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生身の保存と信仰の時間――即身仏における身体の自己封印と宗教的表象
著者名:高倉 恒一

 即身仏とは、生きたまま仏となることを目指し、肉体を朽ちにくい状態へと導いた修行僧のことである。
 長年にわたり木の実や草のみを口にし、脂肪を削ぎ落とし、やがて土中の石室へと入る。外界とを繋ぐのははわずかな通気口と、手にした鈴の音だけだという。修行僧の鳴らす鈴がやめば、地上の者たちはその者の成仏を悟り、静かに通気口を塞ぐ。数年後に掘り起こされ、身体が崩れていなければ成就とされた。
 そこには死を拒むのではなく、死を通過して信仰を証明しようとする逆説的な覚悟がある。極限まで削ぎ落とされた身体は、個人の魂の器というより祈りの容れ物へと昇華される。

(中略)

 即身仏研究においては、修行僧の強固な信仰心と自発的意志が強調されてきた。しかし残された史料は弟子や後世の記録に依存しているものも多い。長期の木食行と隔絶された修行環境のなかで、僧本人の意思がどこまで維持されていたのかは検証困難である。信仰的達成として語られる即身仏は、同時に共同体の期待や権威構造の産物でもあった可能性がある。本稿は、即身仏を「完全な自発」と断定する語りそのものを再検討し、沈黙させられた内面の不確実性に光を当てる。

(中略)

M県○○山文書に、入定直前とされる僧の走り書きが残る。「村民を救えるのなら、喜んでこの身を差し出す」とある。従来は覚悟の表明と解釈されてきたが、近年の調査では筆圧の乱れと書き直しの痕が確認された。堂内に安置された像の右手は、いまも鈴を握る形のまま、わずかに開きかけている。