」
 その人を助けたくて。至極まっとうで、筋の通った説明だと思う。しかし沢木さんは、悲しそうな目で僕を見つめるだけだった。
「どうして笑ってるの……?」
 僕の顔には知らず笑みが浮かんでいた。