特定ウェブ広告画像による「集団幻覚」の社内調査と実験報告


 前章、及び前節で扱った、「存在しないはずのものを、存在すると認識する」ことは、「集団幻覚」などと呼ばれることがある。「集団幻覚」は、あるものに対し、「同じように見た覚えがあると主張する人物」が多く発生したときに見られる。

 たいていは「ネタ」として消費され、例えば人気コンテンツのドラマやアニメが終了した後に、「最終話の次の放送内容」を各々で想像し、それぞれSNSを想像内容を投稿するといったことも「集団幻覚」の一つとされる。

 他にも、ある作品のキャラクターが、作品内で一度も発言していない内容を、多くの消費者が「言っていたはずである」と誤認し続けることも「集団幻覚」とみなされる傾向にある。

 しかし中には「ネタとして楽しむ」範疇を超えた、「集団幻覚」が確認されている。

 最も知名度が高いと思われる「集団幻覚」が、「マンデラ効果(マンデラエフェクト)」である。「マンデラ効果」は、南アフリカの政治家であるネルソン・マンデラ氏が、一九八〇年代には死亡している、という記憶を持つ人々が多く現れたことから、超常現象研究家が名付けた効果である。

 実際にネルソン・マンデラ氏が死亡したのは、二〇一〇年代のことであるため、一九八〇年代に死亡してる事実はなく、人々の記憶違いであることは明白だろう。しかしネルソン・マンデラ氏が一九八〇年代に死亡している記憶を持つ人々が、何故そのような記憶違いをしているかは明らかになっていない。

 日本においては映画『「 削除 」の[ 削除 ]』には、別のエンディングがあったと主張するものもまた有名である。『「 削除 」の[ 削除 ]』のエンディングシーンはヒロインが乗る車が走り去るものであるが、この本来のエンディングシーンに続きがある内容となっている。上映された当時映画館で見たという人や、テレビで放送された際に見た人もいるようだ。

 この点においては制作会社が公式に否定しているものの、「間違いなく見た」、「詳細に覚えている」と主張する人々にとっては、記憶違いであると認識を改めるのは困難であることが想像される。ゆえに現在においても、「特別なエンディングシーン」として一種の都市伝説として扱われている。

 このように、「集団幻覚」は楽しむための「ネタ」以上の規模になった場合、現実的に否定されたとしても疑念が残ることが特徴と言える。このことから、「パラレルワールドの情報が混じったのではないか」という説が上がることもあるようだ。上記の例で言えば、「ネルソン・マンデラが一九八〇年代に死亡している世界A」が存在しており、その情報が「ネルソン・マンデラが生存している世界B」に流入したことになる。情報以外にも、体験者自身が「Aの世界からBの世界に移動した」という説も見られる。

「集団幻覚」や「集団幻視」を研究した文献は少ないが、崎山直弘によると、「偽りの記憶の補強効果」が多数の人間が共通の存在しない記憶を共有することに影響していると説いている。
 崎山の主張は以下だ。長くなるが、興味深いため引用する。


 幻視とは目の前に存在しない「もの」を「脳が認識」することである。人が「ものを見る」ためには、高次の脳機能が関与する。例えば目の前に猫がいたとして、「網膜には上下逆さの猫が映し出されており、脳はそれを正しい向きに揃えている」だけではない。

 網膜に入った猫の情報は、脳の視床から一次視覚皮質へ、さらに空間認識や運動にかかわる認識の領域と、色や形といった物体認識の領域に送られる。そうして総合的な情報から、見ているものが猫であると認識するのだ。なにせ、猫といっても色々いる。自分の猫か、他人の猫か、町で初めて出会った野良猫か、毛や瞳は何色か、しっぽの長さや形はどうかなど、脳はそれを瞬時に判断できるのだ。

 では、「存在しないものを見た」と感じた場合はどうなるだろうか。実は脳は容易にだますことが可能だ。錯覚がいい例だろう。同じ濃度のグレーでも、背景が黒の場合と白の場合では、グレーが薄く見えたり濃く見えたりする。百聞は一見に如かずという言葉があるが、「見たという記憶」もまた簡単に作ることができる。

 方法の一つはこうだ。対象者を含んだ古い旅行写真に、その旅行に同席しなかった家族や友人を合成する。そして、「この旅行、一緒に行けて楽しかったよね。寒くて現地でコートを買ったの、よく覚えてる」などと、起こっていないことをさも事実のように対象者に語り掛ける。

 一緒に行っていない相手との旅行の思い出など、本来は存在しない。しかし、思い出を語られた対象者は「一緒に行った」と認識し、あるはずのない思い出話をし始めることがある。実際に自分が旅行した記憶に加え、目の前の合成写真が、偽りの記憶を植え付ける装置になっているのだ。

 集団幻視でも同様のことが起きているのではないだろうか。例えば、一人の人間が「あの企業のロゴマークは、昔も今も四角形だが、一時的にひし形だった頃がある」と、実際には四角いまま一度も変わっていないにもかかわらず、ひし形に変更された時期があると情報を錯覚していたとする。

 その一人が持つ情報は、通常は広く共有されない。何故なら企業のロゴマークを話題にすることはまれであるからだ。しかし、一度話題になった場合、様々な情報が共有され始める。当然「ロゴマークは変わっていない」という声が大多数であることが予想される。企業のロゴマークは簡単に調査できるため、結果も明白だ。

 が、中には同じように「ひし形の時期があったと思っている人」が出てきても不思議ではない。そして「ひし形と認識している人々」が増えると、彼らは互いに情報の補強を始める。いつからひし形に変わったか、テレビCMで見たことがある、調べても出てこないのはごく短い間だけ使われていたロゴだからだ、など、様々な「偽りの記憶」の共有を進めるのだ。

 たとえ著名人の生死についての「偽りの記憶」でも、企業のロゴマーク同様、話題にならなければ共有されない。共有されなければ、「偽りの記憶」は深化していかない。
 
 これが「偽りの記憶の補強効果」である。実際に存在しない事実を、「あったこととして認識している人」が集まることによって、情報が集積・強化されていく。これにより、人々は「集団幻視」をするのではないだろうか。「偽りの記憶」を持つ人間が、自分一人ではないという状況が、さらに「強固な幻視」を見させているのかもしれない。

 
 以上が崎山直弘による分析である。「存在しない物や人」を認識する人が集まることで、さらに情報の解像度が上がり、それによってより「存在すること」の確信を深める構造にあるという主張だ。

 他方、非科学的な見地から、「集団幻覚」を解釈しようと試みているのが、兼代依子である。兼代は「この世界は高次元の存在によるシミュレーションである」と説明しており、「集団幻覚」については次のように説いている。


 あるはずのない事実を、そうであると認識している人々は、集団的な幻想を見ているのではない。シミュレーションの世界では、プログラムの修正やアップデートが頻繁に行われる。現在認識されている世界がそうであるように、システムの修正やアップデートを行った場合、予期せぬバグが発生することがある。

 深刻なバグが起きると、これまで動いていたプログラムが停止したり、場合によってはOS自体が起動しなくなることもある。こうなると、高次元の存在はアップデートのさらなる修正、あるいはシステム全体のロールバック(巻き戻し)を行う。

 しかし、ブラウザにキャッシュが溜まっていくように、世界にも「修正前の情報」が残滓として存在するのだ。大多数の人間には気づかれない残滓を、一部の人間が認識する。事実そこにあった存在を認識しているのであり、幻などではないのだ。彼らこそが、シミュレーション仮説を証明する存在であると考える。


 兼代によれば、「集団幻覚」とはシミュレーション世界における修正前の情報の名残であり、単純な記憶違いや、崎山の「偽りの記憶の補強効果」ではないことを示している。そして、「集団幻覚」が一部の人間にしか見られない点について、「感受性や観察力において特筆すべき能力を持った希少な人間」と捉え、その重要性を説いている。

 仮にこの世界が、現代人の技術では再現することができない、高度なプログラミングによるシミュレーション世界だとした場合、「存在しない物や人の記憶」が、システムの修正前の情報として表出すると捉えることは可能だろう。プログラムは常に開発されていることが予想され、最新である必要があり、更新によって古い情報は捨てられることなく、新しい情報に書き換えられる。

 しかしこの仮定に立つと、高次元の存在といえど、システムの不具合を検知・修正するデバッグ作業が完全ではないことがわかる。高次元の存在は、地球の何十億人という人口をプログラミングし、国によって社会システムや言語体系を変え、さらには一つの国の中でも方言による言語の違いを生み、そして一人ひとり人格や外見、趣味趣向を変え、極めて複雑なシミュレーション世界を構築していることになる。

 それではプログラムの更新や修正は頻発するだろう。「存在しない物や人」が情報の残滓であるならば、高次元の存在は高度な世界を作るほどの知能を持ちながら、デバッグ作業も満足にできない存在となってしまう。

 結局のところ、シミュレーション世界であること自体を証明する術はない。シミュレーション仮説が「集団幻覚」を引き起こす原因と捉えることは、現時点では立証が困難であると思われる。なお、兼代のいう「高次元の存在」とは「外宇宙から来たエイリアン」であるとしている。この点について、本稿とは無関係であると考え、触れないこととした。

 では、特定ウェブ広告画像、「Click広告」や「ナヅキ」の存在、「岩壁の画像」は、上記の崎山の「偽りの記憶の補強効果説」で捉えることができるだろうか。

 改めて、特定ウェブ広告画像の再現画像を参照する。




 この広告画像を見た社員は、「ナヅキ」という五十代の男性社員の存在を認識する。特定ウェブ広告画像は、クリックしてリンク先に移動したとしても、多くの場合は「404 Not Found」のエラーページに繋がるが、まれに「曇り空と、草に覆われている隆起した岩壁の写真」が表示されることがあり、この写真を見た社員たちは、ナヅキと共に写真の場所に行った曖昧な記憶を持つようになる。

 最初に特定ウェブ広告画像を確認したのは、第一章一節でメモを提供してくれた社員Aであると推定される。社員Aは特定ウェブ広告画像の発見当初、他の社員にその広告画像を見せたり、報告したりすることはなかった。

 ところが、頻繁に表示される広告に違和感を持った社員Aは、別の社員に広告を表示した画面を見せた。その社員もまた、別の社員に画像を見せていることが、社員Aのメモからわかる。

 これらの行為は崎山の「情報の共有」にあたると考えられる。特定ウェブ広告画像は社員Aの個人的交友関係から離れ、会社全体に広まっていくことになる。 
 
 しかし、特定ウェブ広告画像自体は画面上で確認できる、「記憶の中の存在」ではない。引用した崎山の例では、「合成した偽の旅行写真」に当たるだろう。

 また、特定ウェブ広告画像の最大の疑問点は、ウェブ広告画像を見た社員の端末にも表示されるようになるという「画像の目視による感染性」だ。さらには、この広告は社内ネットワークにのみ現れ、個人の私用ネットワークには一度も表示されていないことが確認されている。

「偽りの記憶」を生む特定ウェブ広告画像は、「画像の目視」という共有によって広まっていった。「合成した偽の旅行写真」に該当する存在であると捉えられる。

 だが旅行写真と異なるのは、特定ウェブ広告画像には具体的な情報が含まれていない点だ。画像から得られる情報が、偽りの記憶の生成に寄与するのであれば、特定ウェブ広告画像にはその必要な情報がないと言える。

 では、「ナヅキ」についてはどうだろうか。「ナヅキ」は特定ウェブ広告画像を目視した社員に限り認識される、「存在しない社員」である。彼らは「ナヅキ」を実在する社員として扱い、一部ではナヅキの署名でメールを自分宛に送信するなど、「ナヅキとして振る舞う」傾向もあった。

「ナヅキ」は共通のイメージを持っている。五十代くらいの恰幅のいい、明るい男性だ。ところが、その具体的な顔や声、所属先は不明となっている。「偽りの記憶の補強効果」は、「存在しない物や人」を認識した人が集まり、情報共有と情報交換によって相互確認をし、具体性を持たせ存在の確信を深める構造だ。

 ところが「ナヅキ」の場合、外見の共通イメージを持ちながら、具体性を伴わないのが特徴と言える。「存在しない物や人」の記憶を持つ人々の例では、「死亡した経緯」や「見たはずのエンディングシーン」などについて具体性を持っていることが多い傾向にあるが、それとは正反対なのだ。

 また、社員たちは「ナヅキとの思い出話」をすることがあるものの、その内容は「共有されているが、共通していない」点にも着目したい。第一章二節で扱ったように、「ナヅキ」及び「岩壁の画像」を目視した社員は全員、「写真にある岩壁の場所にナヅキと行った記憶」を持つ。

 ところが、その記憶は曖昧であり、岩壁の場所で全員が同席した記憶があるにもかかわらず、「それぞれどのような言動をしたか」について不明瞭な発言が目立った。

 そして最も重要な点は、「ナヅキは存在しない社員である」と指摘された社員は、認識を改めることである。通常の「集団幻覚」であれば、「そのような事実はない」と訂正を受けても、「自分は確かに見たことがあるはずだ」と容易に認識を翻すことはない。「ナヅキ」については存在を否定すると、即座にその事実を受け入れるのだ。

 さらには、一度「ナヅキ」の存在を否定した社員でも、再び特定ウェブ広告画像を目視した場合、改めてナヅキの存在を認識することが判明している。

 一度は自分で否定した存在を、画像を再度目視することで繰り返し認識するのだ。一方で、「岩壁の写真画像」については、「ナヅキ」の存在を否定した社員でも、「岩壁の場所に行った気がする」という認識を覆すことはなかった。これらの点は他の「集団幻覚」の事例と一線を画す特異性と言えるだろう。

 以上のことから、崎山の「偽りの記憶の補強効果説」では、本件を説明できないことがわかる。社員たちは「ナヅキ」を実在する社員として扱い、業務を進める。話題にし、会議の相手とし、承認者として必要だと考える。

 しかし、存在を否定されるとそれを認め、認識を正す。他方、岩壁の画像の場所に行った曖昧な記憶だけは訂正されずにいる。

 これらを踏まえると、発端となる特定ウェブ広告画像を閲覧しないことが、各異常を回避するために必要なことであると考えられる。

 次章では、特定ウェブ広告画像を見た全員が必ずナヅキを認識するのか、ウェブ広告画像を画面上以外の媒体で目視した場合に変化はあるのかなど、社員に協力を得て行った実験の結果を報告する。

 なお、特定ウェブ広告画像を完全に排除、あるいは非表示にする具体的な方法は、現時点では発見されていない。