春の夜はまだ肌寒い。
芙月はただ一人、夜の空を見上げた。
空からはまるで雨のように、桜の花びらが散り落ち、地面を薄桃色に染めていった。
後宮には桜の木が何本もある。
薄桃色の花をいっぱいに広げ、満開を迎えていたが、夕方からの強風によってかなりの量の花びらが散り落ちてしまったようで、沙々から掃き掃除をするように命じられたのだ。しかも一人で。
はいてもはいても次々に散り落ちてくるためきりがない。思わずため息が出てくるが、沙々の言いつけを全うしようとほうきを握り直した。
舞っている花びらが芙月の肩や頭に落ちる。その度に短い生涯を精一杯生き抜いた達成感や、また来年を期待するような声が聞こえ、どこか切ない気持ちになった。
花の声を聞いていると、時折自分をやるせなく思うことがある。
人間より遥かに短い人生、花たちはそれを美しく全うしようと、いつも全力だった。枯れないように、長く咲けるように自分を整え、凛としている。
それに比べて自分はどうか。
周囲の人に怯え、自分の意見も言えない。
広大な敷地内の花びら掃除など理不尽なこと、本当は難しいと声を大にして伝えたかったが、そんな勇気はなかった。
自分の持つ力をひたすらに隠し、人の迷惑にならないように目立たずに過ごす。それが己を苦しめることだとしても受け入れるしかないと思っていた。
ひらひらと止むことない桜吹雪を受けながら、散った花びらをかき集めていた芙月はある声に気付き、手を を止める。
その声はどうやら木の陰から漏れ出ているようだった。
駄目だと分かりながらも、芙月はそろりそろりと近付き、木の陰から耳をそば立てた。
「……今日は風が強いな」
まるで幼子に話しかけるようなやわらかな声色が、静まり返る庭先に広がった。
芙月はさらに声を聞こうと身を乗り出した。薄暗い中、花壇に向かう人影がぼんやりと見える。
「一時枯れた花が目立ったが、それが見違えるくらいきれいに咲けるようになって、本当に良かったな」
(花壇に向かって話しかけている……?)
自分以外で花に話しかけている人を初めて見た。もしかしたら、自分と同じ力を持っているのではないかと、その人に対し妙な親近感が湧いた時だった。
雲の隙間から丸い月が現れ、その人物の横顔をほんのり照らす。途端、芙月は思わず声を上げそうになった。
陶器のような滑らかな肌に、紺青色の艶やかな長い髪。上背があり、ほっそりとしている。
国の頂点に立つ者を表す煌びやかな冠が、その優美な顔立ちによく似合っていた。
後宮にいれば誰もが知っているその姿。だが、いつものような人を避けるような硬い表情ではなく、どこか柔らかい。
こんな表情の帝を見たのは初めてだった。
「次は枯れないように気をつけるからな」
(主上さまもあのようなお顔をされることもあるのね)
帝の意外な姿に、そんなことぼんやりを考えていた時、どこからともなく強風が吹き荒れ、芙月の手元のほうきを大きく揺らした。
「あっ!」
掴み損ねたほうきが宙を舞い、地面に落ちて物音を立てた。慌てて拾い上げるも、遅かった。
「誰かそこにおるのか?」
氷のような凍てついた視線と声が芙月に突き刺さる。
芙月はその場から立ち去ろうとしたが、見つかった恐怖で足が全く動かなかった。
箒を強く握りしめる。
その間に、帝がどんどん近付いてきた。
初めて近くで顔を見たが、その人間離れした美しさに思わずわ息をのんだ。
「……今の話、聞いていたか?」
帝は真っ直ぐに芙月を見る。
緊張のあまり、口の中が乾き、呼吸が浅くなる。先程まで穏やかに花を見つめていた人と同一人物だと思えないくらい低く冷たい声だった。
「も、申し訳ございません……」
芙月は、肩を震わせながら深々と頭を下げた。
謝ることしかできなかった。言い訳も説明も、真っ白な頭の中では何も思いつかない。
(主上さまのご機嫌を損なわせてしまったわ…… どうしましょう……)
最悪の展開が頭をよぎる。
帝の権力を行使すれば、下っ端官女のクビなど痛くもかゆくもないだろう。
しかし、芙月にとっては大問題だ。後宮から追放されても、帰る場所はないのだから、どこかで野垂れ死んでしまうのが目に見える。
芙月は頭を下げたまま、帝の返答を待った。
しかし、一向に何も言われない。
二人の間には沈黙が流れる。きっと、それほど長い時間ではないはずだが、芙月にとっては長く、重い時間に感じた。
「はぁ……」
頭上で大きなため息が聞こえる。
芙月の心臓は周囲に漏れ出てしまいそうなほど大きな音を立てていた。
「もう良い。顔を上げろ」
「……!」
ゆっくり身体を起こし、前を向く。目の前には、瑠璃色の瞳があった。
まるで静かな夜のような落ち着いた色味の瞳。その魅力的な瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
芙月は思わず、じっと見つめた。
二人の目と目が合う。
「そなたは官女か? 名は何と言う?」
「か、掃部寮の官女にございます…… 名は芙月と申します。あの、本当に申し訳ございません……」
声はひどく震えていた。口を開くたびに謝罪を繰り返す。
「もう良い。ただ、このことを誰にも口外しないと約束しろ」
「しょ、承知いたしました……」
「なら良い」
帝は芙月の返答を聞くと、ふと視線を外す。
芙月は心の中で大きく息を吐いた。いまだに心臓が大きく鳴っているが、これは緊張が緩和されたからなのか、帝の容姿の良さからなのか、よく分からない。
「失礼致しました……!」
呼吸を整え、早々に立ち去ろうとした芙月は、再び深々と頭を下げる。
その時、芙月の胸元からひらひらと何かが舞い落ちた。

