日が傾いてきたな、と墨が思ったころ、眞白はたくさんのつづらを持って帰ってきた。
高級であることは聞かずともわかる。これでも商人の娘なのだ、つづらに描かれている家紋が最高級の呉服屋のものであるとすぐに判断した。
「ま、眞白様、そのつづらは一体……」
と、目を白黒させる墨。対して眞白は、
「ずっと花嫁衣裳でいるわけにもいかないでしょ? だから色々買ってきた」
さも当たり前のようにそう答えた。
(色々って、そんなたくさん買うような店じゃないでしょうに)
金額を想像して頭が痛くなる。それに、こんなにあっても困ってしまう。
そう口にしようとしたとき、上がり框につづらを置いた眞白は墨の方へと向き直った。「ん!」と言って手を広げる。
わけがわからず固まっていると、
「……の?」
「え?」
「『おかえりなさい』って、言ってくれないの?」
「あ、」
そうだった。今朝、彼に告げたのだった。帰ってきたら「おかえりなさい」があると。
ここまで期待されると少々言いにくいが、約束を破るわけにはいかない。全身で「おかえりなさい」を浴びようとしている眞白の目を見て、墨は口を開いた。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
心底うれしそうに、眞白はうなずいた。赤黒い指が墨の手に絡まる。
「ねぇ墨さん。着物、着てみてよ。流行りだとかはよくわからないから、とりあえず目についた物全部買ってきたんだ」
「そうでした! その話です!」
墨は咎めるような口調で、思っていたことを伝える。
「あのつづらにある家紋、呉服屋鈴木の紋ですよね? 一着買えば一月の給金が飛ぶと言われてるあの! 一体いくら使ったんですか?」
「そんなでもないよ」
「そんなでもあります! わたしは見目がいいわけでも、容姿を売るわけでもない。きれいな着物を着たって、馬子にも衣裳だと言われるのが目に見えてます。お金はいくらあっても困らないんですから、無駄遣いはしない方がいいです」
「無駄遣いじゃないさ。墨さんのためだもの」
「それがいつかは無駄遣いだったと思いますよ、必ず」
〈首切り執行人〉がどれほどの給金をもらっているかは知らないが、それでもこの量のつづらを見るに安い買い物ではなかっただろう。昨日会ったばかりの、しかも形だけの妻にこんな大層な物を贈るなどいくらなんでもやりすぎだ。
(本当に好きになった人が現れたときのためにも、蓄えておいて損はないはず)
今の自分の考えは妻ではなく、まるで母か姉のようだ。だがそれも仕方ない。身体は大人かもしれないが、中身は子どもらしさが残る人なのだ。心配という名のお節介を焼きたくもなる。
彼が好きになる人は一体どんな人だろうか、と思いを馳せて、
「――は?」
地獄の底から這い出る手のような、そんなおぞましい声によって、現実に引き戻された。
冬だからというだけではない、この場の空気が一瞬にして冷える。
眞白の方をうかがえば、無表情のまま墨を見下ろしていた。
「ねぇ、それってどういう意味?」
問いは鋭い刃のように、墨の喉元に突き付けられる。実際に刃があるわけではないのに、一言でも間違えば首が飛ぶという確信があった。
冷や汗が背筋を伝い、唾を飲み込む音がやけに響く。
「墨さん、俺を置いてどこか行くの? 俺から離れるの? やっぱり首切りのお嫁さんなんて嫌になった?」
ぐっ、と眞白の顔が近づく。
「駄目だよ、逃がさない。言ったはずだ。言葉には責任が伴うんだって」
感情のわからない瞳が、墨を捉えて離さない。
「墨さんは俺よりお姉さんだから知ってるよね。約束を破ったら針千本飲まなきゃいけないんだよ」
蛇に睨まれた蛙の如く、筋一本動かせなかった。
「でも、俺は墨さんにそんなの飲んで欲しくない。だからさ、ね? 俺と家族でいようよ、一生。着物だって欲しいだけ買ってあげる」
赤黒い指が手の肉に食い込む。痛みを覚え、肩が跳ねた。
「あぁっ、ごめんなさい、痛かったよね」
つかむ力は弱まったが、それでも手は離れない。
「ねぇ、『うん』って言って? うなずくだけでもいいから。それだけで、墨さんがして欲しいこと何でもしてあげるから。あなたのしあわせだって見つけてあげる」
唇の隙間から形の良い歯が覗く。笑っている。触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く、歪に。
墨はからからに乾いた口を開いた。
「今はまだどこにも行きません。わたしはあなたの妻ですから。でもそれも、お互いの利があってのことでしょう? 行く場所が無いという自分の都合で眞白様の妻になった女よりも、いつかは――」
「そっか、まだ言うのか」
「え――ひゃッ⁉」
突然、視界が高くなる。
自分が持ち上げられたのだと気づいたのは、眼下に眞白の脳天が見えたからだ。
「な、何するんですか⁉」
問うても答えはない。眞白は墨を抱えたまま、居間へと進んで行く。
片手で押入れの中から座布団を数枚取り出し、畳へ雑に放り投げる。墨はその上へ丁寧に降ろされたかと思えば、指一本で簡単に押し倒された。
真正面に迫るは眞白の顔。耳の横には彼の赤黒い手があり、世界が純白の髪に閉ざされる。
「――ッ!」
息が、止まる。
そんな墨を知ってか知らずか、眞白の赤黒い手は頬を優しくなぞった。
「どうすればここにいてくれる? あなたを追い出したっていう役人の首を切ればいい? もっとたくさんの着物や装飾品があればいい? それとも――」
頬をなぞっていた指が、花嫁衣裳の前合わせ部分に移動する。
「――この体を暴けば、どこにも行けなくなるかな」
恐怖。墨の中に生まれたものはそれだった。
しかしここで黙っていたら、眞白は先ほど言ったこと全てを本当に実行するだろう。
(それだけは止めないと。彼を罪人にするわけにはいかない)
「わたしのことは好きにしたらいい」
でも、と言葉を続ける。
「それでわたしがしあわせになることは、絶対にない」
墨の言葉に、一瞬だけ眞白が怯む。
その隙を見逃さず、彼の青白い頬を両手で挟んだ。
「わたしの言い方のせいで、こんな状況になったのはわかってます。だからまずは謝罪させてください。本当にごめんなさい」
眞白の瞳が、揺れる。
「それでも、わたしの言い分は変わりません。いつか現れる眞白様の想い人のためにも、こんな年増に貢がず、きちんと貯蓄をするべきです。それまで、わたしはどこにも行きませんし、あなたと一緒にいます。もちろん、出て行けと言われない限りですが」
一人になることを異様に恐れている目の前の人を、まっすぐ見つめる。
「つまり、あなたが望んでくれるなら、わたしは一生あなたの妻です」
信じられないと言われるなら、伝える方法を変えるまでだ。何度だって言ってやる。
そう思っていると、眞白の顔が墨の首元に押しつけられた。そして小さく、
「……望むに決まってる」
と、震えた声が鼓膜を揺らした。
「誰かが俺のために作ってくれた料理なんて初めてだった。『いってらっしゃい』も『おかえりなさい』もそうだよ。全部初めてだったんだ。昨日会ったばかりなのに、墨さんは初めてをたくさんくれた。出て行けなんて言わない、逃がすわけない」
「わたし以外にも、眞白様に初めてをくれる人が現れるかもしれませんよ」
「もしそうだとしても、俺は墨さんから与えられたい。墨さん以外からの初めてはいらない」
「そこまでだと責任重大ですね」
泣いている子どもを慰めるように、眞白の頭を撫でる。すると、より強く頭を押しつけられた。
(……かわいい)
恐怖を感じた後だというのにこんなことを思うなんてどうかしている。
生家で虐げられていたせいで、常識さえわからなくなってしまったのだろうか。いや、きっとずっと自分は狂っていたに違いない。重すぎる感情を向けてくる死神の旦那様に「かわいい」だなんて、普通は思わない。
そのとき、大切なことを伝えていなかったと思い出す。
「眞白様。着物、ありがとうございました。言うのが遅くなってしまいましたが、すごくうれしいです」
眞白は墨のことを思って着物を買ってきてくれたのだ。それについてのお礼が言えていなかった。
「……本当にうれしい?」
「うれしいですよ。家族にもこんなことしてもらいませんでしたから」
「……しあわせ?」
「しあわせ……うぅん、それはまだわかりませんが、これから眞白様が選んでくれた着物を着て生活するのかと思うと楽しみです」
「そう……」
顔を上げた眞白が目を細め、
「なら、よかった」
そう言って、はにかんだ。
瞬間、墨の鼓動が速度を増す。
(こ、れは……困った)
不意に浮かんできた己の願望に気づき、内心ため息をつく。
(これから先、この人に初めてを与える相手がわたし以外現れなければいいのに、とか思ってしまった)
自分はこんなに狭量だっただろうか。それとも、目の前にいる彼にだから、こんなことを思ってしまったのだろうか。
その答えは、きっとまだ出ない。
誰に問うこともできず、墨は考えることをやめた。
高級であることは聞かずともわかる。これでも商人の娘なのだ、つづらに描かれている家紋が最高級の呉服屋のものであるとすぐに判断した。
「ま、眞白様、そのつづらは一体……」
と、目を白黒させる墨。対して眞白は、
「ずっと花嫁衣裳でいるわけにもいかないでしょ? だから色々買ってきた」
さも当たり前のようにそう答えた。
(色々って、そんなたくさん買うような店じゃないでしょうに)
金額を想像して頭が痛くなる。それに、こんなにあっても困ってしまう。
そう口にしようとしたとき、上がり框につづらを置いた眞白は墨の方へと向き直った。「ん!」と言って手を広げる。
わけがわからず固まっていると、
「……の?」
「え?」
「『おかえりなさい』って、言ってくれないの?」
「あ、」
そうだった。今朝、彼に告げたのだった。帰ってきたら「おかえりなさい」があると。
ここまで期待されると少々言いにくいが、約束を破るわけにはいかない。全身で「おかえりなさい」を浴びようとしている眞白の目を見て、墨は口を開いた。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
心底うれしそうに、眞白はうなずいた。赤黒い指が墨の手に絡まる。
「ねぇ墨さん。着物、着てみてよ。流行りだとかはよくわからないから、とりあえず目についた物全部買ってきたんだ」
「そうでした! その話です!」
墨は咎めるような口調で、思っていたことを伝える。
「あのつづらにある家紋、呉服屋鈴木の紋ですよね? 一着買えば一月の給金が飛ぶと言われてるあの! 一体いくら使ったんですか?」
「そんなでもないよ」
「そんなでもあります! わたしは見目がいいわけでも、容姿を売るわけでもない。きれいな着物を着たって、馬子にも衣裳だと言われるのが目に見えてます。お金はいくらあっても困らないんですから、無駄遣いはしない方がいいです」
「無駄遣いじゃないさ。墨さんのためだもの」
「それがいつかは無駄遣いだったと思いますよ、必ず」
〈首切り執行人〉がどれほどの給金をもらっているかは知らないが、それでもこの量のつづらを見るに安い買い物ではなかっただろう。昨日会ったばかりの、しかも形だけの妻にこんな大層な物を贈るなどいくらなんでもやりすぎだ。
(本当に好きになった人が現れたときのためにも、蓄えておいて損はないはず)
今の自分の考えは妻ではなく、まるで母か姉のようだ。だがそれも仕方ない。身体は大人かもしれないが、中身は子どもらしさが残る人なのだ。心配という名のお節介を焼きたくもなる。
彼が好きになる人は一体どんな人だろうか、と思いを馳せて、
「――は?」
地獄の底から這い出る手のような、そんなおぞましい声によって、現実に引き戻された。
冬だからというだけではない、この場の空気が一瞬にして冷える。
眞白の方をうかがえば、無表情のまま墨を見下ろしていた。
「ねぇ、それってどういう意味?」
問いは鋭い刃のように、墨の喉元に突き付けられる。実際に刃があるわけではないのに、一言でも間違えば首が飛ぶという確信があった。
冷や汗が背筋を伝い、唾を飲み込む音がやけに響く。
「墨さん、俺を置いてどこか行くの? 俺から離れるの? やっぱり首切りのお嫁さんなんて嫌になった?」
ぐっ、と眞白の顔が近づく。
「駄目だよ、逃がさない。言ったはずだ。言葉には責任が伴うんだって」
感情のわからない瞳が、墨を捉えて離さない。
「墨さんは俺よりお姉さんだから知ってるよね。約束を破ったら針千本飲まなきゃいけないんだよ」
蛇に睨まれた蛙の如く、筋一本動かせなかった。
「でも、俺は墨さんにそんなの飲んで欲しくない。だからさ、ね? 俺と家族でいようよ、一生。着物だって欲しいだけ買ってあげる」
赤黒い指が手の肉に食い込む。痛みを覚え、肩が跳ねた。
「あぁっ、ごめんなさい、痛かったよね」
つかむ力は弱まったが、それでも手は離れない。
「ねぇ、『うん』って言って? うなずくだけでもいいから。それだけで、墨さんがして欲しいこと何でもしてあげるから。あなたのしあわせだって見つけてあげる」
唇の隙間から形の良い歯が覗く。笑っている。触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く、歪に。
墨はからからに乾いた口を開いた。
「今はまだどこにも行きません。わたしはあなたの妻ですから。でもそれも、お互いの利があってのことでしょう? 行く場所が無いという自分の都合で眞白様の妻になった女よりも、いつかは――」
「そっか、まだ言うのか」
「え――ひゃッ⁉」
突然、視界が高くなる。
自分が持ち上げられたのだと気づいたのは、眼下に眞白の脳天が見えたからだ。
「な、何するんですか⁉」
問うても答えはない。眞白は墨を抱えたまま、居間へと進んで行く。
片手で押入れの中から座布団を数枚取り出し、畳へ雑に放り投げる。墨はその上へ丁寧に降ろされたかと思えば、指一本で簡単に押し倒された。
真正面に迫るは眞白の顔。耳の横には彼の赤黒い手があり、世界が純白の髪に閉ざされる。
「――ッ!」
息が、止まる。
そんな墨を知ってか知らずか、眞白の赤黒い手は頬を優しくなぞった。
「どうすればここにいてくれる? あなたを追い出したっていう役人の首を切ればいい? もっとたくさんの着物や装飾品があればいい? それとも――」
頬をなぞっていた指が、花嫁衣裳の前合わせ部分に移動する。
「――この体を暴けば、どこにも行けなくなるかな」
恐怖。墨の中に生まれたものはそれだった。
しかしここで黙っていたら、眞白は先ほど言ったこと全てを本当に実行するだろう。
(それだけは止めないと。彼を罪人にするわけにはいかない)
「わたしのことは好きにしたらいい」
でも、と言葉を続ける。
「それでわたしがしあわせになることは、絶対にない」
墨の言葉に、一瞬だけ眞白が怯む。
その隙を見逃さず、彼の青白い頬を両手で挟んだ。
「わたしの言い方のせいで、こんな状況になったのはわかってます。だからまずは謝罪させてください。本当にごめんなさい」
眞白の瞳が、揺れる。
「それでも、わたしの言い分は変わりません。いつか現れる眞白様の想い人のためにも、こんな年増に貢がず、きちんと貯蓄をするべきです。それまで、わたしはどこにも行きませんし、あなたと一緒にいます。もちろん、出て行けと言われない限りですが」
一人になることを異様に恐れている目の前の人を、まっすぐ見つめる。
「つまり、あなたが望んでくれるなら、わたしは一生あなたの妻です」
信じられないと言われるなら、伝える方法を変えるまでだ。何度だって言ってやる。
そう思っていると、眞白の顔が墨の首元に押しつけられた。そして小さく、
「……望むに決まってる」
と、震えた声が鼓膜を揺らした。
「誰かが俺のために作ってくれた料理なんて初めてだった。『いってらっしゃい』も『おかえりなさい』もそうだよ。全部初めてだったんだ。昨日会ったばかりなのに、墨さんは初めてをたくさんくれた。出て行けなんて言わない、逃がすわけない」
「わたし以外にも、眞白様に初めてをくれる人が現れるかもしれませんよ」
「もしそうだとしても、俺は墨さんから与えられたい。墨さん以外からの初めてはいらない」
「そこまでだと責任重大ですね」
泣いている子どもを慰めるように、眞白の頭を撫でる。すると、より強く頭を押しつけられた。
(……かわいい)
恐怖を感じた後だというのにこんなことを思うなんてどうかしている。
生家で虐げられていたせいで、常識さえわからなくなってしまったのだろうか。いや、きっとずっと自分は狂っていたに違いない。重すぎる感情を向けてくる死神の旦那様に「かわいい」だなんて、普通は思わない。
そのとき、大切なことを伝えていなかったと思い出す。
「眞白様。着物、ありがとうございました。言うのが遅くなってしまいましたが、すごくうれしいです」
眞白は墨のことを思って着物を買ってきてくれたのだ。それについてのお礼が言えていなかった。
「……本当にうれしい?」
「うれしいですよ。家族にもこんなことしてもらいませんでしたから」
「……しあわせ?」
「しあわせ……うぅん、それはまだわかりませんが、これから眞白様が選んでくれた着物を着て生活するのかと思うと楽しみです」
「そう……」
顔を上げた眞白が目を細め、
「なら、よかった」
そう言って、はにかんだ。
瞬間、墨の鼓動が速度を増す。
(こ、れは……困った)
不意に浮かんできた己の願望に気づき、内心ため息をつく。
(これから先、この人に初めてを与える相手がわたし以外現れなければいいのに、とか思ってしまった)
自分はこんなに狭量だっただろうか。それとも、目の前にいる彼にだから、こんなことを思ってしまったのだろうか。
その答えは、きっとまだ出ない。
誰に問うこともできず、墨は考えることをやめた。
