三日後、僕は都内のとあるデザイナーズマンションの前にいた。打ちっ放しのコンクリートに、大きく取られた窓ガラスが交差する幾何学的な外観。張り出したベランダが建物全体に立体的な厚みを与えている。昼の光りを受け、周囲の街路樹が生き生きと緑に輝いていた。
ここが橘さんの自宅らしい。沢木さんからメールで連絡先を教えてもらい、橘さんと直接やり取りし始めたのが二日前。自分が今夜も金縛りのファンであることを話し、二人についてどんなことでも教えてほしいといった申し出を、橘さんは快く受け入れてくれた。どうやら僕がやもしばにインタビューを取り付けたことを知ってくれていたようだ。恐らくただのミーハーであれば取り付く島もなかっただろう。僕は過去の自分に感謝した。
玄関前で部屋番号である401を押し、橘さんにオートロックを解除してもらう。
「どうも。お入りください」
インターホン越しに聞く橘さんの声は当然ながらあの動画と同じものだった。ただ声の端々から疲れが滲み出ているようだった。
「失礼します。連絡していた粟田です」
「橘です。片付いていませんがどうぞ」
謙遜だった。1Kの一室は僕の部屋よりよほど整理整頓されており、資料が床に散らばっていることも、どこかで買った土産や御守りが適当に放置されていることもない。あるべきところにあるべきものが収まっている印象を受けた。
「すみません、無理を言ってお邪魔させてもらって」
僕は頭を下げる。「いえいえ」と橘さんは薄く笑った。動画でも何度か姿は出ていたが、歳は三十代ほどの、柔和な顔立ちをした男性だ。スクエア眼鏡を掛けた目の下には薄く隈ができている。
一つ一つが洗練されたデザインの家具を目にしながら、僕はどう切り出すべきか迷っていた。世間話もなしにそのまま本題に突入してもいいものだろうか。もっと考えてくるべきだった。
「どこかでお会いしたことありますか?」
「え?」
突然橘さんがそんなことを言うものだから、僕は思わず聞き返してしまった。
橘さんはこちらをじっと見ている。
「えっと……いいえ、ないはずですが」
記憶を辿る。会社勤め時代に顔を合わせていただろうか。だがいくら思い出そうとしても、覚えはまったくなかった。恐らく他人の空似か、橘さんの記憶違いだろう。
「そうですか、失礼しました」
あっさり引き下がられ、少なからず拍子抜けした。お座りください、と柔らかな声で椅子を勧められる。テーブル越しに対面で座ると、まるで面接を受けているかのような気分になった。
「あの、今夜も金縛りのお二人についてなのですが。この度は……お悔やみ申し上げます」
橘さんは構成作家として二人と長い期間付き合いがあり、ほとんど身内のようなものに違いない。お悔やみの言葉を投げかけるのは間違いではないだろう。
「……僕はあの二人こと、養成所時代の頃から知ってまして。弟みたいなものだったんですよ。それなのに……どうしてこうなってしまったのか」
橘さんはテーブルに肘をつき、目頭を押さえる。
続けるべき言葉がすぐには見つからなかった。気の利いた言葉が掛けられない自分の浅はかさが恨めしい。こんな状況でなかったら、まだ二人が生きている頃に橘さんに会えたら、どれだけ幸せだったことだろう。
「……二人についてならだいたいのことは話せますよ。といっても、細かいエピソードなんかはファンであるあなたの方が詳しいかもしれませんが」
「いいえ、そんなことは……」
「そうだ。まだアップする前だった動画、観ますか? 編集チェックしてほしいって送られてきて、そのままのやつ」
こちらが答える前に、橘さんはテーブルの隅に置いてあったラップトップを開き、手早く起動させる。
「この動画、アップしようか悩んでいるんですよね。ほら、今色々と騒がしいでしょう。もう少し落ち着いてからでもいいかと思って」
「そうですね。それがいいかもしれません」
今上げればなんでもない内容だとしてもきっと荒らされて終わるだろう。霊が映っているだの、すでに呪いの兆候があるだの、そんなことを心ないネット民に書かれるに違いない。
「皆が忘れた頃にぽろっと上げるとします」
橘さんはマウスをクリックする。同時に動画が再生された。
「はーいどうも、鷹野上です!」「オバケです」「さあ今日の企画はこちら! 名曲アウトロクイズ!」「普通はイントロやると思うんですけどね」
まだ元気な二人が活き活きと動いている。彼らが亡くなってからまだ二週間も経っていないのに、ひどく懐かしい気持ちになった。
動画自体はなんてことのないものだ。いや、一ファンからすれば垂涎物であるし、軽妙な掛け合いは二人のよいところが出ていて本当に面白い。ともすれば声を上げて笑いそうになった。その度に胸がちくりとする。
「これが最後の動画になるなんて思いもしなかったな……」
動画が終わった後、橘さんは静かに呟いた。いい動画だったが、彼らの死の謎を解明することに限っては、何も情報が得られそうになかった。
「……あの」僕は思い切って尋ねる。「お二人から何か聞いていませんか」
「何かって?」
「その、例えば……呪われている、といったような」
橘さんは深くため息をつく。
「なんだ、あなたもそういった類か。SNSではやれ呪いだの、おかしな名前をつけるから霊が怒っただの……皆が適当なことばかり言う」
「すみません。でも僕はファンの一人として、真相を知りたくて。お二人のことを貶める意図はまったくないんです」
僕は橘さんの目をまっすぐに見た。橘さんもまた、僕の目をじっと見つめ返してくれた。
「……分かりましたよ。実は二人の死に関わっていそうなことが書かれた資料があるんです。取ってきますよ」
「ありがとうございます!」
僕は深々と頭を下げた。橘さんは立ち上がり、別室に移動する。僕の胸は期待で満ち溢れていた。資料とはいったいなんなのだろう。
待ち遠しく思いながら部屋を見渡す。スマートフォンを触って待っていても良かったが、橘さんが帰ってきた時に携帯を弄っているのはバツが悪い。それにSNSを見たらまた嫌な気分になってしまいそうだ。
橘さんはなかなか戻ってこなかった。資料を探すのに手間取っているのだろうか。整理整頓されているから、それほど時間は掛からなさそうに思えるのだが。
起動されたままのラップトップが視界に入った。
よくないことだとは思いつつも、つい手が伸びた。マウスを操作し、チャットアプリをクリックする。
もちろん普段の僕はこんなことはしない。これが悪しき行為だとは十二分に分かっている。けれど手を止めないのは、ここに何か情報があるかもしれないと、そう思ったからだ。
オバケ
お疲れ様です。
業者に頼んでいた動画の編集終わりました。最終チェックお願いします。
――ギガファイル便 受取期限 2026/02/10
橘
ありがとう あとで確認しておく
次の企画会議は来週でいいかな?
それまでは編集終わったの上げといて
そういや体調の方は大丈夫?
オバケ
全然大丈夫ですよ。
前からあるやつは前からなんで。
橘
鷹野上君は?
オバケ
まだ少し脚が痛むみたいですけど、舞台には立ててるから大丈夫ですよ。前からあるやつは前からあることなんで。
橘
前からってやつのこと?
オバケ
やつのこと。
オバケさんと橘さんのやり取りだ。罪悪感に苛まれながらも、マウスを操る手が止まらない。
●今夜も(笑)ってチャンネル動画企画書
基本方針:漫才コンビ『今夜も金縛り』によるロケ・検証・対談を中心とした公式動画コンテンツ。定期更新により固定視聴者の獲得を目指す。
コンビの素顔や関係性も発信し、笑い以外の要素で新たな客層を掴む。
① 都内某所・廃寺ロケ企画
都内に現存する廃寺を訪問。
昼と深夜の様子を比較撮影し、環境音の違いなどを検証する。
現地では簡単な肝試し形式のミニゲームも実施。
事前準備は行うが、基本的には現場の状況を尊重し、撮影はノーカット素材も保存する。
② 『絶対笑わない男』インタビュー企画
劇場最前列で観覧している常連客のあの男に電撃取材!ライブへの思いや、お笑い観賞のこだわりを聞く。
過去の来場履歴や写真も可能な範囲で確認。『絶対笑わない男』は本当に笑っていないのか?芸人と観客の距離感についてのやもしばの考えを交える社会派企画。
③ 無観客劇場収録
営業終了後の劇場を使用し、観客なしで漫才を一本収録。普段との違いを検証し、音響や間の変化を記録する。舞台袖や客席の固定カメラも設置し、後日編集素材として活用。
二人きりの世界に
④ 初期映像アーカイブ振り返り
コンビ結成初期の映像を視聴しながら当時を回顧。
芸名変更前の活動やネタ作りの変遷にも触れる。
映像データは可能な限り原本に近い形で使用し、保存状態も併せて記録する。
※①…廃寺は視聴者による匿名の情報提供。
※②…撮影を試みたが意思疎通が取れず意味不明な言葉しか発さないためあえなく中断。劇場側は彼を出禁にするか何かした方がいいと思われる。
動画の企画書だ。こんな時でなければ興奮しながら読んだだろうに。
僕はマウスを置き、部屋の周囲を見渡した。
ふと、部屋の片隅に目が留まった。背の高い本棚だ。お笑いに関するDVDや、創作物に関する本が並べられている。中にはやもしばの二人が敬愛していた漫才コンビ『地獄大相撲』のDVDがある。オバケさんはこれを全巻揃え、よく鑑賞していたそうだ。僕は立ち上がって、そのDVDを手に取ろうとした。
パッケージを引き抜いた瞬間、紙が舞い落ちてきた。パッケージ同士の間に挟まれていたのだろう。
床に落ちたそれを拾う。折り畳まれたA4紙だった。特に深く考えず開いた。
僕の顔が目に飛び込んで来た。
「は……?」
紙には僕の顔がモノクロ写真で印刷されていた。身に覚えのない写真だ。服装や雰囲気からして最近撮られたもののように思えるが、いったいどこで? 写真の横には僕の名前や生年月日、自宅の住所はおろか実家の所在地や、通っていた大学の名前まで手書きで書きこまれている。
なんだ。いったいなんなんだ。僕は混乱する頭でもっともらしい理由を考えようとした。だが無理だった。なぜ橘さんはこんなことをしているのだろう。それをおくびにも出さず僕と話していたのだろう。理由が見当たらない。何も分からない。
「やっぱりどこかでお会いしましたよね?」
耳元でどこか確信めいた声がして、僕は思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか橘さんが戻ってきていた。スクエア眼鏡の奥の瞳が、ささやかに弧を描いていた。
「えっと、あの……」
考えがまとまらない。聞きたいことは山ほどあるのに、うまく言葉にならなかった。
「み、見てもらいたい資料って、なんでしたっけ」
会ったことなどない、否定すべきだ、それよりこの写真はなんなのだ。優先するべき問いを放っておいて、からからの喉でなんとかそれだけ口にした。話を、部屋に渦巻く空気を、別の方向に持って行きたかった。
「そんなことどうでもいいじゃないですか」
橘さんは朗らかに返す。
「そんなことって」
あなたが言い出したんじゃないか。そんな追及も出てこない。脳が警鐘を鳴らしていた。できるだけこの人を刺激せずに部屋を出たい。この人はおかしい。それしか考えられなかった。
「二人が死んだ時の話を聞きたいんでしたよね」
橘さんは微笑んでいる。
「あの夜、オバケから電話が掛かってきました。鷹野上が倒れた。息をしていないみたいだ。どうしよう、と」
その笑みに反して、語り口は淡々としている。まるで教科書の文章をそのまま読んでいるかのようだった。
「気が動転しているようでした。早く救急に電話を。僕がそう言った瞬間、電話の向こうで凄まじい音とブレーキ音が聞こえたんです。彼が轢かれた音だと分かるのにそう時間はかかりませんでした」
「ネットに彼らの死に際のことを書いたのはあなたですか?」
思いつきを口にしてみた。そんな気がした。だが無視された。
「僕は必死に彼に呼びかけました。大丈夫か、返事をしてくれ、とね。でも答えは一切ない。やがて運転手と思しき人の悲痛な声が耳に入ってきた。救急に電話している声だと分かりましたよ。その人もまた、ひどく動揺しているようでした。そりゃそうですよね。人を轢いてしまったんですから。でもその声も、次第に聞こえなくなっていったんですよ。なぜだか分かります?」
僕は言葉を発せなかった。思考が麻痺していた。
「笑い声がうるさかったんです」
はははっ、と橘さんは笑った。痛快なギャグでも飛ばした後みたいに。
「男の笑い声がしました。女の笑い声もしました。どんどん大きくなっていきました。最後はうるさすぎて聞いていられませんでした」
そうして素早く首を振る。虫の羽音でも耳に掠めたのかと思ったが、部屋にはハエ一匹見当たらない。
「見てもらいたかったものはこれです」
唐突に話を打ち切って、橘さんは小さな箱をテーブルの上に置いた。無言の圧力がこちらに向かっている。
手のひらサイズの白い箱だった。角がところどころ黄ばんでいる。
甘ったるい臭いがした。思わず嘔吐感込み上げる、不快な甘さだ。
「開けてください」
恐る恐る箱を開ける。
「ひ……っ!」
僕は立ち上がった。床を引っ掻いた椅子が大きな音を立てる。
中にあったのは、毛根に肉のついた長い髪の毛だった。肉は腐っているのだろう、青みがかった色に白が混ざっている。その白がうぞうぞと動いているのを見て、蛆が湧いているのだ、とようやく気付いた。
「なんですか、これ……どうしてこんなものが」
「鷹野上が握っていたものです」
抑揚のない言い方だった。怒りや悲しみ、恐れといった感情は見られない。
ただ微笑んでいる。
「ど、どこでこれを」
「もちろん鷹野上からもらったんですよ。僕へのメッセージだったんでしょう」
「でも……」
意味が分からなかった。死んだ人間からどうやって物が受け取れるんだ。そもそもどうして鷹野上さんはこれを握りしめていたんだ。
「うるさいな……」
橘さんは首を振った。
「あの、僕、帰らせてもらいます。今日はありがとうございました」
「……そんなに笑うなよ!」
「わ、笑ってなんか……」
僕の声は届いていないらしい。橘さんは「うるさい……うるさい……」と何度も呟きながら、キッチンの戸棚を開ける。
橘さんはそこから何かを取り出した。手に握られていたのは包丁だった。
「や、やめてください。落ち着いて」
蛍光灯の光を受け、包丁の刃がぎらぎらと波打つ。僕は足をもつらせながら、それでも懸命に橘さんと距離をとろうとした。心臓が痛い。純粋な恐怖が体を支配していた。喉が渇いている。スマホを取り出し警察に連絡したいが、そこまでの隙はあるだろうか。
悩んでいる暇はなかった。
橘さんが自身の耳に刃を立てた。冗談みたいな量の血が、床を濡らす。
「あ、ああ……」
自分の意思に反して、腰がすとんと落ちた。立ちたいのにどうしても立てない。橘さんの耳がぼとりと落ちるのを、どこか夢見心地のような気分で見ていた。人の耳だけをまじまじと見ることなんてそうそうない。内側を下にして落ちた耳は、それだけだと森の奥に生える気味の悪いキノコのようだった。そのまま蠢いて一人でに消えていきそうでもあった。
「あはははははははは」
橘さんは笑い声を上げながらもう片方の耳に刃を突き立てた。飛び散った血が僕の額を濡らした。
そこでようやく、我に返った。
僕はほとんど這うようにして部屋を出た。靴をほとんど履かないまま玄関を飛び出し、マンション前の道路を左右確認もせずに渡る。幸い車は来ていなかった。
荒れる呼吸でマンションを見上げる。
橘さんの笑い声がまだ耳にこびりついていた。
橘さんが心不全で亡くなったと知ったのは、それから二日後のネットニュースだった。
ここが橘さんの自宅らしい。沢木さんからメールで連絡先を教えてもらい、橘さんと直接やり取りし始めたのが二日前。自分が今夜も金縛りのファンであることを話し、二人についてどんなことでも教えてほしいといった申し出を、橘さんは快く受け入れてくれた。どうやら僕がやもしばにインタビューを取り付けたことを知ってくれていたようだ。恐らくただのミーハーであれば取り付く島もなかっただろう。僕は過去の自分に感謝した。
玄関前で部屋番号である401を押し、橘さんにオートロックを解除してもらう。
「どうも。お入りください」
インターホン越しに聞く橘さんの声は当然ながらあの動画と同じものだった。ただ声の端々から疲れが滲み出ているようだった。
「失礼します。連絡していた粟田です」
「橘です。片付いていませんがどうぞ」
謙遜だった。1Kの一室は僕の部屋よりよほど整理整頓されており、資料が床に散らばっていることも、どこかで買った土産や御守りが適当に放置されていることもない。あるべきところにあるべきものが収まっている印象を受けた。
「すみません、無理を言ってお邪魔させてもらって」
僕は頭を下げる。「いえいえ」と橘さんは薄く笑った。動画でも何度か姿は出ていたが、歳は三十代ほどの、柔和な顔立ちをした男性だ。スクエア眼鏡を掛けた目の下には薄く隈ができている。
一つ一つが洗練されたデザインの家具を目にしながら、僕はどう切り出すべきか迷っていた。世間話もなしにそのまま本題に突入してもいいものだろうか。もっと考えてくるべきだった。
「どこかでお会いしたことありますか?」
「え?」
突然橘さんがそんなことを言うものだから、僕は思わず聞き返してしまった。
橘さんはこちらをじっと見ている。
「えっと……いいえ、ないはずですが」
記憶を辿る。会社勤め時代に顔を合わせていただろうか。だがいくら思い出そうとしても、覚えはまったくなかった。恐らく他人の空似か、橘さんの記憶違いだろう。
「そうですか、失礼しました」
あっさり引き下がられ、少なからず拍子抜けした。お座りください、と柔らかな声で椅子を勧められる。テーブル越しに対面で座ると、まるで面接を受けているかのような気分になった。
「あの、今夜も金縛りのお二人についてなのですが。この度は……お悔やみ申し上げます」
橘さんは構成作家として二人と長い期間付き合いがあり、ほとんど身内のようなものに違いない。お悔やみの言葉を投げかけるのは間違いではないだろう。
「……僕はあの二人こと、養成所時代の頃から知ってまして。弟みたいなものだったんですよ。それなのに……どうしてこうなってしまったのか」
橘さんはテーブルに肘をつき、目頭を押さえる。
続けるべき言葉がすぐには見つからなかった。気の利いた言葉が掛けられない自分の浅はかさが恨めしい。こんな状況でなかったら、まだ二人が生きている頃に橘さんに会えたら、どれだけ幸せだったことだろう。
「……二人についてならだいたいのことは話せますよ。といっても、細かいエピソードなんかはファンであるあなたの方が詳しいかもしれませんが」
「いいえ、そんなことは……」
「そうだ。まだアップする前だった動画、観ますか? 編集チェックしてほしいって送られてきて、そのままのやつ」
こちらが答える前に、橘さんはテーブルの隅に置いてあったラップトップを開き、手早く起動させる。
「この動画、アップしようか悩んでいるんですよね。ほら、今色々と騒がしいでしょう。もう少し落ち着いてからでもいいかと思って」
「そうですね。それがいいかもしれません」
今上げればなんでもない内容だとしてもきっと荒らされて終わるだろう。霊が映っているだの、すでに呪いの兆候があるだの、そんなことを心ないネット民に書かれるに違いない。
「皆が忘れた頃にぽろっと上げるとします」
橘さんはマウスをクリックする。同時に動画が再生された。
「はーいどうも、鷹野上です!」「オバケです」「さあ今日の企画はこちら! 名曲アウトロクイズ!」「普通はイントロやると思うんですけどね」
まだ元気な二人が活き活きと動いている。彼らが亡くなってからまだ二週間も経っていないのに、ひどく懐かしい気持ちになった。
動画自体はなんてことのないものだ。いや、一ファンからすれば垂涎物であるし、軽妙な掛け合いは二人のよいところが出ていて本当に面白い。ともすれば声を上げて笑いそうになった。その度に胸がちくりとする。
「これが最後の動画になるなんて思いもしなかったな……」
動画が終わった後、橘さんは静かに呟いた。いい動画だったが、彼らの死の謎を解明することに限っては、何も情報が得られそうになかった。
「……あの」僕は思い切って尋ねる。「お二人から何か聞いていませんか」
「何かって?」
「その、例えば……呪われている、といったような」
橘さんは深くため息をつく。
「なんだ、あなたもそういった類か。SNSではやれ呪いだの、おかしな名前をつけるから霊が怒っただの……皆が適当なことばかり言う」
「すみません。でも僕はファンの一人として、真相を知りたくて。お二人のことを貶める意図はまったくないんです」
僕は橘さんの目をまっすぐに見た。橘さんもまた、僕の目をじっと見つめ返してくれた。
「……分かりましたよ。実は二人の死に関わっていそうなことが書かれた資料があるんです。取ってきますよ」
「ありがとうございます!」
僕は深々と頭を下げた。橘さんは立ち上がり、別室に移動する。僕の胸は期待で満ち溢れていた。資料とはいったいなんなのだろう。
待ち遠しく思いながら部屋を見渡す。スマートフォンを触って待っていても良かったが、橘さんが帰ってきた時に携帯を弄っているのはバツが悪い。それにSNSを見たらまた嫌な気分になってしまいそうだ。
橘さんはなかなか戻ってこなかった。資料を探すのに手間取っているのだろうか。整理整頓されているから、それほど時間は掛からなさそうに思えるのだが。
起動されたままのラップトップが視界に入った。
よくないことだとは思いつつも、つい手が伸びた。マウスを操作し、チャットアプリをクリックする。
もちろん普段の僕はこんなことはしない。これが悪しき行為だとは十二分に分かっている。けれど手を止めないのは、ここに何か情報があるかもしれないと、そう思ったからだ。
オバケ
お疲れ様です。
業者に頼んでいた動画の編集終わりました。最終チェックお願いします。
――ギガファイル便 受取期限 2026/02/10
橘
ありがとう あとで確認しておく
次の企画会議は来週でいいかな?
それまでは編集終わったの上げといて
そういや体調の方は大丈夫?
オバケ
全然大丈夫ですよ。
前からあるやつは前からなんで。
橘
鷹野上君は?
オバケ
まだ少し脚が痛むみたいですけど、舞台には立ててるから大丈夫ですよ。前からあるやつは前からあることなんで。
橘
前からってやつのこと?
オバケ
やつのこと。
オバケさんと橘さんのやり取りだ。罪悪感に苛まれながらも、マウスを操る手が止まらない。
●今夜も(笑)ってチャンネル動画企画書
基本方針:漫才コンビ『今夜も金縛り』によるロケ・検証・対談を中心とした公式動画コンテンツ。定期更新により固定視聴者の獲得を目指す。
コンビの素顔や関係性も発信し、笑い以外の要素で新たな客層を掴む。
① 都内某所・廃寺ロケ企画
都内に現存する廃寺を訪問。
昼と深夜の様子を比較撮影し、環境音の違いなどを検証する。
現地では簡単な肝試し形式のミニゲームも実施。
事前準備は行うが、基本的には現場の状況を尊重し、撮影はノーカット素材も保存する。
② 『絶対笑わない男』インタビュー企画
劇場最前列で観覧している常連客のあの男に電撃取材!ライブへの思いや、お笑い観賞のこだわりを聞く。
過去の来場履歴や写真も可能な範囲で確認。『絶対笑わない男』は本当に笑っていないのか?芸人と観客の距離感についてのやもしばの考えを交える社会派企画。
③ 無観客劇場収録
営業終了後の劇場を使用し、観客なしで漫才を一本収録。普段との違いを検証し、音響や間の変化を記録する。舞台袖や客席の固定カメラも設置し、後日編集素材として活用。
二人きりの世界に
④ 初期映像アーカイブ振り返り
コンビ結成初期の映像を視聴しながら当時を回顧。
芸名変更前の活動やネタ作りの変遷にも触れる。
映像データは可能な限り原本に近い形で使用し、保存状態も併せて記録する。
※①…廃寺は視聴者による匿名の情報提供。
※②…撮影を試みたが意思疎通が取れず意味不明な言葉しか発さないためあえなく中断。劇場側は彼を出禁にするか何かした方がいいと思われる。
動画の企画書だ。こんな時でなければ興奮しながら読んだだろうに。
僕はマウスを置き、部屋の周囲を見渡した。
ふと、部屋の片隅に目が留まった。背の高い本棚だ。お笑いに関するDVDや、創作物に関する本が並べられている。中にはやもしばの二人が敬愛していた漫才コンビ『地獄大相撲』のDVDがある。オバケさんはこれを全巻揃え、よく鑑賞していたそうだ。僕は立ち上がって、そのDVDを手に取ろうとした。
パッケージを引き抜いた瞬間、紙が舞い落ちてきた。パッケージ同士の間に挟まれていたのだろう。
床に落ちたそれを拾う。折り畳まれたA4紙だった。特に深く考えず開いた。
僕の顔が目に飛び込んで来た。
「は……?」
紙には僕の顔がモノクロ写真で印刷されていた。身に覚えのない写真だ。服装や雰囲気からして最近撮られたもののように思えるが、いったいどこで? 写真の横には僕の名前や生年月日、自宅の住所はおろか実家の所在地や、通っていた大学の名前まで手書きで書きこまれている。
なんだ。いったいなんなんだ。僕は混乱する頭でもっともらしい理由を考えようとした。だが無理だった。なぜ橘さんはこんなことをしているのだろう。それをおくびにも出さず僕と話していたのだろう。理由が見当たらない。何も分からない。
「やっぱりどこかでお会いしましたよね?」
耳元でどこか確信めいた声がして、僕は思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか橘さんが戻ってきていた。スクエア眼鏡の奥の瞳が、ささやかに弧を描いていた。
「えっと、あの……」
考えがまとまらない。聞きたいことは山ほどあるのに、うまく言葉にならなかった。
「み、見てもらいたい資料って、なんでしたっけ」
会ったことなどない、否定すべきだ、それよりこの写真はなんなのだ。優先するべき問いを放っておいて、からからの喉でなんとかそれだけ口にした。話を、部屋に渦巻く空気を、別の方向に持って行きたかった。
「そんなことどうでもいいじゃないですか」
橘さんは朗らかに返す。
「そんなことって」
あなたが言い出したんじゃないか。そんな追及も出てこない。脳が警鐘を鳴らしていた。できるだけこの人を刺激せずに部屋を出たい。この人はおかしい。それしか考えられなかった。
「二人が死んだ時の話を聞きたいんでしたよね」
橘さんは微笑んでいる。
「あの夜、オバケから電話が掛かってきました。鷹野上が倒れた。息をしていないみたいだ。どうしよう、と」
その笑みに反して、語り口は淡々としている。まるで教科書の文章をそのまま読んでいるかのようだった。
「気が動転しているようでした。早く救急に電話を。僕がそう言った瞬間、電話の向こうで凄まじい音とブレーキ音が聞こえたんです。彼が轢かれた音だと分かるのにそう時間はかかりませんでした」
「ネットに彼らの死に際のことを書いたのはあなたですか?」
思いつきを口にしてみた。そんな気がした。だが無視された。
「僕は必死に彼に呼びかけました。大丈夫か、返事をしてくれ、とね。でも答えは一切ない。やがて運転手と思しき人の悲痛な声が耳に入ってきた。救急に電話している声だと分かりましたよ。その人もまた、ひどく動揺しているようでした。そりゃそうですよね。人を轢いてしまったんですから。でもその声も、次第に聞こえなくなっていったんですよ。なぜだか分かります?」
僕は言葉を発せなかった。思考が麻痺していた。
「笑い声がうるさかったんです」
はははっ、と橘さんは笑った。痛快なギャグでも飛ばした後みたいに。
「男の笑い声がしました。女の笑い声もしました。どんどん大きくなっていきました。最後はうるさすぎて聞いていられませんでした」
そうして素早く首を振る。虫の羽音でも耳に掠めたのかと思ったが、部屋にはハエ一匹見当たらない。
「見てもらいたかったものはこれです」
唐突に話を打ち切って、橘さんは小さな箱をテーブルの上に置いた。無言の圧力がこちらに向かっている。
手のひらサイズの白い箱だった。角がところどころ黄ばんでいる。
甘ったるい臭いがした。思わず嘔吐感込み上げる、不快な甘さだ。
「開けてください」
恐る恐る箱を開ける。
「ひ……っ!」
僕は立ち上がった。床を引っ掻いた椅子が大きな音を立てる。
中にあったのは、毛根に肉のついた長い髪の毛だった。肉は腐っているのだろう、青みがかった色に白が混ざっている。その白がうぞうぞと動いているのを見て、蛆が湧いているのだ、とようやく気付いた。
「なんですか、これ……どうしてこんなものが」
「鷹野上が握っていたものです」
抑揚のない言い方だった。怒りや悲しみ、恐れといった感情は見られない。
ただ微笑んでいる。
「ど、どこでこれを」
「もちろん鷹野上からもらったんですよ。僕へのメッセージだったんでしょう」
「でも……」
意味が分からなかった。死んだ人間からどうやって物が受け取れるんだ。そもそもどうして鷹野上さんはこれを握りしめていたんだ。
「うるさいな……」
橘さんは首を振った。
「あの、僕、帰らせてもらいます。今日はありがとうございました」
「……そんなに笑うなよ!」
「わ、笑ってなんか……」
僕の声は届いていないらしい。橘さんは「うるさい……うるさい……」と何度も呟きながら、キッチンの戸棚を開ける。
橘さんはそこから何かを取り出した。手に握られていたのは包丁だった。
「や、やめてください。落ち着いて」
蛍光灯の光を受け、包丁の刃がぎらぎらと波打つ。僕は足をもつらせながら、それでも懸命に橘さんと距離をとろうとした。心臓が痛い。純粋な恐怖が体を支配していた。喉が渇いている。スマホを取り出し警察に連絡したいが、そこまでの隙はあるだろうか。
悩んでいる暇はなかった。
橘さんが自身の耳に刃を立てた。冗談みたいな量の血が、床を濡らす。
「あ、ああ……」
自分の意思に反して、腰がすとんと落ちた。立ちたいのにどうしても立てない。橘さんの耳がぼとりと落ちるのを、どこか夢見心地のような気分で見ていた。人の耳だけをまじまじと見ることなんてそうそうない。内側を下にして落ちた耳は、それだけだと森の奥に生える気味の悪いキノコのようだった。そのまま蠢いて一人でに消えていきそうでもあった。
「あはははははははは」
橘さんは笑い声を上げながらもう片方の耳に刃を突き立てた。飛び散った血が僕の額を濡らした。
そこでようやく、我に返った。
僕はほとんど這うようにして部屋を出た。靴をほとんど履かないまま玄関を飛び出し、マンション前の道路を左右確認もせずに渡る。幸い車は来ていなかった。
荒れる呼吸でマンションを見上げる。
橘さんの笑い声がまだ耳にこびりついていた。
橘さんが心不全で亡くなったと知ったのは、それから二日後のネットニュースだった。
