「主上?!」
すぐに慌てた桜雅の声が聞こえた。
その声に人々の視線が帝に集まる。
「……主上さま?」
妃たちの声も重なり、段々と会場がざわめき出す。
芙月も視線を向ければ、帝は持っていた盃を落としたまま、石像のように固まっていた。盃を落としたことに気付いておらず、目は大きく見開かれ、一点を見つめている。
その瞳の奥は小刻みに震え、動揺しているように見えた。
「主上、大丈夫ですか?」
桜雅がそばに駆け寄り耳打ちすれば、帝ははたと意識を取り戻す。だが、俯きがちに立ち上がった。
「……すまない。少し席を外す」
言うが早いか足早に二畳台から降り、会場を離れた。振り返ることなく闇に消えていく。
芙月の身体は無意識に動き出した。その頼りない背中を見失わないように。
緑の葉が目立つ桜の木の下に帝はいた。呆然と木の葉を見ているその背中はいつもよりも小さく、どこか不安そうで、芙月はそっと近づき声をかけようと口を開く。
「来るな」
ぴしゃりと言い放たれ、芙月の動きが止まった。
「……一人にしてくれ」
普段の堂々としている姿はどこにもない。か細い、頼りない声だった。
帝の言う通り、一人にさせてあげたいが、ここで彼から離れてはいけないと思った。いや、離れずに花が告げていたこと、伝えたかった思いを代弁しなくてはという使命感に駆られる。
芙月は帝の背中を眺めながら、大きく息を吸った。
「主上、爽やかでほんのり甘い香りを放つ薫衣草の花言葉をご存知ですか?」
「……私の話を聞いているのか?」
「花言葉は――あなたを待っています、です」
「おい」
だんだんと、目前の肩が小刻みに震えてくる。だが、芙月は話すことをやめなかった。手のひらをきつく握りしめ、なるべく声を震わせないように意識して落ち着いて話す。
「そして紫色は……」
「……もう良い」
もう何聞きたくないと言わんばかりに、帝は芙月の話を途中を遮った。帝の声はひどく震えている。
「もう良い。やめてくれ。そなたに言っていなかったが、私は紫の花が苦手なのだ。特に薫衣草は一番苦手だ。だから――」
「お母さまは謝っておいででした」
「……は?」
唐突な母の名の登場に帝はゆっくりと芙月を見た。
月明かりの下、季節外れのやや冷たい夜風が、二人の間を駆け抜けていった。

