平穏とは当たり前に訪れるものである。だが、当たり前のように、崩れ去るものでもある。
そんな簡単なことを、墨は忘れていたのだ。
「やっと見つけたぞ! 手間かけさせやがって!」
眞白を見送った後、門前の掃き掃除をしていた墨の背にかけられた怒号。
一瞬にして、体温が下がる。
「こんなところにいたのね、この親不孝者」
体が凍ってしまったように動かない。
「傷ありの女がいるなんて噂があったから来てみたけど、本当だったのね。というか、こっちを見るくらいしたらどうなの? 自分の務めすら果たせない愚図のお姉さまをずっと探していたのよ」
勘違いであってくれと願うも、この声を、喋り方を、忘れるはずがない。
震える唇の隙間からなんとか細い息を吐き出し、墨は振り向いた。
「……お父様にお義母さま、それに春乃まで」
実際に出た声は、掠れていて情けないものだった。
「『お父様』だと? 白々しい! 家族を置いて一人のうのうと生きているくせに!」
父である春房が大股で墨に近づく。その顔は怒りに歪んでおり、唾を飛ばしてまくしたてた。
「お前のせいで大吾様に結納金を返せと言われたんだぞ! 全てはお前の顔に傷があるせい……いや、お前が女としての務めを果たさなかったせいで、私たちは今日食う飯にも困る羽目になってしまったんだ!」
大吾様とは、墨が春乃のふりをして嫁いだ役人の名だ。
どうやらあの役人は墨を追い出した後に、竹屋家へ結納金の返上を命じたらしい。十五歳の春乃が嫁に来ると思っていたら二十すぎの傷あり女が嫁いだのだ、結納金の返上だけで済んだことは不幸中の幸いか。訴えられても文句は言えない愚行なのだから。
自分で蒔いた種だろうに、指をさして墨を責める春房。そんな彼に、内心乾いた笑いがもれた。
(本当に変わらない)
母が死んだときも、家が財政難によって傾いていったときも、そして今も。彼の口からは「お前のせいだ」という言葉しか出ない。誰かのせいにしなければ生きていけない人なのだ。
だが、そんな人に自分の自由を奪われては堪らない。
(わたしは、自分なりのしあわせを見つけるって決めたんだから)
そう思い、己の父親を強く見返したその瞬間――
「だがな、今からでも遅くはない。大吾様の元へ行き、しっかり妻としての役目を果たしてこい」
――墨の視界に、ぎらりと光る短刀が現れた。
命を簡単に奪うことのできる冷たいそれは、墨の首筋に突き付けられる。
「お前は竹屋家の娘だ。つまり竹屋家の、私のものだ。当主である私の言う通りにしろ。そうすれば傷はつけない。大切な花嫁だからな」
助けを呼ぼうとするが、いつの間にか両隣に来ていた母である桜子と春乃によって短刀は上手く隠されていた。それに、この辺りの住人は〈首切り執行人〉の屋敷があるこの通りを極力避けているようで、人目などないのだ。
自分が置かれている状況を理解し、冷や汗が背筋を伝った。ぶわり、と下卑た笑みを浮かべる男たちに攫われたときを思い出す。
「――ッ!」
息が浅くなり、体が震え出す。
刃が触れている部分の感覚が鮮明になっていく。
「身体を使っても、泣き落としでも、どんな方法でもいいさ。どうにかして大吾様の嫁になって、結納金の返上を取り下げさせろ。それだけでいい。そうすれば、うちに帰って来たってあたたかく出迎えてやるさ。なぁ、桜子?」
「ええ。私たちがあなたにきつくあたっていたのは、あなたが自分の役目すら果たせない愚図だからよ。躾のために私たちの身の回りのことをさせていたの。蔵の荷に押し潰されて顔に傷ができたことは残念だけど、それでもやっていけるようにと思ってわざと厳しくしたいたのよ。少しは恩を感じてもいいのではない? あなたの母が死んでもここまで育ててあげたのだから」
嘘だ。この人たちは結納金を返したくないだけ。それどころか、もう使い込んでしまっているかもしれない。
法で禁止されている刀剣を所持するほど、追い込まれているのだ。よく見れば、目が血走っている。きっともう、彼らには後がないのだろう。
だから、なんとしてでも墨を大吾の元へ嫁がせ、結納金の返上を取り下げたい。
言外に、娘よりも結納金が大事だと言われ、胸が痛んだ。
(そんなこと、わかっていたはずなのに)
「あら? この着物、呉服屋鈴木の新作じゃない。傷ありの年増のくせに生意気ね」
右隣にいた春乃が声低くつぶやく。合わせ部分を強く引かれた。
その際、短刀に首筋がかすり、一筋の赤が走る。深い傷ではないが、痛みはあった。じくじくとした熱と、生暖かい液体が首を伝って着物に沁み込む。
「どうしてお姉さまがこんな高級なものを着られているのかしら。身体でも売った? あぁでも、掃き掃除をしていたわね。なに? この屋敷の主人に奉公してるの? 傷ありの女を雇うなんてどんな奴なのかしらね。気が知れないわ」
「うっ……」
「あ、少し首が切れたのね。血が出てるわ。でも大丈夫よお姉さま。人間そんなものじゃ死なないから」
「へぇ、よく知ってるね」
墨の耳朶を打ったのは、やわらかい男の声。どこか芝居じみた喋り方。
聞き慣れたその声が誰のものか、墨は知っている。
「ではここで俺の知識も披露しようかな。人間てのはね、首を切ってもそうすぐすぐ死なないんだ。声は出ないけど、目玉は動いてる。そして――」
特徴的な毛先のみ黒い白髪が風に靡く。
「――みんな怨めしそうに俺を、〈首切り執行人〉を見上げる」
春乃のうしろ――そこにいたのは、眞白だった。口角は上がっているが、感情の読めない瞳をしている。
「な、なによあな――」
「振り向かないで。振り向いたら首が飛ぶよ」
視認できないほどの速さで、春乃の首に大太刀があてがわれた。春房が持つ短刀よりも数段切れ味が良いであろうそれは鈍く日の光を反射する。
「まずはおじさん、墨さんに向けてる刀を下ろして。言っておくけど、これはお願いじゃなくて命令だ。従う気がないと判断した瞬間、この子の首を切る。抵抗しても切る。これ以上墨さんを傷つけても切る」
「そ、そんな脅しが……」
「脅しじゃない。実際に切って見せようか? 血が噴き出すのを遅らせる切り方もあるし、皮一枚だけ残すって芸当もできるけど、どっちがお好み?」
春房は一瞬にして顔を青くした。
「お、おとう、さま……」
自分の状況をようやく理解したのか、春乃も歯をかちかちと鳴らす。妹のこんな顔は初めて見た。
突き付けられていた短刀がゆっくりと下ろされる。
「い、言う通りにしたぞ。春乃を……娘を解放してくれ」
「いいよ、ほら」
眞白は軽い調子で了承すると、春房へ向かって春乃を突き飛ばした。かわいそうなほど震えている娘を、春房と桜子は強く抱きしめる。
墨は絵に描いたような家族の光景を、どこか他人事のように眺めた。
きっと、自分はああして彼らに抱きしめてもらうことはないのだろう。そんなことは考えずともわかった。
決して羨ましいわけではない。ただ、どこがいけなかったのだろう、家族として見てもらえなかったのはなぜなのだろう、と痛みに似た感情が胸を覆っていくのだ。
桜子が獣のような目を眞白に向ける。
「こんなに娘を怯えさせて……〈首切り執行人〉が急に何よッ! これは竹屋家の話であって、あなたには関係ないでしょ⁉」
「関係ある」
短く、眞白は言い切った。
「彼女はもう竹屋家のものじゃない。俺の花嫁――半家の墨さんだ。彼女に話をするならまずは俺を通してもらわないと」
ふっと、墨の目の前に立ち込めていた暗雲が消えていく。
(そうだ。わたしは、もう竹屋家の人間じゃない)
拳を強く握りしめる。
(眞白様の妻――半家の墨だ)
そう思ったとき、墨はあたたかい何かに包まれていた。眞白に抱きしめられているのだとわかったのは、視界が白一色に染まったからである。
「ま、眞白様⁉」
「ごめんね、墨さん。痛かったし、怖かったよね。早く駆けつけられなくて、本当にごめん」
怯える子どものような声で、眞白が謝罪する。が、墨はすぐに首を振った。
彼が悪いことなんて一つもない。
「それよりも、どうしてここに? お勤めに向かったのでは?」
「同僚から、ここ数日傷ありの女性を探してる家族がいるって聞いたんだ。もしかしたらと思って帰って来たんだけど、予想が当たったみたい」
まさか刀を突き付けてるとは思いもよらなかったけど、と眞白は声を低くして付け足した。
「彼らは刀剣所持に加えて、それを使った恐喝も行っていた。言い逃れできる余地なんて皆無だし……あ、もう役人が駆けつけてくれた」
複数の足音がしたと思えば、眞白の言葉通り、武装した役人たちがこちらに向かってくる。
役人は春房たちを取り囲むと、一斉に腰に佩いた刀を抜いた。
「抵抗すれば即切り捨てる! 両手を揃えて前に出せ!」
「ちがッ、私たちは、」
「法を犯す愚か者の言葉など、聞く耳はない!」
麻縄で両手を拘束された三人。恨みがましい視線が墨に集中する。
身体を強張らせたことがわかったのだろう、眞白は何も言わず、彼らの視線を遮るように墨を強く抱き込んだ。もはや苦しいくらいである。
(でも、少し安心する)
眞白の体温が墨の身体に流れ込んで、余分な力が抜けていく。そんなときだった。
「必ず後悔するぞ‼」
絶叫にも似た怒号。喉が潰れんばかりに、春房は叫んだ。
「私たち家族のために行動しなかったことも、首切りなんぞといい仲になっていることも、顔の傷痕も、全て! お前の人生に付いて回るぞ!」
役人に連行されながらも、言葉は続く。
「お前みたいな傷ありの女がしあわせになれるはずがない! 私たちに尽くしておけばよかったと後悔しても遅いんだからな! そんな、血だまりの中で産まれたような薄汚い男と共にいるだけ時間の無――ぎゃッ‼」
しかし、最後まで音になることはなかった。
眞白の腕から抜け出た墨が、春房の左頬を殴ったからだ。
眞白だけでなく連行していた役人も、口をあんぐりと開けたまま固まってしまう。
「二つ、言わせてください」
時が止まったような状況の中で、墨の声だけが響く。
「まず一つ目、わたしがあなたたちに尽くしておけばよかったと思うことは一生ない。それから二つ目、」
尻もちをついた春房の胸倉をつかむ。
「彼はわたしの旦那様です。『薄汚い』なんて二度と言うな。もし言ったら、次は右頬を殴る」
睨みつけて告げると、墨は春房から手を放し「もう大丈夫です。お時間いただいてありがとうございました」と役人たちに頭を下げた。
放心状態の春房が引きずられて行く様を眺める。まさかこんな光景を見る人生になるだなんて思ってもいなかった。
役人たちの背が見えなくなったころ、突然右手の骨が痛み出す。
殴った方も痛みに襲われるのだと、墨はこのとき初めて知った。
胸の前へ右手を持って行くと、眞白の赤黒い大きな手に包まれる。慈しむように、骨に沿って手の甲を撫でられた。
「墨さんが殴る必要なんてなかったのに。いつだって俺が首を切れるんだから」
「あの人はわたしの旦那様の悪口を言いました。妻であるわたしが怒るのが道理でしょう」
それに、と墨は続く言葉を紡いだ。
「今のわたしはなんとなく、眞白様の隣にいれば、しあわせが何なのかわかりそうな気がしているんです。だというのに、『しわせになれるはずがない』って否定されたのが腹立って……」
「手が出た、と」
「はい……」
子どもが起こす癇癪のようで、だんだんと羞恥心に襲われる。
「はしたないところを見せました、すみません。甘んじて罰も受け入れます」
「いや、はしたないとは思わないし、むしろ俺のことで怒ってくれたんだって思うとうれしくもあるから罰なんてないけど……あ、」
何かを思い出したように、眞白は小さく声をあげた。
(思い当たったのか、与える罰が)
どんな内容がこようと驚かないし、必ず実行する。
そう決めた墨の鼓膜を照れくさそうな声が震わせた。
「あの、俺たち夫婦になって少し経つし、その、そろそろ口づけとかしたいなって思っていて……だから、罰を受け入れてくれるっていうならそれをお願いしたいです……」
「……ッ!」
自らに課した目標は無残に砕かれ、思わず墨の息は止まってしまう。
(口づけって、あの口づけ? 口と口をくっつけるあの?)
眞白の瞳には、少しの期待と断られるかもしれないという恐怖が滲んでいた。加えて、頬は薄く色づいており、彼なりに覚悟のいる発言であったことがうかがえる。
(相変わらずかわいい……)
本当にいいのだろうか、口づけなんてしてしまって。こんな傷ありの女が相手で嫌ではないのだろうか。
――というか、これは罰にならないのではないか。
そう思う時点でだいぶ絆されていると薄々気づきながらも、見て見ぬふりする。今すぐ出さねばならない答えではないはずだ。
心臓の音が速くて、痛い。
墨は唾を飲み込み、眞白に一歩近づく。
そのまま、眞白の頬に手を添えて――
〈首切り執行人〉である年下旦那様との口づけにしあわせを感じるのか、墨はまだ知らない。
そんな簡単なことを、墨は忘れていたのだ。
「やっと見つけたぞ! 手間かけさせやがって!」
眞白を見送った後、門前の掃き掃除をしていた墨の背にかけられた怒号。
一瞬にして、体温が下がる。
「こんなところにいたのね、この親不孝者」
体が凍ってしまったように動かない。
「傷ありの女がいるなんて噂があったから来てみたけど、本当だったのね。というか、こっちを見るくらいしたらどうなの? 自分の務めすら果たせない愚図のお姉さまをずっと探していたのよ」
勘違いであってくれと願うも、この声を、喋り方を、忘れるはずがない。
震える唇の隙間からなんとか細い息を吐き出し、墨は振り向いた。
「……お父様にお義母さま、それに春乃まで」
実際に出た声は、掠れていて情けないものだった。
「『お父様』だと? 白々しい! 家族を置いて一人のうのうと生きているくせに!」
父である春房が大股で墨に近づく。その顔は怒りに歪んでおり、唾を飛ばしてまくしたてた。
「お前のせいで大吾様に結納金を返せと言われたんだぞ! 全てはお前の顔に傷があるせい……いや、お前が女としての務めを果たさなかったせいで、私たちは今日食う飯にも困る羽目になってしまったんだ!」
大吾様とは、墨が春乃のふりをして嫁いだ役人の名だ。
どうやらあの役人は墨を追い出した後に、竹屋家へ結納金の返上を命じたらしい。十五歳の春乃が嫁に来ると思っていたら二十すぎの傷あり女が嫁いだのだ、結納金の返上だけで済んだことは不幸中の幸いか。訴えられても文句は言えない愚行なのだから。
自分で蒔いた種だろうに、指をさして墨を責める春房。そんな彼に、内心乾いた笑いがもれた。
(本当に変わらない)
母が死んだときも、家が財政難によって傾いていったときも、そして今も。彼の口からは「お前のせいだ」という言葉しか出ない。誰かのせいにしなければ生きていけない人なのだ。
だが、そんな人に自分の自由を奪われては堪らない。
(わたしは、自分なりのしあわせを見つけるって決めたんだから)
そう思い、己の父親を強く見返したその瞬間――
「だがな、今からでも遅くはない。大吾様の元へ行き、しっかり妻としての役目を果たしてこい」
――墨の視界に、ぎらりと光る短刀が現れた。
命を簡単に奪うことのできる冷たいそれは、墨の首筋に突き付けられる。
「お前は竹屋家の娘だ。つまり竹屋家の、私のものだ。当主である私の言う通りにしろ。そうすれば傷はつけない。大切な花嫁だからな」
助けを呼ぼうとするが、いつの間にか両隣に来ていた母である桜子と春乃によって短刀は上手く隠されていた。それに、この辺りの住人は〈首切り執行人〉の屋敷があるこの通りを極力避けているようで、人目などないのだ。
自分が置かれている状況を理解し、冷や汗が背筋を伝った。ぶわり、と下卑た笑みを浮かべる男たちに攫われたときを思い出す。
「――ッ!」
息が浅くなり、体が震え出す。
刃が触れている部分の感覚が鮮明になっていく。
「身体を使っても、泣き落としでも、どんな方法でもいいさ。どうにかして大吾様の嫁になって、結納金の返上を取り下げさせろ。それだけでいい。そうすれば、うちに帰って来たってあたたかく出迎えてやるさ。なぁ、桜子?」
「ええ。私たちがあなたにきつくあたっていたのは、あなたが自分の役目すら果たせない愚図だからよ。躾のために私たちの身の回りのことをさせていたの。蔵の荷に押し潰されて顔に傷ができたことは残念だけど、それでもやっていけるようにと思ってわざと厳しくしたいたのよ。少しは恩を感じてもいいのではない? あなたの母が死んでもここまで育ててあげたのだから」
嘘だ。この人たちは結納金を返したくないだけ。それどころか、もう使い込んでしまっているかもしれない。
法で禁止されている刀剣を所持するほど、追い込まれているのだ。よく見れば、目が血走っている。きっともう、彼らには後がないのだろう。
だから、なんとしてでも墨を大吾の元へ嫁がせ、結納金の返上を取り下げたい。
言外に、娘よりも結納金が大事だと言われ、胸が痛んだ。
(そんなこと、わかっていたはずなのに)
「あら? この着物、呉服屋鈴木の新作じゃない。傷ありの年増のくせに生意気ね」
右隣にいた春乃が声低くつぶやく。合わせ部分を強く引かれた。
その際、短刀に首筋がかすり、一筋の赤が走る。深い傷ではないが、痛みはあった。じくじくとした熱と、生暖かい液体が首を伝って着物に沁み込む。
「どうしてお姉さまがこんな高級なものを着られているのかしら。身体でも売った? あぁでも、掃き掃除をしていたわね。なに? この屋敷の主人に奉公してるの? 傷ありの女を雇うなんてどんな奴なのかしらね。気が知れないわ」
「うっ……」
「あ、少し首が切れたのね。血が出てるわ。でも大丈夫よお姉さま。人間そんなものじゃ死なないから」
「へぇ、よく知ってるね」
墨の耳朶を打ったのは、やわらかい男の声。どこか芝居じみた喋り方。
聞き慣れたその声が誰のものか、墨は知っている。
「ではここで俺の知識も披露しようかな。人間てのはね、首を切ってもそうすぐすぐ死なないんだ。声は出ないけど、目玉は動いてる。そして――」
特徴的な毛先のみ黒い白髪が風に靡く。
「――みんな怨めしそうに俺を、〈首切り執行人〉を見上げる」
春乃のうしろ――そこにいたのは、眞白だった。口角は上がっているが、感情の読めない瞳をしている。
「な、なによあな――」
「振り向かないで。振り向いたら首が飛ぶよ」
視認できないほどの速さで、春乃の首に大太刀があてがわれた。春房が持つ短刀よりも数段切れ味が良いであろうそれは鈍く日の光を反射する。
「まずはおじさん、墨さんに向けてる刀を下ろして。言っておくけど、これはお願いじゃなくて命令だ。従う気がないと判断した瞬間、この子の首を切る。抵抗しても切る。これ以上墨さんを傷つけても切る」
「そ、そんな脅しが……」
「脅しじゃない。実際に切って見せようか? 血が噴き出すのを遅らせる切り方もあるし、皮一枚だけ残すって芸当もできるけど、どっちがお好み?」
春房は一瞬にして顔を青くした。
「お、おとう、さま……」
自分の状況をようやく理解したのか、春乃も歯をかちかちと鳴らす。妹のこんな顔は初めて見た。
突き付けられていた短刀がゆっくりと下ろされる。
「い、言う通りにしたぞ。春乃を……娘を解放してくれ」
「いいよ、ほら」
眞白は軽い調子で了承すると、春房へ向かって春乃を突き飛ばした。かわいそうなほど震えている娘を、春房と桜子は強く抱きしめる。
墨は絵に描いたような家族の光景を、どこか他人事のように眺めた。
きっと、自分はああして彼らに抱きしめてもらうことはないのだろう。そんなことは考えずともわかった。
決して羨ましいわけではない。ただ、どこがいけなかったのだろう、家族として見てもらえなかったのはなぜなのだろう、と痛みに似た感情が胸を覆っていくのだ。
桜子が獣のような目を眞白に向ける。
「こんなに娘を怯えさせて……〈首切り執行人〉が急に何よッ! これは竹屋家の話であって、あなたには関係ないでしょ⁉」
「関係ある」
短く、眞白は言い切った。
「彼女はもう竹屋家のものじゃない。俺の花嫁――半家の墨さんだ。彼女に話をするならまずは俺を通してもらわないと」
ふっと、墨の目の前に立ち込めていた暗雲が消えていく。
(そうだ。わたしは、もう竹屋家の人間じゃない)
拳を強く握りしめる。
(眞白様の妻――半家の墨だ)
そう思ったとき、墨はあたたかい何かに包まれていた。眞白に抱きしめられているのだとわかったのは、視界が白一色に染まったからである。
「ま、眞白様⁉」
「ごめんね、墨さん。痛かったし、怖かったよね。早く駆けつけられなくて、本当にごめん」
怯える子どものような声で、眞白が謝罪する。が、墨はすぐに首を振った。
彼が悪いことなんて一つもない。
「それよりも、どうしてここに? お勤めに向かったのでは?」
「同僚から、ここ数日傷ありの女性を探してる家族がいるって聞いたんだ。もしかしたらと思って帰って来たんだけど、予想が当たったみたい」
まさか刀を突き付けてるとは思いもよらなかったけど、と眞白は声を低くして付け足した。
「彼らは刀剣所持に加えて、それを使った恐喝も行っていた。言い逃れできる余地なんて皆無だし……あ、もう役人が駆けつけてくれた」
複数の足音がしたと思えば、眞白の言葉通り、武装した役人たちがこちらに向かってくる。
役人は春房たちを取り囲むと、一斉に腰に佩いた刀を抜いた。
「抵抗すれば即切り捨てる! 両手を揃えて前に出せ!」
「ちがッ、私たちは、」
「法を犯す愚か者の言葉など、聞く耳はない!」
麻縄で両手を拘束された三人。恨みがましい視線が墨に集中する。
身体を強張らせたことがわかったのだろう、眞白は何も言わず、彼らの視線を遮るように墨を強く抱き込んだ。もはや苦しいくらいである。
(でも、少し安心する)
眞白の体温が墨の身体に流れ込んで、余分な力が抜けていく。そんなときだった。
「必ず後悔するぞ‼」
絶叫にも似た怒号。喉が潰れんばかりに、春房は叫んだ。
「私たち家族のために行動しなかったことも、首切りなんぞといい仲になっていることも、顔の傷痕も、全て! お前の人生に付いて回るぞ!」
役人に連行されながらも、言葉は続く。
「お前みたいな傷ありの女がしあわせになれるはずがない! 私たちに尽くしておけばよかったと後悔しても遅いんだからな! そんな、血だまりの中で産まれたような薄汚い男と共にいるだけ時間の無――ぎゃッ‼」
しかし、最後まで音になることはなかった。
眞白の腕から抜け出た墨が、春房の左頬を殴ったからだ。
眞白だけでなく連行していた役人も、口をあんぐりと開けたまま固まってしまう。
「二つ、言わせてください」
時が止まったような状況の中で、墨の声だけが響く。
「まず一つ目、わたしがあなたたちに尽くしておけばよかったと思うことは一生ない。それから二つ目、」
尻もちをついた春房の胸倉をつかむ。
「彼はわたしの旦那様です。『薄汚い』なんて二度と言うな。もし言ったら、次は右頬を殴る」
睨みつけて告げると、墨は春房から手を放し「もう大丈夫です。お時間いただいてありがとうございました」と役人たちに頭を下げた。
放心状態の春房が引きずられて行く様を眺める。まさかこんな光景を見る人生になるだなんて思ってもいなかった。
役人たちの背が見えなくなったころ、突然右手の骨が痛み出す。
殴った方も痛みに襲われるのだと、墨はこのとき初めて知った。
胸の前へ右手を持って行くと、眞白の赤黒い大きな手に包まれる。慈しむように、骨に沿って手の甲を撫でられた。
「墨さんが殴る必要なんてなかったのに。いつだって俺が首を切れるんだから」
「あの人はわたしの旦那様の悪口を言いました。妻であるわたしが怒るのが道理でしょう」
それに、と墨は続く言葉を紡いだ。
「今のわたしはなんとなく、眞白様の隣にいれば、しあわせが何なのかわかりそうな気がしているんです。だというのに、『しわせになれるはずがない』って否定されたのが腹立って……」
「手が出た、と」
「はい……」
子どもが起こす癇癪のようで、だんだんと羞恥心に襲われる。
「はしたないところを見せました、すみません。甘んじて罰も受け入れます」
「いや、はしたないとは思わないし、むしろ俺のことで怒ってくれたんだって思うとうれしくもあるから罰なんてないけど……あ、」
何かを思い出したように、眞白は小さく声をあげた。
(思い当たったのか、与える罰が)
どんな内容がこようと驚かないし、必ず実行する。
そう決めた墨の鼓膜を照れくさそうな声が震わせた。
「あの、俺たち夫婦になって少し経つし、その、そろそろ口づけとかしたいなって思っていて……だから、罰を受け入れてくれるっていうならそれをお願いしたいです……」
「……ッ!」
自らに課した目標は無残に砕かれ、思わず墨の息は止まってしまう。
(口づけって、あの口づけ? 口と口をくっつけるあの?)
眞白の瞳には、少しの期待と断られるかもしれないという恐怖が滲んでいた。加えて、頬は薄く色づいており、彼なりに覚悟のいる発言であったことがうかがえる。
(相変わらずかわいい……)
本当にいいのだろうか、口づけなんてしてしまって。こんな傷ありの女が相手で嫌ではないのだろうか。
――というか、これは罰にならないのではないか。
そう思う時点でだいぶ絆されていると薄々気づきながらも、見て見ぬふりする。今すぐ出さねばならない答えではないはずだ。
心臓の音が速くて、痛い。
墨は唾を飲み込み、眞白に一歩近づく。
そのまま、眞白の頬に手を添えて――
〈首切り執行人〉である年下旦那様との口づけにしあわせを感じるのか、墨はまだ知らない。
