人も草木も眠る深夜に、縁側を静々と歩く人影があった。
目指すは未だに明かりがついている唯一の部屋。
芙月はお盆を持ちながら、緊張した面持ちでゆっくり進んでいた。
一室の前に辿り着き、声をかけようとすれば、中から何やら声が聞こえる。
「……そなたを見ていれば心が安らぐ。ぴんと張り詰めていた心も解放されてくから不思議だな」
ふっと、力なく笑う声に居た堪れず、芙月は声を発した。
「失礼致します、芙月です」
「は?」
深夜の訪問者に、中から素っ頓狂な声が聞こえた。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「……入れ」
襖を開けると、昼間整えたばかりの鬱金香の前に立ちすくむ帝がいた。
「こんな深夜に何用だ」
直前までの弱々しい声を聞いていたから、キッと睨まれてもあまり恐怖を感じなかった。
芙月は肩に力が入りながらも、ゆっくりと足を進め、文机の上にお盆を乗せた。
「少し休憩されてはいかがですか?」
「は?」
突拍子もない提案に、帝の動きが止まった。気にも留めず、芙月は手際よく用意をしていく。
帝は芙月の姿を訝しげに見ていた。
「茉莉花茶をご存知ですか? 甘く華やかな香りが特徴で癒し効果があるお茶です」
芙月は茶器に、乾燥させた茉莉花の花を入れると、ゆっくりお湯を注いだ。辺り一面に豊かな優しい香りが広がっていく。
帝は香りにつられるように、無言で芙月の隣に座る。
「少し香りをお楽しみになってからお召し上がり下さい。お疲れも少しは和らぐと思いま……す……」
茶器から顔を上げた芙月は、目前の光景に息を詰まらせた。
すぐ近く、ぶつかりそうな距離に帝の顔があったのだ。
「……私はそんなに疲れて見えたか?」
「……えっと、あの……」
流れるように流暢に茶を淹れていた芙月は、後ろに身を引いた。
「どうなんだ?」
ゆらり、と帝の影が大きく揺れ、ぐっと顔を近づけらた。芙月は顔を赤面させる。
近くで見れば見る程美しい顔。そんな顔に見つめられてはたまったもんじゃない。
「……お、お疲れのように見えたので、勝手に申し訳ございません」
視線に耐えきれなくなり、芙月は顔を背けた。
「そうか」
帝は芙月から距離を取ると、茶器に手を伸ばし匂いを嗅いだ。
それから一口、口に含む。
「……上手い」
一瞬目を見開いた帝だったが、すぐに口元が柔らかく緩む。そしてまた一口、もう一口と口をつけた。
「……ほのかな香りと優しい味が身体に染み渡るな」
帝は茶器をくるくる揺らし、茉莉花の花を見ながら呟く。
その仕草さえ優美だった。
「よく気付いたな。私の変化に」
「い、いえ、たまたまです……」
「桜雅でも気付がない時もあるのに、まさか見破られるとは思わなかった。誰も気付かぬことに気付く。やはり、そなたは不思議な官女だな」
「……不思議ですか?」
「ああ、やはり手元に置いて正解だ。これからも茶を淹れてくれるか?」
心なしか、帝の顔色が明るくなった気がする。
そして芙月は初めて、自分の待つ力に感謝した。今まで気味悪がられていたこの力。それが今回は役に立っ
た。その事実が嬉しかった。
(私の力は、もしかしたら誰かを助けられるのかもしれないわ)
「いつでもお淹れ致します。主上さま」
「あぁ、私のために淹れてくれ」
ろうそくの火が優しくゆらめく。
まるでそれは初めて褒められた芙月の心、それから小さく笑みながら茉莉花茶を楽しむ帝の心のようだった。

