後宮花恋物語   〜気弱な官女は冷酷帝の花となる〜




 雨粒が輝く草から、ふわりと緑の匂いがした。

「お日様があたってきれい…… でもごめんね、他のお花のために抜かせてもらうわね。後から他の用途で使わせてもらうからね」

 汚れぬように着物の袖をたすき掛けした少女 芙月(ふづき)が、独り言を呟きながら草を抜いていた。
 辺りは芙月しかおらず、静まり返っている。雨上がりの庭なんて人は滅多と来ない。
 だが、作業をするにはちょうど良い。雨で柔らかくなった土から根ごとごっそりと草を抜くことができるのだ。
 絶好の機会なのに、草を抜いているのは芙月ただ一人だけだった。


  高香国(こうかこく) 後宮。

 帝の妻を見出すために設けられた女の園。
 皇后候補である八人の妃を中心に、その生活を支えるための雑務をこなす官女が約五百人。大所帯な場所。
 芙月は一年前からここで掃部寮(かもんりょう)配属の官女として仕えていた。主な仕事は後宮内の清掃と管理。帝や妃が快適に過ごせるよう、ほこり一つないように清掃をする。
 細かい作業が多いし、体力勝負な仕事だが、芙月はやりがいを感じていた。
 特に、芙月は花壇の手入れや庭の掃除などが得意だった。
 仕事自体は決して苦ではない。仕事自体は。
 厄介なのは人間だ。

「芙月、芙月? どこにいるの?」

 遠くから名前を呼ばれる声が聞こえ、芙月は声の方に顔を向けた。
 どんどん近づいてくる声に緊張が走る。立ち上がり声の方へ進もうとするが、足が鉛のように重くなかなか進めない。

「は、はい、私はここにおります、沙々(ささ)さま」

 絞り出すように声を発すれば、眉を吊り上げた官女が大股で歩いてきた。

「何をしているの!? 呼ばれたらすぐに来る、そんな常識的なことも出来ないわけ?」

「……申し訳ございません」

 会って一秒経たずして嫌な言い方をされる。芙月は深々と頭を下げた。
 長めの前髪が、芙月の顔を隠す。

「相変わらず辛気臭い格好ね。後宮に相応しくないわ。あぁ、見ているだけで吐き気がしてくる」

 確かに、芙月は年相応と言えない見た目をしていた。
 水仕事で荒れて血が滲む指先と、乾燥した肌。
 他の官女たちよりも汚れている薄汚い着物。
 それから、血色の良くない白い顔に、目元を覆う長い前髪。
 豪華絢爛な後宮には相応しくない身なりだ。

「本当、辛気臭い部下を持つ私の気持ちも考えてちょうだい」

 沙々の小言は永遠に続きそうで、芙月はただ黙ったまま身を固くして耐える。

 後宮には様々な身分の出の官女がいる。田舎出身の芙月は、掃部寮の官女たちの中で最も身分が低く、こき使われたり、嫌味を言われたりすることが多かった。
 言い返す元気など、もう持ち合わせていない。反抗すれば、さらに扱いが酷くなる未来が安易に想像できるから、ただ言われた仕事をこなし、事実ではなくても受け入れ、謝罪する。
 これが芙月の生き方だった。

「ちょっとこっちにきなさい」

「あっあの、ここの草は……」

「良いから早く来なさいって」

「は、はい……」

 ぴしゃりと強く言われ、芙月は言われるがまま着いていくことしかできなかった。

 沙々が足を止めたのは、黄、橙、白、桃色の三色菫(パンジー)が咲く花壇だった。
 しかし、どうも様子がおかしい。
 花壇にはカラカラに乾いた茶色い花が至る所から伸びていたのだ。

(ここは確か沙々さまが管理していた所よね。どうしてこんなに枯れているのかしら……)

 頬に手を当て考え込む芙月を見ることもなく、沙々は言葉を吐き捨てた。

「この花たちを元の美しい花に戻してちょうだい。一週間で」

 その言葉に芙月はぎょっと沙々を見た。簡単に言っているが、花を育てるにはある程度時間を有するのに、なんて酷なことを。
 そんな心の声がどこからか漏れ出たようで、沙々の表情が険しくなった。

「なに? 私の言うことが聞けないと言うの?」

「も、申し訳ございません……」

 睨まれたら縮こまることしかできない。これはいつものこと。

「良い? これは主上さまの大切な花壇だから必ずやり遂げなさい」

(主上さまの花壇……?)

「主上さま」その言葉を聞き、芙月は思わず目を丸くした。
 主上こと、この国最高の権力者である帝、蓮之介は人が寄りつかない冷酷な人だった。
 後宮にいる妃にも興味を示さず、仕事に明け暮れている人だとよく耳にする。
 冷たい視線、固く結ばれた唇。低い声に誰もが後退りしてしまうとか。
 そんな人に冷たい人間が、花に興味を持ち、大切にしているのは意外だった。
 帝の物となると、失敗は許されない。肩に荷が重くのしかかった気がした。

「これが失敗したら、命は無いと思いなさい」

「……承知しました」

 背筋が凍りながらも返事をすると、自分の用件だけを一方的に伝え終えた沙々は、そそくさと退散した。

 その場は静まり返る。
 掃部寮の官女たちを執り仕切る長である沙々は、長年後宮に仕える古参の官女だ。仕えている期間が長く、身分が高いというだけで掃部寮長になっているが、官女たちをまとめたり、丁寧に素早く仕事をしたりする能力はやや欠けている。
 それに彼女の最大の欠点は、責任逃れが多いところだ。偉そうに物を言っておきながら、自分の都合が悪いことは関わろうとしないし、仕事の失敗も人に押し付ける。
 直属の先輩がそんな感じだから、芙月はいつも泥を被ることが多かった。
 自分の身には覚えのない事柄を謝罪したり、一人で過酷な清掃を任されたり、これらは日常茶飯事だった。