後宮花恋物語   〜気弱な官女は冷酷帝の花となる〜




『……国の頂点に立つとは、大変なことだな……』

『少々参ってしまう』

 力のない、弱々しい声。

(これは主上さまの声……)

 芙月が普段聞いている声色より張りがないが、最近一番聞いている声を間違うはずがない。
 堂々として威勢の良い帝と違う雰囲気に、驚きを隠せなかった。

『息が詰まりそうなの』

 後に続いて聞こえてきた可愛らしいが切ない声。きっとこれは花の声だろう。
 花はよく見て、記憶する。
 きっと、帝が誰もいない時に鬱金香に向かって本音を呟いたに違いない。
 その切ない囁きに、胸が締め付けられた。
 この国の何かを決める時、最終判断は帝に委ねられる。帝になるべくして生まれ育ち、知識も礼儀も教養も兼ね備えているだろうが、二十五歳の若者に全ての責任がかかっていると思えば苦しいに決まっている。
 その重圧は容易に想像できない。

(主上さま、大丈夫かしら)

 ふと今朝の姿が頭によぎる。
 どこか体調の悪そうな顔付きは、寝不足や疲労や重圧、全てのものが滲み出てしまったからなのだろう。
 このまま仕事をし続ければ、体調を崩すのが目に見える。

『助けてあげて……』

 その言葉を最後に、鬱金香からの声は聞こえなくなった。

(だから葉の色が少しおかしかったのね)

 声を聞き終えた芙月は妙に納得した。
 花はその場の雰囲気を吸い込む。だから帝の不安感や孤独感を吸い込み、葉の色が変色したようだった。

(助けてって言われても、私なんかに何もできないわ……)

 助けたいのは山々だが、芙月はただの官女だから、仕事を手伝う能力はないし、出過ぎたこともできない。
 助けてと言われても、一体何ができるというのか。
 芙月は唇を噛み締めた。

(……私は役立たずね)

 胸が鷲掴みにされているように心苦しい。
 ここにいても最低限のことしかできないし、芙月がいなかったとて官女の代わりなんていくらでもいる。
 だからこそ、なぜ自分が選ばれたのか、自分はどんな役割を与えられてここにいるのか、それが理解できずに悶々とする。
 鬱金香の葉の黄色い部分を取り除き、水を変えた芙月の心は、消化不良のどろりとした物がいつまでも残るのだった。


◇◇◇


 庭の掃き掃除をしていた芙月は、背後から呼び止められた。
 縁側には穏やかな笑みの桜雅が立っている。

「芙月殿、申し訳ないのですが、お願いがありまして」

「はい、なんでしょう」

「この直衣の汚れを取れますか?」

 手を止め、縁側に近づくと、青色の直衣に黒い汚れがベッタリと付いていた。

「これは、墨、でしょうか?」

「はい。お恥ずかしながら、業務中うっかりと筆を転がしてしまいまして」

 照れた笑いを浮かべながら、桜雅は頭を掻いた。
 
「大丈夫ですよ。少しお時間を頂ければ落とせますので」

「本当ですか! 助かります。芙月殿がいらしてから食事も美味しいですし、清掃も行き届いていますし、良いことづくめです」

「いえ、そんな……」

「謙遜する必要ありませんよ。主上も喜んでいますから」

 帝が喜んでいる素振りなんて見たことがないから疑ってしまう。だが、長年一緒にいる桜雅が言うなら事実なのかもしれない。

(でも、こんなこと誰でもできるわ。別に私じゃなくても……)

 自分なんて大したことない。むしろ何も役に立てていないと思っていた芙月は、桜雅の言葉に疑問を抱くばかりだった。
 目の前の桜雅は直衣を見ながら「良かった良かった」と大袈裟なほどに胸を撫で下ろしている。
 こんなことで喜んでもらっても良いのだろうか。
 こんな些細なことで感謝されても良いのだろうか。
 否定されて生きてきた芙月は、相手の言葉を真正面から受け入れられない。
 芙月は視線をキョロキョロさせながら、桜雅に声を掛けた。

「……主上さまはなぜ私をここに置いたのでしょうか?」

 自信がなかった。自分に不釣り合いな場所と立場を与えらても期待になんて答えられない。

「それは主上に直接聞いたらよろしいかと」

「……え?」

「いえ、正直私も詳しくは分からないのです。ですが、自分の元に置きたいと申し出た官女は芙月殿が初めてです」

「そう、なのですか……」

「きっと主上の中で芙月殿が良い固い理由があったのでしょうね。だから、堂々としていてください。大丈夫です。あなたは燈花宮にいて良い方ですよ」

 疑問が全て晴れたわけではないが、桜雅の言葉は芙月の心中のモヤを少し晴らしてくれた。
 どこにいても良い顔をされなかった芙月にとって、居ても良い場所だと言われれば戸惑いつつも素直に嬉しかった。
 箒をしっかりと握っていないと手放してしまいそうなくらい、ふわふわと浮かんでいるような気持ちになる。

 桜雅は縁側に直衣を置くと、踵を返した。
 桜雅の背中が遠ざかる中、芙月はふと我に返り、その背中を呼び止めた。

「あの……!」

「はい?」

「あの、その……」

 視線を彷徨わせていた芙月は、箒を握る手に力を込め、真っ直ぐに桜雅を見た。

「主上さまのお仕事は、お忙しいのですか?」

 桜雅の瞳が大きく開かれる。

「なぜ、そう思われるのですか?」

「お顔のお色が、あまりよろしくないのではと思いまして…… 申し訳ございません、出過ぎたことを言いました」

 口籠もりながら答える芙月に桜雅は優しく笑った。

「驚きました。芙月殿はよく主上を見ていますね。あの方の変化は些細で、長年一緒にいる私も難しい時があるくらいですから」

(花から聞いて確信しました、なんて言えないわ……)

 芙月は心の中で苦笑いを浮かべた。

「主上の仕事量は大変多いです。次々と仕事が舞い込んできて、私もてんてこ舞いです」

「そうなのですね……」

「まあ、仕方ありません。主上もそれは覚悟の上ですから」

 覚悟を決めても、心が弱ってしまったり、折れてしまったりすることなんて多々ある。
 
(私にも、なにかできること……)

 少ない知識の中で、芙月は帝のためになることを精一杯考えるのだった。